飛ぶための力③

 柔らかい風が吹いていた。まるで春の木漏れ日の下、ふかふかのベッドに寝転がってうたた寝をしている心地だった。


 温かい風が頬を髪を撫でてゆく。眠っているのに自分の深い呼吸音が聞こえ、その音がさらに深い眠りへと誘う。


「いつまで寝ているのだね」

「もう少し……」


 千鶴は布団にうずくまるように、ふわふわで心地よいそこで少しだけ身をよじった。


「君に見せたい景色があるのだ。もう見えるから起きたほうがいい。さあ、目を開けたまえ」

「うーん……」


 催促されて千鶴は渋々目を開けた。

 その瞬間、寝ぼけていた思考は一気に覚醒し、千鶴は飛び起きた。


「どこだ、ここは!」


 予想だにしなかった光景に千鶴は目を疑った。

 千鶴は赤い鳥の背に乗って、無数の星が輝く広大な宇宙の中を飛んでいたのだ。


「なんだここは! どうしてパイロットスーツも着てないのに苦しくないんだ!」


 見下ろすと、半袖のTシャツにスキニーパンツ、ミリタリーブーツといった、何の特殊装備もないただの私服だった。


「君の意識はここにあるが、体は別のところにあるのだよ」


 千鶴を乗せて翼を広げる鳥が言った。


「もしかして、また精神世界とかいうところなのか?」

「違う。君は自分の体から抜け出てしまったから、私がこうして迎えに来たのだ」


「抜け出た?」

「そう。君の呼吸は止まり、同時に心臓も止まりそうになった。しかし心臓だけは動かしておいた。君はそれを可能にする能力を備えていたから、運がよかった」


 それに千鶴はありありと怪訝な表情を浮かべた。


「俺って、呼吸しなくても生きていけるの……?」


「一時的には。君の言うROP代謝が、酸素を利用するエネルギー生産の代わりを果たし、酸素なしにエネルギーを生み出せるのだ。そのエネルギーで心臓を動かしている。そもそも呼吸というのはエネルギー生産に必要な酸素を取り込むための行為で、酸素を使わないROP代謝に呼吸は必要ないのだよ。ただ、血液の循環は必要なようだったがね」


 鳥の難解な説明に千鶴は呻った。


「よくわかんないけど、お前がいたから助かったってことか?」

「それがシンプルな答えだ」

「そうか、ありがとうな!」


 千鶴は鳥の大きな背を撫でた。


「ところで、どうして俺は体を抜け出てこんなところにいるんだ?」


 千鶴は周囲を見渡した。どこまでも広がる暗闇に、静かに無数の星が光を放っている。その光は手の届くものではなく、何光年、何千光年というはるか先の光だ。鳥がそばにいるものの、とてつもない孤独感が千鶴を襲った。


「覚えているかい? 君が体を抜け出てしまう直前のことを」

「抜け出る直前? そもそもいつどうして抜け出たかがなぁ……」

「君の友人は早々に思い出して慌てて帰ったようだったがね」

「友人……?」


 突然、色々なものが波のように千鶴の中に押し寄せてきた。利賀千鶴という自分の名前、そらを飛ぶのが大好きなこと、櫻林館学舎の二年生であること。三人の友人に囲まれた楽しい生活、それぞれの苦悩、そして未来。


「雪輝は!」


 思い出せるのは、雪輝がぐったりと操縦席に身を預けているところまでだった。


「雪輝も心肺停止状態だったんだ! 蘇生はしたはずだけど……」

「彼は君によって助けられた。君はやり遂げたのだ。ほら、あれを見てごらん」

「あれ……?」


 鳥がわずかに首を傾けた方向へ千鶴は振り向いた。


 そこにはもう一羽の赤い鳥が飛んでいた。のびのびと気持ちよさそうに翼を広げている。


 その鳥の上で目を真ん丸にしているのは雪輝だった。上を、左右を見渡して、飛んでいることに心底驚いているようで、そしてとても嬉しそうだった。


「雪輝も飛べたのか!」


 鳥籠も足枷もない。鳥も雪輝も自由だった。千鶴はそれを見て心から嬉しくなった。


 雪輝と雪輝の赤い鳥は翼を広げ、千鶴とは違う方向へ遠ざかり、消えてゆく。


「あれも現状を映しただけのただの映像?」

「それに近い。あれはほんの少し前の像だ。彼もさっきまでああして飛んでいたが、君のことや自分の成すべきことを思い出して戻っていった」

「そうか。それなら安心だ。……よかった」


 千鶴は目を閉じて、このそらに吹く風を感じた。孤独なそらだが、風は木漏れ日の下にそよぐ春風のようにあたたかかった。


「この風はどこから吹いてるんだ? すごく懐かしい感じがする」

「君が帰る場所からだ。目の前にある、君の居場所だ」


 はるか彼方まで無限に広がるこのそらの中に、突然強烈な存在を感じて千鶴は目を開けた。エメラルドの瞳がとらえたのは、真っ青な惑星だった。


「地球? でもなんだかぼんやりと光ってる。惑星なのに、この星自体が光ってる!」

「よく見てごらん」


 千鶴は身を乗り出して目を凝らした。


 ぼんやりとしていた地球の光は無数の塊に凝集し、それは球体に形を変え、まるで地球の表面に白い光の玉が密集しているようだった。それらの数えきれない光の玉はぷるぷると震えだし、そして――一斉に翼を開いて飛び立った。


「わあっ……!」


 数えきれないほど無数の光の翼が羽ばたき、ぐるぐると地球の周りを巡り始めた。


「さあ、私たちも行こう」


 赤い鳥は大きな翼を一つ羽ばたかせると、風に乗り、星の輝く宇宙を滑空してどんどん地球に近づいた。それにつれ、白い光の鳥の群れも近づいてくる。


「あの鳥たちはお前の仲間か?」

「いいや。だが似たようなものだ。私は火星に住んでいたもの。彼らは地球に住んでいるもの。君の同胞も、君と同じように翼を内に宿しているのかもしれないね」


 そう言われて、千鶴は納得した。


「やっぱり、みんな翼を持ってるんだな」


 赤い鳥は翼を大きく羽ばたかせ、白い光の鳥の群れに飛び込んだ。


「うわぁ……! すごく綺麗だ!」


 四方八方を無数の光の翼が舞う。青い地球を真下に、千鶴は懐かしい香りの風の中を飛んだ。


 すると、突然真下が不安定になった。驚いて見下ろすと、赤い鳥が実体をなくしていくように、周りの鳥たちと同じような光に変化し始めていた。


「おい、どうしたんだよ! 落ちるって!」


 そうこうしているうちに赤い鳥は完全な光となり、千鶴は鳥をすり抜けて落下した。


「わああっ!」


 赤い鳥は鳥の形態さえ無くすと、きらきら輝く赤い光の塊となって、頭から落下する千鶴の胸の中に流れ込み始めた。


「なんだ!」


 胸の中に吸い込まれる赤い光と同時に、温かい何かが一緒に流れ込んできた。このそらに吹き続けている懐かしい風だ。


「空を見て何を考えてたの?」


 風に乗って小さな女の子の声が聞こえる。木漏れ日の落ちる中庭での記憶が呼び起こされた。


「あそこに行きたいなって思ってたんだ。すごく高くて広くて、あそこに行けば何でもできそうな気がするんだ」


 そう言った千鶴に、おさげの少女は問いかける。


「空を飛ぶのがあなたの夢?」


 千鶴は照れながら頷いた。


「じゃあ私の夢は、あなたに飛ぶための力をあげること! 今決めたわ!」

「飛ぶための力……?」


 少女は嬉しそうに頷いた。


「そう! だってあなたはもう翼を持ってるから。あなたのその綺麗な赤色は、大きな可能性を秘めた特別な翼なのよ。だからその翼で飛ぶための力を私があげる」


 不思議なことを言う少女だと思ったが、千鶴は嬉しくなって頷いた。


「もし本当にそらを飛べるようになったら、君と一緒に飛びたいな」

「楽しそう! 約束ね!」

 そして二人で指切りをした。無数の桜の花弁が、風に舞う。


「思い出した!」

 千鶴は大きく目を見開いた。


「そうだ、翼があってもそれだけじゃ飛べない! 莉々亜はそれを言ってたんだ!」


 自分のことを好きになれなかった幼い日、おさげの少女は笑顔でこの赤色を褒め、人と違うそれこそが千鶴らしさだと教えてくれた。全てが前に進みだしたのはそれからだ。


 ずっと自分の中に潜んでいた翼。それはきっと自分の可能性そのもの。その可能性とは、赤い鳥を宿してROP代謝を備えて生まれたことだけではない。


 誰よりもうまく戦闘機を操れることも、苦難に屈せず笑っていられることも、過去の苦しみに感謝できることも、全て自分の内に潜む可能性から生まれた自分の長所。


 それらは決して勝手に生まれてきたわけではない。時に辛く時に楽しい努力を経て得られたものだ。

 そうして頑張れたのは、今も昔も、あの日自信をくれた莉々亜の笑顔があったから。それながければ、今の自分はここにはいない。


「ずっと前から、莉々亜は俺に飛ぶ力をくれてたんだ!」


 それに気づいたとき、胸に流れ込んでいた赤い光は体を貫くように背中から溢れ出た。それはまるで、赤く輝く翼であった。


「落ちるもんか! 俺には翼も、飛ぶための力もあるんだ!」


 そう信じられたとき、体はふわりと浮きあがった。


「そうだとも」


 鳥の声が胸の中に響いた。


「それがあるから君はどこにでも行ける。ほら、懐かしい風にその翼を乗せるのだ。そうすれば、君は君の望むところへ帰れるのだから」


 光の翼は桜の舞う風に乗り、木漏れ日の揺れる中へ緩やかに下降する。


「俺の、望むところ……」


 千鶴は目を瞑り、帰りたい場所を思い浮かべた。数えきれないほどの光の鳥が舞う中をくぐり抜け、あたたかく懐かしい風にその翼を乗せながら。


◆ ◇ ◆


 心拍を刻んでいるような、一定の間隔の電子音が聞こえる。そっと目を開けると、そこは静まり返った薄暗い部屋だった。


 体は鉛のように重たく、頭も打ち砕かれるような強烈な痛みが響く。強い倦怠感と吐き気で息をするのも億劫だった。


 しかしそんな感覚よりも、力の入らないこの手を握りしめていてくれる温もりが何よりも勝っていた。


「千鶴君……!」


 莉々亜が不安そうな顔でこちらを覗き込むので、千鶴は微笑んでみせた。


「ただいま」


 思うように力の入らなかったその声は、酸素マスクでさらにくぐもってしまった。だから届いたかどうか心配になったが、それは一瞬の杞憂であった。


 莉々亜は涙を浮かべながら、まるで春の木漏れ日のように優しく微笑んだ。


「おかえりなさい」


 その笑顔で千鶴は確信した。ここが温かい風が生まれる場所であると。

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