第14話 「僕は今すぐにでも帰りたい」

 緩い上り坂を早足で登る。長い九十九折の坂だ。両脇は林で当然僕意外に人の気配などない。樫尾町の方から誰かがこちらに向かって来ることはおそらくない。僕は当初考えていた道を外れて峠に向かっている。近道を選んだんだ。


 先が見えないこの道が、本当に向こう側に繋がっているのかと不安になるが、地図を見る限り間違っているはずはない。


 国道の方が確実だったが大きく迂回する上に、目立ちすぎると思った。わざわざ僕が国道を避けたのは検問の可能性があったからだ。


 今の僕は国防軍にすら見つかってはいけない。僕が向こう側に向かうことも、僕がここに居ることも、誰にも知られてはいけないんだ。


 ところが背後でざわと空気が震えるのを感じた。


 立ち止まり後ろを振り向く。何か音が聞こえる。車だ、車列、しかも大きくて重い車の。


 国防軍だ、咄嗟に街道脇の林の中に飛び込んで身を潜める。


 見つかれば、ミンカンジンがうろうろしていると邪魔だ、とネコのように首筋を掴まえられて大人しくさせられ、北岸の駅へ連れて行かれることは明白だ。ましてや僕のような子供ならなおさらだ。


 比較的大きな木の陰に隠れてそっと様子をのぞいてみる。


 昨日山鍋市で見た車列とも似ていたが、あれは今朝の軍用貨物に載せられていたジープや自走砲だ。山鍋市で見た正規軍装備はグレーだったのに対し、こちらはカーキグリーン。ということは彼ら、島田薫たちが所属する部隊かもしれない。車列の轟音の中で言葉にならない呟きが口腔に漏れた。


 彼らが列をなす道路をしり目に、林の隙間から覗く空は青だった。天気はいい。明るい状況でないことは確かなはずだが真っ青な空を見上げると幾分心も落ち着く。


 二台、三台と続く車列はそう大掛かりな装備ではないことが伺える。兵員輸送トラックも三台、小隊規模だ。樫尾町に向かう増員なのだろうか。


 国道を通らないという事はこちらの方が作戦上都合がいいという事なのだろうか。とにかくそれでもこの道が樫尾町に繋がっていることの証明にはなる。


 スピードを上げ走り去ってゆく最後尾の兵員輸送トラックの中に彼、嶋田薫の明るい金髪が見えたような気がした。だから彼らが過ぎ去った後もしばらくとどまり、ずいぶん間を空けてから僕は林を抜け出した。


 まだ樫尾町らしい町は見えず、いまはただ両側を山にはさまれ、曲がりくねった緩やかな勾配が続く道だけしか見えない。


 足はまだ全然いける、疲れてもいない。ただ、さっきの小隊がこの道を使っているのだとしたら後続の部隊だって来るかも知れない。モタモタ歩いていたらすぐに見つかってしまう。


 開けた区間では出来るだけ慎重になって小走り、後ろを振り返り、を繰り返さなければならなった。炎天下にこんなことをやっていると嫌でも汗が噴出してくる、おまけに寝不足、ろくなものは食べていない。


 後何キロくらいだ? もうずいぶん歩いたはずだぞ。ゆるい勾配とはいえ山を越えるような道だ、長く続けばどこかで休まなきゃ体力にも自信がない。


 せっかく少しでも早く着けるように近道を選んだのに。


 ただ、正攻法で行っていれば、僕はまだ山鍋市から北岸市に向かう列車の途中か、橋の手前で無理やり降ろされて、強制的に避難させられているはずだった。


 でもここまで全部自分で選んでやってきた。奥田との最初の電話から二十四時間が経とうとしている。丸一日だ。その間彼女がゆっくり休めた時間なんてないだろう。ずっと緊張の連続だったはずだ。


 それに比べれば僕の一日なんてどうってことない。


 そう考えていた矢先に前方は四百メートル以上は裕にある直線の急勾配、とりあえず先にある峠を越えるまでは隠れられそうな場所もなく立ち止まれないと容易に予測できた。


 僕は気合を入れなおし、ウェストバッグをしっかり体に密着させ、後ろを用心深く確認してから駆けだす。


 重い靴に火照り切った身体。二百メートルも走ると、もう前しか見る余裕がなくなってきた。これじゃまるでマラソンだ、部活で慣らしてきたとはいえ走るための格好じゃない。僕は必死で足を動かすことだけに専念した。足腰は今にも止まりそうだったが、頭は歯を食いしばれと、それを拒んだ。


 視界には自分の影しか映っていなかった。とにかく前へ一秒でも早く一歩を踏み出すことだけを考えていた。


 前方からかすかに吹く風が潮の臭いと火薬の匂いを運んできた、いや、正確にどちらの臭いなのか判別できるほど今の僕の感覚は正常じゃないだろう。峠のてっぺんにつく頃には息も絶え絶えで、もう少しで足がもつれて転ぶところだった。


 反射的に僕は脇の茂みに飛び込み大の字になって仰向けに倒れた。肺が酸素を欲しがってゼイゼイと大きく胸が隆起を繰り返す。


 閉じたまぶたに太陽光が差し込んでくる。


 草のにおいがする。ずいぶん日が昇ってきている。


 手をかざしながらかすかに開いた視界の隙間には真っ青な空と真っ白な雲のコントラストが映る。


 綺麗だ、南洋の島の空とは少し違うけど、空気が澄んでいる事がわかる。この天国のような空だけを見ている限りでは、誰も地上で戦争が起きているなんて想像も出来ないだろう。


 神が、神がもしいるなら。


 地上の人の行いを見てどう思うだろうか。いや、何も思ってなんかいないんだろうな。僕は苦々しく青のその向こうを睨みつける。


 あとは下るだけだ。ここが峠のてっぺんなら樫尾町が一望できるはずだった。町の様子がどうなっているのか早く確認したい。


 息が正常に戻ってきた頃に僕は大きく深呼吸を繰り返す。そして起き上がろうとして横になったとき、僕の目に飛び込んできたのはまさに地獄だった。


 黒煙を上げて燃える町。


 青空はここまで、ここから先は全ての色が灰色に染まっていた。この峠を境に、地獄が始まっていた。そしてあの町、樫尾町と思われる町に続く下り勾配はまさしく地獄へ通じる道だった。


 とてつもない落差に僕はしばらく半身を起こしたまま身じろぎ出来ず、口をあけてただ見守るだけだった。


 小規模な爆発音が聞こえ我に返る。


 体中から汗がひき、細かく震えている。


 行くんだ、行かなくちゃ。


 何のためになんて今更考えたって無駄だ。すべて本当だった。


 南岸の僕の町では今もまだのどかな風が吹いているのかもしれない。


 クラスの皆は家で勉強をしているのだろう、山内美咲は今日も花を売っているのだろうか。


 ただ僕の家だけが、僕がいなくなったことに慌てふためいているだろう、それは申し訳ないと思っている。ここで僕が死んでもだれも気付かないだろう。僕はずっと行方不明者のままかもしれない。島田薫の言葉を借りれば、小吉か。


 この先の想像がまるでつかないな。奥田に会えるのか、彼女が無事なのか、それに僕が無事に帰る事が出来る保証なんてどこにもない。何も知らなければ南岸の僕は今頃目覚ましと、太陽を相手に格闘しているはずだった。


 でも、とうさん、昼間からビール飲んでる場合じゃなかったんだよ。


 かあさん、ガーベラの花、今もまだここで、元気だよ。


 じいちゃん、まだ自分でケツ拭けるかどうかわからないけど、できるだけやってみるよ。


 南辺のみんなも、島のみんなも、山内も、元気で、また会えたら……また会えたら、会えるなら……僕は今すぐにでも帰りたい。みんながいる平和な町へ。争いのない場所へ。今すぐにでも逃げ出して、みんなの元に帰りたい。


 僕は崩れそうな心を押さえて、こぼれそうな涙をこらえて、携帯を開きコールを始める。指が震えて上手くボタンが押せない。


 携帯電話を地面に置いて人差し指で何度となく呼び出した電話番号へと発信する。奥田を示す文字列がディスプレイに流れてゆく。


 この小さな電子機器がつまった箱は相変わらず無機質な発信音を鼓膜に響かせる。


 ――奥田、電話に出たら、もう避難して無事なところに居るって言ってくれないだろうか。元気な声で。


 木田君そんなところで何してるのって、そんなところに居たら危ないよって、すぐに私たちのいる場所に戻ってきてって、一緒に逃げようって。


 そう言ってくれないだろうか――


 長い長い永遠とも思えるほどのコールが続いた。


 そして青い空と白い雲に囲まれた峠に風が吹いた。

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