飛ぶための力②

 雪輝は頬をつつかれる感覚と、心地よい温かさを感じて目を開いた。視覚が正常であることを疑うほどの、真っ白で何もない世界が広がっている。


「どこだ、ここは……?」


 うつ伏せだった体を起こすと、背後で何かが動いた気配がした。


 振り返ると、金属製の籠に入った巨大な赤い鳥が、籠の隙間に押し付けていた頭を持ち上げたところだった。雪輝の頬をつついていたのはこの鳥の長いくちばしだったらしい。どうやら雪輝を起こそうとしていたようだ。


 見上げるほど巨大なこの鳥は、狭い籠の中で翼さえ広げられないでいるようだった。しかしそんな状態でもこの鳥はまるで心配している様子で、もたげた首を左右に傾けながら雪輝を見下ろしていた。


 幻覚の時はあれほど恐ろしかった赤い光の鳥は、今は不思議と愛しく思えた。幼い頃は炎のような赤い光から寒気を感じていたのに、どういうわけか今は温かさを感じる。


 雪輝は立ち上がり、その赤い鳥を見上げた。


「こんなところに閉じ込めた俺を、憎く思わないのか?」


 鳥は否定するように首を左右に振ってはみせたが、翼を広げようともがき始めた。

 雪輝は籠の金属製の格子を両手で握りしめた。それは酷く冷たい。それは単なる鳥籠ではなく、火星で雪輝を閉じ込めていたのと同じ檻だった。


「こんなもの……!」


 雪輝は必死に力を込めて檻を壊そうとしたが、頑丈な檻はびくともしなかった。


「くそっ!」


 足を踏ん張って全身の力を使っても、この頑丈な檻を壊すには微力すぎた。


 すると、不意に頭上から柔らかい女性の声が響いた。


「それがあなたの中にこれまでの年月で蓄積されたもの。心に根付いた固定観念のかたち」


 驚いて見上げると、赤い鳥は雪輝をじっと見下ろしていた。左右を見渡しても、雪輝とこの鳥以外には誰もいなかった。


「今喋ったのは……まさかお前か!」

「あなたが私を受け入れ始めているから、やっと声が届いたようです」


 鳥なので笑顔などあるはずもないが、声は嬉しそうだった。まさかこの幻覚の鳥が喋りだすとは思いもよらなかったので、雪輝は茫然と鳥を見上げるばかりだった。


「あなたの固定観念を打ち破れるのは、あなた自身の他にはいない。あなたが自分自身の中につくったものを、他に誰が壊せるというのです?」


 話を続ける鳥に、雪輝はようやく思考を戻した。


「この檻が、固定観念……? 一体何の?」

「それはあなたが一番よく知っているはず」


 試すように見下ろしてくる真っ赤な目。そこには自分の顔が映りこんでいる。雪輝は目を反らした。


「私はあなたの一部。あなたの望む自由への飛躍を実現させるための翼。それを閉じ込めたのもあなた自身」


 そう言われ、雪輝は改めて檻に向き合った。冷たい金属の格子を握り、声を落とした。


「俺は、俺を否定していたのか……。他人や環境を恨んでいたはずだったのに、いつの間にか自分さえも信じてなかった。いつだって目の前に扉はあったのに、触りもしないうちから開けられるはずがないと思い込んでたんだな」


 格子を握る手に目を落とした。何の傷跡もなく、情けないくらいに綺麗な手だった。


「どうせ無理、ってやつか。馬鹿げた固定観念だ」


 自嘲するしかなかった。


「またあきらめるのですか? せっかく気付けたというのに」


 格子を握る両手に力が入った。


「あきらめるかよ。あきらめなければ意外となんとかなるもんだって、あいつは二度も俺に教えてくれたんだ」


 そう言ってから、雪輝はふと「あいつって、誰だ……?」と小声で自問した。それを聞いたのかはわからないが、鳥はくすりと笑った。


「ではもう怖れることはないでしょう。確かに初めて飛び立つときには勇気が必要です。けれどもそれは誰もが経験すること。確かにあなたが思うほどそれはとても難しいけれど、実はあなたが願うほどとても簡単なことなのです」

「なるほど、思い込み次第か」


 雪輝はふと笑って、格子から手を離した。そして檻の中の巨大な鳥を見上げた。


「お前は俺の一部と言ったな?」

「ええ。あなたが無垢であった頃、私はあなたの世界に降り立った。あなたの中に広がる無限の世界なら、この翼も大きく羽ばたけると思ったから」


「こんなところに閉じ込めて、悪かったな」

 申し訳なくて視線を落としたが、雪輝はすぐに顔を上げた。


 目を瞑り深呼吸をしてから空を仰ぐ。何もない真っ白の天井に、雪輝は両手を突き上げた。親指同士、人差し指同士を突き合わせて輪を作る。小さな輪。こんな小ささで何が見えると言うのか。


 だからこそ、ここからが大切なのだ。


 指を離し輪を解いた。これまで心を覆っていたものをかき分けるイメージで、両腕を大きく広げる。そうすれば何かが開けるはずだった。近しい誰かがいつかそうしていたように。


 すると、何もない真っ白な天井が、まるで霧が晴れていくように左右にかき分けられた。その隙間から驚くほど綺麗な青色が覗き、それは霧を押しのけてゆく。


 目を見張る雪輝の頭上で広がる青色は、この真っ白だった世界を抱くように広がり続けた。


 そして霧が完全に晴れたとき、雪輝の頭上には柔らかな光を溢れんばかりに湛えた青空がどこまでも広がっていた。


「こんなに綺麗だったなんて気づかなかった……。俺はずっとここを飛んでいたのに」


 毎日のように戦闘機で飛び回っていたというのに、そこにあるのが当たり前すぎて見ようともしていなかった。


 それは戦闘機に限らない。自分自身の行く先を決める時でさえ目の前に広がる無限の選択肢に見向きもせず、そのくせ辿り着いたところでは文句ばかり。自分の力で飛んでいなかった証拠だ。


 しかし今、ようやくこの空の存在に気付くことができた。これだけ美しいのだから、もう見失うこともない。今は自分の翼でどこまで飛べるのか試したくてたまらなかった。


「空も翼もここにあるのに、あきらめてたまるかよ! こんなに重くて頑丈な檻を抱えていても、俺はここまでこれたんだ。そんな俺に飛べないはずはない!」


 雪輝は檻の中の鳥を見上げた。その顔は解き放たれたように晴れやかだった。


「さあ、飛ぶぞ!」


 雪輝の勢いに共鳴するように、鳥は長い首を上げて大きく鳴いた。頭上に広がる空にこだまし、鳥は大きな翼を広げる。檻は簡単に砕け散り、消えていった。


 真っ赤な炎の翼は大きく開き、熱気を帯びて燃え上がる。ただし灼熱ではなく、力に成り変われる心強い熱だった。


 まばゆい光を発しながら、巨大な翼は数度羽ばたく。きらきらと光が溢れていた。


 その美しさに目を奪われていると、鳥が首を降ろし、雪輝をひょいと咥え上げて自分の背に乗せた。驚く雪輝に笑いかけると、鳥は空へすっと首を伸ばした。


「さあ、行きましょう。あなたが羽ばたくのです。自分を見つめて、飛べると信じて」

「自分を……」


 雪輝は目を閉じて自分を見つめた。そして何のためにどこへ行きたいのかを問いかける。


 やや低い姿勢をとってから、鳥は空を見据えて地を蹴った。輝く翼は羽ばたいて風を掴む。巻き上がる心地よい風を感じて、雪輝はエメラルドの瞳を開いた。


 初めて自分の力で飛んだ空は、呼吸を震えさせるほど美しかった。


◆ ◇ ◆


「意識が戻りそうです!」

「聞こえていたら目を開けて!」


 そんな声がだんだん鮮明になって、雪輝は目を覚ました。ぼんやりとした視界がとらえたのは、こちらを見下ろすマスクをつけた白い服の者たちだった。


「名前を言って!」


 こんな時に、どちらの名前を言えばいいのか迷っていた。混乱が残る霞がかった思考で、とりあえず無難な方を選んだ。


「日高……雪輝」

「よし、こっちは大丈夫だ」

(こっちは……?)


 雪輝は疑問に思いながら、何気なく横に視線を移した。その先に、ぐったりと目を閉じた友人が、せわしなく動く医療スタッフに囲まれて横たわっていた。


「千鶴……!」


 大声で呼びかけたはずだったのに、声は喉をかすっただけだった。


 いつも堂々と見開かれているはずのエメラルドの目は閉じられ、あっけらかんとした明るい笑顔もない。

 静かに眠っているようにも見えるが、繋がれた酸素マスクや点滴などの管の数、取り囲む医療スタッフたちの多さがその深刻さを物語っていた。


「いつまでそこで飛んでるつもりだ……! 早く戻ってこい!」


 雪輝はそう言って、激しい頭痛と吐き気に目を閉じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る