それぞれの飛翔②

 研究所から連れ出されてからの生活は、研究所での扱いに比べてそれほど酷いものではなかった。

 雪輝の持って生まれた高い知能と知識欲に、雨宮は惜しむことなく学ぶ機会を与えた。


 それは学問にとどまらず、芸術や作法など、社会に飛び込んだときに怯むことなく堂々としていられる教養も与えてくれた。褒めてもらえることが嬉しくもあり、それら一つひとつを身に着けていくことが幼い雪輝のささやかな喜びだった。


 ただそれを自分のために活用する機会がなかったことが物足りなかった。与えられるばかりでなく、自分で探して見つけたいと思うようになった。


 しかし膨れ上がるその思いは雪輝のその頃の現状と同じく、頑丈で狭いところに閉じ込められていた。


 友人などいるわけもなく、大人ばかりの場所で隠されるように生きた約十年。優しく微笑んでくれたのは養父と名乗る雨宮だけだった。


 だがその彼にとっても、雪輝はただの道具にすぎなかった。それに気づいた幼い日、雪輝は彼を「父さん」と呼ぶのをやめた。そして同時に、全てをあきらめた。


 櫻林館に送り出されるまで、何もかもが雪輝の敵だった。周囲の大人たちも、もちろん養父も、赤色人種を見下す世界も。


 しかし櫻林館で出会った赤色人種の少年は、そんな世界で笑っていた。髪も目も隠すことなく、そのエメラルドの瞳を輝かせ、自分の道を歩いていたのだ。それは雪輝の冷めきっていた心に衝撃を与えるには充分だった。


 ある日彼が天文に興味があると知り、雪輝は天文の雑誌を手に入れた。それを読んでいれば彼は声をかけてくれるだろうか。そんな期待を抱きつつ雑誌に目を落としていると、不意に底抜けに明るい声が降り注いだ。


「俺もその雑誌読んだよ! 今年のこと座流星群はすごいらしいから、明後日が楽しみだよな!」


 顔を上げると、うらやましいほどの眩しい笑顔の彼がこちらを見下ろしていた。


 後々気づくことになったが、彼がグローブで隠している両手には複雑骨折を治療したという深い傷跡が残っていた。


 雪輝は思い出した。隣の檻にいた少年が外に出せと扉を叩き続けていたことと、その少年の両手が腫れ上がり変形さえしていたことを。


「いつまでそんな傷跡隠してるんだよ。女々しいな」


 そんな風に言ったこともあるが、それは尊敬と嫉妬からこぼれ出た言葉だった。


 扉を叩き続けた少年は自由を得て、それを冷ややかに見ているだけだった少年はずっと檻の中だった。雪輝は自分の手を見下ろした。


 何の傷跡もない綺麗な手。そこには今、重たい手錠がかけられている。


 細い廊下を抜けて、非常口のマークが灯る裏口から雪輝は外に出された。久々に吸った外の空気は、いつの間にか夏の香りがしていた。すぐそこに黒塗りの車が止まっている。


 その扉が開けられるのを待つほんの少しの間、雪輝はふと空を見上げた。

 夏の晴れ渡る真っ青な空が、高く高く広がっていた。


「ずっとここにあったのか……」


 雪輝の瞳は、降り注ぐ太陽の光で鮮やかなエメラルドにきらめいていた。


「乗れ」


 我に返って、雪輝は車の後部座席に乗った。ほどなくして発車する。


 穏やかな微笑みと共に閉じた瞼から、涙が一筋頬を伝った。

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