永遠のフェノミナ

ときわかねなり

永遠のフェノミナ

第一章 宙を舞う少女──または黒川仁は如何にして便所飯へ落ちぶれ果てたか

1-1 黒川仁《くろかわじん》

 それは、そう一目惚れだったのだ。


 高校入学式のその日、ブランニューな制服に身を包んだ僕は、教室で彼女を見かけるなり恋に落ちた。あのゴールデンウィークの事件で心が木っ端微塵に砕かれ、あれよあれよという間に教室カーストの最底辺、完全無欠の路傍の石、誰からも相手にされないぼっち生活にまで転げ落ちた僕ではあるが、最初に落ちたのは恋だった。


 いまから語る物語は、そんな孤高のぼっちである僕の、恋物語であり、まあ、ちょっとした冒険譚だ。


 入学から三ヶ月と数週間。どん底のぼっちスパイラルから、彼女の手によって天使たちがラッパを吹き鳴らす天上へと引き上げられ、そしてそこからまたあっさり奈落へ突き落とされたあの日の出来事から語り始めよう。

 

 夏休みも程近い、よく晴れた七月のある日の昼休みだった。

 僕は十六歳の少年で、相も変わらずぼっちだった。そしてそのとき僕が陥っていたのは未曾有のピンチであった。僕は学校のトイレの、それも個室に脂汗をうかべて立て籠もっていた。


 しかもパンツを下ろしたまま。


 それは便所飯の成れの果てだったのだ。


 賢明なる読者諸兄に今更ごたごたと説明することもないと思うが、便所飯とはひと目を避け弁当をトイレの個室で密かに食する行為を言う。教室という仲良しコミュニティから爪弾きにされた者が、便器を囲む安らぎのお一人様空間へ雲隠れし、黙々と食事する禁断のぼっち飯のことである。


 しかしその日の便所飯はいつもとは違う特別なメモリアル便所飯になるはずだった。天の甘露もかくやと思わせるスイートな便所飯になる予定だったのだ。


 なぜなら、その弁当は僕が思慕を寄せてやまない彼女のお手製弁当だったから。

 彼女にしてみたらほんの気まぐれだったのかもしれない。しかし勝算なきワンサイドラバーの僕にこれほどのご褒美があろうか。


 どうしてこうなったのかはよく分からない。僕はその日もいつも通り、昼休みがはじまると同時に机に突っ伏してウソ寝をはじめた。昼休み開始直後はパンを販売している購買が混む。友達のいない僕にその戦場をかいくぐる勇気もないので、いつも時間をずらすためウソ寝を決め込む。それこそが僕の処世術であり変わらない日課のはずだった。


 ところが今日に限って僕の肩を叩くものがいた。


 驚いて顔を上げた僕は、さらに驚愕することになった。僕の肩を叩いたのは彼女だったのだ。


「み……みゅくりやしゃん!」


 僕は思わず彼女の名前を口に出したが、言葉を噛んだのも無理がないことなのだ。この教室で僕がクラスメイトに声をかけることすら久方ぶりの珍事なのに、ましてその相手が彼女であるのだから。


 高校入学以来、彼女から話しかけられたことなどこれまで一度たりともなかった。もちろん、ぼっち世界の住人である僕から、彼女に声をかけることなど出来ようはずもない。


 彼女は僕の机の前に立ち、数秒僕をみつめた。たちまち僕の心臓は沸騰してしまう。値踏みするような視線から僕がたまらず目を逸らすと彼女は言った。


「なんだ、喋れるんじゃない?」


 そしてそれは差し出された。


「よかったら食べて。ちょっと急用ができて、せっかく作ってきたのに私ときたら食べる時間もないの。腐らすのももったいないし食べてくれない?」


 そう言うが早いか、彼女は脱兎のごとく駆け出して教室を出ていった。

 僕の手元には、彼女が差し出した弁当が残された。


 ――天使はいた! 神は僕を見捨てなかった!


 僕の前の彼女の机、その上でぽつねんと主から忘れ置かれた赤い眼鏡を眺めながら、僕は心のなかでありったけの大声で快哉を叫んだ。


 彼女の名前は、御来屋みくりやらん。


 僕がずっと淡い恋心を抱いてるひとである。


 ここで彼女の紹介をしよう。

 御来屋らんは、たいへん見目麗しい女子だ。

 道ですれ違えば半数の男は振り返るような美人である。あとの半数はただ下を向いて歩いていただけだ。


 ともあれ、御来屋さんは透き通るような色白で、いつもきりりと結ばれた唇は蠱惑的で、肩までの栗色の髪をゆるくボブカット風にまとめ、いつも大きな瞳をキラキラさせている。しかしその輝きはどういうわけか眼鏡のむこうに封じ込められている。赤いお洒落メガネである。テンプルが太いセルフレーム眼鏡であった。その眼鏡は彼女のカンペキな容姿にちょっとしたアクセントを与え、チャームポイントのひとつとなっていた。


 彼女と出会って以来、僕は『メガネ女子』という言葉に敏感になった。たとえば家でネットをチェックしているとき、その言葉が目に入るとリンクを開かざるを得なくなる。モニタの向こうで微笑むメガネ女子を無心に眺めながらも考えるのは御来屋さんのことだ。そんな感じに僕の中で属性の扉がひとつ開かれてしまった。そのくらい眼鏡の彼女はチャーミングだった。


 あまりにも気になるもので一度だけ勇気を振り絞り彼女にその眼鏡はどこで買ったのか尋ねたことがある。なんとかというフランスのブランドの眼鏡だと言っていた。テレビで宣伝しているようなメガネ屋しか知らない自分には馴染みない名前だったので残念ながら忘れてしまった。


 僕が教室で孤立する前に、彼女とそんな話をしたのだ。


 見目麗しき御来屋らんは、ちょっと変わった女子だ。

 そして彼女は教室で僕の前の席に座っている。

 眼鏡の話を引っ張って恐縮だが、そのときの会話くらいしか僕には彼女を語る糸口がないのでいましばらく堪えて聞いて欲しい。ブランニューな制服に身を包んでいた入学間もないころの話である。今でこそ完全無欠孤立無援のパーフェクトぼっちな僕ではあるが、その頃は高校デビューを果たそうと少しは躍起になってたのだ。男の矜持である。前の席にキュートな女子が座ってるとあれば話しかけたい、お洒落メガネから話を発展させてあわよくばメアドをゲットしたい、そして行くゆくはお付き合いしたい、健全な男女交際をして桃色の甘美な高校生活を送りたいと、そんな夢の様なことを考えていた頃だ。


「色キレイだねそのメガネ。なんていうか、赤くて」

「赤くて?」

「ああ、いや、その模様? もなんか」

「模様?」


 一向に話は広がらないのである。もともと僕はコミュ障だ。コミュニケーション能力が皆無なのだ。限界はすぐ訪れる。言葉につまり僕はすぐ横の窓の外を眺めた。春の温かい日差しが中庭のけやきの木をやわらかく包んでいた。御来屋らんも釣られて窓の外を眺めた。


「眼鏡ってことは眼、けっこう悪いの?」

「いいえ全然。視力は両目とも二・〇だし」

「え? 僕よりいいじゃん。 あ、あれだ。オシャレ伊達メガネ」


 視線も内容もまるで交差しない会話であった。


「ま確かにこの眼鏡はちょっと奮発したけど、お洒落とも違うかな……私の場合、逆に見えなくしたいのよ」

「見えなく? あ、流行りのブルーライトをカットするってヤツ?」


 僕の問いに彼女は答えず、中庭を眺めながら右手を眼鏡のテンプルにかけると、そのままおでこにずらした。彼女の顔が曇った。僕は気付かれないように彼女の横顔を覗きこむ。


 やや眉間に皺をよせて、焦点の遠い目で中庭の眺める彼女は……美しかった。


「たとえば……」

 彼女は中庭のけやきの木を指さして言う。

「あそこに何が見える?」


 彼女の指先を追ってみた。何がと言っても木があるだけだ。木陰にはリア充生徒たちが戯れるベンチがあり、ベンチの前ではチャラい系の男子生徒がスケボーに興じていた。


 ただそれだけだった。あえて指摘するほど目に引くようなものはなかった。


「え? けやきの木? スケボー? 何?」


 御来屋さんは、そのときはじめて僕を見た。中庭から視線を戻した僕の視線が彼女と交わる。そのときの彼女の表情は……忘れてしまった。笑っていたようにも、ひどく悲しい顔をしていたようにも思える。確かに言えることは、彼女と目があったのはほんの一瞬であったということだけだ。


 なぜなら次の瞬間、自分の座っていた椅子を蹴飛ばして、彼女は教室を走り去っていったのだから。


 訳が分からなかった。


 これは、なんだろう、脈がないということかな。

 まあでも、十分じゃね? 自分にしてはよくやったよ……。

 僕はため息をつくと、机に頬杖をついてまた中庭を眺めた。


 予鈴が鳴った。昼休み終了五分前のチャイムだ。中庭で思い思いに寛いでいた生徒たちも、続々と昇降口へ向かっている。昇降口へ近づくにつれ、それは大きな群衆となっていた。


 ――そこへ、風が吹き抜けた。


 そう、それはまさに風としか表現しようになかった。群衆が割れた。その開いたスペースを駆け抜ける風は、御来屋さんであった。小径タイヤの赤い自転車が生徒の間を縫うように走っていく。赤いBMXを立ち漕ぎで駆ける少女は、集まる視線もはためく自分の制服のスカートもものともせず、ただひたすらにペダルを漕いでいた。中庭の広いスペースへ出た御来屋さんはペダルを一瞬止め、右のブレーキを握る。後輪がドリフトしてコースが変わった。彼女の栗色の髪がなびいた。すぐさままたペダルを踏み出す。その先にはけやきの木があった。御来屋らんは全速力でけやきの木に向かって突進していた。


 御来屋さんは両腕に力を入れると、ハンドルバーを左右に揺らすダンシングスタイルでさらに加速していく。けやきの木の前にはベンチがあった。そのベンチまであと三メートル、いや一メートル。


 危ない。


 僕は思わず椅子から立ち上がった。

 時間が止まったと思った。


 一瞬腰を落とした彼女が今度は跳ねるように上方に重心移動し、同時にハンドルを思いっきり手前に引いた。BMXは宙を舞った。後輪がベンチでバウンドした。その瞬間彼女の身体はもう一段階宙を飛ぶ。ベンチの背もたれに触れることもなく、BMXは高々とまるで重力などないかのように空へ舞い上がった。


 時間は静止し続ける。


 重力に逆らったのは自転車ばかりでない。彼女のスカートもふんわりとめくり上がり、白いパンツが惜しげも無く衆目に晒された。時間が止まったことに感謝した。少なくとも、今もこうして易易と思い返せるくらい強烈にその眩しい白は僕の脳裏に刻み込まれたのである。


 驚いたのはそれだけではない。


 パンツ……ではなく宙に舞ったBMXは、空中で方向転換したのである。一八〇度近い回転であった。まるでそこに見えない何かがあって、それに体当りすることで跳躍の勢いを殺して方向転換したかのような、見事なターンであった。そのまま、ようやく仕事を思い出した重力に引きずられBMXは着地する。バックでなおも滑るBMXを、彼女は腰をサドルに落とし両足を芝生に思い切り付き、両手でブレーキを掴んで停車させた。


 静寂。そして沸き起こる拍手。教室の窓際にもいつのまにか騒ぎに感づいたクラスメイト達が並んで歓声をあげている。中庭でただ呆然と彼女の暴走を見守っていた生徒たちも彼女に拍手を送っていた。


 その観衆の真ん中で、彼女はハンドルを握りしめたまま、ただ俯いていた。その派手なデモンストレーションに似つかわない華奢な肩が上下していた。乱れた横髪に隠れて表情は見えない。


 チャイムが鳴った。

 ショウの終わりを知らせる鐘となった。もう授業がはじまる。我に返った生徒たちが動き出した。


 こうして御来屋らんオンステージは幕を閉じた。

 舞台に主役を残したまま。


 御来屋さんはBMXにまたがったまま動かない。やがて落ち着いた教室に、数学教師が入ってきた。クラス委員がかける起立礼着席の号令に僕は機械的に従う。あらためて机に頬杖をついて、僕は中庭を眺めた。けやきの木の下に御来屋さんがまだいた。ふと、彼女の顔が上がる。その顔に眼鏡がなかった。


 そのときの彼女が実はひとり孤独な闘いを強いられていたと知るのは、もう少し後のことである。


 話を戻そう。


 御来屋さんからお手製弁当をゲットした僕は、両手に恭しく弁当を押し頂いてそそくさとトイレに向かった。多少鼻息も荒かったかもしれない。鼻の下も伸びていたかもしれない。しかしぼっちエリートの僕である。磨きに磨き上げられた路傍の石である。誰からも一切注目を浴びずに、無事にいつものトイレの個室へ潜入することが出来た。


 僕が昼の根城にしてるこの部室棟三階のトイレは、昼休みの時間ほぼ人が来ないのだ。放課後となれば話は別だが、もともと昼休みに部室棟に来る人は少ない。三階は空き部室ばかりで尚更いない。ひと気がないのをいいことに、たまにヤンキーがタバコを吸いに来ることもあるが他の出入りはないに等しい。まず廊下に人がいない。僕が便所飯をはじめてから数回廊下で同じ男子生徒とすれ違ったこともあったが、その男はいつも一番奥の部室に入ってそれきりだった。


 トイレであるということに目をつむれば、ここは快適なお一人様空間だ。


 それから弁当を食べ終えるまではまさに珠玉の時間であった。手作り弁当、そういうのもあるのか! これほどの幸せを文字通り噛みしめることが出来たのはいつ以来の出来事であろう。ふんわりとしただし巻き卵も、ほうれんそうのおひたしも、アスパラガスのベーコン巻きも、冷凍と思しきコロッケでさえも震えるほどの美味であった。


 ただそんな絵に描いたような幸せが僕の場合長続きするはずもない……。


 弁当を食べ終わった僕はシャツの胸ポケットからアイフォンを取り出して、食い入るように眺めていた。まとめサイトをチェックしていた。昼休み終了まであと二十分もあった。ギリギリまでトイレに立て篭もるが僕の流儀である。教室に戻った所でどうせまた机を抱いてウソ寝を決め込むくらいしかできない。しかしその日僕はそのタイミングで自分の腹の音を聞いた。やけに額に汗が浮いてるのを感じた。真夏だというのに寒気を感じた。


 急転直下、腹が下ったのであった。


 え? 御来屋さんの弁当のせい?


 道義的に考えても、消化時間的に考えても今食べた弁当のせいにするのはいささか酷なのかも知れないが、実際腹は下ってしまったのである。ただ案ずることはない。これが人身事故で立ち往生している電車の中というなら話は別だが、今僕がいる場所こそトイレである。それも個室である。なんとなれば、今座ってる便座のフタを開けて、座り直せばいいからだ。無論僕は誰に憚れることもなくそうした。人間誰しもトイレという空間の中では孤独である。そして、ちょっとしたきっかけさえあればメシだって心置きなく食えるほどの安息の場所である。


 無事用を足し終え、得も言われぬ恍惚感を十二分に堪能したあと、僕はトイレットペーパーホルダーに手を伸ばした。


 そこで僕は気がついたのである。


 紙が……。

 紙が、なかったのだ。しかもご丁寧に、芯までなかった。


 伸ばされた僕の手は、銀色に光るペーパーホルダーの板の下、ただむなしくカラカラと回るプラスチックの軸を掴むばかりであった。


 僕は一度深呼吸をして、まず冷静に身体をひねって後方を覗いた。水を流すパイプがあるあたりに、替えのトイレットペーパーはないか? いつも二、三個用意されていたはずだ。だが僕の淡い期待はすぐさま打ち砕かれた。なにもなかった。


 ここへ来て僕はようやく自分が窮地へ追い込まれていることを知る。僕は便所で糞をひり恍惚感を得たのも束の間、次の瞬間神ならぬ紙の不在を知り、ケツを拭けない憐れな子羊となり果てたのであった。お食事中の方には大変申し訳ないが、これは紛れも無く窮境である。絶体絶命の危機である。天使たちの舞う天界から奈落へ突き落とされた瞬間であった。

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