邂逅②
そこは見たことのない部屋だった。いつの間にか白いベッド中に横たわっていて、薄緑のカーテンに囲われている。
次はここで何をされるのだろう。怖くなって体を縮めると、不意にカーテンが開いた。
「あら、目が覚めたのね。もう大丈夫よ」
白い服の女性が言った。頭から足先まで覆われた服だが、顔の部分は透明になっている。そこからは見たこともない優しそうな笑顔が見えていた。
女性は笑顔で続ける。
「ここは病院だから安心してね。お腹減った? ご飯食べられそうかな?」
女性はそのように柔らかな声で言ったが、その姿は次第に赤く揺らぎ、鳥の姿になった。
「と……鳥だ……!」
千鶴は声を上ずらせた。
「どうしたの? 鳥?」
女性の声は聞こえるが、近づいてくるのは真っ赤な鳥だった。翼を広げ、迫ってくる。
「わあああああっ!」
千鶴は絶叫してベッドから転げ落ちるように逃げた。
「どうしたの! 落ち着いて、もう大丈夫だから!」
そんなことを言いつつ、赤い鳥は冷気をまとって千鶴を追い詰めた。
「来るな! 来るなああああぁっ!」
千鶴は四肢を必死に動かして抵抗した。すると、こんどは体が急に冷えてきた。手足を見下ろすと、鳥と同じ赤い揺らめきが自分の体から噴き出していた。
「い、嫌だっ! 消えたくない! 助けて!」
強烈な悪寒が体を震わせるのに、頭の中は焼き尽くされるようだった。
そしてついに目の前は真っ赤になり、千鶴は冷えた赤い海に沈んでいった。漂いながら時を越えてゆく。
意識はおぼつかなく、体は疲弊し、時間の感覚なども曖昧になっていた。あれから何年経ったかも定かではない。研究所の檻から解放されても、赤い鳥はつきまとい続ける。
疲れ切っていた千鶴は、そこに立つ女性にぼんやりと目をやった。
「『ことりのいえ』へようこそ! 今日からここがあなたの家よ。私のことは花江先生って呼んでね」
膝をついて千鶴と同じ視線の高さでその女性は微笑んだ。豊かな髪をゆるく編んで、眼鏡をかけた優しそうな女性だった。
だがそんな優しそうな顔が、しばらく経つと厄介なものを見るような冷たい目つきに変わるのを千鶴は知っていた。
千鶴は顔を背け、頷くこともなく視線を落としただけだった。
ここへ来ても、赤い鳥に怯える日々は続いた。
慢性的な気疲れは倦怠感を招き、遊び盛りの幼いこの時期に寝込む毎日だった。動いてもいないのに動悸と息切れが幼い体を襲い、常に軽い酸欠のような状態で思考はかすんでいた。
「あれがニワトリ病なんでしょ? ずっとぐったりしてるやつ」
ことりのいえの団欒室。全員で夕食を囲うのが決まり事だった。
千鶴が食欲もなく目の前のクリームシチューに目を落としていると、そんな声が後ろの方から聞こえてきた。さらに数人の声が続く。
「違うよ、ニワトリ病は発狂するやつだ。幻覚が見えるんだってさ」
「発狂してるとこ見たよ! あの子の目、赤くなってた! すっげぇ暴れてた!」
「火星の病気? 移るかもしれないんでしょ? なんで隔離しないの?」
「気持ち悪いから近づくのやめとこ」
そんな言葉にはもう慣れていたし、言い返す気などなかった。千鶴は手を付けていないシチューを置きっぱなしで、そっと自分の部屋に戻ることにした。
ことりのいえでは中等学生にならないと個室はもらえない。しかしまだ八歳である千鶴には、住み込みの花江の部屋の近くに個室が与えられていた。その方が静かに体を休められるからだと聞いていたが、厄介者を追いやる口実であると千鶴は推測していた。
団欒室から自室に戻る夜の薄暗い廊下。不意に千鶴は二階へと続く階段に目をやった。全てを吸い込むような暗闇が階段の上に口を開けている。足は自然とそちらへ向かった。
古い木造建築の階段は、千鶴の小さな足でもギシギシと鳴った。登りきると、廊下の突き当りに月明かりでぼんやりと光る窓がある。
そっと近寄り窓を開け放つと、生温い風が吹き込んだ。窓の下を覗くと、そこには雑草の茂る山肌があるはずだったが、夜の闇のせいか、まるで真っ暗な大きな穴が開いているようだった。
千鶴はぼんやりとその穴を眺めていた。ただそれだけだった。しかしこんな考えがふとした瞬間に生まれた。
「あの穴は、苦しいのも飲み込んでくれるかな……」
まるで誰かが手を伸ばしてくれているように思えた。そこに飛び込めば、暗闇に溶け込んで楽になれるのかもしれない。そんな期待を淡く抱いていると、自然と窓枠から身を乗り出していた。
「何してるの!」
突然背後からそんな声が聞こえたかと思った瞬間、気付いたら窓枠から引きずりおろされていた。
声の主は花江だった。
「危ないでしょ、千鶴君!」
花江はすぐに窓を閉めると、千鶴の肩を強く揺さぶった。
「何してたの! 落ちたらどうするの!」
普段優しい花江の剣幕に、千鶴は「ごめんなさい」と言うしかなかった。千鶴を抱きしめた花江は泣いていた。どうして花江が泣くのか千鶴にはよくわからなかった。
それから数日後。月が明るいある夜。電気もつけずに部屋の隅で体を丸めていると、ノックの後に部屋の扉が開いた。
「起きてる?」
扉に立つ人影は花江だった。
「おなか減ってるでしょ。トマトスープ食べる?」
「……いらない」
「あったかいわよ」
「食べたくない」
そう言ったのに花江は暗い部屋に入ってくると、壁に背を預けて床にうずくまる千鶴の前に膝をついた。
「食べなくちゃ元気でないわよ」
「……元気って何?」
「食べたらわかるわ」
薄暗い中でも花江が微笑んだのはわかった。花江が持っている盆には、野菜がごろごろ入ったトマトスープが二皿ものっている。
「そんなに食べられないよ」
「ひとつは私の分よ。一緒に食べた方が楽しいでしょ? 楽しいとたくさん食べられるわ」
月明かりの中、千鶴は花江からスープを受け取った。湯気の立つスプーンを口に入れるが、あまり味はしなかった。
「千鶴君。私、千鶴君に元気になってほしいわ」
唐突に花江が言った。
「千鶴君も元気になりたいわよね?」
元気というものがどういうものなのか千鶴はよくわからなかった。けれども、ことりのいえの子供たちが大声で笑いながら楽しそうに外で遊んでいるのを元気というなら、千鶴もそれができるようになってみたいと思った。
千鶴は小さく頷いたが、「でも」と続けた。
「無理だよ。苦しい」
食べかけのスープを床に置いた。
すると、同じように床に皿を置いた花江が、千鶴の両肩にそっと手を添えた。
「千鶴君は元気になれる。きっと楽しく笑えるようになる!」
花江の眼差しは真剣だった。
「お願いだから、まだあきらめないで! 楽しいことがたくさん待ってるわ。まだ初等学校にも行けてないじゃない。学校に行けるようになれば、友達だってできるわ」
現実味のないことを言われて困っていると、花江の柔らかい腕が千鶴を包んだ。
「いろんなものに触れて、感じて、知ってほしいのよ。あと少し、もうちょっとだけ頑張ろう。先生も頑張るから」
何をすればいいのかわからなかったが、花江がこうして何度も泣くのは嫌だったので、千鶴は頷いた。
頑張ることで花江がいつものように笑ってくれるならそれでいい。そう思ったが、一方でこれ以上頑張らなければならないことに絶望を感じていた。
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