今日の今日まであえてまじまじと見ることもなかった自動車なる工業製品を前に、一佐の心臓は動揺のあまり早鐘を鳴らし始めていた。

 緊張した面持ちで前部のドアノブに手をかけると、車内に未だこびりつく接着剤の臭気にたじろぎながらも、車の運転席へと尻を滑り込ませる。まだ真新しい塗装プラスティックの内装をパノラマ視点でざっと眺める。雑然と並ぶレバーや計器類よりもまず、フロントガラス・スクリーンにでかでかと投影表示された注意書きの文言が目についた。


「クレジットカードと運転免許証を読み取り装置で認証させてからブレーキペダルを踏み、エンジンスイッチをONにしてください」「給電はナビゲーションシステム指定のEステーションにて」「エンジンスイッチは指紋認証式ですので」「指紋認証データとプライバシー保護法に関する弊社ポリシー」云々、云々。


 一佐は運転座席に座り込んだまま「やあっぱ駄目だぁ」などと頭を抱えるしかなかった。

 あれからファミレスを出たあと、「ホームステイに来た外国人の振りをしろ。演じ切れ」と念押しして忠告を入れたアーチルデットをタクシー後席に押し込めてやり、元のマンションへと送り届けた。地球文明に対する造詣が深い割にどこかしらズレていないとも限らないあの宇宙人娘が何時トチ狂った真似をしでかさないか正直不安が拭えなかったからだ。

 ともあれ彼女からの強引な依頼を受けざるを得なくなった一佐は、今まさにその分岐点の上で頓挫している。

 ファミレスから徒歩十分圏内の駅前ロータリーにカーシェアリングのスペースが設けられているのを、一佐は駐輪所越しに把握していた。カーシェアリングとは今世紀に入ってから普及が始まった自動車のレンタル型システムで、移動手段を欲しがったアーチルデットにはこいつを押しつけるのが最も安全だと踏んだ。だからこうして事前偵察に来たのだ。

 だが、その思惑は見事外れてしまった。運転免許証とクレジットカードのどちらも所持していない彼にとって、根本的にこの車を動かすことは不可能だったのだ。カードの方は例のアレで何とかなるにしても、宇宙人も流石に運転免許証なんて持っていないだろう。


「――――もしもし?」


 やはり身内から借りるしかないのか。借りるとしたら自分の代理となる運転手、あるいは車まるごと、さてどちらが望ましいだろうか。

 困ったことに、こんな孤軍奮闘の危機的状況にもかかわらず、肝心の命綱である携帯端末も紛失中だった。なので、どうやって身内に連絡を取ったものやら途方に暮れてしまう。こうなってしまったら、一旦マンションへと戻り対策を練り直すしかない。相手が事情を理解してくれればよいのだが、と一佐はため息をつく。


「おーい! 聞こえてますか戸原せんぱーい?」


 突然コンコンと窓ガラスをノックされて、無防備だった一佐は仰天の表情のまま助手席側に飛び退いてしまった。


「うわっ、びっくりしちゃった。こんなとこでなにしてんの先輩?」


 見知った顔がこちらを覗き込んでいたと思えば、運転席のドアが外側から開けられる。


「あ……いや、あの……やあ小晴さん、あはは、偶然」


 朗らかな笑顔を送る女性が、空席となった運転席に遠慮なく乗り込んできた。舘丸たちまる小晴こはる。一佐のアルバイト先の同僚で、後輩にあたる人物である。ただ後輩というのもあくまで立場的なもので、彼女は今年で二十歳の大学浪人生、一佐にとってはれっきとした年上だ。


「こんにちはー。っていうか、先輩、免許まだでしょ? どうする気ぃ、こいつ?」


 特に気にも留めていない口振りで、こいつ呼ばわりした車の、合成皮革で巻かれたステアリング・ホイールの表面を軽やかにノックしてみせる。爽やかな香水か何かの芳香が、車内に立ち込める化学臭を上塗りしてゆく。見ると、小晴はいつもの破けたジーンズみたいなだらしない出で立ちとは違うよそ行き仕様で全身固め、束ねたままが常だった髪も下ろされ、自然しなやかに肩からこぼれ落ちている。

 彼女と気軽に接することができたはずの一佐の内に膨らむ気まずさが、シチュエーション的なやましさと相まって、


「いやその、ちょっとね。いつかドライブとかしてみたいなーって気分になって……シェアカーのってどんな感じなのかなって、今後のための下調べしにきたと言いますか……」


 そんな要領を得ない言葉で応答する他なかった。


「へええ。乗ってみたいの? わたし時間あるし、どっか行きたいとこあるんなら運転してあげてもいいよ?」


 小晴は膝上に乗っけた革製の大仰なバッグに手を突っ込むと、したり顔で財布から運転免許証を抜き取って一佐に見せつけた。


「――じゃあん! ハイ、持ってるのは免許だけ。わたしゃ車を買うお金がないっ!」


 力強くのたまった。予想外の事態に直面した顔をしたままの一佐目がけて、むふふなどとほくそ笑みながら、小晴はさらにこんな恐ろしい言葉を突きつけてきた。


「でもさあ、わたしちょっと興味あるなー。さっきのファミレスで一緒にいた彼女、戸原先輩の何なんでしょうねえ?」


            ◆


 釈明は非常に歯切れの悪いものだったが、小晴のお陰でシェアカーのエンジンはいとも呆気なくかかった。運転免許証の提示及び運転代行は小晴に頼み込んだ。彼女の運転する車に同乗するのは初めての経験だったが、元々親の車を運転する機会が多いらしく、そこは一応信頼することにした。

 シェアカーの料金は当然一佐持ちが筋なので、アーチルデットから受け取った怪しげなクレジットカードを認証させた。それが本当に実社会で通用する代物なのか最初はかなり緊張させられたもの、宇宙由来の偽造技術はそれを難なくクリアしてみせた。


「――んで、そのホームステイの子が戸原先輩んとこのマンションに居候って話?」


「ああ、うん。ホームステイってのはちょっと語弊があるんだけど。彼女、貿易会社とかやってた祖父の伝手でさ。あそこ、まだぼく一人しか住んでなくて部屋も余りまくってるから、空き部屋を留学生とかの国際交流に有効活用どうかなって、父さんがさ」


 勿論、この場で取り繕っただけで、そんな事実などない。


「ふーん。あ、先輩んち、こっち右折だっけ?」


 指で方向を指し示してやると、小晴は慣れた手さばきでステアリングを回す。そのままロータリーから交差点を通過し、駅裏住宅街に至る生活道路へと抜けてゆく。


「まったく、ホントにびっくりしちゃったよ。昨日から全ッ然、先輩と電話もメールもつながんないんだもん!」


「いや、本当にごめん、面目ない、かたじけない」


 一佐は平謝りするしかなかった。


「倉嶋さんもね、戸原先輩のおうちに電話したりして心配してたよ? 急遽シフト代わってくれた子にも謝っとかないと」


 倉嶋というのは一佐の高校時代からの友人・倉嶋くらしま征次せいじのことで、小晴と同じバイト先であるカフェの店員だ。高校卒業後に当てのなかった一佐をバイトに誘った元凶でもある。

 それよりも小晴の話を聞いた一佐は、自分の親の動向が気がかりで仕方がなかった。征次から実家に電話が行ったということは、捜索願まで出されていないにしても、母親か誰かしらが心配して一佐の様子を見に来る可能性だってある。マンションでアレと鉢合わせでもしていたら一体どう対応すべきかが、新たなる懸念事項だ。


「……ああ、うん、埋め合わせしないと。新居さ、電話まだ引いてないのにケータイ落っことしちゃったもんな。買い換えないと。うわ、また金が」


 運転席でステアリングを握る小晴がくすりと笑い返してくる。その件で別段怒っている素振りはない。一佐は自分に降りかかった災難を彼女に説明できず笑って誤魔化すしかなかったが、何事もない日常へと生還できたのだと実感させられる、そんな笑顔だった。

 ファミレスでアーチルデットが察知した視線の正体がこの小晴だったのか定かではない。いずれにしろ、昨日から行方不明扱いされていた一佐が見知らぬ少女と食事をしている場面を、偶然通りすがった小晴が目撃。不審に思われ追跡された。そういう経緯があったのだと先ほど彼女自身から聞かされた。


「小晴さん、今日バイト、遅番なんだ?」


 遠回しに聞いてしまう。他人のプライベートを詮索する主義ではなかったものの、彼女が見慣れない格好をしているので、話題逸らしに思わず話を振ってしまった。


「うん? ああ、これね。実は午後イチでお父さんと――」


 言いかけた小晴を遮るかのように、フロントガラスの向こう側を大きな影が横切った。

 危ない、と叫ぶ。銀色のコンテナ。配送トラック。信号を無視して前触れなく右側から飛び出してきたそれが交差点中央に停車し、こちらの進路を完全に遮ってしまった。


「……びっくりした、なに、もうっ!?」


 咄嗟のことに理解が追いつかない。それほどスピードを出していなかった小晴たちの車は距離を置いて一旦停止するが、


「小晴さん、うしろにも車が――」


 一佐の声に、小晴も慌ててバックミラーを凝視する。黒塗りの大型セダンが不自然に車間を詰め、こちらの真後ろに停車したのが映る。このままでは一方通行の狭い幅員で、転回も迂回もできなくなってしまった。

 小晴はこの状況に動揺してしまい、視線を前に戻してクラクションを数度鳴らす。だが、行く手を遮ったままの配送トラックは発進する素振りも見せず、座席に見える作業着姿の人影も、ジッとこちらの様子を伺ったままだ。明らかに不自然だった。

 異常事態だと肌で感じ取った時には、既に手遅れだった。うしろの大型セダンから降り立つ三人の姿。知らない顔。男が二人と、若い女性。全員、この夏空にまるで曇天めいた灰色のスーツだ。張りつく表情は仮面のよう。まるで冗談みたいなシチュエーション。


「ねえ先輩、あの人ら、知り合い……じゃない、よね?」


 機転を利かせた小晴が即座にドアをロックする。三人はこちらの車までゆっくりとした足取りで近づいてきている。うしろの一人が、携帯端末で連絡をしている。真っ先に脳裏に浮かぶ私服警察官の雰囲気には、とてもじゃないが見えない。ニューナンブよりは、マカロフの方がまだおあつらえ向きな風体だ。

 おかしなことが起きた。無慈悲な音を立て、内側から施錠されていたはずのドアロックが勝手に外れてしまったのだ。小晴が上げた短い悲鳴を割るように、外からドアが開け放たれる。一佐としては、二度と味わいたくもない、既視感すらある危機的状況。エンジンが強制停止された旨の警告が、フロントガラス・スクリーンに赤く明滅している。空回りするペダルを前に、小晴の動揺の声が響く。

 灰色の若い女が、ドア越しに一佐たちを覗き込んだ。もっとも、あの時のように力尽くで車外へと引きずり出そうとまではしない。ただ冷たく抑揚のない、女の顔つきにはあまりに不相応な幼い声色で、こう言った。


「――お前が戸原一佐だな。僕は嵯渡さわたり詩乃しのという。お前たちはこれから僕ら〈外交官達〉に協力してもらうことになる。とりあえず車から降りてくれないか」

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