第36話 炎の貴公子―大河内信也戦(2)
天城明日乃が所長室から出ると、ライムグリーンの制服を来た清掃夫が二人、フロアーにいた。大きな清掃カートを押している。
山積みになった書類群から、新聞や雑誌などの束を、放り込んでいく。機密性のない書類を、資源ごみに回すのだろうか。
「何だよ、これ? クリアファイルと、いっしょくたにされると困るんだよな」
ふと見ると、「天城明日乃様」と書かれた文字が眼に入った。達筆とは言えないが、ていねいな楷書体だった。
「……待って。それ、わたし宛てです」
清掃夫は、明日乃を一瞥(いちべつ)すると、物も言わずに、書類の束を差し出してきた。
手書きの「朝香瞬」という文字が見えた時、サイレンサーのコンタクトをつけていないせいか、明日乃の胸の中に、小さなさざ波が立った。
渡されたのは、三〇センチほどの厚さになったクリアファイルの束で、片手では持てないほどの量だった。
明日乃は、書類を手に、歩いて自室に戻った。テレポートは使わない。当面、サイの発動を一切控えるよう、厳に指示されていた。
明日乃の住まいは、研究所の施設内にある宿泊施設だった。
高級ビジネスホテルの一室のようだが、キッチンもないし、ただ眠るだけの場所だ。明日乃も、入浴と睡眠以外の利用をした覚えがなかった。
備えつけの簡易机に、書類の束を置いた。
明日乃は、洗面室でコップに水を汲むと、チョコボール大の薬を二つ、口に含んで、飲んだ 。これで、安心だ。
近ごろは、薬を毎日服用していた。
あの寒さと震えを独りで耐えるのは、つらくてたまらなかった。
以前の明日乃は当たり前だと思い、普通に耐えていた。だがあの日、瞬に強く抱きしめてもらった時から、慣れていたはずの症状に、耐えがたくなった。
薬さえ飲んでおけば、発作は起こらない。どうせ、長くはない人生だ。
明日乃は、持ち返った書類の束を見た。
二〇冊近いクリアファイルには、その日の授業で配布された資料と、瞬のノートのコピーが、整理されていた。
クリアファイルの一つひとつに、メモ書きがあり、その日、兵学校であった出来事が、ていねいに、箇条書きで分かりやすく、記されていた。
メモ書きの最後には、備考欄のようなものがあり、私信らしきメッセージが書いてあった。
――天城さん、体調はいかがですか。今日は、直太が一人分しかランチを食べなかったので、長介と心配していたら、単に金欠だったそうです。直太が何にそれほど支出しているのか、現在、調査中です 。判明したら、お知らせしますね。
笑わせるつもりなのかも知れないが、瞬にはユーモアのセンスがあまりないのだろう、明日乃はクスリともしなかった。
――天城さん、食事はちゃんと食べていますか。僕は長介のヘルシー料理を食べているので、恐ろしく健康です。ですが、ここだけの話、長介の味付けは、塩分控えめなので、文句は言えないのですが、ちょっと困る時があります。ボギー先生や、天城さんと食べたジャンクフードの味が恋しくなることがあります。
明日乃はこれまで何度、あの夜の出来事を思い出したろう。
病室の天井を眺めながら、窓の外、空を浮かぶ雲を見詰めながら、明日乃は、毎日、幾度も、あの想い出を反芻してきた。
いや、明日乃にとって「想い出」とは、あの夜の出来事しか、なかった。それ以外には、想い出と呼べるほどの体験をしていなかった。したのだとしても、オブリビアスだから、覚えていない。
明日乃は、むさぼるように、瞬の私信を読んでいく。
――天城さん、今日は一日じゅう、雨でしたね。みんな、ズルして、兵学校にテレポートしていました。僕はちゃんと傘を差して登校しました。未だにサイを発動できないので、当たり前ですね(笑)。直太と長介が僕につきあってくれて、結局、三人とも、ずぶ濡れになりました。申しわけないので、ランチをご馳走しました。いつまでもサイを発動できないと見っともないので、今日から、特訓の内容をさらに強化することにしました。今度会った時は、天城さんが驚くほどの腕前かも知れませんよ。
明日は快晴のようですね。天気予報では、雲一つ出ないそうですから、雲を探しても、いないかも知れませんよ。
明日乃は日付を確認した。一〇日以上も前のメモ書きだった。
もしその日にこのメモ書きを読んでいたら、明日乃はどのような想いで空を眺めただろう。その一日をどのように、過ごしたろうか。
――天城さん、ちゃんと睡眠はとれていますか。僕は、相変わらず授業中に居眠りをしてしまいます。でも、教官もL組のみんなも慣れてしまったようで、注意もしてくれなくなりました。平常点は最低でしょうから、筆記試験を頑張る必要がありそうです。
ところで、残念な情報です。僕のサイの発動量が、在籍要件に到達していないために、退学になる可能性が出てきました。まあ、サイも発動できないのに在籍しているほうが、おかしいのでしょうが。……
明日乃は、心臓をいきなり冷たい手で握られたような気がした。
食い入るように、手紙の続きを読んだ。
……ボギー教官によると、TSコンバットの新人戦で決勝に残れれば、大丈夫だそうです。あの人も、相変わらず無茶を言う人ですよね。みんな、心配してくれて(当然ですよね?)、宇多川さんに特訓してもらうことになりました。自信は全くありませんが、ベストを尽くすつもりです。
オブリビアスの僕に、戻る場所はないのですが、負けたら、その時に考えるしかありませんね。あ、僕が退学になっても、ノートについては大丈夫ですよ。宇多川さんと長介に、頼んでおきましたから。タコ入道(失礼)の守衛さんに頼めば、所長室経由で、天城さんに届けてもらえるようになったので、安心です。でも、一応、届いているかだけでも、知らせてもらえると、うれしいです。
明日乃は、「タコ入道」という名の守衛はもちろん、これまで瞬が、明日乃のために積み重ねてきたことを、何も知らなかった。
日付けを確認するまでもなく、瞬は毎日、研究所に来ては、守衛室にクリアファイルを届け続けていたことになる。
所長室でずっと放置されているとも知らずに、明日乃への手紙を書き綴っていたのだろう。
さっき明日乃が気づかなければ、瞬の手紙もすべて、廃棄処分されていたはずだった。
――天城さん、特にお届け物はないのですが、日課になってしまったので、お手紙だけ、書かせていただきます……
明日乃は、手紙をいったん机の上に置くと、携帯端末を開き、兵学校の行事予定表を見た。
今日、五月五日の欄を探す。新人戦の準決勝と決勝の行われる日だった。休日ではなく、登校日になっていた。
サイの発動もできない瞬が、勝ち残っている可能性は低い。だが、真面目な少年だから、観客席にいるはずだ。行けば、確実に、会えるだろう。
場所は、新国立競技場だった。
携帯端末で調べてみると、直線距離で、約二〇キロメートル。さっきサイレンサーの薬を二錠飲んだから、新国立競技場までのテレポートは難しいだろう。
決勝戦の開始は、午前十一時からだった。
電車なら間に合うかも知れないが、明日乃は身辺警護を理由に、公共交通機関の利用が許可されていなかった。
警備課にかけ合って、公用車で送迎してもらうしか、ない。
明日乃は、自室を駆けでた。
走りながら、明日乃は自問自答する。
(……わざわざ登校して、あなたは、何をするつもりなの……?
……朝香君は、あなたの敵なのよ……。
……いつかは手を下さなければならない、メサイアなのよ……。
……朝香君に会って、どうするの……? 何を言うつもりなの……?
……あなたは最近、どうかしている……)
明日乃は、研究棟の一階にある警備課に着くと、身分証明書を見せた。
「……空操研(空間操作研究科)の天城です。公用車の手配を。一台、至急、お願いします」
「失礼ですが、ご予約は?」
いやいや仕事をしているようなキツネ目の中年の女だった。
「……していません」
「……少々、お待ちください」
警備課のドアが開き、一人の禿げ頭の老人が出てきた。
夜勤明けなのだろう、あくびをしながら、気持ちよさげに伸びをしていた。頭頂に髪がなく、タコのような頭をしていた。もしかしたら、瞬の書いていた「タコ入道」なのかも知れない。
キツネ目の女が、録音テープのような口調で、説明を始めた。
「申しわけありません。先日のテロ予告の件で、現在、警備体制が強化されておりまして、車両警備の人員が足りません。今すぐ手配しても、午後一時過ぎの配車になります。お待ちになりますか?」
明日乃は小さく首を振ると、小さな声で言った。
「……所長室につないでください。空操研の天城と言えば、わかります」
明日乃の声を聞きつけたのか、タコ入道のような老人が、急に、伸びを途中でやめた。
「……さっき、研究所を出られたそうですが……」
「……十一時までに、新国立競技場にどうしても、行く必要があるんです」
「そうおっしゃいましても、所長からは、警備に万全を期すよう言われておりまして……」
タコ入道っぽい老人が、明日乃のほうに、歩み寄って来た。
「おや、もしかして、お嬢さんが、天城明日乃さんかな?」
明日乃が黙ってコクリとうなずくと、タコ入道は笑い出した。
「やっとお嬢ちゃんに会えたわい。わしは来る日も来る日も、お嬢ちゃんの名前を聞かされとったからな。これでわしも、朝香君に、自慢できるぞ」
渾名なのか、本名なのかは知らない。だが、どうやら、この老人こそが瞬となじみの「タコ入道」に違いない。そう思っただけで、明日乃は、なぜか「タコ入道」を信頼していい気がした。
「ほう、すごい別嬪(べっぴん)さんじゃのう。朝香君が毎日、お嬢ちゃんを訪ねてくる理由が、わかったわい」
タコ入道は、明日乃をじろじろと見た後で、キツネ目の女をふり向いた。
「若いの。ちょっと、待ってくれんか? わしが警備に入れば、どうじゃな?」
キツネ目の女は、露骨に迷惑そうな顔をして、吐き捨てた。
「タコさん! 勝手なことを仰っては、困ります!」
実際に、「タコ」とあだ名されているのか。それとも、「多胡」、「田古」といった姓なのだろうか、あるいは下の名前かも知れない。
タコ入道は、顔を真っ赤にして、受付の机を叩いた。
「わしに向って、勝手とは、何じゃ! 若いのは、とにかく責任を負うのが怖うて、何でも『できん、できん』と言いおる。そうしておけば、事故も起こらんで、安全じゃからな。じゃがな、わしらの役目は、安全をしっかり守りながら、研究所の先生方のお仕事の手助けを、して差し上げることなんじゃ。若いお嬢さんじゃから、三種警備で足りるじゃろうが。さっき、三三番の車が帰ってきとったぞ。もう小一時間も休んでおるし、出動できるはずじゃ……」
えんえんと続く、タコ入道の話は、いつの間にか説教に変わっていた。
根負けした様子のキツネ目の女が奥に消えると、しばらくして戻って来た。
「警備が一人足りませんけど、本当にタコさんが、回るんですか?」
「当り前よ。わしは警護の鬼じゃからな。このお嬢さんに万一の話があれば、朝香君に顔向けできんわい」
タコ入道は、明日乃を見ながら、大声で笑った。
二〇分後、明日乃は、公用車の後部座席にいた。
前後を公用車が警護している。助手席には、タコ入道が乗っていた。
「……タコさん。朝香君とは、知り合いなんですか?」
「ああ、友達じゃよ。最初の日は、大ゲンカしたがな」
「……どうして?」
「お嬢ちゃんに会わせろって、うるさかったんじゃよ。雨がザアザア降っとるのに、しつこう粘りおってな。会えんなら、届け物を渡してくれときたもんよ。じゃが、そんなもの、うかつに受け取って、爆弾が入っとったら、どうするんじゃ? ちょうどその時、所長さんがいらしてな、所長室で受け取って下さるっちことになって、丸く収まったがのう」
「……朝香君は……毎日、来ていたんですか?」
「わしの夜勤の間に、夜明け前と夜中に、だいたい二回、来とったな。疲れて寝てしもた、いうて、真夜中に来たこともあったわい。研究所をジョギング・コースにしとるらしいわ。わしも、朝香君が来んと、何かあったんかと、心配になるくらいじゃったわい」
いつか瞬は、顔を真っ赤にして、明日乃のことを、好きだ、と言った。
好きだから、瞬は毎日、研究所を訪れ、明日乃にノートのコピーや手紙を届け続けたのだろう。
だが、明日乃には、人を好きになるという感情が、まだ十分に理解できない。
「朝香君は、お嬢ちゃんのことが、よほど好きなんじゃのう」
タコ入道が後部座席を振り返りながら笑うが、明日乃は、窓の外を見たままだ。
「……どうして……分かるんですか?」
「とにかく一生懸命だからじゃよ。朝香君は、お嬢ちゃんのことになると、必死になりおる。会えんと分かっとっても、毎日やってくる」
「……一生懸命って?」
明日乃は、何かに一生懸命になったことがあるだろうか。授業に出ても、まともに聞いていない。サイの発動も、最初からできるから、鍛錬などろくにしない。殺害指令も役目だから、実行しようとしただけだ。
明日乃は、何事に対しても、一生懸命になど、なった覚えがなかった。
「ほら、お嬢ちゃんもさっき、一生懸命になっとったじゃないか?」
明日乃は、ハッとした。
新人戦があると知り、明日乃は、十一時の試合開始に行こうと、警備課にかけ合った。自分でわざっわざ公用車の手配を頼むなど、初めての経験だった。一生懸命だったから、やったのではないか。
黒服の男たちから、逃げようとした時、明日乃は一生懸命だった。生きたいと願った。それはなぜか。
瞬といっしょに襲われた時、命の限り、生きたいと願った。あの時の明日乃は、一生懸命ではなかったか。
「朝香君は、毎日毎日、ようも飽きんと、届け物をしとったが、お嬢ちゃん、そんなに大事な物じゃったんか?」
タコ入道の問いに、明日乃は、流れていく車窓を見ながら、小さな声で答えた。
「……はい……とても……大切な、ものです……」
(……わたしが、独りで、苦しんでいる時にも……
……ずっと、わたしを想ってくれている人が、いた……
……でも、朝香君に会って、どうするの……?
……何を言うの……?
……会って、何の意味があるの……?
……そんなことは、知らない……。
……わたしは、朝香君に……会う……。
……会いたいから……会うのよ……)
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■用語説明No.36:時流解釈士(預言者)
時流解釈すなわち、未来予知ができる日本の最高の国家資格。
クロノス三士の頂点に位置付けられ、「預言者」と俗称される。
時流解釈能力は、数千万人に一人と言われるほど稀有の能力であるため、適性が認められ、かつ他の時流解釈士により認められた者しか、養成を受けられない。
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