05 バアル?
悪魔のくせに随分と常識的なことを言うものだ、と黒乃は驚く。そんな思いが知らず口をついて出てしまっていた。
目を丸くする黒乃を前に、男が首を傾げる。黒乃はそれに慌てて首を横に振り、なんでもないですと自分の言動をなかったコトにしようと努めた。
「と、ところで、朝ごはん! 朝ごはん、食べる?」
誤魔化すように発した黒乃の言葉に、男は一瞬考えてから大きく頷く。
「おお、そういや腹減ったなぁ。そうだ黒乃、今日は折角この姿でいるわけだし、どうせならキャットフードじゃなくて人間の飯食わせてくれよ」
「……キャットフード?」
「おうよ。あれも別にまずいわけじゃねぇけどよ、やっぱ毎日アレだと飽きるしな。いや、そりゃあ晩は缶詰も混ぜてもらってるし、結構刺し身やらなんやら食わせてもらってるから贅沢は言わねぇけどよ。でもたまには別のもんにして欲しいって、ネロもそう言ってたぜ」
にこにこと笑って答える男を、黒乃は呆けたように口を開けて見ていた。何を言ってるんだろう、この人は。それだけが唯一頭をよぎった感想だった。
ネロのことも、黒乃が愛猫たちに夕飯には缶詰を混ぜて出していることも、昨日あったばかりの男には知りえない情報のはずだ。
ましてや「ネロが言っていた」とはどういうことだ。お前は猫と話が出来るのか。そもそも何故キャットフードの味を知っているのか。まさかネロやバアルのご飯を横取りしていたのか、自分の目の届かないところで。
――バアル……?
いや待て、その名前は最近何処かで聞かなかっただろうか。自分が口にしたのではなくて、他の誰かの口からそう名乗られなかったか?
考えて、最終的に黒乃はぽつりとその名前を口に出していた。
「バアル……?」
それは昨日の夜、廃墟で自分の代わりに少年から指輪を奪い返した勇敢な愛猫の名前だ。それから、そのあとに現れたこの男が名乗った名前は……。
少年に男は不思議そうな顔をして、こう答えた。
「おう、どうした」
――と。
さも自分が呼ばれたようにして返事を返した男を、黒乃は呆然と眺める。
自分を真っ直ぐに見つめてくる深い青の瞳を前に、黒乃は長年可愛がっていた愛猫の姿を思い浮かべていた。
珍しい灰銀色の毛並み、満月の夜のような深青色の瞳が特徴的だった。とても利口で、何度もこの子は人間の言葉を理解しているんじゃないかと思ったものだ。
黒乃が分かるわけもないと思いつつ零す猫達への言葉に、バアルは度々返事をしているかのように鳴いてみせていた。
母も父も居ない広い家でたった一人暮らしていても、そんなバアルが居たからこそどうしようもないくらいの寂しさは感じずにすんでいたのだ。
黒乃はおずおずと口を開く。
「バアル? 僕の、飼ってた猫の……バアル?」
目の前の男――バアルはきょとんとした顔を見せながらも、次の瞬間には大袈裟なほどに大きく頷いた。
それを認めて、黒乃は昨日の騒動から初めて笑顔を見せた。
そっか、と二度ほど呟きながら、控えめではあったが確かに笑った。
それにつられるように、バアルももう一度大きく笑ってみせたのだった。
「そっか、バアルか……はは、随分と大きくなったね」
愛猫にいつもそうしていたように、穏やかな声で語りかけながら黒乃は笑う。
「よーし、それじゃあ朝ごはんにしようか!」
ことさら元気にそう呟いて、黒乃は濡れっぱなしだった顔を拭うと今度は台所へと駆けていった。
せわしない主人のあとを、バアルもまた楽しそうに笑ってついていく。
それからバアルは、手早く昨日の残りも合わせておかずを数品用意する黒乃の後ろをついて回った。邪魔だよと口にはしながらも、黒乃はバアルを台所から追い出すことはしなかった。
ものの三十分程で朝食をこしらえて、そこでようやく黒乃はバアルへ仕事を任せる。
作った料理を二人で運び出し、あらかたちゃぶ台へと並べ終えたところでバアルには座って待つようにと告げた。
大人しく待つバアルの前に、コト、と控えめな音を立て、小鉢が古いちゃぶ台へと置かれたのが最後だった。
その傍らには既に焼きサバ、味噌汁、白飯、大根おろしの乗っただし巻き卵が各二人分置かれている。
最後に到着した小鉢を覗き込んで、バアルが感嘆の声を上げた。
「ほうれん草のおひたしか!」
「うん。バアル、ほうれん草好きでしょう?」
バアルが頷きながら小鉢を持ち上げて匂いを嗅ぐ。猫のような仕草に黒乃は思わず笑ってしまった。
それを気にした様子もなく、バアルはよだれの垂れそうな顔で目の前に広がる料理を順に目で追う。
それに苦笑しながら、黒乃はどうぞと短く告げた。パァッと顔を輝かせまずはと味噌汁に飛びつくバアルを前に、黒乃はただ「どう見ても外人さんなのに箸の使い方が上手いなぁ」と感心するのだった。
美味い美味いと咀嚼の合間にうるさいくらいに連呼しながら、バアルが着々と皿を空にしていく。自分の眼の前にある料理に手を付けながらも、黒乃はその光景を見ているだけで腹が満たされていくような気がしていた。
「黒乃の飯はいつ食っても美味いな」
「あ、ありがとう……」
「俺は特にこの卵入りの味噌汁が好きなんだ。これで猫まんま作ってくれた日にゃ、一日ご機嫌でいられるってもんよ」
「あぁ、やっぱりお味噌汁好きだったんだね。塩分多いから、あんまりあげちゃダメだって分かってたんだけど……すごく美味しそうに食べるから、つい」
「ネロはしょっぱいから嫌だって言ってたな。あいつはかつおぶしがあれば良いんだとよ」
「そっかぁ……じゃあ、今晩はかつおぶし食べさせてあげるからね、ネロ」
傍らでほぐした焼き鯖を混ぜたキャットフードを食べるネロに語りかける。にゃあ、と黒乃の言葉を理解しているかのようなタイミングで返事が返ってきた。
それを見て、そういえば、と黒乃が口を開く。
「ネロも、僕の言ってる意味が分かるの?」
黒乃の問いにバアルが箸を止めて答えた。
「あぁ、ネロは利口で優しいやつだぞ。お前のこと、いつも気にかけてる。ちなみにさっきは『そんなに気を使わなくても良い』って言ってたぜ」
にかっと笑ってバアルがネロに、なぁ、と声を掛ける。にゃん、と短く返事が返った。やっぱりネロはその言葉を理解しているかのように振る舞う。
そんな一人と一匹のやり取りを見ながら、黒乃はふふっと小さく笑った。自分には両親の他にも家族がいたのだと、そう思うと自然に笑みがこぼれていた。久しぶりに朝食を誰かと食べる、という行為自体も黒乃を喜ばせて仕方がない。
と、胸いっぱいの気持ちで箸を進めていた黒乃の視界に、ふいに時計が映る。その時刻を確認し、残っていた味噌汁を全て飲み干した。いつもならそろそろ登校の準備を始める時間だ。
食器を重ねて立ち上がる少年に、バアルが問う。
「学校、行くのか?」
「うん、特に体調が悪いってわけでもないから」
「そうか……まぁ、本人がそう言うなら無理に止めはしないけどよ。でも心配だから俺も付いてくぜ」
「そ、それはダメだよ。来ても学校内には関係者以外入れないし……」
「白……昨日の奴がまた現れたらどうすんだ?」
ナイフの少年の名前を口にし掛けるが、バアルはそれをすぐに口の中へと引っ込めた。
「それは…………でも、やっぱりダメだよ」
それには何も言わず、黒乃は問われたことについてだけ返事を返そうとする。けれど結局これといった解答も思い浮かばず、適当に言葉を濁すに終わった。
「……しゃーねぇな。まぁいつでも駆けつけられるようにしとくからよ、何かあったら俺を呼べよな」
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