鳥類の時間

とよかわ

第1話 鳥類の時間

 1



 福野はその女からしばらく目が離せなかった。友人がアルバイトをしているバーだった。そいつがたまたま非番でなかったら、彼女のことを訊けたのに。

 カウンターの反対側の隅っこで、男と何やら話しているが、口ぶりはよそよそしく、それほど楽しそうでない。ことさらめかして時計や携帯電話を見たりキョロキョロしている。だから、目が合った。

 福野は、あわてて目を伏せた。思わず彼女の足もとを見ていた。天井にでなく床に灯りがあるバーだったから、光に照らされて、顔よりもよほどはっきり、とてもはっきりと見えた。プラスチックの宝石がゴテゴテとバカみたいに貼りついてるサンダル、湖に似た緑色のペディキュア、そして、真っ白い足の甲、両足とも。

 彼はふーっと大きく息をついた。無意識のうちにポケットをさぐって、煙草を一本、口にくわえていた。だけど、ライターもマッチも持ち歩いていない。一万回めの禁煙中だった。

 真っ黒い髪を揺らして、女が席をたった。今度はあからさまに意識的に、福野を見ていた。小用なのか、彼女は店外にでる。ウイスキーを一気にあおる手が震える。目の前の風景が白飛びする。彼は思いきりをつけて立ち上がった。



 2



 大入道がいた。

 表情に乏しかった。異人のように眉がせりあがり目に影を落としているがために、日が落ちるとなおさら何を考えているのかもわからない。ひとなみはずれて背丈が高く、黄色人種離れした立派な鉤鼻も不気味な印象を与えた。おまけに無駄口も叩かない。この筋骨隆々の無骨な男が、ただひとり、シロフクという符牒で通じるやせた小男にはよく従い、なんでも言うことをきいたので、その様子から彼はしばしばイヌと呼ばれた。なんでも、当初は敵対しあっていたが、あるときシロフクがイヌの命を救う出来事があったらしい。

 彼ら二人を中心とする一団は、常民のよりつかぬ山襞を深く分け入った奥地に、原始的な堅穴式住居をつくって、だいたいいつも五六人で寝食を共にしていた。ごく粗食で、たまにイヌが川で魚を釣ってくるのを、焼いて食べることもあった。

 食いはぐれた野武士とも、修験者の一味とも、あるいは物の怪や精霊のような、人ならざるものどもとも、いわれた。彼ら自身は一度も人間たちに何とも説明したことはない。黙していれば、誰がともなく好き勝手に何かにしてくれて、好き勝手に納得して、そして畏れられたので、自己紹介の必要もなかった。ごろつきまがいの農民や追い剥ぎから身を守るために、ほとんど独自の武術をそろって身につけていたから、金が必要になるたびに里に下りて用心棒や始末屋なぞをするものの、そのたびにつくづく人間どもがいやになって、また山にこもるか、あるいは漂泊した。

 それはたいそう奇妙な塔だった。

 蛮人が船で運んできた異教を崇める徒が、迫害の末にほうぼうに離散した挙句、敬虔な信徒が中心になって、神話が真実である証拠なるものを目を三角にして探し回っているらしい。もしかして奇妙に見えるのは何しろ世情に疎いからで、いまはああいう建築が普通なのかもしれない。

 そういうことで今月の出稼ぎがこれで決まった。イヌ、シロフク、ヨダ、ハクの四人が、昼夜分かたず内と外とを見張った。というのも、彼らは闖入者のみならず不届き者の脱走にも目を光らす必要があった。塔には狂信者の大事な蒐集物が山と保管されていた。異教の神話を裏付けてくれるかもしれない、まさにタカラモノ、奇跡の欠片。

 イヌは寡黙だがごく時折おやと思う軽口を叩くときがある。

 面が割れると厄介だから、彼らは昼でも夜でも能面をかぶっている。中には鬼面の男もいて、それがイヌだ。その奇妙な外見は彼らへ畏怖に拍車をかけ、伝説化に一役買った。

 揃ってほとんど崩れ落ちた襤褸で全身に包み、身体のわずかな特徴すら人の目にさらすのを嫌った。そんな彼らとだいたい同じくらいに秘密主義のタカラモノが運び込まれてきたのだ。顔も隠されて見えないが、わずかに露出した部分の特徴からすぐ女だとわかった。イヌはそれを見て、ひとこと、

「一本ダタラ」

 と、呟いた。シロフクは、ぷっと吹き出した。




 3



 日本庭園風の丸い橋がかかっている川があり、その両岸に、いまどき見ないような長屋造りの建物。ぎゅっとひしめくテナントはほとんど飲み屋だ。共同のトイレに行くためには一度外に出なければいけないところも、前時代的だった。

 男女兼用のトイレに入ろうとして、福野は例の女とすれちがった。女は携帯電話に夢中で一瞥もくれない。福野は洗面台に手をついてよりかかり、もう一度、おおげさなくらいゆっくりと息を吐き、落ち着こうとした。

 扉がもう一回ひらく。息を呑んだ。

 間近で見ると意外と背は低くない。顔が小さいから、体も小さいように見えていたが。女はにっこり笑う。あからさまに酔っている。白目が赤く、そして、黒目とのさかいめがぼんやりとしている。男好きのする垂れ目。

「私のこと、見てたでしょ」

 洋画の科白みたいだ、と福野は思った。あきれてしまう。なんて自分に自信があるんだろう。こんな正面から男を誘って。拒絶されるかもしれないのを、何とも思わないのか、もしくは、思いもよらないのか。

 福野は彼女を見つめ返すことができず、ひたすら彼女のつま先あたりを見ていた。

「あの男、しつこいんだよね。さっき、声かけてきたんだけど。まくの、助けてくれない? 君のほうが全然好みだもん」

「昔……」

 何を言い出すんだろうと自分でも思う。

「あの、どこかで」

「うん?」

「会ったことがありませんか」

「くっ」

 女はおもしろそうに笑った。

「はは、本当? ごめん、たぶんないよ。こんないい男、忘れるわけないから。……じゃなくて、殺し文句?」

 福野の曇る顔色を見て、女はすぐに付け足した。

「ウソウソ。でも、悪いけどほんとに覚えがないな。いつくらいの話? どこ? 同級生? 初恋の人?」

「いや……」

「前世とか?」

 福野ははじめて、少しだが笑った。女も機嫌をよくした。

「うれしい。こんなところで、前世の恋人に会えるなんて」

 不意に思いっきり抱きついてきて、しかも、全体重をぶつけられたから、福野はよろめき、壁に背中を打った。痛い。女はいきなり、顔を寄せ、唇を吸ってきた。舌が入ってくる。恥ずかしいことに、反射的に絡み返していた。酒くさい。

「背、ちっちゃいね。同じくらいかな? なんせんち?」

 福野は急に寒気を感じ、だが、身体の震えをけどられぬように、懸命におさえた。眼前の光景の何もかもが信じられなかった。

「肌も白ぉい。いくつなんだろ。あ、答えなくていーわ。きっと、すっごい年下だね」

 陶酔するように福野は目を閉じ、抱き返すこともできず、だらんと両腕をたらしている。そして、心のなかだけで、狂ったように笑った。

「うぉーす」

「え?」

「くおす」

「え?」

「名前。く、ろ、す」

「ああ……」

 そうして、黒須とかいう女は福野のベルトをいじり出した。とにかくたてつづけに面食らっていたから、何もできない。なかなか外れず、じれてしゃがみこんで、すぐに尻をついて座る。やっと外して、陰茎をひっぱりだすと、ニヤーッと笑って、いとおしげに口に含む。

 完全に酩酊している、もしくは、気が狂っている。

「ふっ」

 というような音を出して、女はすぐにそれを吐き出し、こんどはうっとりと頬を寄せ、まぶたを下ろし、枕のようにする。糸が切れたような安らかなる表情。そのまま眠りかけている。

 そのとき、トイレの扉がひらき、あのバーで、女のとなりに座っていた男が顔を出した。あんまり遅いので、不審に思ったのだろう。福野は反射的にズボンをあげ、ぼんやりしている女を置いてその場を飛び出し、夜の道を、どこまでもどこまでも遁走した。

 本当に、知り合いがつとめている飲み屋でよかった。飲みしろを払わずに帰っても、そいつのおかげで丸くおさまった。名前は高木。

 次の日、福野はまたカウンターの同じ席に座っていた。昨夜は、酔っているのに全力疾走なんかしたから、ひどく気分が悪くなって、そのへんの草むらにジャージャー吐きまくった挙句、そのままフラフラと川に落ちるところだった。酒には弱い。だからもともと、たまにしか顔を出さない。高木は福野の連荘を珍しがった。何か勘づいているようだった。

「黒須? 聞いたことないな。男?」

 高木は首をひねった。

「いや、男じゃない」

「ほっほう」

 しぶしぶの福野の言葉に、彼は、かなり芝居がかった、大げさな笑みを浮かべた。こいつはついこないだまで、サーカスでピエロの仕事をやっていて、その癖で身ぶりがなんでもオーバーなのだった。

「お前な、なんでもそうやって……そんなんじゃない。少し話しただけだよ」

「マスターなら知ってるかもしれない。黒須さんって客、います? 昨日来てた、女性の……どんな人?」

「……髪の毛は、ここぐらいまでの、少し、トウのたった……派手な顔立ちで……服も」

 店主の答えは、ごくたまに見かけるが素性はよくわからないとのことだった。

「それで? 本当は何があったんだ? 我を忘れて飲み逃げするくらいのことがあったんだろう?」

「本当に少し話しただけだよ。ただ、なんだ、ちょっと、引っかかるところがあっただけで」

「何?」

「別に……昔、会ったことがあるような気がするんだ。他人のそら似かもしらんが」

「会ったって、どこで」

「知らないよ。よく思い出せないんだ」

 高木に訊くんじゃなかった。何の情報も得られなかった上に、しばらくからかわれるだろう。長いつき合いだし当然その予想は当たった。三日つづけて夜明けまで酒を飲んだ福野に、高木はいちいち嬉しそうに、「きょうも張り込みの成果なしだな、敏腕デカ」と背中を張り飛ばすのだった。四日めで話がすすんだ。

「いま、来た」

 と、福野は入り口のほうに一瞥もくれず、カクテルグラスに目を落としたまま、高木に告げた。好奇にらんらんと目を輝かせて、高木は短いあごひげをいじりながら、来店した二人連れの女を見やった。

「どっち? 小さいほう? いや当てる。大きいほうだ」

「遊ぶなよ」

「正解は?」

 福野はイライラと煙草をくわえた。

「どうなんだよ。当たってるのか? 当たりだろ」

「まあ……」

「どうした。声かけに行かないのか。やっと来たのに」

 二人はテーブル席にすわり、福野とは背中合わせだ。気づいた様子はない。

「連れがいるだろ。声のかけようがない」

「おれが行ってやってもいいですけど」

「お前にだけは喋るんじゃなかったよ……」

 と嘆いている最中に、高木は待ちきれずにカウンターを飛び出し、くだんの女に、

「ねえ、黒須さんってお宅さん?」

 と声をかけにいった。福野はがくっと片手で頭をかかえる。

「あいつのこと覚えてる? ほらあそこの。福野っていうんだけど。あいつ、あなたのこと、忘れられないんだって。あなたに惚れちゃったんだってさ」

 バカみたいな大声で言うもんだから、広くない店内が、一瞬、静まりかえる。福野はサッと財布から札を取り出し、グラスの下に挟んだ。これで轍は踏まない。そして、大股で店を出た。

 ずんずん歩いていると、やがて後ろから、打楽器のようなパカンパカンという音が響いてくる。

「ちょっと、はや、はやい、はやい」

 ヒールの高いサンダルで追いかけてきたものだから、福野が振り向くと同時に、足首の先がグキッとあらぬ方向にまがり、彼女は転びかけた。福野が手を貸していなかったら倒れ込んでいただろう。抱きかかえているみたいな格好になる。

「痛い、痛い、ひねっ、た、かも」

「えっ……ちょっ……大丈夫……?」

「すぐに止まらないからだよ。ひどいんじゃないの、前世の恋人をこんな目にあわせて」

 福野はふと笑った。女もまた、ニヤーッと、チェシャ猫のように顔じゅうに笑みを広げた。

 一瞬、時間が止まる。

「……平気なの? 友達、置いてきて」

「うん、彼女、理解があるし。行けって。彼女も、あのバーテンさんも」

「……あいつ、高木っていうんだけど、言うこと、信じないでいいよ。あいつ、言うこと、嘘ばっかりなんだ。頭おかしいんだよ。腐れ縁で、昔から……」

「ハハハハ。そうなの?」

 女は自力で立ち上がろうとして、顔をゆがめた。

「いだい……」

「右足? 左か」

「うん」

「歩けない?」

 よほど血の気をなくし、焦っているのが見てとれたのだろう、狼狽する福野を元気づけるように、女は笑顔をつくった。

「いまは痛いけど、すぐなおるよ。そんな心配しないでいいよ、そんな顔して……家、近いし大丈夫」

 福野は額の汗をてのひらでぬぐった。心ここにあらずだった。

「送ってってよ」

「え?」

「家まで送ってって、って。せっかくまた会えたんだしさ」

 今度は別の意味でうろたえたが、反射的に、

「わかった」

「ありがと。福野くん」



 4



 蚕に似ている。

 もっと正確には、貴族を乗せる御車に円く黒い屋根を取りつけたように見える。屋根には骨も入っているのがわかるが、中の様子は窺えず、ただそれほど分厚い布ではないゆえ、中からはうっすらは外界を透かし見ることができるのだろう。この蚕がどう特殊かというと、口から人間の片足がにょっきり出ていて、それは雪のように白くなめらかな肌で、爪のひとつひとつまでよく手入れされている、明らかに女のものである足だった。

 地方の貴族か豪族の血筋という噂話の真偽は不明であるも、この奇妙な御車には側女も一緒に運搬されてきて、そのようなタカラモノは他におらず、黒い染料はどこの国に行っても高価な希少品だし、まんざら単なる流言でもないのかもしれない。繰り返すが彼らは雇われ者に過ぎず、知る必要のないことは一切知らないのだ。

 大陸から渡来したタクラダという言葉が語源といわれている。

 生まれつき身体の一部や知能が欠損した者を神の使いとし、タカラモノ、タカラモン等それに類する言葉で呼ばれて珍重される風習は、全国的に見られる風習だし、そして身体のどこかが著しく欠けていたり醜くえぐれている者は神通力を持つとされ、畏怖や迫害の対象になりえたのも常なる話だった。異教徒の目的は本物の神通力である。この危機において結束を強めるショーが必要だと信じている、つまり、かつて実際に神の使いが行ったとされる奇跡を、この遠い国で再現できる力と人物が必要だと信じているのだった。

 狂信者たちの興奮は肌で感じられた。彼らの仕事はあまり成果が芳しくないようで、その中に今度こそ「本物」かもしれない物件の確保に成功したのだ。だがそれだけ警戒も強く、警備はかつてなく物々しかった、というのも得体の知れない力で自分たちが返り討ちに遭うかもしれないという恐怖があるからで、シロフクの一団すらその目に見えぬ恐怖感の伝染の影響下からは自由でなかったし、そして何より、農民ならともかく高貴な女のむきだしの足先が、白昼の下でこれほど多数の男の視線に晒されるのはひどく異様なことだった。鼻先に女性器を突き出されているのと同じだ。不愉快と劣情、不安が混じった、かき乱されるような心のざわめきを、誰もが感じていた。

 女は足萎えだった。

 黒塗りの蚕から突き出た左足は、まともなほうの足だ。シロフクは一度だけ、この一本ダタラ姫の右足を見たことがある。だが、よく思い出せない。記憶が混濁している。思い出そうとすると脳裏に浮かぶ光景は、きまって、ある巨木だった。この狂信者の隠れ里の庭に一本の大樹があった。その幹や枝の険しくひびわれた木肌の感触ばかりが、ただ。シロフクたちは非番のとき、よくこの大樹に寄り集まって、木陰に寝そべったり、よじのぼったりして休憩したり眠ったりしていた。気持ち悪がられるほど夜目がきくシロフクはたいてい夜警を借って出ていたから、とにかくまあ、その木に抱かれるように、ずいぶん長い時間をよりかかって寝て過ごした。



 5



「おれは、これでもちょっとショックなんだよ。なんか、ふくちゃんだけはそういうのないって思ってたもん。てっきり、硬派で……」

「だから、そういうんじゃないんだよ」

 女の小さなアパートに入ってすぐ、案じてなのか何なのかわからないが、高木からの電話が鳴った。

 ベッドに横になった女は、笑いをかみ殺している。

 適度にちらかっている部屋で、服が多い。

「想像つかないなぁ。長いつき合いだけど。ふくちゃんが、女の子といちゃついてるとこ。あー、ショックだ。みんなもそう言ってるよ」

「みんな? みんなって、誰だ。お前、何人に言いふらした」

「まだそんなには教えてないよ」

「そんなにはって……」

「鷲谷なんか、おれよりショックなんじゃない? 知ったら」

「やめろ。鷲谷の耳にだけは入れるな」

「ハハ、お前らベッタリだもんな。彼ヤキモチやいちゃうだろうね」

「いいからとにかく、あいつにだけは知らせるなよ。絶対だ」

「ホモカップル」

 電話を切ると、女は声を出して笑った。

「愛されてるじゃん」

「……こないだ、あのあと大丈夫だった?」

「こないだ? ああ」

 福野が逐電した夜だ。

「ふぷっ……相手、ビックリしてたよ。まあしょうがないよね。でもおかげで変な雰囲気になって、なにもなく帰ったよ。あの日はじめて会った奴だから、いいんだ」

「なら、よかった」

「え、なに? それ聞くためだけに捜してたの? 私を」

「……いや」

 ベッド以外に腰かけるものもなく、福野は立ち往生した。送ってほしいと頼まれたときから、ある種の予定調和の手招きをもちろん福野は感じていたし、いまの女の瞳の色にも、確実にそれがある。それがたまらなく魅力的でもあり、同時に怖ろしい。拒みようもなく自分たちを呑み込む渦。

「さっき、びっくりした。小さいのに、力持ちなんだね」

「いや、それほどには……」

「なんて言って、汗かいてたよ。ふっ……。ありがとね」

「いいえ」

「いつも、静かにしゃべるね。そういう人好きだな」

 福野はもう作り笑いもできなかった。運命の鼓動が聞こえる。それとも思い過ごしだろうか。なにもかもが。

「汗、気持ち悪かったら、フロ使ってっていいよ」

「……いや」

 だが、再会したら必ずこうなることはわかっていたはずだ。毎夜待ちながら、何度も繰り返し、頭の中でそれは行われた。

「そう、私はどっちでもいいよ。そのままでいい。男の人の匂い、好きだし」

 この女は同じ科白を何人もの男に向かって言っているのだろう。そしてきょうみたいに、どんな男でもベッドに引き入れて寝ているのだ、あの晩だって、福野の邪魔が入らなければ、あのまま。途端に、勇気が出た。

 湿った体温。香水をそのまま抱いているかのようにいい匂いがした。腫れぼったい厚い唇を吸って、舌。福野のよりずっと、ひんやりしている。自分ばかりが興奮しているようで、彼は恥ずかしかった。タンクトップをずりあげる。ブラジャーは鎧のようだ。巨大かつ大仰で、それが包み守っている乳房もなおそうだった。

「黒須さん」

「あ……なに?」

 ぷっくりした乳輪ごと口に含んでねぶりながら呼びかけたせいで、歯で若干かんでしまったが、その瞬間に女の背中はぴんと反りかえった。

「正直に言うと、久しぶりで」

「そうなの?」

「やり方、忘れてるかもしれない……」

「アハハ、そんなに? どんくらい久々?」

 福野は真顔で、

「覚えてない? 前世のあのとき以来」

「ブッヒャッヒャッヒャッヒャ、いいね、福野くん冗談とか言うんだ、その顔で。プッ……気に入ったよ、超」

 女は福野の首に抱きつき、熱烈にちゅっちゅとそこを吸って、Tシャツを脱がせた。

「あん。いい体じゃん。おしごと、ガテン系?」

「昔に、ちょっと……」

「それも前世?」

 自分で言って、面白そうに肩をふるわせ、ケタケタ笑っている。すぐに、甘い悲鳴にかわった。黒いタンクトップとブラジャーを一気に脱がせようとすると、一瞬だけ、女は両腕をあげるかっこうになる。白くてつるつるした腋の下を見たときに、完全に火についた。驚くほど。

「福野くん、あ、そこだめ」

「だめ?」

「うん」

「でも、びくびくしてる」

「……いじりかたがやらしい。だめ、だめだったら、乳首だめ」

 脱がせてみると意外なくらい可愛らしいパンツを穿いている。わざと下ろさないまま、横から指を入れて探っていく。よく肉のついた太ももが、福野の腰にからみつき、ぎゅっと締めてくる。

「あ……ちょ……つままないで」

「痛い?」

「んーん、大丈夫」

「すごい濡れてる」

「あ、入っ……」

 うっとりと焦点が合わない目を、腕で覆い隠す。その間にも、憑かれたように片手が空気を掻き、どうしたのかと思ったら、福野の下腹部をジーンズごしにぎゅっと掴んできた。

「ほしい……」

 彼はジーンズを下着ごと引き下ろして、そのまま握らせた。女はまるですすり泣いているような声を出した。本当に泣き出したのかと、一瞬驚いたくらいだった。

「もう?」

「ちょうだい……はやく……」

 完全に屈服しきった哀願の表情に、福野は、興奮と裏腹の、気が遠くなるほどの胸の痛みに身をよじらせる寸前だった。むきだしの神経をそのまま刺激されているかのようだった。もう少しで、叫び出したくなるところだった。同時に、いまここでこの黒須という女を抱かないと、この苦しみは永遠に自分を解放しないだろうことも、自明だった。

「福野くん、ゴム、持ってる?」

「ない」

「私ある」

 バッグから取り出し、慣れた風にするするとコンドームを根元まで下ろしていく手もとを、目に焼きつけるように見つめる、自分は早く思い知らなければならない。二人の女は途方もなく別人だ。似ても似つかない淫乱女。

 福野が力強く女を貫くと、泣き声はひときわ大きくなる。ベッド全体も揺らすごく細かい振動に合わせて。福野の汗がシーツに落ちる。手と手と絡め、顔を歪ませ、声を出さずに小さくうめく。

「きれいな顔、してるよね」

 福野は小さなバスタブに腰かけて、背中をごしごしこすってもらっていた。だいぶ気持ちも落ち着き、鏡を見ると、顔色も戻ってきた。

「言われない? 人に。私、そういう、一重の細い目が好きなの。好きな顔」

「言われたことないな」

「ふうん」

 自分ではよくわからないが、女のような顔というのならたまに言われる。このあいだの戦争中になりゆきで憲兵をやったが、背も大きくないし女のような瓜実顔だから、カーキ色に身を包んだ福野はよく仲間や上官から男装の女のようだとか色気があるとか言われたのだった。

「ねえ、私、思い出したかも。どっかで会ったってやつ。おな中じゃない? 同じクラスじゃなかった?」

「たぶん、違う。このあたり、地元じゃないから」

「どこ出身」

「どこだと思う?」

 福野は少しも表情を変えない。後ろから女が顔をのぞきこんでくる。本当はたいして質問には興味ないようで、ただ夢中といった感じで、じっと見つめている。

「唇が薄くて、きれーい」

「だりあ」

 ぽつんと言うと、彼女は目をまんまるにした。

「教えたっけ」

「請求書、落ちてた。宛名」

「まあ、かわいいっちゃかわいい名前でしょ」

 二人は泡まみれになって、ぴったりと密着しあった状態でぬるぬると肌を押しつけあい、何度もキスを交わした。明け方彼女が先に眠りに落ちた。その横で、福野はその寝顔をただ見つめて朝を待った。



 6



 選りすぐりのタカラモノどもを収容するごく狭い幾つもの小部屋は、木製の格子が据えつけられていて、中をのぞけるようになっている。だいたいは白痴だから、いつまでも途切れない甲高い笑い声や、火のついた泣き声ばかりが反響し、当初はそれはそれは気を滅入らせるコーラスであったが、やがて慣れた。あの一本ダタラは角部屋で、熊か何かの手でえぐりとられたように顔がひしゃげた側女が、身のまわりの何もかもを世話している。

 タカラモノはときおり減り、また増えたが、彼らがどこへ連れていかれ、奇跡を引き出すためにいかなる実験がおこなわれているのか、それもまた詮索の余地はなかった。

 シロフクとイヌは大樹によりかかって午睡を堪能していた。ふと目を覚ますとそばにいたはずのイヌが見当たらない。壕のむこうで点のようになった巨体が、杏の実をもいでいた。そして次に気がついたときには辺りのどこにもいない。正面には木の格子、壁一枚隔てて例の暗い監獄がある。中を覗き伺うと、あの黒い蚕が中から腕を出し、イヌの渡す果実を受け取っていた。シロフクには驚きはなかった。彼がしなければシロフクがしていたかもしれないとも思った。そうすると不思議と、まるで自らの手から手へと彼女に果実を差し入れてやっている錯覚すら抱くのだった。

 繭の中の姫が見せた手や腕は、小鳥の足のように細く、あの女はおそらく誰が想像するよりずっと幼いに違いなかった。明らかに、明らかに彼女は他の同じ立場の誰よりもきわだって彼らの同情をかきたてた、それは何故か?

 シロフクが唐突に思い出したのは古代ペルシャ語のpairidaeza パエリダイザという単語だった。豊作祈願のために帝王自らが狩猟を行う儀式があり、王家はスケープゴートたちを儀式のためだけに飼っていた。哀れな犠牲獣の棲む地はしかし、潤沢な水と自然に恵まれ、果樹園や植物園すら併設されていた……『囲まれた地』ほどの意味しかないその言葉がやがて、はっきりと宗教的なparadise楽園という単語に転じたのはそういうわけなのだった。拝火教の聖獣たちがみな首輪をつけているのは、pairidaezaの草食獣たちが首輪をつけられていたことに由来する。……皮肉と感じられずにいられるだろうか?

 シロフクは離れにある詰所に戻り、彼の数少ない私物である何冊かの書物を手にとって眺めた。少女というのは無力を体現した存在であり、それゆえ彼女らはある種の象徴となる。無垢性、無辜性、脆弱性、清廉さ、それに類するあらゆるものを一身に背負わされ、だからこそいつも無残に殺される。彼女たちは生贄なのだ。なすすべなく悲劇に襲われる少女の物語に、同じくらいになすすべなく人間は惹かれる……彼女らは永遠の犠牲獣なのだろうか? シロフクは、自分の知りようもない、少女が何もかもを仮託されられ犠牲となる、あまねくすべての物語を……すべての大陸で、すべての人類が消費していったすべての少女を思った。

 そして、彼女らとあの蚕姫は同一の存在ではないかという妄想が頭をよぎった。人々の願望の中で、あの女は繰り返し繰り返し、永遠に処刑されつづける運命にあるのではないかと。

 シロフクは床下に隠しておいた桐箱を開けたが、煙管だけあってひとつまみの葉もない。自ら売り払ったからだ。だが、自分はじきに悪習を再開させるだろう。ときどき自分は未来の何もかもを見通している気がする。これから何が起こるのか全部わかっているというような錯覚におそわれる。もう起こったこととまだ起こっていないことの何もかもが等価であり、何の区別もない。いつからこうなったのか。年をとったからだろうか。自分がいま何歳なのか、シロフクにはよく思い出せない。



 7



 朝の強烈な日差しには何もかもをしらけさせる力がある。道ゆく車に反射する光など、とくにそうだ。実も蓋もなさすぎる。現実そのもの。すべての夜が夢だったかのようだ。幻のようにくずれて消える。

 半分崩れかかった木造の二階建て。名前はトチノキ荘。入り口で内履きに履きかえる。

『あなたも夜型?』

 帰りがけ、薄目をあけただりあにそう聞かれた。

『私もだよ。仕事、夕方からだし』

 暑いからだれもが玄関も窓もあけっぱなしにしている。そうすると、福野と同じような人生のあぶれものたちが、彼とは入れ替わりに一日の始まりを迎えているのがかいま見える。

「もてるじゃないか、貴様」

 赤江、という手書きの表札。ほとんど家具のない、画面のひび割れたブラウン管のテレビしかない部屋で、ひとりで赤い革のブーツを熱心に手入れしている。女のように髪を長く垂らし、膝を立てて壁に背をあずけている。こいつはたいてい、こうやって自分のブーツをピカピカに磨いているか、女と会っているか、ライブハウスで歌っているか、しかない。何年もまともに働いておらず、そのくせいつも誰より小金を持っている。

「……お前ほどじゃない」

 高木の顔が思い浮かんだ。奴は赤江の隣の部屋に住んでいる。明日にはもっと広まっているだろう。

 そのもうひとつ隣が福野の部屋。同じくらいに何もない。本が少しとマットレス。開けっ放しの窓の外から、知らない流行歌が聞こえる。福野は下着だけになって眠る。

 夜、携帯電話が鳴って目が覚めた。

 だりあは鍵をかけていなかった。部屋に入って待っていると、男物のボクサーパンツに白い無地のキャミソールという格好で、風呂から出てきた。ブラジャーはつけていない。乳首の尖りどころか、乳輪のぷくっとした盛り上がりすら、うっすら浮き出ている。もう男女の仲なのに、何故か恥ずかしくなる。

「鍵、かけないの危ないんじゃないの」

「そう? 私、鍵なんかかけたことないよ」

「マジか……」

「私がどういう人かというと、鍵って絶対かけないし、傘も絶対ささないんだよね」

 ニコニコしながら、隣に座ってくる。場所は、ベッド。

「来てくれてありがと」

「いいや……」

 胸が大きいので、キャミが窮屈そうだった。

「二日続けてなんて、迷惑かなって思ったんだけど。でも、毎日待っててくれたんでしょ?」

「……高木、そんなことまで喋ったの」

「三日間? 四日だっけ。そんなに待っててくれるくらいなら、嫌じゃないかなって」

「まあ……嫌なわけないですよ」

「ハハッ、なんで敬語? でも、ラッキーだった。私、最近あんまり飲みにいかないの。だから、もしかしたら一生会えなかったかもね」

「そうなの? お酒、好きそうな顔してるじゃないか」

「でしょ? 私もてっきりそう思ってた。昔は、よく朝までお店に居座って飲んでた。何かが起こるのを待ってたの、夜の街でね。でも、何もなかったね。ふと、周りを見てみたらね、男も女もみんなバカヅラ下げてはしゃいでて、そんなやつばっかりでバカみたいってさめちゃったの。ロマンチックなことなんて何もなくて、ただ、暇をもてあましたバカが街じゅうにウヨウヨしてるだけ。……あっ、ごめん。お茶でも出そうか」

「あ、いいよ。俺がやる」

「ありがと。麦茶あるから」

 福野は二人ぶんの麦茶を小さなサイドテーブルに出してやった。ずいぶん散らかっている。文房具、アクセサリー、化粧品、何かの錠剤。

「まあそんなわけで、こんなとこには何もないなって。幻想が消えた。夜の街って言ったら聞こえはいいけど、カラッポじゃんって、こんなんなら家にいて本でも読んでるほうがよっぽどエキサイティングだと気づいたわけよ。で、飲みにいく回数が激減したのね」

「なるほど」

「それに私、自分が思ってるほどお酒に強くなかったから。酔うとすぐ、なんかやっちゃうの。ほら……こないだのあれみたいな」

「え? ……ああ」

 福野は照れて目を落とした。おいしそうに福野のものをしゃぶるだりあの顔が、いまでも鮮麗に思い出せた。

「だからね、本当ラッキーだよ。運がいい。どちらかというとね、福野くんより私のほうがラッキー。……あっ、私、腕の静脈浮き上がってる人好き」

 と、だりあは福野の前腕の、隆起した青筋をなぞった。麦茶のコップを持っていたから、指先が冷たくなっていて、声が出そうだった。静寂がおとずれる。妙にそわそわする。

「……あんまり、自分のことしゃべんないよね」

「よく言われる。少しずつしゃべるタイプ」

「ふーん……」

 見透かそうとするようにだりあは福野の瞳を見つめる。

「なにやってる人か、あててあげようか」

「うん」

「やくざでしょ」

 笑ってしまった。

「はじめて言われた。どうして?」

「修羅場くぐってきた顔してる。あと、時々なんか、すごい冷たい目になるよね」

「本当?」

「うん。でも、嫌じゃないよ」

 お互いに体を寄せると、だりあのあらわな肌に視線が離せなくなる。

「もっと見て」

 と、耳元で。

 福野は乱暴にだりあの肩紐を引き下ろし、胸乳にむしゃぶりついた。勢いのあまり歯を立てても、いっそう声を高くした。

「ここ、好きだね」

「ん、す、好き」

「おっぱい、全部、性感帯? ……得だね。面積が大きいから」

 だりあは破顔した。

「やくざだと思われてるらしい」

 福野は鍋をつつきながら、仕方なくひとこと返事した。みんなどっと笑った。福野が帰ってくると、彼らはなぜか朝からもつ鍋を囲み、だらだらと汗を流しては甚平の合わせを浮かして団扇をあおぎ、扇風機に当たっていた。なかば無理やり輪に入れられた福野は、当たり前のように質問攻勢に遭ったのだった。

「似たようなものだろ」

 鷲谷が言った。

「俺もそう思った」

 だが、過去に出会った女の中には、根掘り葉掘り何もかも聞き出さないと気が済まない手合いもいた。年齢、血液型、星座、職業、雇用形態、出身地、出身校、等等。そういうのも鬱陶しいが、だりあほど何も聞いてこないのも珍しい。だから明け方、裸どうしで抱き合いながら、思わずそれを口に出していた。

「興味ないからじゃないかな」

 だりあは答えた。

「福野くんに、じゃなく。人の年齢とかに。そういうの、知っても、その人のこと何もわからないじゃない。時間がもったいないよ」

「確かにそうだ」

「こうしてるほうが、よっぽど……」

 だりあは福野の唇をなぞった。誘う顔の色っぽさに、息が止まるほど、射すくめられる。

「もっと、福野くん知りたい」

「なになに? それで、何回くらいやったの? じゅ、十回くらい……?」

 あぐらをかいた高木が、興奮して、そのままの体勢で起きあがりこぼしのようにグラグラ体を揺らす。

「バカか……」

「そんなに美人なの?」

 駒田のトサカのように逆立ったオレンジ色の髪は汗でよれよれになって、病気の鶏のようだった。

「キレイだよ。ちょっとおばさんだけどエッロい体つきだったよ。おれショックなの、ふくちゃんもそういうエロいとこあったとかさ。そんな人間じみた……」

「人間じみたって何だよ」

「確かに、福野が女とイチャついてるとこなんて、想像できねえっていうか、見たくもないっていうか」

「でしょ? おれはショックなの」

「福野ってそういうの……どれくらいぶり?」

 駒田が水を向けてくる。鷲谷を窺うが、表情を変えず、白菜を食べている。

「千年ぶりくらいじゃないの。少なくともおれは把握してないもん」

 と高木。

「はあ、お前とそんなに長いお付き合いだったとはな」

「なぁに? 冷たいの。一緒に十字軍の遠征にも行った仲じゃない。忘れたの、いとしのエルサレムちゃんの、あの、クソ遠さ」

「でも、ちょっとその女の子は見てみたい。どんくらいエロいのかに興味がある」

「何言ってんだか……」

「みんなで見にいこうよ」

「はあ?!」

「鷲谷も気になるでしょ」

「うん。ちょっと」

 福野は動揺を隠してビールをあおった。

「決まった決まった。じゃあ合コンで顔あわせだね」

「そういえば、赤江はどうしたんだ」

 と、そしらぬ顔で話題を変えた。

「赤江はハワイだよ」

「ハワイ? 比喩?」

「比喩じゃない。女といっしょだよ。連れてってもらったんだって。きのう出発してたよ」

「また女か」

「あいつ才能あるよね、その方面」

「モテる」

「モテるよ。そして女にいつも金出してもらってるじゃない。あれは才能だよ」

「単なる女好きじゃないか? 数打ちゃ当たるさ」

「ふくちゃんが人を女好き呼ばわり」

「違うよ。……一回、赤江と一緒に歩いてたんだよ、大通り。で、アイスクリーム屋かなんかに行列ができてて、おれは何の気なしに『いま、女がすごいいっぱいいたな』と通り抜きざまに言ったんだよ」

 鷲谷だけは、オチを知っているのでもう含み笑いしている。

「うん」

「そしたら、『どこに?』って言って、わざわざ引き返して見てた」

「ハハハハ」

「行列だよ。見て何の得もないだろ。そのとき俺は、こいつの女好きは病気じゃないかって思った。まあ、間接的に恩恵を受けといてどうこう言うのもあれだが」

 このアパートでテレビを持っているのは赤江だけなので、みんな何かを見るときは彼の部屋に来て見ている。そしてそのテレビは、赤江の女が買ってくれたものだった。どうしても首が回らないときには赤江に言えば用立ててくれる、ということが何度とあり、それもどういう金なのかというと女からの調達なのだった。ひどいときには、ここにいる全員が、実質、赤江のひもをやっていた時代もある。

 太陽が出ている時間に会う約束をしたのは初めてだった。ずいぶん早くに目が覚めて時間をもてあました福野は、待ち合わせの公園に早めに出かけた。都会の真ん中に突然現れる人工の緑というのは、完全に人間のための緑で、その存在が自己目的化している。このカッコ書き付きの自然を福野は今でも奇妙に思う。

 ベンチに座って、物思いにふける。心を空にして、自我がだんだん消えていくのを感じるのが好きだった。ところが、

「ママ!」

 遠くから子どもの声がして、福野は薄目を開け、なんとはなしに様子をうかがう。遠くで子どもたちが噴水ぎわで遊んでいる。少し離れたところから見守る母親の姿がある。

 その女のショートパンツから生えた、よく肉のついた長い両足から目が離せなくなる。小学校に上がるくらいかどうかという男児が、その足に抱きついて甘えている。

 福野は天を仰いで、動揺を抑えようとした。

 やがて少しずつ日が傾いていき、街が赤くなっていく。一台の車が公園沿いに乗りつけてきて、母親は子どもを助手席に乗せ、手を振って見送る。運転手の顔は見えなかった。母親は腕時計を見て、ぶらぶらと歩き出し、やがて福野を見つける。

 福野はまんじりともせず、その肩や腕、腿の上などに、公園に棲む無数の鳩が止まり、だりあと落ち合ったときに軽く背伸びしても、鳩たちは飛び立とうともしないのだった。その光景を見てだりあが口にした第一声が、

「気持ち悪っ!!」

 だった。

 かと思うと、横長のベンチを占領する鳩の一匹か二匹を福野がちょいちょいとつつくと、彼らはいっせいに去っていく。

「すごいね。なに? それ。手品? 魔法?」

「……みたいなものかな」

 だりあは福野の隣に座る。一瞬、福野は、見たことを黙っていようかと逡巡したが、様子がおかしいことに気づいたのか、先に言われた。

「フフッ。見た?」

「……うん。ちょっと、びっくりした」

「ああやって、たまに会うの。でも、もう自分の子どもって感じしないね。他人。たぶん、だんだん会わなくなると思う」

「そう……実の子?」

「うん」

「その……正直、とても子ども生んだとは……思えないような……」

「へっ。それ、エロい意味で?」

 だりあの髪がさらさらと風になびく。笑うと顔が幼くなり、表情だけだと、つまらないことにはしゃぐ高校生のようにすら見える。

「ひいた?」

 ニッコリ笑って。

「いや、驚いただけ……。……いつ、離婚したの?」

「ずいぶん昔のことみたいに思えるね」

「そう。大変だった?」

「まあね。私が思ったのは、なんで人間って、変わらないものを求めちゃうのかなってこと。世の中、ずっと変わらないものって、そうそうないでしょ? 自分だって、そうなのに。でも、他人には、いつまでも変わらないことを期待するし、そう求めちゃうよね」

「だからこそじゃない? ないものだから欲しい」

「そうかもね。ふふ……。福野くんは子ども、欲しいと思ったことある?」

「考えたことないな。周りがみんな独身だから、考えるきっかけもない」

「そう」

「それに、俺、作れない体かも」

「ふうん。まあ、関係ないっちゃないよね。作れなくても、持てるは持てるよね。よく知らないけど。……何、食べたい?」

「……て。てんぷら」

「てんぷらね」

 そういうわけで、次々と揚がってくるてんぷらを食べながら、ビールと日本酒を飲んだ結果、福野は近年なかなかないほどあからさまな千鳥足になった。だりあは笑い転げながら勘定を半分払っていた。アパートに入るなりベッドに押し倒されても、まだ、おもしろそうに笑っていた。

「そんなに酔ってて、セックスできるの?」

 しかし、しつこく首筋を吸われるうちに、語尾が甘く引き伸ばされていく。

「できるよ」

「あ……」

 だりあの手首をつかんで自分のを触らせると、だりあは頬を緩め、うっとりとそれを握り締めた。

「福野くん、すっごい」

「そう?」

「うん。すごいよ。福野くん、いなくならないでね」

 意図をはかりかねて、福野は口ごもった。

「だって、簡単に知り合って、簡単にセックスした人って、すぐ消えちゃわない?」

「それは、そうかもしれない」

「福野くんは消えないでね」

「消えないよ」

 だりあはキャッキャと喜んだ。遊び慣れている女らしい言葉だと思った。軽い気持ちの口説き文句にも聞こえるが、あるいは切実さを押し隠して冗談めかしているのか、よくわからない。だりあはそういうつかみどころがない女だった。それが福野を燃えさせた。痛いほどにだりあの手首を掴みあげて抵抗を封じながら、膨らみをまさぐり、服を剥ぎ取り、曲線という曲線に舌を這わせ、時には歯も立てた。だりあは悲鳴を上げながらも、びくびくと腰を痙攣させ、福野に下着を下ろされたときには、案の定、女の匂いを溢れさせていた。青く萌える若草にも似た、生命そのものの匂い。自分を包み込むだりあの熱さとやわらかさに、芯からとろけるほどの満足感を覚えて福野は震えた。それを隠すように、福野はことさらに乱暴に、かつ機械的に腰を揺らし、だりあが泣き出すくらいに激しく交わった。

 気をやると、福野は急に弱気になって、ぐったりしているだりあを優しく抱き寄せて、涙を拭いてやったりした。セックスの最中とは別の意味で胸がどきどきした。目が合う。

「……大丈夫?」

「大丈夫」

 初々しい恋人同士のように、舌を使わず唇だけ重ねてくる。福野もほとんど口を動かさないで、目を閉じて、感触だけに没頭する。世界が消える。福野の携帯電話が鳴って、静寂を引き裂く。

「……何?」

 しかたなしに出る。だりあはニヤニヤしている。

「へへっ。邪魔した?」

「いいや」

 高木の声の調子からして、下らない用件だと見当がつく。

「駒田がついに親知らず抜くの知ってるだろ」

「うん」

「明日なんだよ。それに合わせてカタイものパーティーやるの」

「はあ」

 ピンポンと呼び鈴がなる。こんな夜遅くに何だろう。だりあが、壁にかかっていたたらんとしたワンピースを頭からかぶって着て、出ていく。

「日ごろの恨みを晴らすときだよ。ウマイもん集めるぞ。ノルマは一人最低一品。硬くなくても、まぁおいしかったら何でもいいよ。本人の前でうまそうに食うのが肝腎だから」

「相変わらず性格悪いことはいくらでも思いつくな」

「こういうののために生きてるようなもんだよ。ふくちゃん、今、カノジョとホテル?」

「ホテルじゃない。……の家」

「ふくちゃんは女泣かせだね」

 扉一枚隔てた玄関から話し声が聞こえてくる。自然と福野は声を低くし、耳をすましてしまう。男の声だった。

「……どちらかというと、俺が泣くかもしれない」

「ダャッハッハッハッハ……そうかもね。まっ、どっちにしたって、人間ってのはさあ……、まあ、いいや。……みんな心配してる」

 ふと、高木は真面目めかした声色になる。

「わかってる。大丈夫だ。俺の問題だ」

「そうか」

「切るぞ」

「ああ」

 福野は散らばった衣服を集め、下着とジーンズを穿いた。まだ何か話している。誰だろう。突然に間男のような気分になって、きまりが悪いし、落ち着かないことこの上ない。ベッドの上に所在なく腰かけているうち、ドアが開いた。

「おまたせ」

「……うん」

「電話、あのバーテンの人? たか……」

「えっ……、ああ、そう。高木」

「用事? もう帰っちゃう?」

「いや、そうじゃない」

 高木の電話の内容をそのまま福野が伝えるのを、だりあはごろんとベッドに横になって聞いて、やがて吹き出した。

「高木さん、面白いね」

「まあ、そういうやつばかりなんだよ、俺の周りは。人を食ったようなというか……」

 おかげで、訪問者のことを完全に訊きはぐれたというわけだった。

「私は好きだよ。冗談キツイ人。気が合うかも」

「でも、そういうのってエスカレートするだろ。長いこと一緒にいると、どんどん過激になってって、何が面白いのかわかんなくなってくるっていうか……」

「過激さがインフレしてくんのね」

「やりすぎになってくんだよ。冗談行き過ぎて、お互い、本気で怒ってケンカしたり仲間割れとか、何度もある」

「ひゃっはっはっはっは」

「ひどいときには、お前のギャグのセンスが気に入らないとかで大ゲンカとか……大の大人が……マジで勘弁してほしい」

「福野くんも、キレたりキレられたりとかあるの?」

「……そんなに我を忘れて怒ったりすることは、俺はないけど」

「ふうん。男同士のケンカってさあ……やっぱさぁ、殴り合いとかなるの? ならないか」

 福野は少し考えて、

「そんなの、普通はそうそうないよ、って思ったけど、ずっと前に一回あった」

「ハハハ! ほんとに」

「殴り合いっていうか、俺が一方的にボコボコにされただけなんだけど。きっかけが……まぁ……色々あって。相手は高木じゃないんだけど、あれは……正直、死ぬかと思った」

「え、そんなにバッキバキにやられたの」

「うん。あんときは、あっ俺死ぬわ、って思った。でも、相手は、まぁ、親友って言えるぐらいの奴だったし、俺が悪かったわけじゃないけど、いや少しは悪かったのかな、まあ、気の済むまでやらせてやろうと思って」

「それで丸くおさまったの」

「……一応。今でも、変わらず付き合ってるし、まあ、辛うじてというか……」

「ホント? よかったぁ」

 会話が途切れて、福野はもういちど逡巡し、結局、慎重に言葉を選びながら、

「さっき、大丈夫だった?」

「うん? さっきって? ん、ああ。別に」

「……ちょっと心配した」

「近くに住んでるヤツなの。友達で。たまに、ああやって酔っ払って家に来るの。こまっちゃうよね」

「そう……。友達なんだ」

「うん。まぁ、セックスもするけど」

 その物言いに、何もかも通り越して、福野は笑ってしまった。

「正直だね」

「いやぁ、隠したってしょうがないし」

「そういう相手、……って、まだいるの? いま」

「いなくはないよ。定期的にとかじゃないけど、お互い気が向いたら……」

「そう……」

「ふっ。やになった? こんなビッチ」

 福野はどういう顔をしていいのかいまいちわからず、変な笑顔になる。

「いや、そんなわけじゃないが。……自由だな、と思って」

「うーん、逆じゃない? 不自由だからこんな風でしかいられないんじゃない? 逆にさ。そういうの、よく言われるから、いつも思うんだけど。本当に自由だったら、何かに突き動かされるように、おいたてられるように、いつも男を求める必要なんかないわけだから」

「それはまあ、そうかも……、ごめん……なんか俺、聞き出し過ぎたかな」

「え、何、何? 急に」

「だって、こいつ、急に彼氏ヅラしてきたとか思われて、ウザがられたら、嫌じゃん……」

「えー?! ハハハハハ。考えすぎ。ハハハハ」

「……なら、よかった」

 だりあが床にちらばった福野と自分の服を集めて拾い上げるとき、小さな白い羽根がどこかにくっついていたのか、彼女の手からこぼれて落ちた。

「鳩のかな。公園の」

「うん」

「……鳥よりは人間のほうが自由だよね」

 福野は息を止め、表情を変えず、目だけを動かしてだりあをうかがった。

「鳥になりたいって、紋きり型でよく言うけど、あいつら、人間よりバカじゃん。人間のほうが、マシだよね。翼を持ったぐらいで自由にはなれるほど、おめでたくないわ」

 福野は答えなかった。



 8



 シロフクは昂ぶった言い争いの声で目を覚ました。日が落ちて詰所に早出の連中が戻ってきたのだった。

「目立つようなことはするなと言ってるんだ」

 言い争いと言っても、ハクという符牒で呼ばれる巨漢が、能面を上げ、一方的にイヌを責めていて、ときたまヨダがハクを宥めるだけで、イヌ本人は何を考えているのか、黙りこくっているだけだった。

「もしあいつらを敵に回すと、どうなるかわからん。結束が硬く、頭もそうだ……クニじゅうに一派が身を潜めてる……怒らせたら、お前自身でなく、俺たちの身も危なくなる」

 シロフクは布団から起きだして、様子を伺いつつも、囲炉裏の天から下がる自在鉤にかかった鉄瓶を取り、直接水を飲み、そこがハクの目に留まった。

「お前も言ってくれ。お前の言うことなら、こいつも聞くだろう」

 仲間うちだというにイヌは鬼面も上げぬまま、むっつりと黙り込み、やがて詰所を出ていった。あの蚕姫の話だとだいたい見当はついた。見回りの際に何か口をきいているのを、最近とみに見かけるのだ。

「気にするな」

 イヌは詰所のそばで、何をするわけでもなくボンヤリと突っ立っていた。

「皆、気が立っているんだ」

「また、新しいのを調達する仕事だ」

「タカラモノか」

「うんざりだ」

「……今少しの辛抱だ。金を受け取ったら、仕事は終わりだ」

 二人はぶらぶらと辺りを漫歩したが、お互いに押し黙ったままだから、時間が経つのがやけに遅く感じた。

 翌朝シロフクは日に二回の食事の一回目の配膳で座敷牢に来た。いつもは芋粥の入った皿を床に置いているのだが、どういうわけかその日は、木格子に腕を通して、黒い蚕の鼻先に直接皿を差し出していて、というのもいつか、イヌがそうやって果実を手渡していたのを見たからだった。

 蚕の胴が割れて、少女らしい、紅葉のような小さな手があらわれ、黒と白とのはっとするような落差、皿を受け取った瞬間、布の隙間から視線がこぼれ、目が合う。痩せて眼窩は落ち窪み、非人間なほど大きくなった瞳は冬の空のようにどんよりと雲がかかっていて、栄養不足のせいか黄色っぽく濁って見える。

「イヌは?」

 驚いて皿を取り落としそうになる。というのも、女の声は小さく、かすれて、それでいて耳に唇をつけて囁かれたようにくっきりと聞き取れたのだ。

「きょうは、非番だ」

 なんとかシロフクは答えた。それきり何もなかった。まるで甘い愛の言葉にも似た、官能的な声色、湿度を含んだその囁きは、シロフクがその日床に就くまで重たく感触を引きずり続けた。聖者が天を指で差し示すように上を向いた女の足、その指が、ぴくりと一度二度動く幻視が寝入り鼻に訪れた。彼女は何ものなのかはシロフクに窺い知れることではない、一つ間違いなくこれだけは言えるのが、あの女は望む望まないに関わらず、見出され、選ばれてしまったということだ。

 誰に?



 9



 恋人同士のように手をつないでいた。

 夜の帷が落ちようとしている。福野の友人たちにはこの時間帯を嫌う者は多い。死を連想させるのだそうだ。福野はまったく逆に感じる。夜型に生まれついたから。

 郊外の森林公園の片隅で、二人は長いこと広大な芝生の上をぶらぶらと散歩していた。ここに来たがったのはだりあのほうだった。

 靴を脱いで裸足になり、草と土の感触を足裏で味わうのは、天然の大自然ではともかく、都会の中では、背徳的とすら言える快楽があった。ただそれは、カップラーメンのようにお手軽な背徳感ではある。だりあは草の上に腰を下ろし、足を投げ出した。なだらかな丘だった。だりあの視線の先には遠くサツキの花壇があった。

「物心つくかつかないかのころから、大人みんなから、ほらお花よ、きれい、きれいって、ずーっと言われつづけるでしょ。……女だけかな」

 福野はだりあの姿勢をまねて横にすわった。

「だから、きれいって感じる暇がなかった。きれいって感じないといけないものって、先に刷り込まれたから。お花はきれい、虫は気持ち悪い、そういうもの。最近になって、やっと、少しずつ、花がきれいだと思えるようになってきた。本心から。今まで気づかなかった」

「わかる気がするよ」

「……奪われたものを取り戻す旅? って思ってたけど、よく考えたら、最初から何も持ってないんだから、奪われたわけじゃないのね。持ってるものを捨てる旅。人生」

「指輪を捨てに火山まで?」

「そう。指輪を捨てにいく旅。捨てなきゃいけないけど、でもその指輪は、自分自身でもあるの」

 だりあは福野の髪の毛をなでた。襟足が伸びてきている。散髪に行かなくてはいけない。

「福野くんにも、そういうの、ある?」

「きっと、あるんだと思う」

「そう」

「わからない。もう、自分のことが。……笑わないでくれるかな。最近、よく思うんだ、俺は長く生きすぎたって気持ちになる。あちこちが擦り切れて、……使い物にならないのに、まだ動いてる」

「笑わないよ。私もそんな気になるときあるもん。大丈夫?」

「襤褸切れみたいになって、まだ、生きながらえてる、……何の意味もなく、何のために生まれてきたのか、俺は何者なのか……手足が腐って、崩れ落ちてるのに、歩き続けなければいけない、生ける屍みたいに。何のためにだ」

 さすがのだりあもやや面食らったようだった。力なくうずくまりかける福野の肩をだりあはしっかりと抱き、懐に彼を招き入れる。

「平気? 気持ち悪い? 横になろうか」

 寝転がると、むせかえるような夏の土の匂いが福野を包む。一本の大きな木がなんとはなしに目にとまる。おそらくケヤキだ。

「よく、同じ夢を見るってことある?」

「おなじ? ない。同じって、まったく同じ?」

「同じなのは、いまの自分が、自分でなく、自分の残骸でしかないと思わされるところだ。俺はあのときに一度死んだのかもしれない」

「ん、じゃあ、つまり、過去にあったことを、夢に見るの?」

「本当にあった出来事なのかも曖昧になってきたよ。ひとりの人間の連続性を誰が保証できる? あれはまだ事実なのか、もう、そうでなくなったのか、俺の中の時間は本当に連続しているのか……あまりにも、歩き続けて、……」

 だりあが、何も言わず、じっと福野の二の句を待っている。

「……俺の言ってることが、わからないだろう」

 いつになく乾いた福野の声色に、だりあは、身をこわばらせているようだった。福野は樹木ばかり見て、彼女のほうを見ない。一陣の風が葉を揺らす。

「少しだったら、わかるよ」

「いいや、人間の脳は、無限というものを本当には理解できるようには作られていない。人間の手では無限にひと触れもできない」

「福野くんは違うの?」

「垣間見ただけでも、呑み込まれそうだ。だから、いつも、気持ちが張り詰めてる……俺はもう疲れきった。疲れたんだよ。俺は何者なんだ? 何のために生きてる? どうしてこんな罰を受けてる? 何の咎で? 何もかも……どこから来たのかも、どこへ行けばいいのかも……」

「しゃべらなくていいんだよ。落ち着いて。ね。私、ここにいるよ」

 土の匂いは、懐かしさよりも、心の奥底の激情を、熱い静けさを喚起した。横抱きに密着してきただりあの感触は、悲しいほど絶対的な安寧を与える、福野は震える、だりあを見て。だりあは聡く、敏感な女だ、だりあの顔を見れば見るほど、福野の中の何かが少しずつ死んでいくことぐらい、わかっているのだ。福野は何度も何度も、繰り返し死ぬ。

「今ね、ちょっとだけ、はじめて福野くんが怖いって思ったけど、そんなこと、ないね。福野くんのほうが、怖いんだね」

「だりあ、」

 言ったきり、呪いにかけられたかのように、言葉が続かない。

「いいよ。……もう何も考えないでもいいよ。なんか、福野くん、今にも、消えちゃいそうになってる、無理しないで」

 はるか昔の情動が、自分自身が、闇の向こうで、振り返って福野を見る。それは無数にひきのばされ、複製され、同時に何人もの福野が、肩越しに福野を見やっているのだった。福野はだりあを腕に抱く。だりあは大地そのもののように、力強く、確かに存在し、福野はかつて、思い出せないほど遠い昔、大地を二本の足で踏みしめて歩くことを熱望したはずであるのを不意に思い出した。目に映るすべてのものが自分に流入してきては、自分もまた世界に流出していく、空が、星が、土が、草が、だりあの大きな瞳が、逞しい老樹が、境界をなくし、福野との区別を失っていく。がっしりと地を掴むむきだしの巨大な木の根の、無骨な木肌を幻の指でなぞる。それ以上は何も思い出せない。ただ一本の足のことだけ。醜くねじれ、根のような。それは福野自身だった。

 だりあがいとしげに福野の顔に手をすべらせる。つめたい指先が、首すじに、鎖骨に、胸に。表情を見ながら、ゆっくりと顔を近づけて、唇と唇を重ねる。そのときだりあは、ただ一瞬だが、確かに福野の無限に触れた。だりあは福野の胸に抱かれ、長いあいだ、目をひらいたままじっとしていた、二人とも。やがて福野のほうが先に身を起こし、だりあの手を握って帰路へとついた。

 それからの福野は、二度と普段と違う様子は見せなかった。



 ∞



 地下貯蔵庫の引き戸を開けるや否や彼らを襲ったのは、およそ非日常に過ぎる異様な腐臭だったが、似たようなものなら嗅いだ経験なら人生の中で何度もあった。彼らの人生は常に人の死とともにあった。それははっきりと死の匂いだった。

 シロフクが燭をもって階段を下り、細長い地下回廊を先導したのは、この小さな燭ひとつきりでは彼以外のことごとく鳥目の男たちにはまったく見通しがきかぬからだった。そして天然の暗視のおかげで彼は壁に朽ちかけた死体が間をおかず打ちつけられているのを誰より仔細に目にすることになる。無論この凄まじい死臭や虫の数でイヌたち鳥目衆も薄々勘づかぬはずはないだろう。死体たちははしゃいで万歳するような格好でそろって手を釘打たれ、完全に蛆と蝿に覆いつくされたものから、微かながらまだ息があると思しきものまで様々だった。見覚えのある奴もいた。それは無論あの牢の中で見かけた、かたわの囚われびとの顔だった。

 廊下が終わった。どのくらい広い空間だったのか、シロフクはよく思い出せない。ただ、シロフクたちと同じように顔を隠した一団が彼らを待ち構えていた。全員が僅かも姿勢を崩さない棒立ちだったのが異常で、改めてこの信念の徒たちの狂気性を感じずにいられなかった。

「最後の仕事にとりかかろう」

 教徒の一人が言った。最初から彼らの任期は決まっていて、それはまさに今日までだった。布に包まれた大きな荷物が運ばれてきて、観念したようにシロフクが目を閉じ、ドサリと床に落ちる音、目をひらくと、予想どおり、それはあの蚕の君だった。そんな気がしていた。初めて彼女を見たときから、この瞬間のことを予測していたような気がする。裸の彼女の隣に教徒がランタンを置くと、闇の中に光が浮き上がった。白と黒。女は泣きじゃくり、体のところどころに赤く擦り剥けた抗拒のしるしがあった。視線から体を隠そうとして虫のようにのたくるが、性器より何より、女は右足を庇っていた。シロフクは初めてその萎えた足を見たが、それについては、既に述べた以上のことを思い出せない。イヌの体温、彼の憤怒が肌で感じられた。何に先立っても彼を抑える方法をまず考えなければいけなかった。

「あなた方の協力が不可欠なのだ」

 と、彼は奇妙な言い回しを使った。

「どうも何のことだかわからない。はっきり言ってもらわんと」

「わかりきっていることだが、この女は神の使いではありえない。男でないからだ」

「なら、他の意図でここまで連れてきたというわけだ」

「そう。不可思議な通力があるなら、神の使いそのものでなくても、それを呼び寄せることができるかもしれん。……われわれの口承では、かの人はある日、街じゅうの男が知る女の前に現れたという」

「街じゅうの男が知る女?」

 シロフクはすぐになにもかもを悟った。それは売春婦をさす言葉と考えて間違いない。

「あなた方の手で、この女をそうしてほしい。われわれは純潔の誓いがある」

 狂っていると思った。

「それが俺たちの最後の仕事か」

「そうだ」

「嫌だと言ったら、どうなるのだ」

 相手は少しも言葉に詰まらず、まるで予期していたかのようだった。

「夜に出歩く女と言ったら、このクニのどこでもで同じ意味をさす」

 やつらは、あの夜のことを把握していたのだ。

「しかし、われわれの調べたところでは、この女にはいまだ童貞のしるしが残っていた。どういうわけなのだ? 何のために一夜あそこから持ち出したのか。しかし、その目的などわれわれの興味の埒外だ。肝腎なのはあなた方が、仁義に悖る所業に出たということだけだ」

「おい、何だって?」

 ハクが声を上げた。

「持ち出した? この女を? なんてことを……糞、お前だな、イヌ! あれだけ言っただろう!」

「やめろ」

 ハクがイヌに掴みかかるのを、シロフクとヨダが引き剥がした。

「イヌ、お前、なんて勝手なことをしてくれたんだ」

「仲間割れする必要はない。あなたがたが順番にこの女を知れば、水に流してやってもいいと言っているんだ。この寛大な計らいをなおも固辞するというなら……われわれの同胞は、クニじゅうにいるということをじっくり知ることになる」

「固辞だって? もちろん断るわけはねえさ」

 ハクが唾を飛ばした。

「やってやるさ。そうでもなきゃ収まらねえ……こいつを抱けばいいんだろ? さんざんとばっちり食らって、それくらいの役得がなきゃ……」

「ハク」

 ずんずんと前へ出て、いまにも女の足首を掴みあげようとしていたハクの腕をシロフクが握りしめていた。ハクはぞっとして肩を落とし、きまり悪そうに後ずさった。シロフクの制止により静かで熱い殺気にはじめて気づいたのだ、ただしシロフクのものではなく、イヌのだ。

 シロフクは不意に顔を覆う能面を跳ね上げ、異教徒たちに顔を晒した。人間にはけして見せることのない素顔だった。あらわれたのが女のように白い、つるりとしたほそおもてだったことが何か余計に凄味のようなものを感じさせたのだろう、微かに彼らがたじろぐのを肌で感じた。

「神の子たちよ、俺の顔にかけて、頼みがある」

 彼は淡々と続けた。

「この女を一夜連れ出したことはお詫びする……だが、ご覧の通り、我らが一丸となって手を染めたわけではない。すべて俺ひとりが仕組み、実行した企てだ」

 恐怖で泣きじゃくる女と、そしてイヌが、それを耳にして息を呑む。

「つまり、他の奴らは完全に無関係で、何の責も負わん……この女の貞操は俺ひとりが頂く。それで充分だろう。俺がこいつを淫婦にする」

「なるほど」

 と教徒は言った。

「あなたの言い分もわからんでもない。いいだろう」

「彼らを帰してやってくれないか」

「それは譲歩しすぎだ」

 別の教徒が口を挟んだ。

「まぐわらないと言うなら、せめて、この場に立ち会うのだ。目が多ければ多いほど、女は穢れるというものだ」

 シロフクはこれ以上の交渉を諦めた。彼が女の傍らで膝をつくと、熱に浮かされたように、

「シロフク……シロフク」

 と女は声を搾り出した。もがいて逃れようとしているようだが、手足が不自然に震えるだけで身じろぎの格好にすらならない。だが外傷はなく、腱も切られていないし、骨を折られているわけでもない。髪を掴んで無理に口吸いをすると、覚えのある薬草の味を僅かに感じた。麻痺毒の草を精製させた薬を飲まされたに違いなかった。白目に浮き上がる赤い血管、驚愕の色をシロフクは自分の眼下にみとめた。

「さっさと終わらすか?」

 彼は耳に口をつけてささやいた。

「それとも、時間をかけるか、普通にまぐわうのと同じように?」

 女は痙攣じみて唇を動かしたが、それは言葉にならなかった。



 ……ヨダがおぼつかぬ足取りで丘をのぼってくる。胃の内容物をすべて吐瀉し、小川で口をゆすいで戻ってきたようだ。案外に繊細なところのある男だった。立ち尽くすハクに耳打ちして尋ねるのがかすかに聞こえた、

「まだやっているのか?」

「ああ、もうずっとだ」

 イヌはかつてなく我を失くし、悲憤が体を操縦するに任せていた。シロフクは何の抵抗もせず、ぶらんと腕を下げ、ただイヌの前で人形のように暴虐を受忍した。立てば殴られ、倒れれば鋭く蹴り飛ばされ、顔面や体のあちこちが醜く腫れ上がっても、それでも彼は立ち上がってイヌを見た。とうに痛覚は遠く、眠りに落ちる寸前のときのように目の前が白くなり、風景が霞んだ。イヌの続けざまの撃が苛烈を極めるほどに、シロフクの魂は肉体を離れ、翼を持って飛翔し、だが、行き場なしに上空を旋回し、力なく彷徨った。

「そろそろ止めたほうがいいんじゃないのかい」

 ハクが顔をゆがめた。

「いいや。気が済むまでやらせとけ」

「だが、ありゃ今にシロフクを殺すぜ」

「イヌにはそれだけはできん。相手がシロフクだからな」

「あれでも手加減してるってのか?」

「そうだ。ハク、お前は命拾いしたんだよ。あのとき奴が止めに入ってなかったら、お前は殺されてた」

「なるほどね。それでシロフクは泥をかぶったってわけか」

「そして、その役割は奴しかできなかった。感謝しな。自分を捨てて俺たちみんなを守ったんだ。奴は強いよ」

 それは違う、とシロフクは遠くかすれゆく意識の中で呟く。逆だ。誰より俺は弱い。仲間がいなければ生きていけない。それだけが俺の全てだから。独りの人生を歩いていくことなんて考えられない。だからこうするしかなかった。

 鳥たちが彼らを見ている。夜明けの薄明かりを背に、辺りじゅうの木々に留まり、彼らの様子を、じっと窺っている。



 10



 あくる朝、トチノキ荘に帰ってきた福野は、住民たちが畳の上にあぐらをかいて何かを囲んでいるのを目にする。鷲谷はいない。

「カラオケ大会で優勝、百万モニ受け取るのだぴょん」

「ハンバーグをおいしく焼けた。五十万モニ払うのだぴょん。……なんで?」

「……何やってんの?」

「あ、いいとこに来た。始まったばっかりだからふくさんも入れよ」

「人生ゲーム?」

「ミニモニ人生ゲームだぴょん」

「……お前ら、バカじゃないの? っていうか、なんで赤江もいるんだよ。ハワイはどうしたの」

「うるさいな」

 赤江の色白の肌が、かすかに日に焼けているから、行ったことは間違いないのだろう。

「やーい、成田離婚」

 と駒田。

「ハワイなどなかった」

「なんか、複雑な事情がありそうだな」

「ちょっとそこのハワイ野郎、ふくちゃんにコマとお金あげて」

「あっついでにおみやげのマカダミアナッツもね」

「マカダミアナッツなどない……」

 額に青筋に浮かせながらも、赤江はちゃんと福野にコマと手札を取ってくれた。

「これでミニモニがやっと揃ったな」

 高木が言った。福野を入れて四人になったから。

「はい、ルーレット回して」

「ふくさん、例の彼女とまだ続いてるの」

「まあ……ボチボチ……」

「みんなでケーキを食べた、百万モニ払うのだぴょん」

「それは読み上げないといけないルールでもあるの?」

「あの子の写メあるぴょんか?」

「ない。モニって、通貨?」

 とてもじゃないが、きょうも、さっきまで会っていて、駅で解散したばかりとは言い出せない。とにかく他人のうわさ話や不幸が大好きな連中だった。

「ところで、鷲谷は?」

「鷲谷? さっき出たぴょん。仕事入ったんじゃないぴょんか?」

「ついさっきだよ。どっかで擦れ違ってないぴょんか?」

「てっきりどっかで会ったかと思ってたぴょん」

 福野は胸騒ぎがした。それは収斂することなく、じわじわと彼のすべてを支配しはじめた。

「そう……あいつ、電車だっけ」

「確かそうだぴょん。福野、急に汗」

「CDがミリオンヒット、三百万モニもらうのだぴょん」

 だりあは、人と待ち合わせていると言って、時間を潰すために、ぶらぶらと、コンビニに入っていった。それが気になる。鷲谷……。高木は忘れていた。彼女を見ても何も思い出せていない。無理もないほど、昔の話だった。生きるために彼らは忘れる、時には、何もかもを。だけど、鷲谷は。彼だけは、きっと、必ず……

「どこいくんだぴょん」

 座ったばかりだが、福野は腰を上げ、部屋を飛び出していた。

「……すぐ戻るんだぴょん」

 福野はひたすら走った。背中に翼に生えそうだった。だがそれは錯覚だ。自分の重い肉体がじれったかった。本当に飛んでいきたかった。それが許されるなら。

 朝の駅前は膨大な通勤客が黒い緩流を形成している。

 頭ひとつ抜けた大男がじっと動かずに立っているため、勤め人たちの道が分かたれているのも、岩が川の流れを割るかのようだった。

 福野は顔をつたい落ちる汗をぬぐおうともしなかった。

 鷲谷の視線の先は、見ないでもわかった。

 彼は表情をなくしていた。

 そこには何の色もなかった。

 嘆きも、怒りも、悲しみも。

 いかつい大入道が自失して立ち尽くしている異様な光景も、人々は振りかえって見やることもしなかった。

 鷲谷は、けして忘れていないだろう、という福野の確信は当たっていた。

 似すぎているだりあを一目見るだけで、すべてがよみがえるに違いなかった、ちょうど福野がそうだったように。

 ゆっくりと、鷲谷は福野のほうを見た。



 11



 シロフクは、あの蚕姫との最初で最後の美しい思い出を、指先でなぞった。

 日が沈むとろくろく目も見えないはずだったが、イヌは正確だった。崖向こうの瀑布は素晴らしい見ものだったから、淵のぎりぎりまで立って、背中におぶった女が見下ろせるようにしてやっている。シロフクに背信してまでの独断行動はこれが初めてで、顔には出さぬものの、やはり内心衝撃は受けていた。滝が水面を打つ轟音で、シロフクの足音はろくに聞こえないはずだったが、イヌはけはいを察して振り向いた。

 女はもちろん、ついに黒いサナギから孵化した蝶々である。警戒するようにシロフクを見つめ返しながら、包帯の巻かれた右足を気にして、隠すようなしぐさを見せた。

 この女の素顔を見たのはこれで初めてで、それはおさな子のようにあどけなく、いやおうなく見る者にもの狂おしさを与える、だが、じろじろとながめるような無礼をシロフクは慎重に避けた。

「そいつをどうするつもりだ、イヌ」

 それはことさらにイヌを責め立てる口ぶりでも何でもなく、なぜなら、現に今夜、不寝番をつとめるシロフクは、女を連れ出すイヌに気づいていながら見咎めなかった。こうなる予期はあったし、自分も同じことをやっていたかもしれないと、ぼんやりとした諦念しか感じなかった。

「勘違いするな。今夜だけだ。逃がすわけじゃない」

「今夜だけ?」

「外の景色を見せてやりたかった。一度でも。だいたい、本人も、妙な望みは持ってない」

 シロフクはそれを聞いて安心した。最悪の事態が起こったら、同胞を守るために、イヌを追放するか、制裁を加えなければいけなくなるが、いかにも気の重い想像だった。イヌと殺しあうか、それとも同胞全員を裏切るか、選べと言われてもシロフクには無理だった。

「それにしても、わからんな」

 と、彼はぶらぶらと歩き、彼らと同じく、爆発するような激流を見下ろした。

「そこのお姫様は、見たところ、人智及ばぬ通力があるはずだ。あんな牢獄から抜け出そうとすればすぐできるだろう。なぜ、甘んじているのか……」

「同じだから」

 例の、魂に直接うったえかけてくるようなあの声で、女は答えた。

 やせて頬のこけて、死人じみた顔つきだったが、……シロフクは、この女が通常の幸福な人生を歩み、健やかに育っていたなら、どんな人相だったか、容易に想像がつく気がした。

 なんの理由もなく、ただ、女は美しかった。

「同じだと?」

「誰とも繋がれない」

 それだけ言って、女は絶句した。夜闇にはだかの左足の白さが浮き上がって、いつも以上にずっと、シロフクの目をついた。

「シロフク、勝手な行動に出たのは謝る。だがおれは……こいつが、われわれとはまったき他人とはいえんような気がするんだ」

 女は、シロフクたちが人にあらざる者の集団であることは、とっくに気づいていただろうし、だから彼らは、人間の肉体を持っていながら人間でないこの女の味わった辛苦が流れ込んでくるようで、奇妙な同情を感じざるを得なかった。シロフクはこんな場でなお、女の細い腕を首に回され、ぎゅっとしがみつかれるイヌに淡い嫉妬を覚えていた。

 けっきょく、何も答えず、シロフクは黙ってイヌたちに背を向け、その場を立ち去った。死と運命を淡々と受け入れた女の無表情は痛々しかった。

 老人のような大樹によりかかり、目を閉じて考えるのは、あの女はまだ生娘だろう、ということだ。イヌは今夜、彼女を女にしてやるだろうか? だから急にこの場にいてはいけない気がして、去るしかできなかったのだ。それが下世話な邪推にすぎなかったのは、まもなく知ることになる。この夜、イヌが女を連れ出して、そのあとすぐ……あの運命の時間が訪れた。無限に続く地獄の夜、気の狂った信徒は言った、彼女はいまだにおとめであったと。そうでなかったのなら、……イヌが先にこの姫を抱いてやっていたなら、彼らの苦しみは和らいだろうか?

 シロフクはあの足萎え姫の涙を思い出す。泣きじゃくり、シロフクがのしかかるのを懸命に抵抗した女の涙が、しかし、あれは生への執着のあかしではないかとシロフクは思った。何もかも心から諦観していたわけではなかった、ということがわかった。それは女を余計に苦しめただろうし、シロフクやイヌたちにとっても同じだった。

 このあと、この足の捩れたマグダラのマリアがどうなったのかはわからない。誰も知らない。彼らはばらばらになってしまった。二度と立ち直れないかと思われた。ただ彼らには、衝撃を忘れ、傷を癒すための時間もまた、無限に用意されていた。

 奇妙な感情なのだと思う、かの肉体を征服したのは自分であるはずなのに、いつまでも、あの日の幻影は彼の身を焦がした、つまり、自分でもよかったはずだ、あの夜、しっかりと少女を背に負うて、いっとき自由のかけらを口に含ませてやり、静かな二人だけの時間を過ごしたのは、どうしてイヌであったのだろう、と思ってやまないのだ。少女を背負ったあのイヌの姿を思い浮かべているうちに、不思議なことに、それは彼になっている。彼自身が足の萎えた女を背負って、夜闇を裂くように歩いているのが映し出されるのだ。

『重いでしょう?』

 そこは記憶の回廊であり、死の回廊である、それは永劫の行進、しっかりとしがみつく女の高い体温、心拍は速く、肉感、押しつけられる、柔らかな……他には何ひとつない、真の暗黒の中に彼らはいる。彼の慟哭は誰にも聞こえない。限りある時間しか持たない人間は、手に入らないものを追い求めているうちに死ぬ、たったひとときの火花が散って終わりだ、だが彼らの場合は、生ある限り悪夢の残滓にたびたび出会うのを余儀なくされる、過去の一切を繰り返し突きつけられる。生身の亡霊すら現れえる、いつでも……不可能など何もない。これだけの時間があれば、何でも手に入る、どこへでも行ける、誰にでもなれる。だが、誰にでもなれるのは、誰にもなれないのと一緒だ。

『やせがまんしちゃって。カッコつけんねぇ』

 だりあの手が伸びてきて、彼に背負われたまま、片手で彼の額をぬぐう。汗だくだったから。

『カッコイイよ。福野くん』

 過去も未来も、きのうもあしたも、上も下も、左も右もない、都市の亜空間に彼らはいる、だけど、しだいにぼんやり浮かび上がってくる。腕をひろげ、手首に杭を打ち込まれている無数の死体が、芸術品のように壁じゅうにずらり、……彼らの足はみな腐り落ち、その顔は、誰にでも似ている。彼自身にも、足萎えの姫にも、だりあにも。

『あっ、次、そっち曲がって。そしたら、もうすぐ、私んち』

 これは現実であるのか? 彼は思うが、なんの意味もない疑問だった。夢と物質界のあわいを飛ぶ鳥の姿を彼は見る、その二つは同じものだ、起こっていないことと、起こったことの区別など、なんの意味もないのだ。いいや、それも違う、すべては同時に起こっているし、同時に存在している。


 ……すべては同時に起こっているし、同時に存在している。


 どれほど、ぼんやりと物思いにふけっていただろう。背をあずけた大樹は、ますますもってにょきにょきと成長し、トチノキ荘という一戸の古びたアパートになっていた。黄色く汚れたカーテンを夏の風が揺らす。ラジオから流れる歌謡曲を、ときおり人の声や表を走る車の音が掻き消す。

 福野は目を開け、窓の外を見た。鳥がとうに飛び去って、爪の先ほど小さくしか見えなくなり、やがて消えていく。奇妙なことに、それは一羽のイヌワシだった。

「行ったか」

 がらんとして何もない福野の部屋に、高木が入ってくる。

「ああ」

「お前は最初から、全部思い出してたんだな。忘れたなんて、嘘だったんだろう?」

 高木は責める様子でもなく、笑った。

「日が沈む前におれも行く。この街にはちょうど飽きてきたとこだしね。安息の地なんてなかなかないもんだが、さがさんわけにもいくまい」

 ヨタカ、あるいはヨダカとも呼ばれるその鳥は、窓辺に飛び乗ると、威嚇するように羽根をいっぱいに広げてみせた。褐色の羽毛は古美術品のように古びて、ところどころ擦り切れていたものの、陽を浴びて燦然と輝き、存分に風格を見せつけていた。

「おれたちはそのために生まれてきたんだからね。駒田や赤江もたぶん来る。……じゃあ、先に行くぜ」

 高木が目配せしたせいで、ドアの向こうに赤江がかくれて立ち聞きしていたのを知る。彼は立ったままお気に入りのブーツをひしと抱きかかえ、なごり惜しそうにそれに口づけし、頬ずりしてから、置き去りにした。

 その日の昼下がりから夕暮れにかけて、街のほんの握りの住民だけが、不思議な光景を目にした。まったく異なる種の鳥たち……ヨタカ、コマドリ、アカモズが、友人のように連れ立って空を飛び、この街を出ていったのだ。だが、だれもが、数秒後には見たものを忘れた。気にもとめなかったのだ。

 福野は煙草に火をつけ、ゆっくり、深く吸い込み、煙を吐いた。ラジオからは、時代遅れのフォークソングが流れている。そうして夜を待った。

 この都会で、ただの重苦しい暗幕のようになった夜空を見上げる者など、だれもいなかった。ただひとりを除いては。繋がらない電話をあきらめただりあがベランダに出るとき、ちょうど、おおよそこの地には似つかわしくない、一羽のシロフクロウが、小柄な体躯の二倍以上もある雄々しい両翼をぴんと張り、天を滑空していた。落としていった真っ白い羽根を、だりあは拾い上げた。



                                     (了)

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