第12話 「全部、うるさい」

 到着を待たずして兵員車輌はあわただしく動き出した。皆めいめいにヘルメットや帽子を着用、ごつい袖なしの防弾ジャケットのようなものを着る者、ブーツの紐を締めなおす者、ザックを担ぐもの、予備役から召集を受けたのがいかに突然だったのかが統率性だけでなくここにも現れていた、それぞれの装備がバラバラだった。


 車内に不穏なブザーが鳴り響き早口に何かを捲したてた。あれが合図だったのだろう、おそらく周辺で既に戦闘が始まっているのだ。島田は僕をちらりと見やったが後は自分の支度に専念した。お前のことなど構っている暇はない、その言葉通り。


 朝日が作り出すビルの陰は路線上にまだらに移り変わる非現実的なビジョンを不気味に浮かべて、鉄道の規則的なレールの音だけが市街に響く。朝を迎えた鳥すらさえずりを止めてひっそりと身を隠している、僕がかつて経験したことのない静けさはさながら嵐の前とも取れた。


 ここに武装はなく、皆が丸腰である。本隊で個人武装は支給される手はずだといっていたが、このまま無事に着ければの話だ。今できることはこの貨車が攻撃目標にならない様祈ることと、仮に攻撃を受けてもそれらが飛散させる破片から身を守ることのみだった。前列の砲台や戦車を載せた貨車の上でもあわただしく出撃の準備が始まっていた。シートを外しシールを解除し、砲塔を点検している。


「おい、お前」島田薫が突然話しかけてきた、ヘルメットで半分隠れて深く黒い目はよく見えなかった。


「名前は」


「え?」


「名前だ、お前の!」


「木田、伸也……です」


「わかった、俺は伸也のこと覚えておく、伸也も俺のことを覚えておいてくれ、この世で最後に話した仲だ、こっからは“地獄の三丁目にようこそ”って奴だ」島田薫はにやりと口元をゆがめた。そして早口に続ける。


「伸也が次に俺の名前を見るのが映画館の退屈なエンドロールなら大吉、病室の札なら中吉、行方不明者リストなら小吉、墓石なら凶だ。こっからは運しかねぇ、人生劇場に監督がいるならどうか俺を殺さないでくれと、いい演技をするだけだ。俺は俺でここ一番の最高の演技で主役の座を奪ってやる、この戦争映画のな! 伸也にも物語がある、お前の物語だ、どんな形でもいい、ハッピーエンドにしろ!」


 いつしか島田薫は僕の両肩をつかんで、じっと僕を見ていた。深い、黒い大きな瞳は僕の中身を見透かすように力強かった。僕は力が抜けて泣きそうになった。こんな究極の世界があるだろうか、もう目の前には生きるか死ぬかの選択を運に任せるしかないという状況。


 僕の生きてきた平和な世界では、生きる権利も死ぬ自由もある、何も考えなくても誰も殺そうとはしないし、誰かを殺すほどの理由も見つけることは出来ない。ほとんど全ての人がそう言える世界。他人に干渉することもなく、ただ決められたことをこなしていれば生きてゆける世界。


 世界を変えよう、何かをしでかしてやろう、役に立とう、そう奮起してぬくぬくとした部屋を出るのも良い、自分の力で何が出来るのかと諦観して割り切りの道を歩むのもまた一つの生き方。


 人間は馬鹿だよ、何もしなければいいのに、夢の中でネコはそういっていた。


 突然、今まで感じたこともない音と振動と、熱風と煤煙を被った。路線近くに迫撃砲が打ち込まれたのだ。幸い身を低くしていたおかげで爆風に晒されることも極少で済んだ、列車は停止することなく走り続けている。


「いけ! いけーっ! もっと速く走らせろ!」


「ちきしょう、あいつらぜってぇ殺す!」


「まだ来る!  伏せとけ!」


 島田薫は自分のヘルメットを僕に被せて頭を押さえつけた。シュルシュルという聞いた事のない宙を横切る音が複数。路線手前のマンションに命中、もう一つは道路に。


 さらに二度目の砲撃、今度は車輌の上を掠めて線路脇の五階建てほどの商業ビルに命中した。


「ビルの陰から狙われているんだ! ここはまだ侵攻されてないんじゃなかったのかよ!」誰かが叫んだ。


「駅までもってくれぇえ!」また誰かが叫んだ。


「後もう少しだ!」


「反撃できないのかよぉ!」


「分隊長どこいったんだ!」


「たすけてくれぇ!」


「うるせぇ! だまれ!」


 罵声と悲鳴と怒号が驚愕と恐怖と混乱の上に散らばり、車輌上は男達の叫び声で埋め尽くされた。


 ヘルメットですっぽりと覆われた僕のわずかな視界からその様子は見て取とることはできなかったが、ただ実感としてあるものは力強く頭の上から抑えられた島田薫の掌だった。


 三度目はなかった、どうやら切り抜けたようだった。


 僕らが走り去るのと同時に上空を轟音が駆け抜ける。国防軍の戦闘ヘリだ。ダークグレーに塗装されたスズメバチは地上の射線から獲物の位置を瞬時に捕らえ、即座に迎撃する。それは容赦のない攻撃だった。


 同時に遠くのほうで銃声のようなものが聞こえた。いや、本物の銃声など聞いたことがないのだからそれが銃声なのかどうかはわからないのだけど。


 あたりにけたたましいブレーキの音が鳴り響く。オーバースピードなのだろう。駅に着くのだ。


 北岸市はこの国の北岸地方の中心的都市だ。その都市にふさわしく背の高いビルと商業施設と駅機能が併設された巨大な総合施設で建物自体も頑丈に作られているように見える。


 列車はブレーキをかけながら惰性で巨大な坑道のような駅舎に滑り込んでゆく。そこでやっと、僕の頭を押さえる力が緩んだ。


 僕はヘルメットを押さえながら起き上がり首を伸ばして周りを見た。ディーゼル機関のけたたましい音が駅舎内に響き渡る中、デッキ上の若者たちが立ち上がりはじめている。そして僕も車輌の柵に恐る恐る歩み寄りホームを見下ろした。


 驚いたことに、そこにはまだ数百、いや、数千の避難民がいた。


 軍用に徴用しているこのホーム以外は、着の身着のまま逃げてきた北岸市の人々で埋め尽くされていた。


「な、んだ、これは? 避難は済んでいるんじゃなかったのか?」そういって島田薫は言葉を失った。


 次々に降り立つ兵員や、手早く荷降ろしされる資材、装備。


「おい、衛生兵はいないか!」階下でそんな声がする、怪我人が出たんだ。


 二階で攻撃に耐え忍んだ仲間はお互いの無事をたたえあった。たった数発の迫撃砲でここまで狼狽し、さっきまで他人のフリをしていた者同士が肩を抱きあったり、手を貸したりしている。無事なものは階下の騒ぎの見物に回る。


 僕も反対側の柵にまわり身を乗り出し階下の様子を眺めていた。しばらくすると二人の兵士に担がれて怪我人が運びだされる姿が見えた。引きずられるようにホームの中央に寝かされたのはあの小デブメガネだった。


「失神だってよぉ、失禁のオマケつきで」


「さすが、この愚連隊の隊長だな!」


 緊張からの反動だろうか、周囲からどっと自嘲的な笑いが上がった。それをホームにいた正規の国防軍下士官が怒鳴って制したが、誰も笑いをやめようとしなかった。


 僕も笑っていた。島田薫も笑いながら、そして僕のわき腹を小突いて小声で促した。


「今のうち、行け。反対側から降りてあの避難民の中に紛れとけばいい」


 僕は頷き、踵を返した。


「あ、まった! それ、返してくれ」


「あ、すいません、いろいろありがとうございました!」


「じゃあ、な」


 島田薫はヘルメットを受け取ると、右手を僕に差し出した、僕は快くそれに応じた。熱く、しっかりとした手だった。力強く握りそれを最後とした。


 二階の仲間達は一様に騒ぎ立てながら、僕が列車を離れるのがホームから見えないようにバリケードになってくれていたのだ。


 数人が僕に対し拳に親指をつきたてた合図で見送ってくれた。島田は再び兵士の顔に戻り、口をつぐんだ。僕がタラップを降りてももう振り返ることはなかった。


 駅を警戒する兵士に見つからないよう、上着を脱いでプラットホームによじ登り、人ごみの中を掻き分けて進む。そんな僕のことを避難してきた数人が不思議な顔をしてみてはいたが、気にせず先を進んだ。


 あんな状況があったというのに肩から紐でつるしたペットボトルのケースのおかげで花は凛として咲いていた。


 絶望にひしめきあう人々の中で僕は足を止めた。このままここに居て救助の列車が来るのを待つこと、おそらくそれが最良の手段といえるだろう。命が惜しいなら、助かって家に帰りたいなら。


 皆ここで命さえ助かることだけを考えて時を過ごしているに違いない。お腹が減ったと泣き叫ぶ子供の声が遠くから聞こえる。うるさい。


 しくしくとすすり泣く声が方々から聞こえる、遠くで怒号が響く、全部、全部うるさい。


 何のために僕は来たのだ、今更怖くなって命乞いしておめおめとここに居残るのか。


 誰だって死にたくなんかない、きっと、僕だって、そうだ。


 迫撃砲の直撃を受けていれば確実に死んでいた。死線をかいくぐった自信? いや、今まで運がよかっただけだ。じゃあ奥田はどうなる? 運が悪かったのか?


 僕が助けなくても、僕が助けに行かなくても、何処かでもう誰かに助けられているかもしれない。じゃあ、何のために来たんだ、いや、いまさらそんなこと考えるくらいなら最初から何のために来たんだ。


 僕は本当のことを知りたくてここまで来たんだろう。そして奥田に花を渡すために来たんだ、希望はまだあるって思いつづけてきたんだ。この目で確かめるために。


 僕は、僕の物語を終わらせるために、雑踏をかき分けて駅構内から離れることにした。


 緊張が張り詰め停滞した朝の空気の中、避難民は駅の外にも大勢いた。駅舎内に入る事ができればまだ望みがあるほうなのだろう。だれもが中に入ろうと、入口二は人が殺到していた。それを国防軍の兵士が制止していた。


 それにしてもこんなに多くの人がのこったまま北岸市は臨戦体制に入ったのか。雄輝さんは橋を落とすのは戦略上不可欠だといっていたが、まだ橋が残っていれば車で逃げることだってできた人は大勢いたはずだ。


“北岸市を見捨てる”


 彼らが言っていた言葉が浮かんだ。見捨てるって、この街とこの人たちをもろともってことなのか、本当にそんなことが許されるのか。


 駅周辺のそこここに点在する国防軍兵士は小銃を携え、僕や愚連隊のものとは違うグレーを基調とした都市迷彩タイプの戦闘服を着ていた。


 駅周辺の警戒は厳だが敵襲の様子は今のところ感じない。避難民の中には当たり前だが老若男女いりまじって、まるで寝巻きのまま出てきたと思われる人も大勢いる。襲撃がいかに突然だったかを感じる反面、銃を構ええらそうに立つ兵士に憤りを覚える。


 おまえらがもっときっちり仕事してりゃ、こんなことにはなっていなかった。ただの一兵卒にそんな怒りをぶつけても仕方がないが、やるせない気持ちは抑え切れなかった。


 なんでこんなに初動が遅いんだ。戦争などこういうものだといわれればそれまでだが、もっと早く対処できなかったのか。なにより奥田のいる樫尾町は昨朝にはすでに襲撃に遭っていたんだ。あれから約二十時間も経過している。


 駅舎を含む巨大な商業施設から這い出るようにして、駅に向かう人々と逆流し地下のコンコースを抜けて、地上への階段を上った先にあるアーケードに向かう。


 出来ればあまり目立ちたくはなかったし、国防軍兵士に目をつけられるのも面倒だとおもったから出来るだけ人気のないほうにゆく。ウェストバッグのベルトを締めなおして小走りに先を急ぐ。


 電話だ、とりあえず電話をしなければ。ポケットから電話を取り出し二つ折りを開く。


 やはりディスプレイには何も映らない、すこしだけ血の気が引く。やっぱり壊れたのか。いや、電池切れかもしれない。充電器はウェストバッグに入れている、コンセントさえあれば、電気が通じているコンセントさえあれば。


 駅から離れた僕は旧市街と思われる路地の方向へ向かう。その道すがらきょろきょろと落し物でも探すように路面の端を見渡す。そりゃ、外で表側向いてコンニチハしてるコンセントなんか見たこともない、どこかで借りようにも誰も逃げて家に居るはずもない。


 電灯や自販機の明かりがついているということは電気は途絶えてはいない、それだけが救いだった。


 アーケードの中は日差しや雨風を避けるのには都合が良いため、ここも多くの人々が避難していた。僕の住む町よりも格段に大きな商店街だ。しかし、戦禍を避けようとするもの達にとってはなにより“何処かに隠れなければいけない”といった思いのほうが強いのかもしれない、外の街道を歩くよりは何処か安心な気がするのもわかるような気がする。


 少し走るとすぐに汗が流れた。アーケード内は雑踏のせいもあり早朝でも既に熱気がこもっており、おまけに人の流れとは逆行しているため足を緩めるより他なく落ち着いて考えながら進むことにした。


 電気が通じているのなら電話だってかけられるかもしれない。電話線は地中線だったはずだ。でもそんなものがまともに稼動しているならもっとましな報道が流れていても不思議じゃない。すぐにその可能性は消えた。回線を切ったのは隣国の攻撃か、それとも国防軍の作戦か。


 点在する自販機は全てに赤ランプがともり売り切れ状態になっていた、きっと避難する人々が買い占めて行ったのだろう。


 僕はアーケードを抜けた先の大通りに広がる異様な光景に立ち止まった。


 そこには無数の車やバイクが無造作に放置されていた。


 北岸市の住民がこの駅まで乗りつけたのだろう、大通りは放置自動車のせいで通常四車線あるはずの道がびっしりと巨大駐車場さながらに全て埋め尽くされていた。


 おそらく一度は橋に向かって脱出を試みたはいいが通行止めで迂回を余儀なくされ、この駅の周辺で大渋滞となり、そのうち動かない車を放棄して逃げ出すものが現れ、皆がそれに続いた、といった状況だったのだろう。


 現在はどうやら乗り入れが規制されているのか、すでに町じゅうの車がここへ集結したのか、付近で動いている車は軍用車以外見かけない。


 朝の夏の太陽は僕たちをねじ伏せるかのように、容赦なく照り付けてアスファルトに黒い影を刻んだ。宙を見上げるとチラチラとホコリのようなものが舞っている。どこからかかすかに火薬の臭いがする。


 疲れきった顔で歩道をゆっくりと歩いている人々の間を縫って、僕は対向車線に見つけたバス停に向かう。バス停に行けばある程度方角くらいは解るだろう。


 北岸市の中心から樫尾町まではバスで二十分の距離だったはずだ、歩くとどのくらいの距離なのだろうか。もちろんバス停の前も放置車で埋め尽くされていて、いたしかたなく僕は車のボンネットの上に登り、屋根を渡り、大通りを横断するしかなかった。


 全て放置されたものだ、かまうもんか。中には派手に前の車にぶつけてそのまま停車しているものも何台かあった。よほど急いでいた事が窺える。よく見ると僕と同じように車の屋根を渡る人がちらほらと見える。


 中には棒切れでフロントガラスを叩き割っていたり、中を物色している者や高級車を見つけてはこれ見よがしに踏みつけている者もいる。暴徒というほど荒くれているわけではなく、集団性もなく、ただふらふらとそのような行動でも起こしていなければやりきれないといった感じだった。もちろんそれを咎める者はいなかった。


 朝露で濡れた車の屋根やボンネットのベコリとした感触を確かめながら、足を滑らせないよう気をつけて最後の車から飛び降りたとき誰かが叫んだ。


「きた!」


「助かる!」


 避難用の列車が到着したんだ。


 駅周辺の人々からざわめきが起きる、そして皆が走り出す、人々が、子供の手を引いて、老人が転び、肩をぶつけ合いながら、若者が我先にと、駅前の方向に雑踏が一瞬にして生まれる。突っ立っていた僕は駆けて来た人にひっかけられて転んだ。


「じゃまだ! どけ!」


 そこここに点在していた兵士もそれらを制止しようと駅前に向かって走り出す。喧嘩が起こっている、罵声を浴びせる者がいる、悲鳴が上がる、聞き取れないようなうめき声がその隙間から漏れる。駅構内も似たような、いや、もっとひどい状態かもしれない。


 皆、助かろうとして必死なのだ。この封鎖された中洲の都市から脱出する手段はこの北岸市駅から出る鉄道だけだ。僕が軍用貨物に乗りこんだ駅と北岸市駅をピストン輸送しているのだろう。


 僕はさっき軍用貨物上で出会った敵の砲撃を思い出して身震いをする、もしあれが命中していたら、もし避難者を満載した列車に命中したら、そう思うと列車に乗り込める人々をとてもじゃないが運が良いとは思えなかった。


 多くの人が駅の方角に走っていってしまい、僕はバス停に取り残された。


 バス停の案内板によると北岸市駅から樫尾町まではバス停五つ分だそうだが、いかんせんどの道を行くのかまではわからない。人に聞いて方角だけでも解れば歩いてもいけそうなのだが、あいにく道を聞けそうな人はいない。


 自棄になって車を破壊して遊ぶ若者と関わりたくもなかったし、とりあえず今は携帯電話を何とか復帰させることを考えよう。


 バス停から少しはなれたところにシャッターを下ろしたタバコ屋があり、ちょっとした影になっている。朝の強い日差しに耐えられずそちらにもぐるように避難し、しゃがみこむ。もたれた自販機の鉄板の冷たさが心地よい。


 そういえば昨日はずっと寝ていない。興奮の連続でそれどころじゃなかったけど、今の僕は妙な落ち着きを得ている。周囲があれだけ混乱しているせいもあるけど、僕はどう考えたって安全な南岸の町からわざわざ来た身で、何より誰よりこの戦争が明確に見えているような気がしているのも確かだった。


 背中でジュースの自販機が「ブゥオン」と音を立てる、もう売る商品はないくせにまだ何を冷やすつもりなのだろう、電気の無駄遣いだな……そうか、コイツのコンセントがあるんじゃないのか? 僕は自販機の裏や底を覗きこんでコンセントを探した。


 あった、裏に防水コンセントがある。これを設置した角のたばこ屋のものらしい、少し拝借させてもらおう、今更盗電することには何の罪悪感もなかったが、コンセントを抜かれた自販機が“機を失い”ただの鉄の箱になる瞬間になにか胸にチクリとするものがあった。


 電話が単なる電池切れであることを願いつつ充電器と電話を接続し、自販機の電源のコンセントにつないだ。電話と充電器を接続してしばらくしてから電源ボタンを入れる。


 ディスプレイに3Dぽい簡素な画像が反転して“Welcome!”の文字が浮かび上がった。よかった、ただの電池切れだったんだ。僕は安堵のため息を漏らして目をつぶった。


 充電器とコンセントをつないだまま携帯を操作し、動かなくなったひやりとした青いカラフルな鉄の箱にもたれかかりながら、何度も彼女宛てにコールした。留守番電話に接続することもなく、圏外アナウンスが流れるわけでなく、ただ何度も何度も無機質な呼び出し音が鼓膜に届く。


 ここから推測できること、それは。


 彼女の電話は電池切れではない。


 彼女の電話は通信域にある。


 彼女の電話は壊れていない。


 それだけだった。むしろ彼女が電話を失ったか、彼女が電話に出られない状態か、既に彼女は絶命しているか、いずれも考えたくない可能性だったが全てがあり得ることだった。


 せめて話し中であったならば、救われたかもしれない。


 ここから樫尾町はそう遠くはないはずだが、それでもその中から一人の人間を探し出すなんて事が本当に可能か、まして相手が電話に出られない、電話を手放していたら見つけることなんて不可能に近いことだろう。


 このコールに誰かが気付いて電話を取ってくれたならばそれでもいい、願うように受話部から耳を離して呼び出し状態を解除する。


 充電は十五分もあれば完了する。“希望”、今はそれを持って進むしかない。それまで少しだけ眠ろう、もう今は考えることはない。


 ガンガンと飽きもせず放置自動車を叩き潰す音と奇声だけが聞こえる、こっちへは来ないでくれと願いながら僕は独り、自販機の影でまぶたを閉じた。

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