管理の神

滝川零

第1話 始まりの夏


 あなた、この日本という国、世界をどう思う?

 放課後の教室で私に問いかけてきたのは一人のクラスメイトだった。

 話したこともない、いつも教室の隅にいる少女。そんな彼女から声をかけられたことも今となっては必然的なことだったのではないかと思えた。

 当時の私はこの世界に何の疑問も抱くことはなかった。

 ただ、生まれた時からこの世界が当たり前だと思っていたのだ。

 全てが決められ管理されている世界。

 私はこの世界が嫌いだった。

 私はこの世界にいることが耐えられなかった。

 私はこの世界に染まる自分が許せなかった。



 二一一八年・日本の夏。今日も私は体内に備わっているアラームで七時に目を覚まし、八時のアラームで家を出る。

「行ってきます」

 他に誰もいない自宅にそう告げ。


 同じ電車の同じ座席。隣には毎日同じ人。毎日が『同じ』尽くしの国・日本。いや、日本だけではない。『世界』か。

などと私は考えながら、腕輪型の端末から表示されるニュースを眺める。

 これといって目立つニュースもない。ただ、目のやり場がないのが寂しいのでニュースに関心があるようにしているのである。

 電車を降りた。日差しが強い。恐らく今日は暑いのだろう。私にも周りの人間にもそれは分からない。皆自分の適温だからだ。

 長袖の中年男性もいれば、薄着の女性もいる。私もノースリーブのシャツに黒いタイトスカートという夏には最適と思われる格好だ。

 最も、今の人間には気候など関係ないのだが。


『社会平等管理システム』、通称『MOG』と呼ばれるそれは、個々の幸福のため、人生を有意義に過ごせるようにと開発された管理システム。

 体内にシステムを注入することで自分の健康状態他、生活管理をしてくれる。早い話が体内にコンピュータを埋め込んだようなものだ。

 自分がいつ何を食べたか、いつ眠りについたか、いつ生殖行為を行ったかまでが中央管理局センターのメインPCに送られ、それをもとに注意勧告などを個人に送ってくる。

 気候が関係ないというのは、周りの温度に合わせて、MOGが体温を最適なものに調節してくれるからである。だから、私達は食べ物に関しても暑さ、冷たさを感じることはない。

 このシステムこそが『世界』なのだ。

 

 会社に着き、自分のデスクに座ると、今日の仕事内容が視界に表示される。これは、MOGシステムが実現した自分の眼球自身がディスプレイの役割をしてくれるものだ。

 それを確認していると、個人通話を知らせる通知が視界に表示される。

志弦しづるカノン君、第三部長室まで至急来なさい」

 私は溜め息をつきながら、重苦しく立ち上がる。足取りも重く、部長のいる部屋まで向かう。

 真正面から扉に近づくだけで、ノックが自動で行われる。これは、手で扉を叩いて痛めないための施しだ。

 随分と大げさなものだなと思っている。扉の向こうからどうぞと声がすると、ひとりでに開いた。椅子には私を呼び出した部長が座っていた。

「そこに座りたまえ」

 私は失礼しますと言い、部長の机に向かい合うように置かれている椅子に座る。

 部長は私が席に座ると同時に机にホッチキス留めされた書類を置いた。

「何か分かるかね? 君が作成したものだよ。先方からミスを指摘された。あちらは気にしていないようだったが、ウチはそうはいかん」

 私は申し訳ありませんとだけ頭を下げる。すると、部長は机を力強く叩き、

「君はまたそれか! ミスを何回も繰り返すのは君だけだ! 他の人間はこんなミスをしないぞ!」

 と一気に責め立てる。私は頭を下げたままの姿勢でいた。

「おっと、いかんいかん……」

 部長が落ち着くように深呼吸をする。恐らく、MOGから血圧上昇の注意でも受けたのだろう。そんなシステムに一々従うような上司に私が申し訳ないと思う気持ちなど、これっぽっちもない。

「これで三度目だ。もう次はないと思え」

 退室するよう言われ、部屋を出ると自分のデスクに急ぎ足で戻り、仕事にとりかかる。

 別に仕事熱心だとか、ミスをしてしまった汚名返上というつもりではない。そもそもあのミスも今までのミスもわざとしてきたのだ。この世界に対するちょっとした抵抗のつもりだ。

 早く仕事を終わらせたいのは、定時になった瞬間、この会社を出たいからだ。

 志弦カノンは至って普通の人間だ。

 ただ、最近になって他と同じく普通でいるのが嫌になってきたから仕事でミスを連発しているし、この世界を憎みながら生きている。


 昼を知らせる音楽が社内に鳴る。私は仕事に集中しすぎていたので一息ついて背もたれに体重をかける。

「カノン、お昼ご飯食べにいこう」

 デスク横の仕切り上からの女性の声。

 清江きよえセリア。中学からの私の友人で、周囲から好かれるような人気者だ。なぜ私と一緒にいるのかが不思議なほどに。

「また呼び出されてけど、大丈夫?」

「ええ、大丈夫よ。ありがとう」

 良かった、と笑顔で嬉しそうにしている彼女。喜ぶべきは心配してもらった私なのかもしれない。

 二人でよく昼食を食べにくる店にきた。いつものように料理を口に運んでいると、セリアが、ねえ、カノンと手を止めて話し始めた。

「私ね、結婚することになったの」

 その言葉に私は心の底から驚いた。セリアが誰かと交際しているような素振りはなかったためだ。相手は誰かと訊くと、少し年下の実業家の男性だそうだ。以前、仕事で知り合ってから内緒で交際していたという。教えてくれればよかったのにと言うと、ごめんねと謝る彼女。

 私は彼女の手を握る。おめでとう、セリアと本当の嬉しさを込めて言う。

 ありがとう、カノンと彼女は笑顔で言った。

 そして次に、思い出したかのようにそういえばと言う。

「カノン、明日誕生日だよね?」

 そうだっけと返し、端末のカレンダーを見ると、翌日の日付にプレゼントと思しき箱のマークがついている。

「ああ、確かに明日だったね」

「もう、自分の誕生日でしょ。お祝いに行きたいんだけど、明日は彼と会う約束があって……」

「いいわよ、そんなの。気持ちだけで嬉しいわ。彼の方を大事にしなさい」

 その後も彼女は、会社に戻り、お互いのデスクに戻る時まで申し訳なさそうにしていた。本当になぜ彼女のような優しい女性が私の友人なのか不思議だ。

 

 仕事を終えて、定時に帰る。また帰りも同じ時間の電車に同じ座席の同じく隣の人。

 家に着いた私は服を洗濯機に入れ、部屋着に着替える。

 夕飯は適当に済ませようと簡単なものを作る。

 MOGから出されるメニューはどれも私の体型維持に勤めようとしているものばかりだった。

 私はそれを無視して自分の手で調味料を調整し、味付けをしている。

 アパートの窓から夜景を眺める。すぐ側には缶に入っている“疑似アルコール飲料”を置いた。これは昔『酒』という名前で呼ばれていた。今ではそんな有害なものという考えなのか擬似的に作られたものしかない。実際これでも“酔い”という感覚を味わえるので、満足できる。

 そして、その共として本を読む。

 現代では紙の本などほとんど存在しないが、図書館に行けば借りることが出来る。

 私は仕事帰りの唯一の楽しみとして図書館に寄り、気になった本を借りる。仕事を定時で上がりたいのはこのためでもある。閉館時間までゆっくりと本を探したい。

 この読書の時間が私の楽しみだ。

 自分で言うのもなんだが、私は本をよく読む。もちろん紙の本だ。電子書籍を読むのが悪いとは思わないが、やはり紙の本にかぎる。

 私は引き込まれるようにその本を読み進め、たまに疑似アルコール飲料を口に含んだ。

 今日はこの辺りで終わろう。そう思い、本を机に置いた時だ。隣に置いてある腕輪型の端末にメッセージが入る。

 開いてみると、誰からか分からないものだった。ウイルスチェックソフトを使ったところ、何も心配はないようなので、開いてみる。


 志弦カノン様

 二三歳の誕生日をお祝いします。

 と、同時にあなたに私達『神殺かみさい』へ入団をしてもらいたく、このメッセージを送らせていただいております。

 突然このようなメッセージを送りつける無礼をお許しください。


 何これ? 何で誕生日って知ってるの? 私は古くさい迷惑メッセージかと思い、そこで読むのを止めた。気味が悪い。

 いや、偶然届いたのが誕生日の日であっただけで、いつも同じような文面で送りつけているに違いない。そう思い、時計を見ると、いつの間にか日付が変わり、誕生日になっていた。

 今日もまた仕事なので寝ることにした。



 その日もいつも通り出社した。朝からセリアと遭遇したこと以外は何も変わらない。

 今日の昼はセリアが奢ってくれるそうだ。誕生日を祝えないお詫びのようだが、私としては悪い気がしてしまう。

 

 また視界ディスプレイに表示される内容の仕事をこなす。

 ただ、今日は何か違和感がある。それは、部長が私達の部署の見回りをしているのだ。

 普段なら部長室から出ることはないようなあの人間がなぜ。

 社員の素行調査か。私はなるべく気にせず、仕事を始める。

 少しして、私の近くに部長が来た。私の横を通る時、フンと鼻をならした。

 ムカつきを覚え、眉を顰めて後ろ姿を睨む。MOGから感情調整が入り、視界に表示されるのがさらに怒りを煽る。

 すると、部長が足を止めた。

 マズい、気付かれたか? と私が思っていると、おもむろに胸ポケットから取ったボールペンを首の高さまで持ってくる。

 そして、芯の出ているそのボールペンで自分の首を横から突き刺した。

 ウッっと低く唸り、すぐ側のデスクの仕切りにもたれかかる。

 そのデスクにいた女性が悲鳴を上げると、辺りは混乱に陥った。

 私も動悸が激しくなり、息切れを起こした。呼吸を整えるようMOGからの警告とイラスト付きで描かれた方法が表示される。しかし、そんなものは見えないほどに混乱していた。

 椅子から落ちて、横になり過呼吸になりながら、腕の端末にメッセージが入り、自動で表示された。

『私達の力を証明した』

 そこで私は気を失った。


 懐かしい場所に来ている。私の部屋だ。と言っても、今住んでいる場所ではない。実家にある私の部屋だ。

 母さんはどうしているだろうか。

 父さんは仕事で無理をしているのか。そんな思いを馳せながら部屋の見回す。卒業アルバムが目に止まった。高校の時の物だ。

 クラス名簿のページを見る。私がいる。セリアや当時のクラスメイトの顔が並んでいる。懐かしい。

 その中で一人、目に留まる人物がいた。その名前を口にしようとすると、扉がノックされた。

 誰? 私が開けるとそこは清潔感の塊かと言えるほど、憎らしい白一色だ。

 気付くと、私は横たわっている。どうやら開いたのは扉ではなく、私の目蓋だったようだ。

 手の甲を額に当て、何があったかを思い出す。

 そして、あの光景を思い出した。急激な吐き気に見舞われベッドの側にあるゴミ箱に手を伸ばす。

 その時、病室の扉が開くと同時に私の名前を呼び、駆け寄って背中をさすってくれたのはセリア。あの事件のあと病院に運ばれたのだ。

 時計を見るともう夕方だ。数時間程、気を失っていたらしい。腹の中にあった朝食も全て戻してしまい空腹を感じていた。

 しかし、恐ろしいものだ。生きていると、死んだ人間のことを思い出して、戻したばかりにも関わらず、空腹を感じるのだから。

「大変だったね、カノン。これ、無理には食べなくてもいいけど……」

 セリアが栄養補給バーを渡した。食事が難しくなった老人、食事の時間も取れない人用の健康食品だ。もっとも、現代ではほとんど必要とされない。どちらかというと前者の方に食されている。

 私は汗を拭い、それに食らいつく。

 高カロリーなこの食べ物は空いている腹にはちょうどいい。

 あの後のことを訊くと、部長は死亡したそうだ。首にボールペンを突き立てた自殺。思い出すだけで気持ちが悪くなる。

私のせいなのだろうか。私がムカついた彼を睨みつけたから。

 しばらく夕日を眺めていた。

 そして、大事なことを思い出した。

「セリア、今日は彼と会うんじゃないの?」

「カノンが辛い思いをしてるのに、行けないよ、私……」

 私は本当に申し訳ない気持ちになり、彼女の頭に手を置く。

「私なら大丈夫。ほら、今だって空腹を感じるぐらいだし。だから行って」

 出来る限りの笑顔でそう言った。まだ心配そうにしていた彼女だったが、私の強がりで彼のもとに行くことを決意した。

「あ、お医者さんがセラピーを実施するから来なさいって。カノン以外にも何人か運ばれたから」

 ありがとうと言うと、彼女は病室から出て行った。

 もう一度、ベッドに横になる。そして、端末に入ったメッセージボックスを開く。新しいメッセージが入っていた。


 志弦カノン様

 昨日のメッセージは信じていただけたでしょうか? 私達の力を証明してみせました。

 まだ、お疑いでしたら、明日の正午に中央公園においでください。そこでお待ちしています。


 昨日と同じ人物だろう。私の心が読まれているような気がしてならない。

 一体何者なのか? なぜ、部長が自殺をしたのか? 疑問を解決するには明日公園に行くしかない。



 翌日、私は会社を休んだ。正確には休まされたのだ。

 セラピーに行くという嘘をつこうと思っていたのだが、会社側はもとから休んでいいという雰囲気だった。

 当然か。自分の上司の自殺を目の当たりにして翌日会社に来いなど、MOGが許さない。

 

 昨日のメッセージで指定された公園に着いた私は、噴水の周りにあるベンチに座る。あと十分ほどで正午だ。

 遊んでいた子ども達が噴水の周りに集まる。

 ここは正午になると、それを知らせる目的として、より一層水が強く吹き出すのだ。それを楽しみにしているのだろうと思い眺めていた。

 そして、正午になった瞬間。噴水の水が強く吹き出す音と子ども達の喜ぶ叫び声が同時に聞こえてくる。

 そして、反対側から私に声かかる。

「志弦カノンさん」

 私は名前を呼ばれてゆっくりと振り返る。

 そこには、長く真っ白な髪を真っ直ぐ整え、黒いワンピースを来た女性が立っていた。

「あなたは?」

「メッセージを送った者です、と言えば分かりますか?」

 私は少し身構える。

 すると、彼女は両手のひらを前に出して何も危険な物がないのを示すと、落ち着いてと短く言った。

 私はまだ少し全身に力が入ったままの状態で身構えるのだけは止めた。

「ありがとう。では、自己紹介しますね」

 女性は突然の風に揺れるスカートと髪を抑えながら、

「『神殺』の団長、亡白なしろハイネです」

 そう笑顔で言った。


 そこは薄暗い地下だった。この日本の裏側、見てはいけない部分を見ているような気分になる。

 亡白ハイネと名乗る彼女の後に続き、ゆっくりと歩みを進め、途中何度か躓くと、彼女が止まって待ってくれた。

 そして、着いたのだ。巨大な地下の街。

 先程までの薄暗さはなく、明るい。

「何なの、ここは」

 怪しい雰囲気が漂う。教科書で見たことのある『タバコ』という代物だろうか。それを口にくわえては離し、煙を吐き出すのを繰り返す男性。

 瓶に入っている、見たことのない液体を口に流し込む女性。まさかあれが『酒』というものなのか。

 いつも飲んでいる疑似アルコール飲料だったとして、顔をあんなに赤くしている人間は見たことがない。

 ここは地上と全く違う。真逆の世界だ。

「驚いた? 無理もないわね。お酒なんて今飲んでいたらすぐにMOGが体内に分解成分を流して、二度とお酒を飲もうという気分をなくす」

 ハイネが横で話し始める。

「『タバコ』なんて見つかればすぐに刑務所でセラピーに当てられて肺を取り替えられるかもしれない。あの一本で人が殺せる毒が入っているの。じゃあ、『ドラッグ』だとどうなっちゃうんだろうね」

 笑いながら嬉しそうにまた歩き始めた。その後ろを急いでついていく。やはり来るべきではなかったのだろうかという不安しか残らない。

 この地下の街はMOGから警告などないようだ。現に私の視界ディスプレイは何も表示しない。と言うか、私自身の視界になっているので、MOGが停止している証拠だ。ここは上の世界と違う。


「みんな、戻ったよ」

 ハイネについていき、街の奥にある建物まで来た。そこには同じ黒い制服のようなものを着た人達が忙しなく書類を片手に歩いたり、何やら話し合っている。

「ここは?」

 私が問うと、彼女は両手を大げさに広げて、

「ようこそ、ここが『神殺』の本部」

 とさっきから見ている嬉しそうな顔で言った。

 私が頭の整理をしていると、突然ハイネの後ろから声が聞こえる。振り返った彼女の先には一人の少年が立っていた。

「紹介するわね。彼は勇水(いさみ)カイル。カイル、彼女が例の」

「そうでしたか! 初めまして、勇水カイルです! お会いできて光栄です!」

 初対面のはずの人間に握手を迫られ動揺を隠せない。

 とりあえず、応じることにした。

「じゃあ、また後でね。カイル」

 ハイネに頭を下げる彼を置いて、再びついていく。

「あの子も……その、ここの……」

「私の一番の部下よ。可愛い顔しているでしょう?」

 声を聞くだけで機嫌がいいのが分かる。

本部の中央、そこが彼女の自室であり、団長としての部屋なのだ。

「そこに座って」

 言われるがまま腰掛ける。あの部長室を思い出す光景だ。

「あなたにメッセージを送った理由を説明するわ」

 淹れたての紅茶の入ったカップを渡される。実物を見るのは初めてだ。

「あなた、この国を――いえ、世界をどう思う?」

 紅茶に驚いていた私には、突然の質問の答えを考える余裕はなかった。なんと答えれば正解なのだろう。

「不満でしょう? あなた」

 ハイネの言葉に耳を疑った。

 いや、当たっている。毎日同じことの繰り返し。自然を知らないこの体。

 管理システムに一々従うマヌケな元上司。そんな色々なものに私は嫌気がさしていた。

「確かに……この世界には不満ばかりね……」

「でしょう? だからあなたにメッセージを送ったの」

「でも、何で私のことを知っているの? もしかしてシステムをハッキングして」

「いいえ、私は以前からあなたを知っている」

 以前から? 私はこの女性を見たことがない。今日初めて会ったばかりだ。

「聖神宣(せいじんせん)高校二年七組十五番の亡白ハイネって子は、やっぱりみんな忘れているのかしらね」

 聖神宣高校。その名前を聞いたのは五年振りぐらいだろうか。私は二年のクラスを思い出す。

 いつも教室の隅の席で誰と話すでもなく、『折り紙』という遊びをしていた少女がいた気がする。

「いた……。確かにいたわ、亡白ハイネさん……」

 いつも一人の彼女。

 誘われても断る彼女。

 紙を折って遊ぶ彼女。

 放課後に本を読む彼女。

「思い出してくれて嬉しいわ」

 そうだ。この顔を思い出した。

「久しぶりね、志弦カノンさん」

 

 一度だけ呼ばれたことがある。

 話したことがある。

「ねえ、志弦カノンさん」

 教室の隅の席でいつも一人の彼女に声をかけられたのは放課後のことだ。

「な、何?」

 私もそんなに人と関わっている訳ではないので、突然話しかけられて動揺した。

「落ち着いて」

 両手を前に出すあの仕草だ。

「あなた、この世界のことどう思う?」

 急に話しかけてきたかと思えば、訳の分からない質問に私は戸惑った。

 そもそも、あの時の私はまだMOGに管理されている世界に不満を感じるような年ではなかった。

「良い世界だと思いますけど」

 今の私なら笑い飛ばす答えだろう。

 その答えを聞いた時の彼女の表情はどうだったか覚えていない。


「あなたは確かに二年の時、同じクラスだった」

「懐かしいわね」

 あの時、理解し難い質問をしてきた彼女が私の目の前に再び立っている。

「答えは変わっていたわね」

 もう何年も前の話なだけあって、私の考え方だって変わる。大人になっているのだから。

「あなたは結局、何が言いたいの?」

 私は睨みつけるようにそう言った。

 彼女は紅茶を一口飲み、机にカップを置くと、ゆっくりと口を開く。

「この世界へ不満を持つ者は恐らく少ない。だってそうでしょ? 自分の決断を迫られることが限りなくなくなっているこの世界で生きるのは容易だから」

 私は彼女の一言にしっかり耳を傾ける。

「何もしなくても決断を下してくれる世界に私は思ったの。“亀裂”を入れてみたいって。かつてあった世界を取り戻したい」

 その部分だけ、彼女が心底楽しいというのが伝わるほどの笑顔で語っていた。

「亀裂?」

「かつての世界は協力関係を結びながらも力に差はあり、いざという時にはすぐにでも相手を切るようなことが出来る世界だった。じゃあ、今は? みんなが手をつないで楽しく平和に暮らしましょう。理想の世界を作りましょう。誰も悲しまない世界を作りましょう」

 彼女は自分の手を握り、ゆっくりと引き離していく。

「それを終わらせる亀裂を入れるの」

「そうやってそんなことを? ここは確かにMOGが反応しない。世界で数少ない、いや、唯一の場所かもしれない。でも、それを作っただけでは」

「あなたの上司はなんで死んだの?」

 部長は自殺だった。MOGに従い、決められた生き方をするあの部長が自殺をするというのがおかしかった。

「まさか……」

「彼には私達の力をあなたに見せるためのモルモットになってもらったわ」

 私は恐ろしくなった。

 まさか、彼女が殺したのか。部長が自殺するように操ったとでも言うのか。

「私達は神殺し。神を殺すとはどういうことか分かる?」

 私は首を横に振る。

「MOG。正式名称『Managment Of God』とは直訳すれば『管理の神』。私達はその神を殺すのよ」

 人々を幸福へと導く幸せなプログラム。そのための『管理の神』だ。

 私の目の前にいる彼女はそれを殺し、世界をかつての姿に戻そうと言うのだ。

「昨日あなたの上司には自殺のプログラムを流し込んだ。ハッキングをかけてね」

「じゃあ、あなたはいつでも直接手を下さずに殺すことが?」

「まだ、一人が精一杯ね。今ここの技術開発チームが大規模なハッキングプログラムの作成中なのよ」

 管理の神に介在できるハッカーなどいるのだろうか。

 創設者ぐらいにしか出来そうにないのだが。

「MOGを壊すには何が効果的?」

 ダウンさせること?

 ウイルスを流し込むこと?

 直接壊すこと?

 正解は人間を殺すことだ。管理の神は自分の行いで人間を絶対的な幸福に導いていると思っている。そんなシステムの管理している人間が死んでしまえば、コンピュータへの衝撃は相当なものだろう。

「でも、あいては機械よ?」

「人間の心理的な衝動とは違うわ。システムにエラーを起こさせるの。案外簡単でしょう?」

 口で言うのは簡単だが、まさか彼女は世界中の人間にハッキングから死ぬまでをセットで送り届ける気なのだろうか。

「それで、なぜ私なんかに勧誘を」

 一番の疑問はそれだ。

 そんな凄い考えを持ち、組織まで作り上げた彼女がなぜ?

 この世界にに飽き飽きはしているが、結局普通の生活をしている私になぜ声をかけたのか。

「あなたは私と同じだからよ、カノン」

 席を立った彼女は私の目の前に立ち、頬を優しく撫でる。

「この世界が嫌い。この世界にいるのが耐えられない。この世界のプログラムに染まるのが許せない。私と同じ気落ち」

 彼女は私と同じこの世界を嫌う者。

 セリアとの関係とはまた違った仲間なのかもしれない。


 

「あなたの入団をいつでも待っているわ。連絡はここにちょうだい」

 彼女からメッセージが送られてくる。今度からは彼女のメッセージだと分かるようにアドレスを登録しておく。

 帰りは地下街の入り口まで送ってもらった。

 なぜ、入団をすぐに希望しないのかと言うと、気持ちの整理がつかないからだ。もう少し時間がいる。


 私は駅のホームに来ていた。

「おーい、カノン。こっちこっち」

 ホームの柱に寄りかかるセリアに呼ばれて歩み寄る。

「ごめんなさい、急に呼び出して」

「いいよ、この近くで買い物してたから、それにしてもカノンから呼ばれるなんて久々だから嬉しいなあ」

 私はセリアとディナーを共にしたいと思い誘った。話したいことも少しある。

「彼とはどうだった?」

「楽しかったよ。だから、今日こそはお祝いさせてね」

 正直、あんまり誕生日のことは思い出したくないが、素直に気持ちを受け取ることにした。

 運ばれてきた料理を少し食べ進めたところで話をする。

「ねえ、セリア」

 どうしたの? と言う無邪気な笑顔のセリアに私はあの質問をした。

「この世界のことどう思う?」

 セリアにはいまいち意味が伝わっていない。それもそうだ。私だって同じようなものだった。

「好きか嫌いかってこと?」

 ええ、と私は真剣な面持ちで彼女の答えを待つ。そして、彼女が言ったのは、

「好きだよ。カノンとも一緒にいれるし、好きな人もできたから」

 彼女らしい答えだった。理想とされる回答だろう。私は作り笑いで彼女にありがとうと言った。次にハイネの話を持ちかける。

「もう一つあるんだけど、高校二年の時に同じクラスにいた亡白ハイネって子、覚えてる」

 私のその質問にセリアの動きが止まった。

 どうかした? と声をかけると、

「カノン……なんで……」

 セリアがボソボソと呟いている。

「なんで……死んだあの子の話を……」

 私はその言葉に脳がついていかなかった。


 自宅の洗面所で流れる水を見ながら私は今日のことを思い出していた。

「どういうこと?」

「その亡白さんのことは私も知っているのよ……」

「ごめんね、セリア。嫌じゃなければ私に知っている限り、彼女のことを教えてほしいの」

 セリアは言っていいのか迷っている様子だったが、やがて話し始めた。

「彼女はね、三年になった途端入院し始めたの。なんで入院しているかは分からなかったけど、その三ヶ月後に急死したって知らされたの」

 なぜ、そんなことを私は知らないのか。同じクラスメイト。同じ教室。それでいてなぜ知らないのか。

「カノン、確かその日は休んでなかったっけ? ほら、熱が出たとかで。滅多にないことだから心配してたの覚えてるよ」

「でも、私が戻ってきても知らされなかったのは何で?」

「クラスメイトが亡くなったって聞いて、他の子達の心理状態が悪くなったから、これ以上その数を増やすなんて意味のないことをしない方がいいって先生が」

 同じクラスの子が亡くなっても、心理状態の心配の方が大事とは何とも薄情な教師だなと私は思う。

 私としては教えてもらえなかった方がショックが大きい。

 セリアが涙を浮かべながら謝った。

 私も突然変なことを聞いたので謝罪する。

 そういえば、高校の時に一度だけ高熱で倒れたことがある。この時代に規則正しくしているのに熱を出すとは、と珍しがられたので覚えている。

 と、そこでメッセージが入った。

 私は蛇口を止め、メッセージを開く。


 志弦カノン様

 明日、また同じ時間にあの公園で会いましょう。待っているわ。


 ハイネからだった。ちょうどいい。

 明日確かめよう。彼女が本物の亡白ハイネか偽物のハイネの名を語る者かを。

 私は寝る前に少し借りていた本の続きを読んでから、眠りについた。



 またあの公園来ていた。

 今日は昨日と違って誰もいない。

 しばらくして正午を告げる噴水が吹き出した。

「カノン、待たせちゃってごめんなさい」

 正午きっかりに昨日と同じく表れる彼女。もしかするともうこの世にはいない彼女。

「今日はあなたの方からお話があるのね」

 私がまだ何も言っていないのになぜ分かるのかと毎回驚かされる。

「ねえ、ハイネ。私の友達、清江セリアって知ってる?」

「もちろん。皆から人気の彼女。私とあなたとまったく逆の存在の彼女」

 なんだか、ハイネと一緒に私まで空気のような扱いをされたが、今はそれよりも真相を確かめる方が先だ。

「セリアと昨日話したのよ。そしたらね、あなたが死んだ人間だって言うんだ」

 私が言い終わるのと同時に風が強く吹く。草や木が揺れる音が激しく聴こえる。

「どうなの? あなたは、亡白ハイネは死んでいるの?」

 私が強く質問すると、彼女はベンチから軽やかに立ち上がり、噴水の前まで歩く。

「この世界で死ぬってどういうこと? 心臓が止まったら? 脳が活動をやめたら? 話さなくなったら? 死ぬということには色々あるわね。じゃあ、私は何で死んだと思う?」

 振り向いた彼女の笑顔は不気味だった。やはり、セリアが言っていた通り彼女は死人だったのか。

 私は彼女の顔を直視できずに地面を見る。呼吸が荒くなりそうだった。

 すると、彼女の足が視界に映った。私は目を瞑り、見ないことにした。

 次に感じたのは彼女の温かい血の通った手の感触だった。

「私は死んでいるけど生きているのよ」

その言葉は私の頭では理解できなかったけど、何故だか“生きている”という言葉に安心感を覚えた。


「ごめんなさいね。カノンがあまりにも真剣だからおもしろくて」

 彼女はまた私をからかっていたようだ。動揺している姿を楽しまれた恥ずかしさでいっぱいだった。

「いじわるな質問して悪かったわ。理由を説明するわね」

 私はハイネに向き合うように隣に体を傾ける。

「三年に上がってすぐに入院したのは本当よ。死の病って言われて、現に心臓も止まった。その時、私は死んだと思ったの。でも、何とか戻ってきた、この世界に。ただ、その後私の体内からはMOGシステムがなくなっていたの」

 彼女は平然と語っているが、そんなことがあり得るのだろうか。

 死の間際を体験した人間からMOGがなくなるというのは聞いたことがない。世界初の出来事ではないだろうか。

 しかし、彼女が嘘をついている可能性もある。口では言えても証拠はない。

「証拠と言えるかは分からないけど、今日は暑いと思わない?」

 そうなのだろうか。確かに日は照りつけている。そこで私は気付いた。

 最適温度に調節してくれるMOGが働いているなら暑さなど感じない。彼女の額にはうっすらと汗が見える。

「じゃあ、まさか本当にMOGがない体なの?」

「信じてもらえたようでなによりだわ。だから、この世界での私は死者ってそういうことなのよ」

 MOGのない体すなわち死であるとされる世界。

「だから、生きているけど死んでいる」

「この世界では死んでいる扱いね」

 なるほど、とようやく理解がおいついた。死を体験した際にMOGは彼女を死人だと判断したのだ。

「だから、私は死人としてこの世界に亀裂を入れたいの。後は勝手に崩壊していくだけだから」

「なぜ、分かるの?」

「管理されなくなった人間達は殺し合い、奪い合うことを始める」

「あなたはそれを望んでいるの?」

「そうよ。だってそれが本来の人の性質でしょ? 他者を悲しませ、自分によりよい環境を創ろうとするのが」

 自分が自分として生きれる世界。

 システムなんかに支配されない世界。それは私が知らずのうちに理想としていた世界なのかもしれない。

 そうか、だから彼女は私を同じと言ったのか。

「ついてきてくれる?」

 目の前に差し出された手を私は取る。今日から私は世界を支配する『管理の神』と戦うのだ。


 私は再びハイネの団長室に来ていた。「ここにサインを書いてほしいの。カノンは裏切らないだろうけど、形式上仕方ないの」

 信用されていないのか等といった想いはない。ただ、紙に署名するというのが初めてのことで新鮮味があった。

「この地下ではMOGによる干渉は一切ないわ。電波が入り込まないのよ」

 システムに見られない場所。自分の考えで生きれる場所。上ではない過去の娯楽を楽しめる場所。

 私がそんなことを思っていると、団長室の扉が開き、カイルが入ってきた。手に持っていた物を私に手渡すと一礼して部屋を出た。

「私達の正装よ。カノンなら似合いそうね」

 私は来ていた服の上からその制服を会わせてみた。ノースリーブの真っ黒なシャツに短い黒のショートパンツ、ハイソックスと長い手袋。それに黒いマント。全て黒一色だ。

 なぜ、黒ばかりなのか聞くと、それは至極簡単な理由だった。

「上の世界は清潔感の塊のように“白”を基調としたものばかりでしょ。だから私達はそこに“黒”という叛逆の色を選んだの」

 管理が行き届き、健康で誰も争わない清潔感に溢れた世界に彼女は黒という存在で入り込む。

 ただ、そんな白を憎むような言い方をする彼女の髪の毛がその色をしているのには触れないでおく。

「やっぱり、カノンは似合うわね」

 実際に着替えてみると、黒の良さを少し理解できた気がする。

「今でこそ、上の世界では黒い服はあまりないけど、昔はね、黒は女性の魅力を引き立たせると言われていたの」

 彼女はなんでも昔のことを知っているような気がした。どれほどの知識を持っているのか知りたい。

「さあ、次は仲間に顔見せしないとね」

「え、でも私何も言うこと考えてない」

「何も言わなくていいわ。私が紹介するのだもの」

 それなら安心だ。

 ただ、自分で突然の自己紹介も出来ずにハイネに任せるというのが、何ともまだ情けない気分だった。

 ハイネの横に立ち、他の仲間と呼ばれた人達より高い場所にいた。

 先程まで騒いでいた人達がハイネの姿を見た瞬間、そちらに注目した。

「みんな、今日新しい仲間が加わったわ。志弦カノンよ。私達と同じ志を持つ彼女を喜んで迎え入れましょう」

 拍手がわき起こる。

 私の紹介はすぐに終わり、ハイネは忙しなくそれぞれの作業を見て回り始めた。

 私にこの組織の内部を案内するのも兼ねてだ。

 MOGプログラムに大規模なハッキングをしかける試み、ウイルスを流す方法を考え、試している部門などが主だ。

 私が連れてこられたのは、銃火器などが置かれた射撃場という場所だった。

 現代では、海外でも規制が厳しくなり、銃は人の幸福を奪う邪悪な物。

 しかし、逆にそれが人の命を救うために必要な場合にのみ使用許可が下りる。だから、ほとんど犯罪など起きないこの世界では見ることがない。

「なんで、こんなものが必要になるの?」

「世界に亀裂を入れるために必要なの。私達を相手はみすみす見逃してくれるわけない。だから、防衛のためよ」

 初めて見る銃に何だか胸の奥が踊る気がした。持ってみると重い。しかし、これが人の命を奪える道具の重さなのかと思うと、途端に軽く感じる。

「カノンにもそれを扱えるようになってほしいの」

「私が?」

「大丈夫よ。私にだって扱えるし、ちゃんと教育係も用意しているのよ」

 ハイネが一人の団員を呼ぶ。凛々しい表情に背の高い女性だ。年は私やハイネより少し上だろうか。

「紹介するわ、彼女は七瀬ユアン。あなたに戦闘の術を教える教育係よ」

「七瀬です。よろしく」

 よろしくお願いします、と握手を交わす。

「今日は顔合わせ程度で終わりにしましょう」

 また、ハイネの部屋に戻る。

「カノン、今日は上に帰って大丈夫よ。また明日からよろしくね」

「え、上に戻るの?」

「そうよ。すぐに ここに住居を移す必要はないわ。まだ上で色々なことを終わらせてないでしょう。それを片付けて希望するならここに住めるの」

 まだ上で終わらせてないこと。私の脳裏には一人の人物が浮かぶ。


***


 もとの服に着替え、制服の方は別のもらった袋に詰め込んで地上に戻ってきた。

まだ、終わらせないとダメなことがいくつかある。

「カノン、お待たせ」

 セリアが遠くから走り寄ってくる。

「待たせちゃった?」

「ううん、呼んだのは私だし。ごめんね、突然」

 セリアを何回も呼び出してしまい申し訳ないが、今日は色々と聞いておきたいことがある。

 私達は近くの川に行き、橋の上で話し始めた。

「結婚式はいつ?」

「一応、一ヶ月ちょっと先かな。まだ色々と準備があるから」

 そうだよね、と私は返しながら橋からの景色を眺める。

「カノン、また何かあった?」

 え? と言うと、彼女は心配そうな顔で私を見ていた。

「なんだか悲しそうだから。中学からの付き合い出し、もう十年近くにもなるから分かるよ」

「……うん、ちょっとね。セリアがお嫁にいっちゃうのが寂しいかな」

 私の言葉にセリアはいつまでも友達ではなく親友でいるのだからと言ってくれた。半分冗談のつもりだったが、そう言われては本当に言いたいことを打ち明けにくくなった。

「ねえ、写真撮らない?」

 突然の提案に驚く私に肩を合わせて立ち、腕の端末を高く掲げ、夜景をバックにツーショット写真を撮る。

 これが最後の思い出なのだろうか。そう思うと私は本当に涙が出そうになったが、ここはMOGが働く場所。幸福にするために作られたプログラムは私に涙を流させなかった。


 一ヶ月後。私はセリアの結婚式会場にいた。ウエディングドレス姿の彼女はとても輝いている。

 仕事には一ヶ月前に退職願いを出し、昨日が最後の出勤だった。セリアにはそのことも含めて伏せている。

「セリア、おめでとう。似合ってるよ」

「ありがとう、カノン」

 セリアは泣きながら私に抱きつく。

 MOGは彼女の涙が幸せによるうれし涙だと判断して警告を出さないのだ。

 私も彼女ほどではないが涙が流れる。 彼女から離れると、婚約者にセリアをよろしく頼むことだけを伝えて、その場を後にしようとする。

「どこに行くの、カノン?」

「ちょっと化粧直しに行くわ。すぐに戻ってくるから」

 親友である彼女に嘘をついたことで胸が痛んだ。もう二度と会えるか分からない彼女に。

 外に出ると、黒い車が停めてある。

「もういいの?」

「いいのよ、ハイネ。出してちょうだい」

 私は急ぎ足で車に乗り、ハイネが車を出すように言った。

「地上に残る意志はなかった?」

「私はこの世界を変えたい。そのためには、今のこの地上の生活を続けている訳にはいかないの」

 遠くなる式場から、新郎新婦を祝福する声が聞こえてきた。

 もちろん、その光景を、私は見ることがなかった。

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