第1話 リアルの彼女


 その日、俺こと高校二年生の一ノ瀬和也いちのせかずやは放課後の教室に一人残っていた。


 五月も終わりへと近づき、そろそろ新入部員たちが高校の過酷な練習に音を上げる頃だろう。

 ついこの間までは彼らの意気揚々とした声が聞こえてきたが、その声は日を重ねるに連れてだんだんとしゃがれていった。

 そんな彼らの姿と昔の自分を重ね合わせて、過去をのことをしみじみと思い浮かべながら、俺は制服の右ポケットに手を当てた。

 中に入っているのは、俺の下駄箱に入れてあった一通の手紙―――ラブレターだ。



(そろそろ約束の時間だな……)



 時計を見ながら俺はそんなことを考えていた。針は既に十九時を回っており、外も薄暗くなってきた。

 手紙には差出人が書かれていなかったので、これから誰が来るのかも分からない。

 本来ならこの場合は、相手が来てから瞬時に告白の答えを考えなければならない。 

 しかし俺は差出人に会う前から、いや、正確には手紙を読んだ時には既に答えを決めていた。



(誰かは知らないが……ちゃんと断らないと)



 告白されるのはもちろん、ラブレターを貰ったのだって初めてだ。たとえ相手が誰であろうと、今すぐ飛び上がりたいほど嬉しい。男とはそういう生き物だ。

 だが、俺は断らなければならない。

 愛の申し出を拒否しなければならない理由がある。



(俺には好きな人がいるんだからな)



 そう、俺には好きな人がいるのだ。

 いつか自分から告白をして返事をもらうまで、誰とも付き合う気はない。

 この恋が実るかどうかなんて当然誰にもわからない。

 おそらく振られてしまうのだろう。

 彼女と俺とでは住む世界が違いすぎるのだから。



(それでも俺は……)



 と、そこで学校のチャイムが教室に、学校中に鳴り響いた。完全下校時刻を知らせるチャイムだ。

 もうこの学校には俺と手紙の相手、そして警備員の人しかいないだろう。

 ガラガラと教室のドアが開かれた。

 俺は勇気を振り絞ってドアの方を見る。

 もし警備員だったら事情を説明する必要があるのだろうか。一瞬そんなことを思ったが、どうやら無用な心配だったらしい。

 なぜならそこに立っていたのは……。



「ひ、姫宮ひめみや!?」



  姫宮葉月ひめみやはづき、高一の時に初めて同じクラスになり、二年生になった今も同じクラスだ。

 成績優秀で運動神経も抜群。男女、教師生徒問わず周りからの信頼も厚く、まさに理想の女の子と言えるだろう。

 そして、俺の想い人でもある。



「一ノ瀬くん、来てくれたんだね」



「姫宮……まさかこの手紙、お前が?」



  姫宮は静かに首を縦に振った。

 俺たちはしばらく見つめ合い、やがて姫宮は意を決したようにゆっくりと、一歩ずつこちらへ歩き出した。

 ほんの数秒の出来事。

 だが俺には―――おそらく姫宮にとっても、とても長く感じられた。

 ようやく俺の前へ辿り着いた姫宮は、静かに深呼吸を始めた。

 よく見ると、身体が少し震えている。



(緊張しているのか?)



 対して俺はあまり緊張はしていない。

 姫宮が現れたことには驚いているし、これから起こることを想像すると頭の中が真っ白になりそうだ。

 繰り返すが、俺は告白されるのは初めてで、女子と話す機会さえ、お世辞にも多いとは言えない。

 しかし、なぜだか冷静を保っていられるのだ。



「姫宮、大丈夫か?」



 とりあえず俺は姫宮に声をかけた。

 まるで何かに怯えているように震える姫宮を、これ以上黙って見ていることはできない。

 もちろん、姫宮が何に怯えているのかは大体察しがつくのだが。



「う、うん。わたしは大丈夫だよ」



 姫宮が小さな声で答える。

 そよ風でも吹けば掻き消されてしまうような、小さくて掠れた声。

 どうやらかなり無理をしているようだ。

 姫宮が黙り込んでから二、三分ほどたっただろうか、再び姫宮が口を開いた。

 しかし、残念ながらそれは俺が求めていた言葉ではなかった。



「ご、ごめん。やっぱりわたし……」



 そう言いながら姫宮は後ろを向き、その場から立ち去ろうとする。

 俺は咄嗟に姫宮の左腕を掴んだ。



「……え?」



 姫宮が目を丸くしてこちらを振り返る。相当驚いたのだろう。

 しかし、一番驚いているのは俺なのだ。



(どうして、俺は姫宮の腕を掴んだんだ……?)



 姫宮がここに来た時点で、姫宮の俺に対する気持ちは十分理解している。

 その上で俺がとったこの行動の意味が、自分自身でもわからない。



「姫宮!!」



 続けて俺が姫宮の名前を呼ぶ。

 俺の意思とは異なることを身体が勝手に行う。いや、逆だ。

 俺にも分からない意思が、身体を動かしているのだ。

 いつもなら姫宮の体に触れて平然としていられるわけがないが、今はそんなことを考えている暇もない。



「は、はい!」



 突然名前を呼ばれた姫宮が返事をする。どうやら姫宮も混乱しているようだ。

声を入れるとするなら「あわわわ」とでも言うのだろうか。

 かなり狼狽えている様子だ。



(この状況で俺から告白する理由はなんだ?姫宮が日を改めたいのならそうすればいい。俺は何を焦っている?)



 もしかしたらこれが『男の本能』というやつなのだろうか。

 あたりは真っ暗で誰もいない。教室に好きな女子と二人きり、そんな状況シチュエーションが俺をおかしくしてしまったのか。

 俺は必死に思考を巡らせる。が、もう遅い。

 もう引き返せない。



(えぇい、どうにでもなれっ!!)



 半分ヤケになった俺は身体に、思考に身を任せることにした。

 そして俺の一年間の想いを、初めて人前で口にする。

 それも本人の目の前で、本人に向かって。



「ずっと好きでした。初めて同じクラスになって、初めて出会った時から。そしてこれからも、ずっとずっと好きでいます。だから、その……俺と付き合ってください!!」



 突然の俺の告白に姫宮は「わけがわからない」とでも言うような顔をしたが、徐々に表情を取り戻していき、その綺麗な目から涙をこぼしながら、



「喜んで」



 と言った。

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