最終章 その名はハク
6-1 黒川仁
翌日。
放課後に僕は部室棟三階の東洋哲学研究部の部室へ向かった。
部室のドアを開けると、既にメンバーが揃っていた。
零山はアーロンチェアにふんぞりかえって小さなギターを抱えている。
神室さんは真剣な眼差しで零山の一人用コーヒーサイフォンを眺めていた。
御来屋さんは長机の前のパイプ椅子に座り、頬杖をつきながら熱心に文庫本を読みふけっている。今日の彼女はトレードマークのメガネ姿だった。昨日のドタバタの間じゅう御来屋さんは眼鏡を外していたので、それが妙に嬉しい。
僕がドアを開けた音に全員が振り返った。僕は片手をあげて挨拶の代わりとした。
「よおいらっしゃい黒川氏。ときに今のあなたは生身の人間? それとも幽霊?」
零山の質問は、僕がこの部室に訪れた真意をつく鋭いものであったが、僕はすぐ返事をすることができなかった。奥のPCデスクの上にちょこんと座ったそれの存在に気づいたからだ。
「なんでお前がいるんだ!」
「ホウ、少年、君はまだこちら側だな」
紛れもなくそれは消えてなくなくなったはずのシロフクロウだった。
「あ、彼ね。俺もびっくりしたけど、また出てきたみたい」
俺は身構える。そんな僕を見て神室さんが言った。
「大丈夫ですよ、もう。力はなくなったって」
そうは言われてもすぐには信じられない。力を抜かない僕を見て零山が小馬鹿にした口調で言った。
「やだなあ黒川氏。大丈夫って言ったら大丈夫なんだよ、ほら」
零山は抱えた小さなギターを、僕の方へ掲げてみせた。
「これ、彼のギター。見た目は完璧に五八年のES―335ビンテージなんだけどねえ。シロフクロウサイズで小さいんだよ。これじゃあ弾けないし、楽器屋にも売り飛ばせないよなあ。ああ勿体ない」
「売らせはせぬ」
「はいはい。でも飾っとくにはいいよねえ。ねえ、これちょうだい?」
「やらぬ」
そのやりとりを見て、ひとまず僕は警戒を解く。シロフクロウは完全に零山のペースに飲まれている。力がなくなったのは本当のようだ。
「それで、黒川くんはその調子だと自分の体に戻るのは失敗したのね?」
御来屋さんの問いに僕は答えた。
「そのようで」
昨晩、御来屋さんから聞いた病院へひとり僕は向かった。
既に面会時間は終了していたが、何しろ僕は幽霊であるので病院内を闊歩しても誰にも咎められない。僕の病室は一人部屋で、中のベットには各種管に繋がれた僕がいた。
さすがに実物を見るとショックだった。
さて、どうやったら戻るのか?
見る前までは、見た瞬間に不思議な力が働いて、自分は肉体に戻れることを期待していたのだが、そんなことは起こらなかった。
自分の手を握ってみたり、隣で寝てみたり、果ては覆いかぶさってみたりいろいろしたが、何も起こらない。
僕は途方に暮れた。
まんじりともしない夜を明かして、病室で朝を迎えた。
検温や機器をチェックする看護師の出入りがあったが、僕の存在には気が付かない。昼過ぎには、やつれた母が来た。しばらくベッド横の椅子に座って肉体の方の僕の手を握っていた。
母でさえ幽霊である僕には気が付かない。
母は何も言わずにただずっと肉体の方の僕の手を握りしめている。
その母を見て、僕はただただ切なくなった。
悲しかった。
こんなことになっているだなんて思いもしなかった。
早急に戻らねばならないと誓った。しかし、どう戻ればいいのか、とんと検討もつかない。藁をもすがる思いで僕はこの部室へ戻ってきたわけだ。
そういう話を、十五分ほどかけて、つっかえつっかえ僕は皆に話した。
「……というわけなんだけど、何かアイデアないかな?」
「ある」
即答したのは、シロフクロウだった。
いまだ不信感は拭えないが藁をもすがるのが今の自分である。恥も外聞も脱ぎ捨てて懇願する。
「教えてくれ! 頼む!」
両手を合わせて拝み倒すが、どうも連れない。反応が鈍い。かなり間をあけてシロフクロウは言った。
「教えないでもないが……ひとつ先に吾輩の願いを聞き届けてはくれぬか?」
「その願いとは?」
「吾輩のオリジナルのオブザーバーに会わせてはくれぬか?」
「オリジナル?」
「つまり吾輩を最初に見た者だ」
「誰だか分かるの?」
「分からぬ。吾輩はシロフクロウの姿かたちをしているが、それはオリジナルのオブザーバーが強く望んだからに過ぎぬ。君と違い吾輩は幽霊ではない。魂はない。観測されて事象が確定された、ただそれだけの存在に過ぎぬのだ」
興味が引かれたようで零山が食いつく。
「ヒントはないのか?」
零山がシロフクロウに尋ねた。
「吾輩には時間の観念すらないが、このように姿かたちがハッキリしているということは遠い昔の出来事ではあるまい。せいぜい五年以内の出来事だ。それに場所もここで間違いない。誰かがこの学校で吾輩を願い、呼び、そして吾輩という事象は確定した」
「そういえば……」
御来屋さんが口を挟んだ。
「誰かが、昔この学校でシロフクロウを飼っていたと言っていたわね」
「それだ!」
零山が言うと、珍しく自分から席を立ち、スチールラックの本棚に向かった。
一番上の棚から一冊の本を取り出す。
零山は表紙をちらりと皆に見せた。「藍上高校三十年史」とあった。乱暴に長机に広げてぺらぺらとめくっていく。
「あった! ほらここ」
それは見たこともない飼育小屋の写真だった。
飼育小屋の前にどこかで見たことがあるひょろりとした教師と思しき男が立ち、飼育小屋の中にはたしかにシロフクロウがいた。こちらを向いて太きな流木の上に泊まって羽を休めていた。
「ええとなになに。ああ、この飼育小屋は教室棟が新しく出来る前にあったみたいね。うん。シロフクロウを飼ってたみたいだよ。名前はハクだって。よかったねシロフクロウくん、君の名前がわかった。ええと、世話をしていたのは本校教諭長塚明って、ええ! あの童貞青成ビョウタンかよ。うへえ」
「長塚先生って世界史の?」
神室さんが質問する。零山が答える。
「そう。なんと驚くなかれ、この部活の顧問でもあります!」
と言って零山は、この部室を自分が如何にして手に入れたかの経緯を微に入り細にわたり得意満面に語りだした。ドン引きの内容であった。
「ということで、んー、神室氏、長塚教諭をここに呼んできて」
最後についでのようにそう付け足して零山は話を締めた。
「え? 私ですか」
「うん。連れてくる途中、さり気なくボディタッチしておいてね。じゃないとハクくん、見えないでしょ? 見せてあげたいじゃない。できることなら」
と言われれば誰もうまい反論は思いつかない。私も行く、と御来屋さんが言ったのでふたりで長塚教諭を迎えに行った。
僕と御霊山が部室に残された。シロフクロウは何も言わない。僕はそのまま目にされると明らかに不自然な片メガネや蝶ネクタイをシロフクロウに外させた。カイゼル髭もためしに指でつまんで引っ張ったら簡単に取れた。付け髭らしい。そうして待つこと約十分。神室さんと御来屋さんに連れられて、ついに長塚教諭が教室のドアをくぐった。
長塚教諭はドアをくぐり、まずはひと通り部屋を眺めた。それからPCデスクの上にひょこんと鎮座するシロフクロウに釘付けになる。僕たちはその様子を固唾を呑んで見守った。先生の頬を涙が一筋伝わった。
「ハク……いや、そんなわけ、ないよな……そのシロフクロウは誰が?」
「私です。私の家で飼ってます。部員の皆が見たいというから今日連れてきました」
零山が手を上げて、まるで息を吐くかのように嘘を並べた。
「そうか、零山君が。いや昔学校に飼育小屋があってね、そこでハクという名前のシロフクロウを飼っていたのだよ。世話をしていたのは主に私でね。君のシロフクロウくんとあまりにも瓜二つなので驚いてしまった」
「そのハクはどうなったんですか?」
御来屋さんが尋ねる。
「ああ。あれはもう五年前くらいになるかなあ。ちょうど教室棟の新設が決まった頃で、同時に飼育小屋の取り壊しも決まってどうするかって時だった。いつものように私が朝飼育小屋に向かったら、フェンスの網が破られていてね。羽根が散乱していた。驚いて中に入ると……」
そこで長塚教諭の言葉が途切れた。スラックスのポケットからハンカチを取り出して、涙をぬぐう。声にならない嗚咽が漏れた。
「いやすまない。野犬だったんだ。野犬がフェンスを破ってハクを襲って、血まみれの……ハクが……もう私が見た時には冷たくなっていたな……本当にかわいそうなことをしてしまった……」
「すみません先生。嫌なことを思い出させてしまって……」
御来屋さんの謝罪に、長塚教諭は手を振って答えた。
「いやいやいいんだ。それよりも当時、ハクが好きな女子生徒がいてねえ。よく世話を手伝ってくれたいい子だった。その子にはハクが野犬に殺されたって本当のことが言えなくてねえ。ハクはすぐに私ひとりで弔ったんだけど、彼女はきっと飼育小屋に散乱したハクの羽根をみてしまったんだろうな。ずいぶん追求されたよ。のらりくらりと私が口を濁したのもいけなかった。最後には新校舎でハクが邪魔になったから殺したんでしょ? って責められた……」
長塚教諭の話が再度途切れた。ハンカチで涙を拭う。部室はしんと静まり返り、咳ひとつする者もいなかった。シロフクロウは黙って長塚教諭を見つめている。
「本当のことを言えば良かったんだ。たとえ残酷なことであったとしても。彼女は卒業して入学した大学をすぐ辞めてしまったようだった。彼女のことは気になっていてね、ちょくちょく人づてに消息を聞いていたのだけど。最近よくない仕事をしてると聞いて……あ、いかん今のは忘れてくれ」
「そこまで言ってしまったら気になります先生」
零山が余計なことを訊く。長塚教諭は少しの間考えていたが一度深く溜息を付いてから語りだした。
「零山君も知っている、例のポルノまがいの仕事さ。君たちこれはここだけの話にしてくれないか。くれぐれも」
その話なら先ほど零山が得意げに語っていた。
長塚教諭が頻繁にアクセスしたエロチャット。そこに彼女がいたのだろう。
すると話の様相が一八〇度変わってくる。
つまり長塚教諭はその仕事を辞めるように彼女を説得していたのではないか。
「すまない。写真を一枚撮らせてもらえないだろうか? そのシロフクロウの写真をその彼女に送ろうと思うんだ」
長塚教諭が携帯電話を取り出す。「どうぞ」とさすがに神妙な面持ちで零山が言った。
「あ、先生そのストラップかわいいですね!」
神室さんが、特にかわいくもないストラップにどういう訳か興味をひかれたみたいだった。神室さんが手を差し伸べて長塚教諭の携帯に触れた。
そこで僕は意味を悟った。携帯のカメラで、シロフクロウが撮影できるように体質を感染させたのだ。
シャリーンとマヌケな音がした。
長塚教諭が携帯電話を覗きこみ少し微笑んだ。
「じゃあこれで私は失礼します。どうもかわいいシロフクロウくんに会わせてもらってありがとう」
そう言って長塚教諭は部室を出て行った。
「いい先生じゃない? さっきの零山くんの話とはぜんぜん違うわ」
御来屋さんの言葉に、悔しそうに零山が答える。
「面目次第もございません」
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