若子さんのカメラと記憶の中の光景

いなばー

怖いお姉さん

 見上げると身を浸らせたくなるような青い空。山際から立ち上るどこまでも白い雲が近付く夏を思わせる。

 私はため息をつくと、またうつむいて歩いていく。後ろにひとつ垂らしたおさげに、運動場をならすローラーでも結わえてあるような気がしてくる。


「キミ、こんなとこで何してるのさ?」


 不意に後ろから声をかけられた。

 振り返って見ると、両手を腰に当てた若い女の人が立っている。

 黒いロングヘアのその人は、ブラウンのロングブーツにタイトな黒のデニムパンツを穿き、ブルーのシャツとグレーの薄手のセーターを腕まくりにしていた。

 一方の私は中学の制服である夏用のセーラー服。平日の午前中に住宅街をほっつき歩いているのはおかしい。それは私が一番よく分かっている。


「いやちょっと、忘れ物を取りに」

「カバンを持ったまま? お弁当箱までぶら下げてるよね?」


 その通りだ。でも私は言い逃れを続ける。


「登校する途中に……」

「もう十時だよ? 学校何時始まりさ?」


 八時半だ。一時間半うろついてることになる。ああ、まだそれだけしか経ってないのか、もう丸一日くらい歩き続けた気になっていた。やましいことをしていると、時間が経つのを遅く感じるんだな。


「学校サボってるんでしょ?」


 ゆっくりこっちに近付いてくる。ヤバい!

 彼女に背を向けて走り出す。足の速さに自信はないが、逃げたらすぐに諦めてくれるかもしれない。


「待てやコラ!」


 甘かった。後ろを見ると、ものすごい勢いで黒髪をなびかせ突っ走ってくる。


「きゃーっ!」

「叫ぶなやコラ!」


 左肩を強く引かれた私は、そのまま体勢を崩してアスファルトの上に倒れ込んでしまった。痛い!


「うう……」


 うめきながら見上げると、さっきと同じように両手を腰に当てて、その女の人は私を見下ろしている。

 派手な顔だちをした美人だけど、今の私には鬼か夜叉としか思えない。あの頑丈そうな編み上げブーツで踏み付けられたらどうしよう。


「逃げるなっての。学校どうした? サボり?」

「……サボり」

「最初からそう言えばいいんだ。立ちなよ」


 女の人が手を差し出してきた。その手を取るのはあまり気が進まない。

 ためらっていると、いきなりセーラー服の後ろ襟を掴まれて引きずり上げられた。


「ひゃあっ!」

「だからいちいち叫ぶなって。私が怪しく思われるじゃない」

「あ、あの……離してよ……」


 起き上がったのにまだ襟を掴まれたままだ。私は小柄でこの人は背が高い。背丈だけの問題でなく、大きな目で私を睨み付けるこの人の威圧感は半端じゃなかった。


「どうした? 何があった?」


 じぃっと見つめてくる。私は視線を外す。人と目を合わせるのは苦手なのだ。


「怖い女の人に、追いかけられた」


 かろうじてそう言えた。


「その前その前。なんで学校サボったの?」

「言わないと、いけない?」


 ちらりと相手を見るとまだこっちを睨んでいる。慌てて横を向く。


「大人の務めとして、不良娘はちゃんと保護しないといけないんだよ」

「余計なお世話だよ。それに私は不良じゃないし」

「余計なお世話を焼くのが大人なんだよ。それに学校サボる奴は不良だ」

「ぐっ……」


 不良とはっきり言われると胸が痛んでしまう。やっぱり私がしていることはよくないことなんだ。でも仕方ないじゃない。今日は学校なんかに行く気になれないんだ。


「言いたくない?」


 その声は少し優しくなったように聞こえた。女の人の様子をうかがうと、表情もずっと柔らかくなっていた。もう夜叉には見えない。

 私は素直にうなずいた。


「じゃあ、仕方ない」


 女の人が私を解放した。


「え? いいの?」


 乱れた服を直しながら言うと、向こうは苦い表情になった。


「いいわけないじゃん。でも仕方ない、言いたくないなら。でもこのまま解放するわけにもいかない。子供は甘やかすとくせになる」

「はぁ……」


 子供呼ばわりは若干不本意だ。


「キミ、今日は私に付いてこい。私が監視してやる」

「イヤだよ、素直に解放してよ」

「うるせぇ、私だって面倒なんだよ」


 いきなり頭を殴られた。


「暴力だ!」

「生意気な子供を教育するための、正当な実力行使さ。ほら、あそこに置いてきたカバン取ってきな」


 指さした先は彼女と出くわした場所。彼女が立っていたところにカバンが置いてある。


「カバン持って逃げたら?」

「走って蹴って、突っ転ばせる。顔面からアスファルトにダイブして、そのかわいいお顔は傷だらけだ。その覚悟があるかい?」


 にやーっと大きな口を左右に引き延ばした、実に意地悪い顔を突き出してくる。畜生め。

 仕方なしに元来た方へ歩いていき、革でできたボストンバッグを持ち上げた。思ったほどではないが、それでも十分重い。それを持って彼女の方へ戻る。


「よくやった。じゃあ、今日はよろしく」


 と、手を差し出してきた。


「私、宝蔵寺若子ほうぞうじ わかこ。……って、そんなに若くもないけど」


 正直な自己申告に吹き出してしまうと、ぎろりと睨んできた。振ったのそっちじゃん。


「キミは?」

「何が?」

「名前だよ。ていうか、手を出させたまま、ぼさっとすんな」

「……瀬戸知鳥せと ちどり。十分若い、一四才」


 そう言って手を伸ばすと、予想以上の力で強く握ってきた。


「いたた、で? 宝蔵寺さんは年いくつなの?」

「若子さんて呼びな。年は教えない」


 ようやく手を解放した若子さんが屈み込んだ。


「うわ、すりむいちゃったね」


 こけた時から膝が痛かった。

 彼女は私の手からカバンを取ると、中からミネラルウォーターの入ったペットボトルとティッシュを取り出した。そして水で濡らしたティッシュで私の膝を拭く。


「いたっ!」


 染みて声を出してしまった。若子さんはさらに絆創膏を出してきて、まだ薄く血の滲む膝に貼る。


「これでよし。悪かったね、乱暴して」

「ううん、気にしてないよ」

「いや、知鳥ちゃんこそ悪いんじゃん」


 私の頭にチョップを叩き込んできた。そしてさっさと先に歩きだす。


「あの、カバンは?」

「知鳥ちゃんが持つに決まってるでしょ?」


 当たり前のように言われてしまった。でも、私は彼女に逆らえない。

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