フライデーランチ・ショー
なまけもの
1st show 再会
平日の放課後、不本意ながらも担任にいいように使われて、教室に戻ってみればもう誰もいなかった。
この学校の教室は元々広いけれど、こう静まり返っていると余計に広く感じる。夏も過ぎ去って少し赤く見える景色のせいか、妙に感傷的になり少し寂しさまで覚えた。
寂しさを紛れる為に時間を確認すると、もう結構な時間だった。
バイトの時間までは余裕はあるものの、こう普段とは違う時間まで学校に残っているとなんか損した気分になるのは俺の性根がけち臭いからなのか。
そんなくだらない焦りに従い、俺は早速帰るべくと必要な物を取る為に自分のロッカーへと赴いた。
この学校のロッカーは中学の時に使っていた小さな箱型のものではなく、本格的に鏡まで付いているやつで、教室の裏側に弱三十個が一列に並んでいる。
さすが私立というべきか、ただ少子化の影響がこんなところに出ているのかわからない。ただ仕入れ値は気になるところだ。
ロッカーを開けたついでに鏡で身だしなみを確認していた時、
「ひさしぶり」
鏡越しに映った人の姿を見て俺は目を疑った。
容姿がどうこうではなく、そこにいるはずのない人がいるせいだ。
「がふっ!?」
振り返った勢いで喉がむせたのか、言葉が上手く出なかった。
「あは、何をそんなに慌ててるの」
ちがう、慌ててるんじゃない。断じて俺は人前で慌てたりしない。これはむせたのだ。
お前の登場は予想外ではあったが、ただそれだけだ。
しかしまだ喉がむせたままで、言葉が出ない。
「……」
「今度はだんまり?そんなに無口だったかな?なんか言ってよー」
俺が口を開けないことをいいことに好き勝手に言ってくれる。これはむせたついでに乾いた唇を濡らしてるだけで、断じて緊張したのではない。
「あれ?あたしのこと忘れちゃった?」
頭を傾げながら一步一步近づいて来る彼女は堂々としていて、まるで獲物を袋小路に追い込んだ猛獣のように見えた。
俺が獲物というわけではない。ただそう見えたってだけで、俺は決してこの場で窮地になっているわけではない。
だから今度こそ俺ははっきりと言ってやった。
「忘れる訳ないだろう」
忘れられるはずがない。
「ようくん…!」
俺の名前を呼ぶ彼女は目を大きく開き、その染料をこぼしたように黄色い瞳を覗かせる。
驚いたのだろう。
猛獣は隙を見せたのだ。ならばここで言葉を止める理由はない。
だから俺は十二分に唇をぬらし、催促してくる彼女を見返し、頭に浮かんだ名前をそのまま口に出した。
「東雲、亜子」
「そうだよ、亜子だよ、ようくん」
自分の名前を呼ばれるのは嬉しいものとでも言うのか、彼女は満面の笑みで答えた。
中学生の頃、ひょんなことから知りあった彼女とは中学時代をほぼ一緒に過ごしたという程によく付き合った。詳しくは思い出したくない。ただふたりはろくでもない共通点から沸く親近感をお互いに感じ、それなりに悪くない関係を築いていた。
彼女が何も言わずに行方をくらます前までは。
その頃がざっと計算して二年くらい前だから、これは二年ぶりの再会ということになるだろう。
俺はゆっくりと彼女の姿を目に留めた。
むかし長かった亜麻色の髪は今はその姿もなく、肩までしか届かない。
少し焼けていた肌は色白くなったようで、顔は薄く化粧までしたようだ。
それに、なぜか彼女はこの学校の制服を着ている。この学校の制服はブレザーだから、セラー服だった中学時代の面影はどこにもない。
だから見違えてもおかしくはないのに、その表情や仕草がまるで変わらなく、むしろ昨日会ったような錯覚までさせた。
変わったようで、変わってない。
だからこそ俺は彼女が現れて戸惑うしかなかった。
「あのね」
東雲の目が少し潤んだ気がした。
頬はかすかに赤く染め上がり、何かを言いたげに口を開いた彼女は、恥じらうようにまたすぐ閉じる。
「……」
沈黙はそのまましばらく続き、言葉がないほど頭は回って来て、俺は改めて再会したという実感が湧いて来た。そして東雲との関係、中学時代の日常、東雲がいなくなったと知った時の事など、そんな様々な記憶が交わって思い出さまいとした感情がこみ上げてくるのを感じた。
どういうつもりだ。
そのわざとらしい、いやむしろあざといその仕草で、何を狙っている。
消えて行ったのはお前の方だ。
俺はただ呆然とその事実を受け入れただけ。
なのに今更現れて、そんな顔をして、何を言おうとしている?
「ようくん……」
潤んだ目で見上げてくるその顔には、後悔と懐古の思いがこもっているように見えた。
過ぎた日の過ちは正すことができるのだろうか。
いま彼女は過去を正そうとしているのか。
「あたし、戻って来たよ……?」
何を後悔しているのだろうか。
何を懐かしんでいるのだろうか。
もし彼女が昔たしかにあった全てを元に戻そうとするのなら、
だったら俺は彼女を受け入れることを――……
――なんてな。
意表突きから始まったこのふざけた茶番にこれ以上付き合う必要はない。
この場の真実をいま赤裸々に暴いてやろう。
「俺の金は戻って来てないがな」
「うげっ」
今までの可愛ぶった様子とは全く似合わない声を出す彼女を見て、俺はようやく東雲亜子に対する正しい態度を取ることにした。
「こうやってノコノコと現れると俺が貸した七万円を踏み倒した事実がなくなるとでも思ったか?」
そう、この女、東雲亜子は二年前、俺から七万円という当時の俺には大きすぎると言って過言ではない金額を借りては、そのまま行方をくらましたのだ。
学校にも戻って来ないと知った時には呆れて笑いも出なかった。
「いやん、なんでいきなり冷たくするの」
彼女の言葉に眉間にしわを寄せてしまう。
ふざけた態度も問題だが、何より俺の気に障るのはさっきからのあの言い方。まるで鼻の詰まった声を出す東雲の口調そのものだ。そのあざとさに鳥肌まで立つしまつ。
あまりにも似合わなさすぎたのだ。
なにせ、この女はお金欲しさ―と私怨を晴らすため―に学校の脱衣室を盗撮しようとしたやつなのだ。女だから警戒されないと言っていたのを覚えている。
「二年の間に鼻炎でもこじらせのたのかよ」
「ええーなにそれひっどーい!」
果てしなくうざったいたらない。
からかってるつもりなのか、それとも俺の気を紛らわせるつもりなのか。しかしそのどちらでもあっても、どっちもだとしても、東雲の思う通りには進むまい。
煮え湯を飲まされるのは一回で十分だ。
ロッカーを閉じて、正面から東雲を受けて立つ。
「いまさらなんの用だ。金を返しに来たのか?」
「……やっぱその話?他にもっと聞きたいことあるんじゃ?」
この話だけは気が引けるのか、彼女のテンションはさっきにくらべ相当下がり、再会してようやく俺は東雲の素の声を聞けた。
「七万円以上に重要なことがあるのか?」
なぜお前がこの場所にいるのかとか、なんでこの学校の制服を着ているのかとか、いつ戻ったのか、どこで何してたのかなど、この際どうでもいい話だ。
そんなのは上京した仲の良かった地元の友達のようにソフティな間柄でするものだ。
俺達の関係は、
「つれね―男だね、あたし達の仲なのに―」
「債務関係だろ」
至ってハードでドライである。
「それだけ?昔はもっとドロドロでヌルヌルな関係だったと思うけどね―」
それを取り出すか。
ああ、認めよう。過去に親密な仲であったことは否定しない。
中学生なのだ。身近な女の子に発情して何が悪い。
だから中学生には大きすぎる七万円という金額を彼女に貸したことも一定部分はその関係に起因する。だが金を貸したのはそんな愚かな劣情だけの問題ではない。当時のこいつの事情は金を貸すに値する状態だったのだ。
その状態はいまさら思い出すほどいい話ではない。俺が言えるのはお互い恵まれたとは言えない育ちだったからこそ、俺はその事情を踏まえて金を貸したという事だ。
まあ踏み倒されるとまでは考えが及ばなかったけど。
「そんな湿気はとっくの昔に干からびってるよ。お前とする話は金があるかどうかだけだ」
「今はない!」
胸を張って主張するその姿を見て思うのはひとつしかない。
……少しは胸が成長したのか。
いや違うこれじゃない。
「だったらお前とする話はない。じゃあな」
正直に言って、今更金が貰えると思ってはいない。
予想だにしなかった東雲の登場には驚きを禁じ得なかったが、元々忘れていた債権だ。
捨てたとまでは言わないが、上がる気配がまったくしない上場廃止寸前の不良株と同じくらいのものだ。
ならば、俺が東雲とこれ以上関わりを持つ必要もない。大体、長い期間ご無沙汰だった人間がいきなり戻ってくる理由の大半はろくなものではない。
「ちょっと待て!」
帰ろうとする俺の前を立ちはだかる東雲。
彼女に対する無言の抗議として精一杯うんざりした顔を見せるが、東雲はまったくもって介さず、力強く自分の話を言い出した。
「あたしとラジオをやろ」
やはり東雲の話はろくなものではなかった。
ラジオをやるって、こいつは何を言っているのだろうと少し考えてしまったが、考えるまでもない戯れ言だった。
「がんばれよ」
「一緒にな!」
軽く流して横を通り抜けようしたが、素早くブロックされた。
「……どういうつもりだ」
右に左に華麗に避けようとも東雲の奴はなかなかしぶとく、うまくかわせない。
「お金返すから!この話聞けばわかるから!実はいい考えがあるんだよ」
どこかで、主に金に困ったダメ人間の口からよく聞けるようなセリフに俺は心底ため息をついた。この年にてこんなセリフを言わざるを得ないその生い立ちを可憐に思うべきなのだろうか。
「ちょっとだけ、先っちょだけ!」
ちなみにこの女は下ネタもまったく気にしない。
「はあ……」
ここで話を聞く義理はまったくないし、昔のよしみなどでバカをやっちまうヘマはもうしないつもりでいるが、精一杯すがりついてくるその姿と、徐ろに寄せてくる胸の感触が―いやこれは違う。とにかく犬のようにせがんで来る姿は、ほんの少しだけ、昨日切った小指の爪くらいに同情の余地がないわけでもない。
何故なら東雲の昔はこれほどでもなかったのだから。
ふざけてることはあっても、時々冷めてる顔を見せてクールとまでも思える女の子だったのに。
その変わり様に少しの寂しさも覚える。
俺はそっと横を向いてを時計を見たが、やはりバイトまではまだ時間があった。
「……話だけ聞いてやる。十分だ。それ以上はない」
俺にしては寛容過ぎる措置だったが、しつこい東雲を考えたら話だけで帰ってもらうのは効率的と言えなくもない。
「あ、そんなにはいらないかな」
くそ、寛容を見せた途端これだ。
俺が静に身を震わせることをまったく気にしない東雲は、すがりつく事をやめて得意気な顔で話を始めた。
「あたしの夢が芸能人だっていうの覚えてる?」
「……まあ」
たしか、勝手にちやほやされて届いてくるプレゼントで食事を解決したいという、頭が緩いながらもちょっと切ない理由だったか。
「あたし思ったのさ。ラジオ番組が最近熱いなって」
「お前はこの二年どの時代に行ってきたんだ」
俺が知る限りそんな熱気などどこにもない。
「あついよーようくんは興味がないだけだよ」
「そうかよ」
その通り、あまり興味もないけど。
だが一般人に伝わらないブームってたかが知れてるじゃないか。
「で、また熱いのが高校の部活を題材にした番組でさ、芸能人達が一緒に部活やって最後にはいい話にまとめる奴があるのよ。……あたしピンと来てしまったわけ」
あまりの頭の緩さにこっちぞっとしてしまったが、まあそんなことは一旦置いとくとしてだ。
「まさか番組に出るというのか?」
「実は既に申請してあるよ」
「まだ部活も始めてもないのにか?!」
「まあ落ちたけどさ」
「おま――……それで?」
相変わらずの行動力というか、行動してから考える、いや行動して何も考えないその破格的な生き方につい勢い余って突っ込んでしまうところだったが、ここで突っ込んだら限りがない。大体俺は突っ込みキャラじゃない。
東雲のそんな俺の苦労など知るはずもなく、しれっと流して話を続けた。
「まあだから今からぼちぼちやって人気になったらあそこから話来るかもだし、そうなったらあたしのギャラやるよ。どう?いい話じゃん?」
こんな素晴らしい話は他にないとでもいう勢いで俺の手を握って来る東雲。
いいのはその妄想の都合だけだ。
計画性はまったくない運頼みの妄想。
そんな妄想にはいそうですと頷くとでも思ったのか。
「俺にはうやむやになる未来しか見えんな」
「もっと想像力働かせてみれば?」
こっちの想像力が足りないのが悪いと、可哀想な物を見る目をして来る東雲。
むかつくなこいつ。
だいたい想像力働かせた時点でダメになる可能性が広がるだけだ。
ぼちぼちやって人気が出るわけもないし、人気が出たとして番組側から連絡がくる保証もない。そしてなにより、部活の学生たちにギャラが出るのか?
あまりの無計画性に突っ込みどころがまとまらないくらいだ。
そんなんでなぜその話で俺が乗ると思ったのか。大体自分の計画に誘う時に――
「あれ?ようくん、親指から血出てるよ?」
「……なに?」
「ありゃ、今日はハンカチないや。これで拭いて」
そう言った東雲はポケットから紙切れのような物を取り出して俺の指を包むように拭いた。
たしかにそこには赤い液体がにじみ出ていた。
痛みはなかったのだが、いつ切れたんだ。
東雲はその柔らかい手で丁寧に俺の指を拭い、紙を自分のポケットにしまった。大きく切れてはなかったのか、それだけで血はもう止まったようだ。
「はい、終わり」
「……うむ」
東雲はなんか恥ずかしそうに顔をそらし、俺もそれ以上の言葉が出なかった。
丁寧な東雲の手つきに戸惑い、うまく返事が出来なかったせいか、妙な空気になってしまったのだ。
雷が鳴った後のように急に静寂が場を包み、さっきまでの勢いはどこにもない。
「……」
こんな状況、相手が東雲じゃなかったらどうにでもなるのだが、彼女相手じゃどうにも分が悪い。どうしたものかと俺が思っていると、先に東雲が口を開いた。
「ええと、今日はとりあえず帰るよ。じゃあね」
東雲はそれだけ言ってあっさりと帰ってしまった。
この空気に耐えられず逃げたようにも見える。
まあ、選択としては悪くない。
俺はそんな東雲を少し意外と思いながらも、自分も帰ることにした。
「さてと……」
わざわざ待つ必要もないが、東雲がある程度先に行ったと思われるところで俺も下校しようとカバンを背負うとした時、俺は手に感触がないことに気づいた。
「……はあ」
俺はため息をついてロッカーからカバンを取り出した。
・
・
・
奇妙な再会から翌日。
「
授業の終わりに担任の大前先生が呼び出した。
昨日あんなに手伝わされたのにまたなにか残ってるのだろうか。教師に貸しを作って悪い事はないが、頼まれすぎると甘く見られる可能性が大きい。
「先生、話は昨日の報酬を頂いてからです」
先手を取って大前先生の話の遮るように手を上げて話すと、先生は道端で犬の交尾を見たような眼差しでため息をついた。
「つくづく嫌みな事しか言わないなお前は。それを可愛げがあると思うのは一部だけだぞ?」
まあ、この先生に対してはそんな心配はいらなかったが。
この先生はいい先生だ。
黒のジャージがとても似合い、結んだ髪の下から密かに見えるうなじがいいとかではなく、教師として信頼できるということだ。教師に対する生徒のこの評価はなかなかのものだ。
あのうなじもいいものだけど。
「それにこれはお前からの話じゃないか」
「はい?」
俺からの話とはいったいなんだっけ。ここ最近先生に何か頼んだ覚えはないのだが。
「部活の話だ。今日から始めるのか?準備の程度を――」
「部活ってなんです?」
話の腰を折るのは好きではないが、先生の言葉には看過できない単語が含まれていた。
部活とはいったいどういうことだ。
悪い予感しかしない。
「だから部活の話だ。昨日入部届を東雲という生徒を通して渡して来たじゃないか」
まさかと思っているその名前が出て来たことに、俺は頭痛を感じながら一部始終を聞いた。
どうやらあの後、東雲は俺の名前が書いてある入部届を持って担任の大前先生を訪れたらしい。本人ではなく東雲が持って来た事を不思議に思うと、東雲はあることないことでっちあげて代理に来たと言い張ったらしい。俺をよく知っている故、先生は素直に信じたと言う。
「なんで指印なんだとは思ったが、お前ならやってもおかしくはないからな」
昨日、東雲がいきなり俺の指を拭き出したのはそのためか。あの紙は入部届だったというのか。そりゃ痛みのなく、血がすぐ止まったのも不思議ではあったが……
あれが入部届じゃなかったら俺はいまどうなってるんだ。手法が悪辣過ぎて身の毛がよだつ。
あと俺のイメージがあまりよろしくない気がするんだが。
「というわけで、あれはイタズラなんで無視してください」
「そうか。私としてはお前は部活をやる方がいいと思うけどな。この学校は理事長が真の教育とか言って部活をかなり重んじてるし、やってみてもいいじゃないか」
事実を話したにも関わらずなぜか部活を押してくる先生。いったいどうしたと言うんだ。
「知ってるじゃないですか。バイトで無理ですよ」
「いや、この部活は啓発時間だけの活動と書いてあるが」
「む?」
この学校には週二回昼休みの前の一時間を啓発時間として割愛している。これはさっき話に出た理事長の真の教育なんちゃらの影響で、平たく言わば一週間に授業の二時間が部活に当てられているようなものだ。正確には違うけど大体そんな感じ。
確かに、この時間にするなら俺のバイトに影響はないのだが。
「この学校の部活の待遇は、私が言うのも何だがかなりいいものだぞ?部費などの便宜はもちろん、理事長が部活の実績で選ぶ大学への奨学金付きの特例入学もあるんだからな」
部活などはじめから視野に置いてなかったからまったく知らなかった。
それは――たしかに悪いは話ではないけど。むしろそうなったら願ったり叶ったりだけど。特例入学できる大学は多分というか、この学校と同じく理事長の傘下にあるあの私立大学だろう。私立の中では名門で、奨学金なんてもらったら――……
いやいや、ここでそんな話に振り回されてどうする。
実績のある部活から選ぶなんて基準が曖昧過ぎる。どうせ人脈や金が物を言わせるようなものに違いない。そもそもラジオ番組の部活でどんな実績があるというのだ。
言葉を話さない俺が悩んでいると思ったのか、大前先生は言った。
「部の登録は済んでしまったことだし、もう少し考えてみたらどうだ?部室は抑えてあるから行ってみるのもいいだろう」
だからなんでそんなに部活を勧めるのです。
・
・
・
「東雲!」
勢い良くその憎き名前を呼んだ。
「ようこそ!」
返ってきた返事は歓迎の言葉で、その声の主人は当たり障りない笑顔で椅子に座っていた。
昼休み、俺は鐘が鳴ると同時に東雲がいると思われる場所に駆けつけた。そして部室棟の片隅にある部屋で、ついにその姿を確認したのである。
「昨日はやってくれたな、このアバズレが……」
「穏やかじゃないなー。ちょっとしたお茶目なのに」
部室の中は寂しくも中央に椅子が一つだけ置いてあった。東雲は揺り椅子でもないその椅子を前後で揺らしながら悪どい笑顔で俺の腹の虫を煽り続ける。
「今すぐ――」
「おっと、ここまで来てどんな言葉が必要?お茶目のネタばらし?そんなのいい絵の具でちょっと騙しただけじゃん。それとも部活のメリット?あたしも昨日初めて先生に聞いたけど色々あるそうだねー。ようくんにもいいことなんじゃないの?それともまたお金の話?退部したらお金が入るの?それともただ部をやめたいだけ?退部届はアタシが持ってる訳ないじゃん。でもここに来たね?なんでやろ?」
「お前……」
スルスルと出てくる東雲の言葉に俺は少しだけ言葉を失った。
昨日見せた頭の緩さは俺を放心させるためだったというのか。
東雲の言葉ひとつひとつが的を射ていて、無駄な雑談を切り離して本題だけを浮かばせる。とても俺好みの話し方ではあるが、やられる方はむかつく。
あとなんで最後は微妙に関西弁なんだ。
「散々コケにして、素直に言うことを聞くと思うのか?」
「だってようくんはそんなの気にしないっしょ」
今もギラギラして、まるで敵なしとでもいいそうな黄色い瞳が俺の返事を急かす。
たっだの中学時代を一緒に過ごしたことで俺を知るつもりでいるのか。男子三日会わざれば刮目せよと言われている。二年も経て、根拠の無いのによくそんなに堂々としていられるな。
「まあな」
でも事実ではある。
公と私は確実に分けるのが俺のモットーである。
利益になることがあるなら私的な感情など取るに足らないと思っている。
しかし、
「だが、それでも俺はお前の遊びに付き合わない」
それでも俺には部活に参加できない理由がある。
「お金のことはこの際あきらめるとしよう。だから部活はしない」
「え」
ここで俺が快く承諾でもすると思ったのか東雲は椅子を揺らすことをやめて、気の抜けた声を出した。
「なんで来たのかって?言ってやるために来た。俺はお前の部活遊びには付き合わない」
そう、これが正解だ。
俺が昨日言い損ねった言葉はこれだ。
東雲亜子という人物が二年ぶりに俺の前に現れてきて、俺の高校生活に介入しようとした時、正直驚きと同時に刺激を受けていた。ちょっと興奮していたのかも知れない。
しかし俺達の関係は二年前に終わっていて、それは覆すことは出来ない。そのはずだ。
破綻した人間関係はそのまま置くのが最善で、また繋ごうとしたらとんでもない事になる。まして新たな関係がある人間ならなおさらの事。
だからこれが正解なのだ。
俺が出した答えに、東雲は静に椅子から立ち、俺に近づいて来た。
顔から笑顔は消えていて、目付きが鋭い。
「……なんだ」
一步後ずさってしまったが、怯えてなどいない。
東雲は堂々としている俺に近づいては、胸ぐらを掴んで自分の方に引きつけた。
「ねえ、セックスしない?」
「!?」
低い音色で放たれた言葉に俺の背筋が一直線に伸びてしまった。
いきなり何を言い出すんだこいつは!
俺が童貞だったらこの場で前言撤回してしまうような事をなんでこう堂々と言ってしまうんだ
!もしかして色仕掛けというやつなのか?!どこで学んだ?!
東雲の言葉に俺がどの返事も出せずにいたその時、
「あの、失礼します」
女の声と共にノックの音が聞こえた。
「なっ」
その声はよく知っている声で、
「いいよ」
なんでここでその声が聞こえるのかという疑問を思う前に東雲が来客を入れてしまった。
「あの、秋風君いますか?今日のお昼、きゃっ」
来客は入ってすぐかわいい悲鳴を上げて出て行ってしまった。俺と東雲の姿を確認したからである。
「知り合い?」
開いた扉だけ残って呆然とせざるを得ない状況。
いまだ俺の胸ぐらを掴んでいる東雲が聞いてきたが、それを答える前にさっきの来客が扉に身をかくし、頭だけちょこっと出してまた現れた。
「あ、あの、ど、どういう状況、なんでしょうか…?」
何をおどおどしているのか。
そのくせに一度出て行ったのに戻って来ては状況を確認するその意地はどうしたもんかと思う。つくづくあの子も普通ではない。
俺は東雲の手を解いて、衣装を正してからふたつの質問に答えた。
「まあ、知り合いだ。宇佐、これはこのアバズレが俺の胸ぐらをつかんで脅している場面だ。邪推することはなにもない」
彼女の名前は
ぱっと見ても高校生とは思えない体格で、なんとなくか弱い感じが漂うような女子である。
名は体を表すと言うべきか、見た目も性格もうさぎのような人物である。
宇佐ひじりは扉の後ろから出て来て、「お、脅しはだめです、ちゃんとお願いしなきゃ」などと小さく言いながら俺がいるところに近づいて来た。
「なんでここにいるんだ」
「今日の昼ごはんどうするのかって思って教室に行ったら大前先生が……」
あの先生、たまに俺の人生を良からぬ方向でかき回している気がする。
宇佐は東雲の近くまで行ってはちょっとびくっとして俺のうしろにまわった。
その小さい姿を目で追っていた東雲が身も蓋もない質問を口に出した。
「彼女?」
「いいや」
「いいえ、違います」
付き合ってなどいない。手を握ったこともない。
だが思慮はする。
それだけの仲だ。
大体俺は恋愛ごっこなどやってる暇はない。
「ふうん」
目を薄く開き、二人を交互に眺める東雲。
なんかいたたまれない。
そしてそのまましばらく沈黙が続く。
東雲は薄い目のままで、俺はこの場面を予想していなかったので少し考えを巡らせ、宇佐は俺の制服からほころびを見つけてそれを取った。
ここに宇佐が現れたのは想定外だった。出来るなら東雲に知られたくなかった。宇佐は、よく言えば人が良すぎて、悪く言えば騙しやすい。東雲のような奴から見るとまるで玩具のようなものだろう。しかしすでに知られたのは仕方がない。ならここでどのように行動するべきなのか、などと考えていると、
先手を取ったのは東雲だった。
「ねえ、あんたいま部活やってる?」
「いいえ、今はなにも……」
これはどういうつもりなんだろう。東雲が持ち出した話の意図を読もうとしたが、その間も東雲はさくさくと話を進めていた。
「実はさ、あたし部員がなくてちょー困ってんの。うちの部に入ってくれないかな」
「わたしでよければ……」
「ちょっ、何を――」
そしてその意図を把握した時には、東雲の全ての手が打ち終わっていた。
油断した。
ここに宇佐が来ること自体を想定しなかったため、いや、まず宇佐の存在を東雲が知ることを想定してなかったため、こんな至って簡単で卑劣な手を看過していたとは!
「お、まだいたの?退部届はいつでも持って来いよ。じゃあね」
「あ、秋風くんの用事は終わったんですか?」
宇佐は何もわからず無邪気に微笑んでいて、東雲はこれ見よがしにニヤニヤとしている。
このアマ…!
・
・
・
結局俺は、東雲亜子のラジオ番組とやらの部活に残ることになってしまった。
悪魔の手に、うさぎが一匹捕まっているのだ。
教室に戻る途中、俺は前を行く東雲の背中に声を掛けた。
「なんで俺を入れようとしたんだ」
たぶん最初に聞くべきだった質問。
今は昔と違う制服と、違う髪型をしている東雲亜子は、その昔見せたような笑顔で答えた。
「ようくん面白いじゃん」
・
・
・
家に帰ってから、俺はベットでずっと考え事をしていた。
高校二年の秋になってから部活とは、はたして如何なものか。
世間は物事を始めるのに遅い時はないとも言うが、一方では拙速は巧遅に勝るという。ようは場合によるということなのだろうけど、だとしたら俺の場合はどうなのか。
俺、秋風陽は来年に受験を控えている。
このご時世、いい大学は人生の質を高めるにいたって一番安穏な道である。私立に入ったのもそのためだ。我が家は裕福とはいえないので奨学金の補助がないと厳しいが、幸いにもこの学校は奨学金制度がよく整備されている。いい世の中といべきかそれとも資本の力か。
とにかく、今の安穏な道を歩くには色々と勉学に勤しまないといけないわけで、つまり俺には部活などの余計なことに費やす時間と余裕はないのだ。
「あ~!お兄ちゃんまたひとりで映画見て来たんでしょ!洗い物にチケット入ったままなんだから!アタシも誘ってよ!」
「うるさい、映画はひとりで見るものだ」
まあ、息抜きは必要なわけで。
これは余計なことではないのだ。なにせ自分で稼いだ金で見てるんだし何が悪い。
しかし俺の正当な主張を無視され、ドアの向こうから聞こえてくる妹の理不尽な非難はまだまだ続き、その本意が自分の当番である洗い物を、俺が手伝って欲しいことにあると気付き、あえて無視した。
今日は事がありすぎた。
この辺で目を閉じるのもいいだろう。
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