第五章 星空の下で

天体観測①

 夜の風は少し冷えていた。千鶴はパーカーを羽織り、人気のない山道にバイクを走らせている。


 冷えたおかげで空は澄んでいた。運よく月もない。外灯が灯っていても空には無数の星が見える。

 しかし千鶴はもっと多くの星を求めてバイクを走らせていた。サイドカーには莉々亜を乗せて、山の草木の香りのする風をきった。


 夜の山道を十分ほど走ると、木々が開けた山の斜面の野原にたどり着く。そこには民家も外灯もなく、道を照らしているのは千鶴のバイクの明かりだけだった。


「莉々亜。もう着くから、あと少しだけそのままで待ってて」

「うん!」


 莉々亜は目を瞑ったまま明るく頷いた。


 千鶴は一本松の下にバイクを停めてエンジンを切ると、ヘルメットをミラーにかけてバイクを降りた。続いてサイドカーに納まっている莉々亜の方へ行き、目を瞑ったままヘルメットを外してもらって受け取ると、それもミラーにひっかけた。


「手を貸すから、目を閉じたまま降りられる?」

「ええ、大丈夫よ」


 莉々亜の手を取って、ゆっくりとサイドカーから降ろした。

「ちょっと歩くよ」

 千鶴は莉々亜の手を引いて野原を進み、あるところまで来ると莉々亜の手を離した。


「莉々亜、もう目を開けていいよ。空を見てごらん」

 莉々亜はそっと目を開き、夜空を仰いだ。


「わぁ……!」

 莉々亜は歓声をもらすと、言葉もなく普段から大きな目をさらに大きくして空を見上げ続けた。その反応が嬉しくて、千鶴も一緒に空を見上げた。


 外灯のない山の空には、真っ暗闇に小さな宝石の粒や銀粉を一面にまき散らしたような星屑が広がっていた。まさしく星の数ほどの、数えるには不可能な、小さくとも強い輝きが無数に広がっている。


「星って、こんなにたくさんあったのね……」

 星空に目を奪われながらも、莉々亜はようやくつぶやいた。


「人工の光が少しでもあると、天の川もこんなに綺麗には見られないんだ。新月だともっと綺麗に見えるよ」


 そして千鶴は夜空を横切る銀粉でできた大きな帯を指差した。


「あのもやもやした光の太い帯が天の川だよ。一年中見られるけど、夏が一番太く綺麗に見えるんだ。まだ六月だから、もう少しすればもっと大きく見えるよ」

「こんな天の川、初めて見たわ。まるで銀の粉が流れる川みたい!」

 莉々亜はそう言ってゆっくりと吐息をもらした。


「こんなに綺麗だったなんて知らなかった……」

 心底驚いてくれているようで、千鶴は安堵した。


「あそこに明るい星があるんだけど、わかる?」

 千鶴は真上を指差したが、莉々亜はなかなか見つけられないでいる様子だった。


「星が多すぎてわからないわ。こんなに星が多い空を見たのは初めてだから」

「オレンジっぽく見える一番明るい星だよ」

「あ! あった! きっとあれね!」

 莉々亜が指差しながら声を明るくした。


「あれがアルクトゥールスっていう星で、春の大三角形の一つなんだ」

「じゃああと二つは?」

「アルクトゥールスから右の方にいくと、少し下の方に白い大きな星が見えるんだけど」

「あ、あれね!」


「あれがスピカだよ。春の大三角形の二つ目の星」

「スピカなら知ってるわ! おとめ座の星でしょ?」

「そうそう! さすが女の子だな」

 嬉しそうに言う莉々亜に、千鶴も笑った。


「スピカの右上にあるのが三つ目の星のデネボラ。デネボラはしし座だよ。アルクトゥールスはうしかい座だったかな」

「思ったより大きい三角形だわ。昔の人もこうして空を見上げて星に名前をつけたのね」


 都会育ちの莉々亜にとって銀粉煌めく夜空は本当に初めてらしく、大きな目を星のようにきらきらと輝かせていた。


「莉々亜、ちょっと待ってて。望遠鏡を調整するから」

 そう断ってこっそり昼間に設置しておいた望遠鏡を操作していると、莉々亜が手元を覗き込んできた。


「ずいぶん使い慣れてるのね。これ千鶴君の?」

「俺のじゃないよ。ことりのいえのものなんだ」


 大きな筒の横についている小さなファインダーから目を離した千鶴は「他の人が使ってるとこ見たことないから、もうほとんど俺のかもしれないけど」と苦笑した。


「教材用のかなり古い望遠鏡なんだけど性能は充分良いんだ。レンズの口径は一〇センチあるし、色収差も少ないし。望遠鏡を三脚に固定する架台っていう部分が今は経緯台式っていうのなんだけど、欲を言えば赤道儀式を使ってみたいな。赤道儀式だと日周運動に合わせて天体を追うことができるから」

「詳しいのね! そこまで本格的だなんてすごい!」


 そのように褒められて千鶴は急に恥ずかしくなった。勢い余って熱弁してしまったので、照れ隠しも兼ねて話題を早々に切りかえることにした。


「今は低い位置にさそり座が見えるんだけど、どれかわかる?」

「確かアルファベットのJみたいな形をしてるのよね。でもさっぱりわからないわ」

「目印は赤い星だよ」


 莉々亜の隣に立ち、千鶴は遠い山の稜線の上を指差した。


「あの辺に赤くて明るい星があるだろ?」

「あった! でも二つあるわ。二つともさそり座なの?」

「それが今の時期の見どころなんだ」

 千鶴は再び天体望遠鏡を覗き込んで続けた。


「右の赤い星がアンタレス。さそりの心臓って言われてる星だよ。左の赤い星は……」

 方角を合わせた望遠鏡へ「覗いてみて」と莉々亜を促した。不思議そうに覗き込んだ莉々亜から、歓声が聞こえる。

「火星ね!」

「正解!」


 莉々亜が覗いた望遠鏡は、漆黒に浮かぶ赤い惑星に向けられていた。


「今は火星とアンタレスが並んで見られるんだ。ちょっとした天体ショーだよ。アンタレスの語源はアンチアレス。アレスは火星のことだから、アンタレスは火星に対抗する星っていう意味なんだ」

「火星の何に対抗しているの?」

「うーん……。どっちがより赤いか、かな」


 望遠鏡から顔を上げると莉々亜はくすりと笑った。


「アンタレスは恒星でしょ? そもそも赤く見える理由が違うのに、そんなこと比べてどうするのかしら」


 莉々亜のその言葉で、千鶴の脳裏に桜の木漏れ日が落ちる芝生の景色がよぎった。


――そもそもみんな違うところだらけなのに、そんなことを比べてどうするの?――


 おさげの少女の屈託のない言葉が耳によみがえる。


「え……? 何で莉々亜が……」

 思わず聞き返してしまった千鶴に、莉々亜は目をぱちくりとして小首を傾げた。

「だって恒星と惑星だから……」


「そうじゃなくて……。莉々亜って、桜ヶ原に来る前はずっと麗明にいたんだよな?」

「そうだけど、それがどうかしたの?」


「小さい頃、桜ヶ原に来たことない? 櫻ヶ原大学病院とか……」

 唐突な問いだったから、莉々亜は目を丸くしてから笑って首を傾げた。


「桜ヶ原に来たのは大学生になってからって言ったじゃない」

「そう、だよな」


 そうは言ったものの、おさげの少女と莉々亜がなんとなく似ているような気がしてきた。


「じゃあ、滑走路にいたあの白衣の人が……?」


 似ていることから滑走路で見かけた白衣の女性がまさかおさげの少女だはないかとも考えたが、目が合ったときの冷たい感じを思い出すと、それもまた違う気がしてくる。


 結局千鶴は「ごめんごめん。俺の勘違い」と苦笑して謝り、気を取り直して星空を仰いだ。

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