04 おはようさん
「おい! お前、数分は持ちこたえるって言ったじゃねぇか!」
「お言葉だが五分は持たせた、これ以上は――」
「――うっ!」
バルバトスが苦々しげに告げ終える前、白雨の短い声が上がった。
声と同時に後方へ引っ張られた白雨の体が宙に浮く。
人はあんなに軽々しく投げ飛ばされるものなのか。そう思わず感心する程に、白雨の体は呆気無く黒乃が先ほどまで隠れていたクローゼットへと叩きつけられた。
バン、とけたたましい音を立てて木製の扉が割れる。散った木片が埃まみれの床へと散った。
くぐもった唸り声が響く。死んではいないだろうが、かなりのダメージを受けているだろうことは安易に想像できた。沈黙が広がる。白雨が動く気配はない。
ひとまず助かったのだと息を吐こうとした黒乃の耳に、小さな声が届いた。
「くそ、ふざけんなよ……絶対に契約なんかさせねぇからな……絶対に」
割れたクローゼットの扉に手をかけ、白雨がよろけながらも立ち上がる。
今の攻撃、普通の人間であればしばらく身動きが取れない程の衝撃だったはずだ。争い事に慣れていない黒乃でも分かる。
それなのに、だ。
白雨は歯を食いしばりながらも立ち上がってみせた。
目の前でよろよろとクローゼットから抜け出し、執拗にも再び自分へと歩み寄ってくる白雨の姿は異様に映る。
こめかみと左腕から血を流しながら、荒い息で黒乃へと手を伸ばすその様はアンデットのようだ。黒乃はすくんだ足を叱咤するが、腰が抜けたのか動けそうにもない。
辛うじて動く目が左右に揺れて、白雨の右側でバアルが槍を構えているのが見てとれた。
それを見た黒乃がどういうわけだか「殺しちゃダメだ」と叫ぶのと、バルバトスが白雨の体を抱えて地を蹴ったのはほとんど同時だった。
白雨が居た場所を男の槍が掠めるのを尻目に、バルバトスが腕を横に薙ぎ払う。宙を切った腕に連動するように、前方にあった窓がひとりでに大きく開いた。
縁(へり)に足を掛けたバルバトスが僅かに背後を振り返る。いずれまた、と零された低い声に被さるように、白雨がバルバトスの背を拳で叩きながら叫んだ。
「離せ! ふざけんな離せよ! クロっ! クロ、絶対にそいつと契約するんじゃねぇ! 悪魔と契約なんか絶対にするんじゃねぇぞ!!」
後半の言葉は風に紛れた。窓から飛び降りたバルバトスの左腕を、どこからともなく現れた一羽の大きな鷹が掴み飛び去っていく。
その場にへたり込んだまま、黒乃はただ呆然と小さくなる二人の背中を眺めていた。
そんな黒乃の様子を青い目が黙って見つめている。それに黒乃が気付く気配はなかった。
◆◇◆◇◆
瞼の向こうに強い光を感じて目が覚めた。
スズメの鳴き声が清々しい。目覚まし時計が奏でる騒音はまだ耳に届かないが、黒乃は二度寝への誘惑を断ち切って目を開いた。
視線の先には見慣れた天井がある。のそのそと上半身を起こして辺りを見回すが、幸いと言うべきかそこはやはり見慣れた自室だった。
十畳ほどの畳張りの部屋には簡素な勉強机、それからアメコミが詰まった本棚。あとは古ぼけた衣装箪笥と、その隣の壁に制服が吊られているだけ。
それだけの、整理されていると言うよりは物がない部屋だった。
中庭に面した障子が薄っすらと開いているのを見て、黒乃は自分が今まで包まっていた掛け布団を持ち上げる。思ったとおり、その中では飼い猫のネロが気持ちよさそうに丸くなっていた。
ネロの黒い体を撫でながら、黒乃は考える。なんだか夢を見ていた気がする、と。
とても怖い夢だった。ナイフを持った少年に父親の形見同然の指輪を寄越せと追い掛け回された。
逃げ込んだのは何度も足を運んだことのある、かつて幼馴染の少女が暮らしていた家。
既に廃墟となっているその家の、ずっと昔に隠れんぼで何度も入り込んだ大きなクローゼットの中、いつ見つかるかも分からない恐怖に耐えながら息を潜めていた。
そこでふいに思い出した酷く曖昧な思い出と、それに連動するように開かれた扉。その向こうにいた、白髪の少年。
指輪を奪われ、取り返そうともがく黒乃の代わりを努めた愛猫、バアル。
右手の薬指に滑らせた指輪、助けてという願い、突然現れた悪魔を名乗る異国風の男。
白髪の少年の呼び掛けに応えるように現れた帽子の男。
視界の端で争う二人と、自分に向けられた少年からの殺気。頬を掠めるナイフ。皮膚を裂くと同時に走った熱。
と、そこまで鮮明に思い出してから、黒乃はおもむろに自分の左頬に触れた。
途端にぴり、と走る鋭い痛み。指先を見る。そこに赤い液体は付着してはいなかった。
けれど確かに走った痛みの正体を知るべく、黒乃は布団を跳ね除け洗面所へと駆け込んだ。後ろで、ネロが抗議するように「にゃー」と短く鳴くのにも構わず。
飛び込んだ洗面所にある大きな鏡に自分の姿が映った。
少し伸びた黒い髪と、父親譲りの紺色の瞳。普段からあまり血色の良いとは言えない肌は、今日はことさら青ざめた色をしているように感じられた。
そんな白い肌に、一つしっかりとした傷跡が残っている。まだ塞がりきらない、左頬の傷。それは確かに切り傷だった。
――あの時の傷……。あれは夢じゃない。じゃあ、あの男の人は……?
部屋へ戻った記憶は、いくら思い出そうとしても引きずり出せない。
ならば誰が自分を部屋まで連れ帰ったのか。それを考えても、導き出せる答えは「あの男が連れ帰ってくれた」というものだけだった。
いまだ混乱する頭を少しでも冷やそうと、黒乃は一度大きく首を振ってから蛇口を思い切り捻る。
ジャバジャバと派手な音を立てながら、水が勢い良く流れ出た。それを両手ですくって、辺りが濡れるのも構わずに顔に浴びせる。
二、三度いつになく乱雑に顔を洗えば、左頬の切り傷はチリチリと傷んだ。
そうして顔を洗い終え、蛇口を閉めてから大きく息をつく。それから、ゆっくりと顔を上げた。
再び映る自分の憔悴した顔。けれど鏡に映ったのはそれだけではなかった。
「――っ!?」
自分の背後に映る男に、黒乃が大きく肩を揺らす。驚きすぎて声が出ない。よく聞くそんな現象を身をもって体験することになろうとは。
一瞬そんなことを思いながら、黒乃は固まったように身じろぎ一つせず鏡越しに背後の男を凝視した。
首の後で一つに括った銀の髪。垂れた青い目。紛れもなく、昨日悪魔を自称した男だった。
「おはようさん、昨日はあれからいきなり気を失うもんだから焦ったぜ」
微妙に上がった口角をさらに吊り上げ、男はいつかのように豪快に笑い黒乃へと話しかけてくる。
ニカリと笑って「ちゃんと眠れたか」と問う男に、黒乃は微塵も悪魔の要素を見いだせなかった。
やはり彼が運んでくれたのか。先ほどの言葉でそう察した黒乃は、ギギギと錆びついた音が聞こえそうなぎこちなさで振り返ってみせた。
「お、おはよう、ございます」
声は少し震えていた。それでも懸命に言葉を絞り出す。
よく考えもせず口を開いて、結局出てきたのはそんなありふれた朝の挨拶だけだった。
けれど銀髪の男はそんなことを気にする様子もなく、もう一度先ほど発したように穏やかな声音で「おう、おはよう」と笑って答える。
やはりその様子はどう見たって悪魔には見えないと、黒乃は改めて思うのだった。
「ところで黒乃、今日も学校へは行くのか? 昨日の今日だ、あんまり無理すんな。できれば今日は休んだ方が良いと思うぜ」
「えっ!?」
「ん? なんか変なこと言っちまったか?」
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