ワールドエンド・パッチワーカー
しぐれ煮
Stage 03 / 辺境を望む丘、半分の月の下
──それは、語り継がれる英雄譚。王都の舞踏会で、港町の酒場で、夜ごと詠われる物語。
とある冬の日、月の無い夜。緋髪の少年が生まれ育った辺境の村は、異形の魔獣に襲われた。
一夜にして肉親と故郷を喪った少年は、傭兵となって幾多の戦場を駆け巡る。
類稀なる幸運か、或いは生まれ持った直感の賜物か、年若い傭兵は多くの戦功を挙げていく。
魔獣の軍勢に怯える人々を救い、試練の数々を乗り越えて、彼は仲間と共に、遂に王都を解放する。
喜びも束の間、助け出された王女の命を受け、英雄率いる征伐軍は攻勢へと転じた。
太陽の沈む辺境の最果て、太古の城砦こそが決戦の地。心優しき英雄は、万魔の主たる妖術師と相討って──
†
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森を抜けた途端、吹き付けてきた冷たい風に、ヨキは思わず足を止めた。本格的な冬の到来を感じさせる北風が、正面の丘と背後の森に挟まれて勢いづいて、枯草を揺らし、薪を背負った少年を少しばかりよろめかせた。
ヨキは北風から顔を背けて、小高い丘を上る小道を歩き始めた。雲ひとつ無い空は紅く染まり、太陽は既に丘の向こうに消えている。普通に歩いていたら、村に辿り着く頃には辺りは真っ暗になっているだろう。
急がないと、と小さく呟いて、少年は歩調を速めた。心配した母親か妹のどちらかが村長の家に駆け込めば、無用な捜索が始まってしまうかもしれなかった。
段々と暗くなっていく空では、ちょうど半分の月が、夜闇を引き連れて天頂に差し掛かりつつあった。
足元の覚束ない、薄暗い小道を歩く羽目になった原因を考えて、ヨキはため息をついた。薪作りの仕事を終えた後、森の資材小屋で一休みしたときに、うっかり寝入ってしまったからだ。つまり、自業自得であることは明白だった。
「それにしても、変な夢だったな……」
加えてとても長い夢だった気がすると、歩きながらも回想する。
夢の中のヨキは英雄で、見たことも無い魔物と戦いを繰り広げていた。窮地に陥った戦友を助けるために、嵐の中、馬を走らせていた。煌びやかな王宮の謁見の間で、偉そうな大臣から恩賞を受け取っている場面を思い出して、彼は首をかしげた。
辺境の村に生まれたヨキは、ずっとそこで育ってきた。王宮がどんな場所かなんて全然知らないし、大臣にだって会ったことはない。そもそも、「大臣」なんて言葉、自分は知っていただろうか?
思いの外はっきりと記憶に刻まれた夢の内容に、ヨキは首を振った。
夢の始まりはどうだっただろう? 冬風の吹く夕暮れ時、薪を背負って森から帰る途中。村から火の手が上がっているのが、丘の頂上から見えて、それから。
「いや、夢の話だろ」
そんな言葉を口にする反面。半ば無意識のうちに、少年は走り始めていた。
「はっ、はっ」
何度もつまづき、転びそうになりながら、息を荒げて小道を走り抜ける。あれはただの夢だ、何も心配することはないと自身に言い聞かせつつも、ヨキの足が止まることはなかった。
あと少しで丘の向こうが見えてくる。丘の麓に開拓民の村があり、その先には褐色の平原が地平線まで続いている。夕陽に照らされた辺境の大地を眺めるのが、ヨキの日課のようなものだった。
普段通りの景色が見えることを願って、少年は頂上へと駆け上がった。沈みかけた太陽の光に目を細め、最後の一歩をもつれさせたとき。
「えっ?」
ぐらり、と、世界が揺れた。
大地が揺れるというのは、ヨキにとって初めての体験だった。混乱した思考の中で、背負っていた薪をどうにか放り捨て、片手と片膝を地面について姿勢を低くする。
何が起きているのか理解できないまま、不規則な揺れに耐え続ける。やがて少しずつ揺れが収まってきていることに気付いて、少年はいつの間にか止めていた息を吐いた。
顔を上げ、膝を震わせながら立ち上がる。丘の向こうに顔を向けて、そのままヨキは固まった。
「これは……」
少年の視線の先には、何も存在しなかった。
†
少年が生まれ育った村だけではなく、褐色の平原も、地平線に沈む太陽さえもが、視界のどこにも見当たらなかった。
丘を下る小道は途中で途切れ、そこから先は完全な暗闇に塗り潰されている。暗闇は周囲を取り囲むように広がっていて、ヨキが立つ丘と、背後の森だけを残しているように見える。森の先にあるはずの山脈もまた、見て取ることはできなかった。
天頂で輝く半分の月と、いくつかの星の光が、かろうじて辺りを照らし出していた。
「ま、瞬き程の輝きと、蛍火程の温もりを──」
腰に下げていたランタンを左手に持ち、着火のまじないを呟きながら、ヨキは暗闇を見据える。村の皆は無事なのか、そもそもこの状況は一体どういうことなのか。
灯りを手に、無言のまま一歩、二歩と足を進めていく。丘を下り始めた少年に対して、何も見えない暗闇は一切の変化を見せなかった。
さらに数歩。暗闇まではまだかなりの距離があるというのに、これ以上進んではいけない、という予感がヨキの足を止めた。
行けば危険が待っている。それも、少年に対処できるような、生半可な代物ではなく。
「……だけど、確かめないと」
どうにか言葉を搾り出し、自身を勇気付け、直感に逆らって再び足を踏み出そうとする。そんな少年の背後で、がしゃん、と何かがぶつかったような、地面に落ちたような、大きな音がした。
「あ、いたた……」
か細い声を耳にして、ヨキは腰に下げていた手斧を掴み、留め具を外して素早く振り返った。少し前まで立っていた丘の頂上に、人影がひとつ。
月光を頼りに目を凝らせば、それは少女であるように見えた。薄手の白い服を纏った少女は、見たことも無い金属製の椅子──車輪のついた、随分と精巧そうな代物──に座り、膝の上に大きな本を広げていた。癖のある黒髪が風に揺れ、眼鏡にかかるのを煩わしそうに払いながら、少女は本から顔を上げた。
視線が交差する。眼鏡の奥から少年を捉えた黒い瞳は、迷うように揺れていた。それでも、先に口を開いたのは少女の方だった。
「あ、えー、えーと……言葉、通じるかなー?」
恐る恐るの問いかけに対して、ヨキは少しだけ緊張を緩めた。夢で見た魔獣たちのように、いきなり襲ってくるようなことはなさそうだった。
手斧を構えたまま、ゆっくりと首を縦に振る。少女が安堵の表情を浮かべたところに、今度はヨキが声をかけた。
「お前は誰だ。一体、どこから現れた」
「
アオイと名乗った少女は、人差し指を顎に当て、眉根を寄せてぶつぶつと思案し始める。
話している内容は半分も理解できなかったが、どうやら対話できる相手であるらしい。そう判断して、ヨキは左手で背後の暗闇を指し示した。
「これは、お前がやったのか?」
「え? 違う違う。この状況のことなら、全然、まったく、無関係だよ。どっちかって言うと、ヨキ君と同じ被害者側なんだから」
あはは、と慌てたように両手を振る少女に向かって、少年は一歩を踏み出した。手斧を握る右手に、再び力が入る。
「俺はまだ、名乗ってなかったぞ」
「えっと、その……待って、ちょっと待って! それにはちゃんと理由があって!」
月の光を照り返した刃物を見て、アオイは反射的に車輪へと手をかけた。しかし、距離をとるべく動かそうとした車椅子は、大きくがたりと揺れて止まってしまう。
何事かと見下ろせば、そこにはヨキが投げ捨てた薪が散らばっていた。手頃な大きさの木材が、車椅子の動きを完全に封じている。
「あわわわ……」
アオイは近づいてくる少年を直視することもできず、どうか命ばかりはお助けを、とばかりに両手を組んで下を向いた。
「そーゆーのはいいから、なんとかしてよ!」
哀れな少女が小声で非難の声を上げるものの、それに応えるものは無かった。少女の目の前までやってきたヨキと、それに気付いて恐る恐る顔を上げたアオイの視線が、再び交わった。
暫しの沈黙。先に口を開いたのは、困惑気味の表情を浮かべた少年の方だった。
「別に襲ったりしねえって。それより、ちゃんと説明してくれるんだろうな?」
「も、もちろんだよ!」
近づいてみれば、無害そうな町娘のように見えた。眼鏡で隠されてはいるものの、地味な顔にはそばかすが浮いている。短めに切り揃えられた髪の毛はきちんと手入れされていて、良家の育ちなのだろうかと想像させた。
ヨキは得物を腰に戻して、車椅子の横に屈みこんだ。車輪に引っかかった薪を引き抜いては小道の脇に放り投げていく少年の姿に、アオイは肩の力を抜いて、ほっと息をついた。
「……えっと、ありがと」
「足が悪いんだな」
「んー、まあ、ちょっと、事故でね」
少女は曖昧に応え、苦笑いを浮かべた。あまり思い出したくない話なのだろうと推測して、ヨキはそれ以上することなく立ち上がった。
「で、どうして俺の名前を知ってたんだ」
「それは、えーと、この……」
アオイは膝の上で開いていた大きな本を閉じて、重厚な革表紙に記された表題を指でなぞる。書物の名は、
「……コデちゃんに、ここの状況が書かれていたから」
欠片も敬意を感じられない略称を告げた後、アオイは再び本を広げた。
「それで、ここ見てみて」
「俺、読み書きできないんだけど」
「いいからいいから」
訝しみつつ、本を覗き込む。書かれている文字は、やはり少年には読むことができなかった。しかし、半分ほどが白紙だったページに、次々と文章が書き加えられていく様子を見て、ヨキは目を見開いた。
「どうなってるんだ?」
「この本には、いま起きてることがずーっと書き足されてくんだってさ」
「へえ」
感心したように相槌をうちながら、ヨキは姿勢を戻して頭を掻いた。
「聞いても、いまいち分からないな」
「まー、私もちゃんと理解してるわけじゃ……ふぁ、ふぇ……」
っくしょいこのやろー、と大きなくしゃみをした後、アオイはずびずびと鼻をすすった。
「……うう」
「なんだ、やっぱりその格好じゃ寒いんだな」
「日本は夏だったんだよ」
ぶるりと震え、腕を何度もさすりつつ、口をとがらせて抗議する。どうにかしようにも、寒さをしのぐ助けになりそうなものは、二人とも持ち合わせてはいなかった。
準備する時間なんか全然無かったしねえ、と下を向いて小声でぼやくアオイを訝しげに見ながら、ヨキは次善の策を提案する。
「村まで我慢できれば、暖を取れるんだけどな」
「たぶん、ヨキ君の村には行けないね」
ふたりの視線が丘の下へと向けられる。
「あの暗闇の先はどうなってるんだ?」
「何も無い、世界の外側。あそこから一歩踏み出せば、命の保障は無いんだってさ」
「それじゃあ、俺の村は?」
アオイは肩をすくめた。
「わかんない。無事だとしても、歩いては行けないんじゃないかな」
「……そうか」
ヨキは考える。どこか引っかかる答えだったが、アオイは自らを被害者と言っていたし、今も害意は感じられない。
今立っているこの丘と森だけが残されているのなら、選べる行動は自ずと限られてくる。
「ひとまず森小屋に行こう。薪は十分にあるし、食糧の備えも少しはある」
「うん、りょーかい。それなら、ちょっと急いだ方がいいと思うけど」
本を閉じ、身構える少女の言葉に合わせるように、ふたりの足元から低い地鳴りの音が響きだした。
一呼吸置いて、再び地面が小刻みに揺れ始める。徐々に強まる揺れに慌てて膝をついたヨキに対して、アオイは落ち着いた様子で言葉を続けた。
「この世界の
†
二度目の地震が収まった後、周囲の様相は再び大きく変化していた。
丘の西側は完全に消え去ってしまっている。頂上付近にまで迫ってきた世界の境界線──何も見えない暗闇から離れるために、少年と少女は森へと向かう小道を下っていた。
星空はひび割れ、今にも崩れ去りそうな中で、半分の月だけが輝きを増している。
「太陽が無いのに月が光ってるのって、なんか不思議な感じ」
背後から聞こえてくるアオイの言葉に、ヨキは首を傾げた。一体、何がどう不思議だというのだろうか。
舗装されていない小道でがたがたと揺れる車椅子に苦労しつつ、アオイは膝の上に広げたままの本へとちらりと視線を向ける。
「だって、反射する元の光が無いんだよ……って、こんな状況じゃ、何が起きてもおかしくないけど、さ」
大きな石に引っかかり、車椅子ががたりと揺れた。振り向いた少年に対して、アオイは痺れた手を振って見せる。
「この辺で休憩するか?」
「んー、大丈夫。このまま森小屋まで行こう」
再び進み始めた車椅子の横に立ち、歩調を合わせて、ランタンで足元を照らす。ヨキの心配りに恐縮しつつ、アオイは車輪を動かし続けた。
「足引っ張っちゃってるねえ」
「気にするなよ。お前が来なかったら、俺はここでくたばってたんだろ」
「多分、だけどね」
自ら世界の外側へと踏み出すにせよ、崩壊に巻き込まれるにせよ、どちらにしても結末は同じだっただろう。少年の直感が、自分自身にそう告げている。
「一応聞くけど、生き残る方法はあるんだよな?」
「その点は大丈夫だよ。一度試して、成功してるから」
「ならいいんだ」
請け負うように膝の上の本を叩くアオイの様子に、ヨキは軽く頷いた。何をどうするのかは聞いても分からないだろうと、視線を小道の先へと戻す。
ヨキの表情が引き締められたのは、その後すぐのことだった。車椅子の前を遮るように、ランタンを持った左手が差し出される。右手は再び手斧を握り、正面を警戒するように構えられた。
「ヨキ君?」
「……何か、居るぞ」
森の奥からゆっくりと出てくる何者かの姿に注意を向けたまま、少年は小さく呟いた。
月光に照らし出されたそれは、全身を暗い灰色の毛に覆われていた。両手に生えた爪は長く伸び、狼めいた口からは、ちろちろと赤い
まるで二つ足で歩くことに慣れていないように、ゆらゆらと左右に揺れながら近づいてくるその姿に、ヨキは目眩を覚えた。
そこに居たのは、今まで見たことのない──夢の中で何度も出遭った──異形の魔獣だった。
†
→ Stage 04 / 夜の森、崩れゆく世界の欠片
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