邂逅③

 しかし数日後、それは差し出された。


「さっき診てくれたお医者さんがくれたお薬よ」


 花江から小さな青いタブレットを受け取って、千鶴は飲み込んだ。食事なんかよりすんなり喉を通る。案外簡単なことだった。


 しかし数分後、強烈なめまいと睡魔が千鶴を襲った。耐えきれずに倒れ込み、千鶴は強制的な眠りの中へ引きずり込まれていった。


 そしてその感覚は、埋もれていた檻の中での感覚を呼び覚ました。


「ここから出せえええぇぇっ!」


 目を覚ますなり、千鶴は飛び起きて目の前の人影につかみかかった。それは花江だったが、千鶴は注射器を持つ白衣の男と混同していた。


 しかしすぐに白衣の男も赤い鳥に姿を変える。千鶴は怯えて花江を突き飛ばしていた。


「嫌だ、来るなっ! 赤い鳥は消えろおおぉぉっ!」


 駆けつけてきた職員らによって、暴れる千鶴は押さえられた。


 千鶴の意識が朦朧としている間、そんなことが何度もあったらしい。閉鎖病棟に入院させられたこともあったが、それは封じられた檻の中の記憶を逆撫でて逆効果となり、すぐにことりのいえに帰された。


 だが、千鶴が暴れて手を上げても、花江は決してあきらめなかった。何度も千鶴を病院に通わせ、医師の指導の下、何種類もの薬を試した。


「苦しいね。ごめんね。でも先生も一緒に闘うから」


 そう言っては千鶴を優しく抱きしめてくれた。千鶴はその優しさだけを頼りに、あらゆる薬を試しては、強烈な副作用と赤い鳥の幻覚やトラウマと向き合い続けた。


 そんなある日、唐突に驚くほどすっきりとした朝がやってきた。


 何種類目かも定かでないが、新しい薬を試した翌朝だった。普段は倦怠感や副作用の吐き気で起き上がれず、花江がホットミルクを持って起こしに来てくれるまでベッドに身を預けている。それなのに、この日は嘘のように体が楽だった。


 千鶴はカーテンの隙間から差し込む眩しい朝日に驚いた。まるで生まれて初めて目を開いたような気持ちになるほどの明るさだった。


 試しに体を起こすと、すんなりとベッドから出ることができた。今まで全身におもりをつけて生活していたのではないかと錯覚するほど体は軽い。


 窓辺に駆け寄りカーテンを開けると、眩しい光と共に鮮やかな緑が目に映った。庭の木々の葉は朝日で黄緑色に透き通り、小ぶりのピンクの花が枝の先端に咲いている。ひらひらと黄色い蝶が舞い、腹がオレンジ色の小鳥が枝にとまった。


 千鶴の目に飛び込んできた様々な色は、今までに見たこともないほどくっきりと鮮やかに輝いていた。


 千鶴は思わず外へ飛び出した。パジャマのままで裸足だったが、そんなことは関係なかった。


 外の温かい空気は爽やかな草木の香りがした。簡単に肺の隅々にまで行き渡るので、息の詰まる感覚など微塵もない。めいいっぱいに吸い込んで吐き出して、また吸って、思う存分に息をした。


 そして鳥の声に誘われて空を見上げたときだった。その呼吸も止まってしまうほど、千鶴は頭上に広がる無限の青に目を奪われた。


 これが現実なのかと疑うほどの、突き抜けるような青色だった。どこまでも広く、どこまでも高い。日光を受けて輝く雲はとんでもなく高いところにあるようだが、青い空はもっと高くて広い。その果てしない空で、トンビが大きな翼を広げて滑空していた。


「千鶴君……!」


 振り返ると、花江が目を丸くして立ち尽くしていた。そして持っていたホットミルクのカップを落としたように見えた。はっきり見えなかったのは、涙がこの瞳を覆いつくして視界がぼやけてしまったからだ。


「花江先生」


 まばたきと同時に、涙がぼろぼろとこぼれた。


「息も簡単にできるし、いろんなものが見えるんだ。葉っぱの緑色も、花のピンク色も、太陽の色も雲の色も」


 駆け寄ってきた花江に強く抱きしめられながら、千鶴は言った。


「先生、今日の空はものすごく綺麗なんだ。いつもこんなに綺麗だったの?」


 花江は千鶴を抱きしめたまま何度も頷いた。


「これが千鶴君の世界なの。よく頑張ったね!」


 花江の腕に包まれて、闘いを終えた安堵に満たされた千鶴は堰を切ったように泣いた。


 そうして千鶴はようやくまともな生活を送れるようになった。時折赤い鳥の幻覚を見てしまうこともあったが、体に合った薬を飲み続けるうちにその頻度も減っていった。九歳にして千鶴はようやく初等学校へ通えるようになったのである。


 しかしそれも簡単なものではなかった。


「頭と目、変な色! みんなとちがーう! きもちわるーい!」

「ニワトリだったら鳴いてみろよ!」


 そんな悪口を浴びせられるのは日常だった。新たな苦しみに千鶴は耐えねばならなかった。


 同じ学年の子供たちだけではない。人口の少ない閉鎖的な田舎では彼らの保護者や上級生にも千鶴の存在はすぐに知られ、彼らの目のあるところならばどこでも偏見に満ちた態度が向けられた。


 幻覚やトラウマの苦しみから解放されて、やっと気づいた人との違い。赤い髪や緑の目はどうしても目立つ。黒や茶色が普通の世界で、千鶴は言い返すことなどできなかった。


 ある日のこと。初等学校からの帰り道、突然体の大きな中等学生たちに囲まれた。


「赤色人種ってホントに髪赤いんだな!」


 そんなことを言いながら、千鶴の髪を乱暴に引っ張った。


「目は緑色なんだろ? どれどれ?」

「赤くなるんだろ! よく見せろよ!」


 千鶴は顔を背けて強く目を瞑った。


「おいおい、お前らやめとけよ。ニワトリ病が移ったらどうすんだよ。火星の変なバイキン持ってるんだからさ、そいつ」

「うわっ! 気持ちわりぃ!」


 そんなことを言われ、千鶴は突き飛ばされた。嫌な笑い声が降り注ぐ。

 そんな時、千鶴をかばったのは小柄な少年だった。


「ニワトリ病も変なバイキンもない。中等学生のくせにそんなこともわからないの?」


 その芯の通った声は、同じクラスの物静かな少年のものだった。


「偏見に流されて自分の目を信じないような人たちには、理解できないのかもしれないけどね」


 それに触発され、中等学生は少年の胸倉をつかみあげた。

 だが次の瞬間、少年は体をひねり、胸倉をつかんでいた学生を蹴り飛ばした。それに千鶴が驚いているあっという間に、中等学生たちは全員地面に沈められていた。


 小柄な少年は、振り返って満面の笑みを千鶴に向けた。


「もう大丈夫だよ、千鶴君」


 戸惑いつつも、差し出された彼の手に引き上げられ千鶴は立ち上がった。


「ありがとう、陽介君」


 千鶴にはじめての友達ができた瞬間だった。


 陽介との出会いで、千鶴は初等学生らしい生活ができるようになった。学校でも帰り道でも陽介と遊んだ。そのまま陽介の家に行くこともしばしばで、陽介と共に格闘技や踊りを習い、寝たきりで弱っていた体はみるみるうちに力を取り戻した。


 そして櫻ヶ原病院で莉々亜と出会う。


「全く同じ人ばかりの世界なんて気持ち悪いわよ。人と違うところがないと、自分を区別できなくて見失っちゃいそう」


 赤い髪と緑の目でもいいのだと、木漏れ日の中でおさげの少女は教えてくれた。


 その頃、偶然見た戦闘機のアクロバットショーが千鶴に衝撃を与えた。

 千鶴にとって解放と自由を連想させる空。見上げることしかできなかったその青色の中を、戦闘機は我が物顔で縦横無尽に泳いでいた。


「あれに乗りたい!」


 千鶴は空を指差し、必死に花江に訴えた。


 入れてもらった飛行クラブで、千鶴はその才能を発揮した。あっという間に機体を自分の体の一部のようにした千鶴に、インストラクターも含めて誰もが息を飲んだ。


 ようやく手に入れた日常の中に、千鶴は自分の歩みたいと思う道を見つけたのだ。


 その道を花江が応援し、陽介が見守ってくれ、雪輝と共に切磋琢磨した。そしてあの時のおさげの少女だと気づかないまま、莉々亜に片想いをした。


 光に満ちた眩しい世界が、ちゃんと千鶴を待ってくれていた。


 そんな世界を再び失うことが怖くて涙をこぼしたこともある。しかしまだ身長が今の三分の二ほどしかなかった幼い頃でも、苦しみを乗り越えることができた。


 それに今は何も知らなかった昔とは違う。成長した今は、昔とは違うやり方で闘えるはずだ。


「そうか。もう怖がる必要はなかったんだ」


 眩しい世界の奥の方に扉が見えた。見覚えのある無機質な鉄板の扉。


 千鶴は歩いて扉の前まで行くと、それを軽く引いた。

 簡単に開いた扉の奥に、幼い頃の自分が立っていた。疲れた顔に、ほんのり笑みを浮かべている。


 千鶴は歩み寄って膝をつき、昔の自分を抱きしめた。


「頑張ってくれてありがとう」


 痩せた体は闘いの証。いずれたくましく成長する体。その細い腕の先、小さな手の大きな傷跡は痛々しい。


「手、痛かったな。……まだ痛いか?」


 幼い千鶴は首を横に振った。


「よかった。俺ももう痛くないよ」


 千鶴は幼い千鶴の顔を見て笑いかけた。


「俺は今すごく幸せだよ。なんでも眩しく見えるんだ。俺の世界は光だらけだ」


 幼い自分が頷いた。嬉しくなって、千鶴の声には一層力が入った。


「だから安心して来いよ。みんな待ってる。これから出会う大切な人たちのために、俺自身の未来のために、何があってもここまで来るんだ」


 幼い自分は微笑んでこう言った。


「もっと未来の俺も、きっとそう言うんだ。だから君も頑張って。未来の自分に『ありがとう』って言われるように」


「ああ。もちろん」


 千鶴は強く頷いた。そしてもう一度昔の自分を抱きしめた。


「苦しい昔があったから今の俺がいるんだ。幻覚もトラウマも、全部ひっくるめて俺だったんだ。もう怖くないよ。弱さだと思っていたのは、全部強さだったんだから」


 腕の中の自分が、嬉しそうに笑った気がした。


 腕の中の温もりはいつしか形をなくし、赤い光となって千鶴の中に溶け込んだ。胸の中が心地よい温かさで満たされた。


 その温もりは胸の中で熱を増し、体中に広がり、腕や足に流れ、指先をも満たした。そして溢れ出た熱は赤い光となって千鶴の体から吹き出し、炎のように燃え上がった。


「赤い光が……熱い!」


 今までは震えるほど冷たかったはずの赤い光。今はそれに熱がある。それは炎とは違って身を焦がすような灼熱ではなく、体や心に力をみなぎらせるようなエネルギーのようだった。


 いつの間にか千鶴が見上げるほどにまで巨大に膨らんだ光は、まるで翼を開くように左右に広がった。そしてそれは羽ばたき、千鶴の体から抜け出るように飛び立った。


「赤い鳥!」


 頭上高く、巨大な赤い鳥が翼を広げて旋回していた。それを目の当たりにしても、今は不思議と恐怖は感じなかった。


 炎のように揺らめく真紅の鳥は優雅にひとつ羽ばたくと、高度を落とし、千鶴の前へ降り立った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る