第五十話:流れ出る血ほどの価値も
モルフォスの率いる機兵たちは、直上から見ればまるでひとつの生物のような連携を見せて帝国軍左翼を強襲した。元々エトスライアの戦力を頼みにしていたためか左翼の機兵は数が少なく、そして士気も高くはなかった。エナとティモンを追って先行したエトスライアを追うわけでもなく、中央の戦線に参加するでもなく、半端な位置に留まっていたほどだ。
モルフォスらは魔術による攻撃ではなく、接近しての格闘戦に及んだ。日が沈みかけた薄闇の空間で、直前まで接近に気づかなかった帝国軍の対応の遅さが勝敗を分けたと言って良い。
当たり前だが帝国軍が反撃しなかったわけではない。だが、奇襲されて混乱した彼らが選んだのは、自分たちの最も信頼する魔術、浸透衝撃だった。そして、エネスレイクの機体にはアルの指導による浸透衝撃への防御措置が施されており、それもまた混乱に拍車をかけたのである。
『オヤっさん、何でこいつらこんな中途半端なところにいたんでしょうね?』
「分からんか?
『分かんねっす』
「王機兵に付き合って死にたくねえのさ。さっきのブルヴォーニ将軍と戦っていた時の様子、見ていただろう?」
『ああ、ティゲルさんの部隊が巻き添え食ってましたね。……なぁる、ああなりたくねえってわけっすか』
エナの援護をしていた者たちは全滅した。地面を這わせて浸透衝撃を撃ち込んでくるとは思っていなかったが、それよりも施された防御措置を突き抜けてきたことにモルフォスも驚いたものだ。
『ティゲルさんたちはツイてなかったっすね』
「ティゲル、ユルーデ、エネッシア、コーロード。当たり前のように防御を抜いて浸透衝撃を撃ち込んできた。王機兵とはやはり恐ろしいもんだ」
中央では浸透衝撃をしっかりと防ぎ切ったと聞いている。防御措置は確かに仕事を果たしていたのだ。それを通過したのはひとえに王機兵の特別ゆえと、モルフォスも部下たちも理解していた。事実、自分たちの防御措置は通常の浸透衝撃なら防いでみせたのだ。
彼らは王機兵の精霊であるアルを疑いはしなかったし、エトスライアが正式な乗り手のいない王機兵だからと見くびってもいない。失われた部下たちの命と不運を悼みながらも、その死に引きずられることもない。
「王機兵に近づきすぎれば巻き添えを食らう、かと言って王機兵を見捨てて戻れば処罰される。突出した王機兵を追いかければ後方との連携は取れなくなる。連中はこの辺りに残っているほかなかったのさ」
『何だかなぁ。帝国の騎士って、そんな肝が据わってねえ連中ばっかりなんすかね』
「浸透衝撃を自分たちで使っている連中だぞ? 自分たちはそんな魔術の被害に遭いたくないって思っても不思議はねえよ。さて、討ち漏らしはねえな?」
『もちろんだ、オヤっさん』
周囲を見回す。奇襲や大襲来でもなければエネスレイク軍では数人の歩兵を随伴しているものだが、帝国にはいないからその辺りは楽だ。機兵戦力が潤沢なぶん、その辺りの意識はずいぶんと違う。
逃がした機兵はいない。襲いかかる前にあらかじめ敵機の数は確認済だ。
「おし、
『うす』
「ここからの手順をうっかり忘れているボケがいねえか確認だ。復唱しな」
『うす。俺らはこれから、帝国軍の横っ面に奇襲をかまします。体よく混乱させたら退いて、また別の場所から奇襲。これを繰り返すっす』
「忘れてねえな。いいか、どれだけ笑えるような混乱を相手がしていても、勝ち気に逸るんじゃねえぞ。踏み込み過ぎれば囲まれて終わりだ。そういうバカは置いて行くことになる。……死ぬなよ、てめえら」
『うす!』
最も年若い機兵騎士に作戦を復唱させつつ、モルフォスは自機を駆けさせる。日は落ちつつある今、暗がりは彼らにとって大きな味方だった。
ざりざりと音を立てながら、機体が穴の底へと滑っていく。
絶え間ない流水によって穴の底には水が溜まり始めている。まだ足首程度までの水量だが、それでも加速には明らかに影響が出ている。
直上を見上げて、ラトリバードは怒鳴り散らした。
「卑怯だろう! 正々堂々と勝負しろ!」
だが、その相手は嘲るように笑い飛ばす。
『王機兵に乗っているくせに正々堂々と言われても、ねえ?』
「貴様ァ!」
『今、私たちがしているのは戦争であって決闘じゃないの。私たちの任務はエトスライアを自由にさせないことで、その任務はこうやって十分に果たされています』
「うがあああっ!」
吼えながら、ラトリバードは全力の加速で坂を駆け上がる。流水と氷で足が滑ったが、壁面に杖を突き入れて、強引に穴の外へ飛び上がる。
「ぶちころ――」
『あら怖い』
そこにはハンマーを構えた相手の機体が。
振り下ろされたハンマーが、エトスライアの胸元を強かに打ち据えてくる。
両腕を振り回すが、無意味に空を切った。
機体は何を掴むことも出来ず、穴の底まで落下する。
「ぐはっ!」
衝撃に目が眩む。
額にぬるりとした感触。どうやら頭をぶつけて出血したらしい。
『そこから出すわけないでしょう』
「くそっ! こんな時に、あいつらは何をしている!」
痛みに頭を押さえながら、一向に救出に来ない配下の事を思い出す。アルズベックから与えられたのであまり悪く言うつもりはなかったが、上が対処に追われた様子もない。
わずかでも女の注意が逸れれば、何とかここから抜け出す算段がつくのだが。
『ああ、助けを待っているなら無駄なことですよ』
「何?」
『この世で最も素晴らしい王機兵とその乗り手様が、苦戦などするわけがないと思っているのではなくて?』
「っ!」
『まあ、そうではなかったとしても。自分たちをも巻き込むような魔術の使い方をするような輩を、全力で追いかけるなんて怖くてできないんじゃないかしら』
女の言葉は皮肉げではあったが、ラトリバードには言い返すことが出来なかった。
先ほど怒りに任せて放った大浸透衝撃は、地面を伝って帝国の機兵にもその効果を及ぼしていた。
何故、という悲鳴を彼の耳は拾っていたのだ。聞かなかったふりをして戦闘を続けたが、それでも心の底に引っかかるものはあって。
「黙れ、黙れぇっ!」
『ひとつ、教えておいてあげましょう』
女は唐突に声のトーンを落とした。嫌な予感がする。
聞いては駄目だと分かっているが、耳を塞いでも意味はなかった。
『連れていた帝国の機兵ですが――』
「よせ」
『先ほど、私たちの別動隊が奇襲をかけまして』
「やめろ」
『一機残らず、仕留めたそうですよ?』
「言うなああああああああああッ!」
動かずにはいられなかった。
ただ衝動の赴くまま、坂を駆け上がる。
『愚かなことを』
敵機がハンマーを振り上げる。振り下ろされる前に掴んでしまえと、壁面に刺さった杖を頼りに再び跳ね上がった。
明らかに先ほどより速い。しかし、女はこちらの動きを察していたかのように一歩下がると、今度は無言で機体の横面を殴り飛ばした。
「っがぁっ!」
今度は落下ではなく、壁面を滑り落ちる。
底に転げ落ちると、水飛沫が上がった。
『自分勝手に動いて、仲間たちを死なせて、それで身勝手に怒って。……エトスライアが、お前のような愚かな輩に使われているなんて、虫唾が走る!』
『お嬢、落ち着きなって。どうせこいつはもうすぐ終わる』
近くで様子を見ていたらしいもう一機が、穴の縁からこちらを見下ろしてくる。
不穏な言葉にそちらを見ると、乗り手らしい男の、何とも厭らしい口調の声が。
『王機兵のダンナ。王機兵ってさ、水に浮くと思う?』
「!?」
思わず機体を起こす。水のかさは、いつの間にかエトスライアの膝辺りまで上がってきていた。
『美しくない』
「なにさ、不満なのかい?」
リエネス上空で、フォーリはルッツの何度目かのぼやきに答える。
方針がようやく決まったのだ。しかし、思ったよりルッツの反応が良くない。
『そうだな、不満だ。結局、主が自分の意志で決めたわけではないからな』
「それは済まないと思っているよ。でもさ、現地からこうしてくれって頼まれたんだから仕方なくないかな」
『ぐむぅ。確かに助けを求められて応じないのも美しくないが』
クルツィアはまともに戦えない。しかしフォーリはエネスレイクの役に立ちたい。
その二つの課題を同時に達成できる方法として、提示された内容に乗り気のフォーリと、嫌がっているルッツ。
リエネス上空でクルツィアが留まっているのはそのせいだ。
『主よ。私は主が本心からそうしたいのであれば構わない。しかし、この方法は劇薬のようなものだ。どんなことが起きるか分からない』
「うん」
『その結果、主と親しい人物が命を落とすことになるかもしれない。それでも構わないだろうか』
「こ、怖いことを言うんだね」
『だが、事実だ。機体が万全であれば、何とでもしてみせよう。しかし、この状態では難しい』
思ったよりも弱気なルッツの言葉に、フォーリは素直に頷いた。
流狼のように自分の力で何とかするとは言えない。自分の未熟を理解しているからこそ、他の誰かの知恵を借りようと思ったのだから。
「そっか。怖いね」
『ああ』
「でもさ、ルッツ。僕が行くことで、逆に誰かを助けられるかもしれないよね」
『そうだな』
「する自由と、しない自由。僕は選ぶよ、ルッツ」
ルッツは答えなかった。
フォーリもまた、反応を待たなかった。
「どちらも後悔するかもしれないなら、僕は行く! 自分に与えられた自由に、責任を持つために!」
『――ああ。それでこそだ、我が主!』
クルツィアの翼が、虹色に輝く。
フォーリは、自分の全身から重さが消失したような感覚を覚えた。
「翼王機、クルツィア! 出まぁぁぁぁすっ!」
瞬間、フォーリの視界が弾ける。
暗くなりつつある空。近づいてくる雲を突き破り、東へ。目まぐるしく景色が変わるが、不安は不思議と全くない。
空に瞬き始めた星々が視界の端を流れていく。機体が反転し、薄い雲とその下の地上が見える。
「凄い、凄いよルッツ!」
『そうだろう? 本当は戦いなど関係なく、自由に飛びたいものだが』
「そうだね、それに」
『それに?』
「夕方の空も素敵だけど、きっと朝方の空も素敵だよ!」
『夜更けの空も、昼間の空もな』
ルッツの言葉に頷きながら、フォーリはクルツィアを戦地へと一直線に向かわせるのだった。
王都リエネスからニール砦を経由して、リバシオン山系の片方、カシオン山脈の名もなき山のひとつに造られた砦へと転移。
エネスリリアに乗ったフィリアとオリガは、アルカシードが眠っていた塔へとそれほどの時間をかけずに辿り着いた。
「ここ……」
「ああ。この世界に存在する唯一の召喚陣だ。遠い昔、レガント族に対抗するために異界から勇者を呼んだのもこれだと聞いている」
「じゃあ、この塔が?」
「いや。ここに移したのだと聞いている。元々の場所はリリアガ山脈が造られた時に消失したそうだ」
大陸がひとつの王朝に統一されていた当時、エネスレイク領が自分の先祖に任せられた理由も、アルカディオ・ゼクシュタインの血筋に連なる者だったからなのだろうとフィリアは考えている。
召喚陣をエネスリリアの操縦席から見る。現存するあらゆる魔術陣よりも精緻で複雑だ。
「師匠は、召喚陣は普通じゃないって言っていた」
「アル殿が?」
「師匠でも完全な解析は出来ていないって。普通の人間が構築できる魔術陣じゃないって」
オリガの言葉はとても興味深いものだった。こんな状況でさえなければ詳しい話を聞きたいところだったが、今はそれよりも優先するべきことがある。
「急ごう。どちらにしても、ルロウを助けるにはこの方法しかない」
「うん」
エネスリリアから、魔力を流し込む。さすがにアルが造った機体だけあって、程なく起動に必要な量の魔力が召喚陣に満ちた。
フィリアは、無事に召喚陣が起動を始めたことに安堵した。召喚陣は、一度使えば数年は使えなくなると聞いていたからだ。あまりの出力に陣が破損するのだとか。その修復にかかる間は魔力自体を受け付けなくなるというから、修復は終わっているらしい。
「降りるぞ」
「分かった」
使い方は覚えている。フィリアは伝えられている通りの手順で魔力を循環させていく。
しかし、チャンスはたった一度。失敗は許されない。額を汗が伝う。
召喚陣の外側から刻印が光を放ち始めた。徐々に光が強くなっていく。順調だ。
「大丈夫?」
「……ああ」
正直、オリガの問いに答えている余裕はなかった。フィリアは召喚陣の複雑な魔力の動きに必死に追いすがる。光が強くなるたびに、魔力の動きもその速度を上げているのだ。
異界の法則を捻じ曲げ、そこから人を召喚する。この世界が行使しているのは、そんな外道の魔術である。本来はきっと、人が触れて良い領域のものではない。
「だが! 今は必要なのだ……ルロウを救うために!」
吼えるフィリアの杖に、そっと手が添えられた。オリガだ。
ただそれだけのことで、負担が一気に軽くなるのが分かる。
「オリガ殿?」
「手伝う」
「……ああ、頼む!」
ざあ、と視界が一気に開けるような感覚。
細かい理屈までは分からないが、それを気にする余裕などない。
フィリアはすぐに意識を作業へと戻した。必ず流狼をこの世界に呼び戻すと決意を新たにして。
エナは冷徹な表情で水の溜まりゆく穴を見下ろしていた。
その顔に油断はない。アルからの警告を、軽んじるつもりもない。エトスライアは正式な乗り手が乗れば常識外の突進力も発揮されるという、近接戦闘の雄なのだ。
実際、その防御の強固なことと力の強さについては、先ほど嫌になるほど思い知ったばかりだ。全力でハンマーを振り抜いたのに、ダメージを受けたのは中にいる乗り手だけで、機体には傷ひとつついていない。
『お嬢、もうすぐですね』
「気を抜いては駄目よ、ティモン。水没したからといって、中の乗り手にまで水が入るとは限らないのだから」
『そりゃそうか、王機兵ですからね』
「ええ」
たとえ罠に嵌めたからといって安心などできない。だから慣れない挑発などして、正常な判断力を奪ったのだ。
この策の着想を軍部が得たのは、先年トラヴィートであった大襲来の時だ。強力な魔獣を抑えきったレフ・トラヴィートの氷壁の魔術は、戦訓としてエネスレイクにも持ち込まれた。
状況は順調に推移している。しかし、不安は常につきまとう。ティモンに注意を促したのもそれが理由だ。
モルフォスたちは遊軍となって中央の戦線を存分にかき乱しているらしい。エイジの策はここまで面白いほどはまっている。
『……でたまるか』
「?」
ぞわりと、エナの背中に悪寒が走った。原因は探るまでもない。
ざぱぁと、エトスライアが水面から跳ね上がった。それだけならば先ほどと変わりはない。油断なくハンマーを構える、が。
『死んでたまるかぁっ!』
『お嬢!』
エトスライアはこちらに向かってくるのではなく、坂の壁面に刺さったままの己の杖を掴む。
跳躍が足りなかったのではない。最初から狙いは杖だ。ティモンから声が飛ぶが、間に合わなかった。
『うおああああああああ!』
指向性も術式の体もなしていない、ただの魔力の暴発。
しかし、他ならぬ王機兵が吐き出した魔力量は膨大だった。
「しまっ……!」
避ける暇などない。いや、たとえ跳躍できたとしても足りなかっただろう。
暴発した魔力は穴の周囲の地面に吸い込まれ、そして致命的な崩壊をもたらした。
エナもティモンも、崩れる地面に巻き込まれる形で地中へと滑り落ちたのだった。
突然の揺れに、流狼は思わず周囲を見回した。
機体との接続が切れている現状、見えているのは操縦席の様子だけだ。
「何が起きているんだ、アル!?」
『ちょっと待って、マスター! 機体表面にダメージ、攻撃されている?』
『この周囲には物体反応はなかったわよ、アル! 飛来するエネルギー反応もないのに、攻撃!?』
どうやらアルとラナにも予想外の揺れだったようで、慌てた様子で現状を確認している。
ただ流狼は何となく、この揺れが攻撃だとは思わなかった。殺気や殺意の類を感じ取れなかったからだ。
再びの揺れ。同時に、何かが軋むような音。
アルが悲鳴のような声を上げた。
『あ、あ……アカグマが勝手に動いてる!?』
『ちょっと、ルロウさん!?』
「いや、俺じゃない」
『そ、そうよね』
見れば分かることだが、流狼はアカグマと腕を接続していない。エネルギーの節約のためだが、アカグマが動いているというのならそれは流狼の意志とはまったく別の何かだ。
『おかしい、外部からの干渉の反応もない! 一体何が起きているんだ!?』
「アル、一体何が起きているのか教えてくれ」
『アカグマが、拳を自分の
「そうか。じゃあこれは、お前が自分の考えでやっているんだな」
流狼は納得しながら、アルでもラナでもなく、もう一人の相棒に語り掛ける。
「なあ、アカグマ」
『え?』
『マスター?』
アルもラナも、流狼の言葉の意味を理解出来なかったようだ。こちらをじっと見つめてくるから、あるいはこちらの正気を心配したのだろう。
しかし、流狼も自分の発言を荒唐無稽とは思いつつも撤回はしなかった。アルとラナも問い詰めては来ない。流狼の呼びかけと同時に、音と揺れが収まったからだ。
『と、止まった』
操縦席の中に、音が響いた。声というにはあまりに機械的な。
だが、同時に乗せられた無垢な思念が、流狼の脳裏に直接言葉として届く。
――ま、す、た、あ。し、な、な、い、で。
『っ!?』
『うそ、本当に……!?』
アルとラナにもこの思念は届いたようだ。不思議なことに、この状況で最も冷静なのは自分らしい。流狼は静かな口調で、たどたどしい思念を向けてくるアカグマに問いかける。
「アカグマ。俺もそうだが、アルとラナも驚いている。一体どうしたんだ?」
――ぼ、く、が、こ、わ、れ、れ、ば。も、ど、れ、る、よ、ね?
アカグマの答えはシンプルだった。あまりにもシンプルな自己犠牲。
確かに、操縦席に施された仕掛けが動けばアルカシードの下に戻ることが出来るとアルからは聞いている。だが、それが時空を隔てても上手く働くのかという問題はあるはずだ。
『ありえない……! ボクはアカグマに自我の芽生えるような設計をしていないのにっ!』
「落ち着けよ、アル。重要なのはそこじゃない」
魔術などという不可思議な現象がある世界だ。機械に自我が宿ることなどどれ程のことと言うのか。
どうにも流狼には、アルのそういったこだわりには共感できないでいる。
「アカグマ。ありがとう」
――ま、す、た、あ。い、き、て、ね。
「ああ。きっと生きるさ」
『マスター! 帰還の魔術が稼働しても、戻れる保証は』
『アル! あなたは少し黙っていて』
ラナの叱責がアルに飛ぶ。アルカシードの代用とはいえ、何度も戦場を共にした相棒との最後の会話だ。アルであっても邪魔して欲しくはなかった。
「アカグマ。最後に何か、願うことはないか?」
――ま、す、た、あ、が。ぶ、じ、に、か、え、り、つ、く、こ、と。
「お前のおかげで、それはなんとかなりそうだ。それ以外に何かあるか?」
流狼の問いに、アカグマは困ったような感情をのぞかせた。その純粋な反応を見る限り、その自我が生まれたのもそう昔のことではないようだ。
悩んでいる様子なのでしばらく待っていると、何やら恥ずかしそうに伝えてくる。
――な、ま、え。ほ、し、い、な。
「名前?」
――う、ん。あ、か、ぐ、ま、じゃ、な、く、て。
『っ!』
その言葉に、アルより先にラナが強く反応した。
それを見て、アルカシードの自我がアルであるように、アカグマに生じた自我もまた自分だけの名前を欲したのだと悟る。
「アル」
『な、何? マスター』
「お前が名前をつけてやれ」
『え? な、何で!?』
「アカグマを造ったのはお前だろ、アル。ということは、お前の子供みたいなものじゃないか」
アルとラナは、その言葉に何やら衝撃を受けたようだった。
目の部分をこれまでにないほど明滅させながら、アルとラナが向き合う。
声は聞こえてこないから、ふたりだけでやり取りをしているのだろう。
『マスター』
「ん?」
『ありがとう、気付かせてくれて』
「いいさ」
やり取りにはそれほどの時間はかからなかった。アルが流狼の前に出てきて、頭上を見上げる。
『ヴェル。君にこの名前を送る』
――ヴェ、ル?
『そうさ。君はボクたちの子、特別な子だよ』
アルカディオ・ゼクシュタインとラニーニャ・ゼクシュタインの夫婦が、それぞれの世界で生まれた子供たちにつけた名前。アルとラナにとってもそれはきっと、特別な名前なのだろう。
めきめきと、破壊音と揺れ。アカグマの胸部が破壊された音だろう。帰還の魔術が発動したらしく、操縦席の中が虹色に光り始めた。
ヴェルから届く、強い喜びの感情。やるべきことを見失わない辺り、アルとラナの子らしいなと感心する流狼だった。
『ヴェル! 覚えていて欲しい。ボク達は、必ず君を迎えに来る』
――あ、り、が、と、う。う、れ、し、い。
『ヴェル! 待っていてね』
――あ、り、が、と、う。ぱ、ぱ。ま、ま。
『!』
その言葉が最後だった。
虹色の光が視界いっぱいに広がり――
――ま、す、た、あ。ま、た、あ、い、た、い、な。
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