1. にゃん子と大学 火曜1限


 キラキラネームの朝は早い。


 梅雨の時期、少しジメジメした、わたしの部屋。

 薄暗い枕元で、にゃーにゃーと鳴くのは、我が家の飼い猫たち。

「うう……」

 目覚まし時計はまだ鳴ってない。

 けど、ここで二度寝したら、間違いなく1限の授業に遅刻する。

 気合をいれ、ばさっと毛布を跳ねのけ、立ち上がった。

 寝ぼけ眼であくびをしながら、引き戸を開ける。

 二部屋とキッチンからなる、そんなに広くないアパート。

 隣の居間で、布団を敷いて寝ているのは、わたしのお母さん。

 しなびたこの町の、しなびたスナックで夜遅くまで働いていて、たぶん今日もお昼近くまで起きないだろう。

「……おいで、チーちゃん、アーちゃん、って、あれ?」

 振り返って猫を呼ぶが、見当たらない。

 いつの間にか、黒と白、二匹の猫たちは、わたしの毛布にもぐりこんでいた。

「おい」

 お腹すいてたんじゃないのかよ、と。

 丸まっていた二匹を、両手でむんずとつかみ上げ、部屋を出た。

 ちなみにチーちゃん、アーちゃんというのは通称というか略称で、本名は黒いのがチーターで白いのがアルパカ。命名は目の前で転がっている母。

 いわく、猫に猫っぽい名前をつけたってつまんないじゃん、と。

 だからって、人間であるところの自分の娘に『猫子』と名付けるとは、一体何を考えてるんだ、というのは今まで散々文句を言った話。

 そんな我が名前。戸籍上の読みは『にゃんこ』

 まあ幼い頃は、我ながらラブリーな名前だと誇っていたのだけれど、物心ついて、どこぞのホームページにキラキラネームとして紹介されてたのを見て以来、急激に恥ずかしくなり、少しでもマトモにと、ねここ、というふりがなを振るようにしている。

 中学、高校、そして大学に入学したときの自己紹介でも、なるべく苗字だけ言うようにして、名前にしても本当の読みは隠し続けてきたのだけど、いつも結局なんだかんだで、友達には『にゃん子』と呼ばれるようになる始末。

 そんな私も来年で二十歳。なんとまあ成人だ。

 こんな名前で果たして立派な大人になれるんだろうか、と。

 ため息をつく娘の気も知らずに、すやすやと眠る名づけ親。

 この美人から生まれた子が、なぜわたしみたいなチンチクリンに育ったのか。

 名前か? やっぱり名前のせいなのか?

 何やら腹が立ち、その寝顔の横にチーちゃんとアーちゃんを置いた。

 ぺしぺしと頬を叩く肉球攻撃と、ぺろぺろと耳を舐める猫舌攻撃に、しかし目覚めることなく、うーうーと唸り声をあげるマイマザー。

「ふふふ。悪夢──いや、猫夢にうなされるがよいっ」

 満足げに声をあげながら、わたしはキッチンに移動して、カリカリを皿にあける。

 まっしぐらに飛び込んできて、もしゃもしゃと食べ始める黒と白。

 わたしはコップ一杯の牛乳を飲んでから、居間に戻る。

 カーテンの隙間から射す淡い光を浴びながら、お母さんはまだうなされていた。

「ねこむで寝込む……」

 ふと思いついたダジャレっぽいフレーズに、何やら笑いが込みあげてくるも、いや、そもそも猫夢って何だよと、自分で生み出した単語に首を傾げる。

 そして大きく伸びをしてから、カーテンの隙間に顔を突っ込んだ。

 うむ、今日も良い天気……でもないなあ……

 日は昇りかけているけれど、いかにも梅雨のどんよりとした曇り空。

 小雨も降ってる感じ。こんなんでは元気がでない。

「ふうう……」

 急激に眠気が襲ってきた。昨日のバイト疲れが取れていない気がする。

「ああ……今日はもうダメだ……」

 朝っぱらから何が、もう、なのかと思うところはあるけれど、病弱な少女をイメージしながら、わたしはお母さんの横、布団の上にばたんと倒れ込んだ。

 にゃーにゃーと、おかわりを要求しにきた二匹を無理やり小脇に抱え込む。

 雨が降ったらお休みだと、誰か偉い人が言った言葉を思い浮かべながら、わたしは二度寝の幸せを味う間もなく、あっという間に猫夢に落ちた──


 やがて目を覚ましたお母さんに怒鳴られながら、ろくに化粧もせず家を出た。

 目覚まし時計はとっくに鳴りやんでいたけれど、それでもまだ七時前。

 薄曇りの空の下、あちこちサビついた駅のホームから電車に乗り込んだ。

 いちおう関東圏、とはいえ、東京駅までほど遠い田舎町。

 大学までは二時間半。だから九時開始の1限には余裕で遅刻。


 東京の大学に入って楽しい大学生活を送りなさい、と。


 お母さんのそんな希望にギリギリ応えられず、わたしは今年の四月、近くの川を越えれば東京都という立地の大学に入学した。定員割れはしてないらしいけれど、高校の成績がボロボロだったわたしなんかでも入学できるレベル。そもそも面接と論述による試験だけで、勉強ができるかどうかはあまり関係なかった。

 乗り換えは一回だけで、なんとか座れるのがまあ幸いか。

 外の風景が都会っぽくなるにつれて、車内に人が増え始める。

 少しばかりウトウトしていると、親友のしいちゃんから。

【今日は遅刻しないでしょうね?】

 と、スマホにメッセージが届く。

【どうでしょうかね?】

 と、猫のスタンプを押して、スマホをポケットにしまい込む。

 ブルブルいってるけど無視して、すやすや。

 大学の最寄駅で目を覚まし、閉まりかけたドアから慌てて飛び出した。

 ホームから階段を降りたところで。

「あっ……」

 思わず声が出た。

 反対側の階段から降りてきた女のひと。

 長くて綺麗な黒髪。

 整った顔立ちに、知性と冷静さを感じさせる切れ長の目。

 遠目で見ても美人さんだとわかるうえ、黒いスーツに身を包んだその身体は、モデル並みにスレンダーなのに、うらやましいほど形のよいおっぱいをしていた。

 近くの男どもが自然と目で追ってしまっているのがわかる。

 慣れているのだろう。そういったやからとは、もちろんわたしも含めて、目を合わせないよう、足早に改札を出て行ってしまった。

「いつ見ても、キレイなひとだなあ……」

 ひとり呟くわたし。

 名前すら知らないけど、時々、大学内で見かけるひとだった。

 いかにも仕事ができる女性といった風で、最初は若い先生か、事務の人かと思っていたのだけど、教室で授業を受けている姿を見かけ、同じ大学生だということを知った。

 いつ見てもスーツを着てるから、就活中の四年生か、もしかしたら大学院生かも知れない。

「うちみたいな大学でも、ああいうひとはいるんだよな……」

 思わずため息をつく。

 美人で、カッコよくて、何より頭がよさそうで。

 わたしもあんな大学生になれたら良かったな、と──

 あこがれと、嫉妬と、そんな気持ちを覚える自分が嫌になりながら、私はとぼとぼと、学校に向かって歩きはじめた。


「……おはようございまあす」

 超小声で言いながら、開いていた後ろのドアから、こっそりと教室に入る。

 一限は少人数で行われるプレゼミ。

 どうやら三、四人のグループに分かれて、何か作業をしているようだった。

 女の子グループの中にいた、しいちゃんがちらりとこちらを見た後、ぎろりとわたしのことを睨む。鬼のようなその視線に冷や汗をかきながらも、そろそろと忍び足でしいちゃんの近くに移動した。

 空いていた椅子に座り、このまま女の子グループに紛れ込んでやろうとしたけど。

「──山田さん、ちょっとおいで」

 無理だった。

 手招きをするのは、教卓で本を読んでいた先生。

 銀縁の眼鏡をかけた男の先生で、若いのか、おじさんなのか、よくわからない微妙な感じ。いつも平和そうな顔をしていて、なんかむかつく。

 私は満面の笑みを作って、先生のところに移動した。

「ええと、山田さん。ご覧の通り、今日は皆にグループワークをしてもらっている」

「みたいですね」

「他の学生の迷惑になるから遅刻や欠席はするなと、先週、散々念を押したはずなんだけどな」

「はい、すいませんでした」

「……ニコニコと可愛く笑って済ませられるのは、高校生までだぞ」

「高校の先生には、中学までって言われてました」

「ならやるんじゃない」

 心底呆れたような顔を見せる先生。

「せめて反省した顔を作って来て欲しいな。こちらとしても対応に困る」

「なるほど、こうですかね」

 どこぞの悪徳政治家が謝罪する場面をイメージし、口を強く結び、ぎゅぎゅっと眉間に力をいれてみる。

「うん……やめたほうがいいな。不細工に見える」

「おい」

 思わず無礼な突っ込みをするわたし。

「笑顔でもダメ、反省してもダメ。ならどうすればいいんですかっ!」

「遅刻をするな」

 ド正論。

「ええと、山田さんは……家が遠いんだっけ?」

「はい、片道二時間半です」

「うーん……」

 腕を組み、どうしたものかと悩む仕草をする先生。

 そりゃわたしだって好きで遠くから通ってるわけじゃない。

 一人暮らしをする予定はなくもないけど、お金もない。

 大学の学費は、お母さんが長年かけて貯めてくれたもので、貯蓄に余裕はない。

 入学前、お母さんと一緒に、大学付近でアパートを探してみたりもしたけれど。

 やっぱりあんたみたいな子を一人にするのは不安だと言われ、わたしもわたしで、チーちゃんと、アーちゃんと、だらしないお母さんを放っておけないと言い返して。

 今にいたる。

 入学と同時にアルバイトも始めた。

 家と大学の間にある栄えた駅。その駅ビルにある大きな本屋さんで雑用。

 結構忙しいけど、まあまあ楽しい。

 しかしお給料は服とお昼ごはんと定期代に消えていき、貯まる様子はない。

 何というか、母娘そろって無計画といえば無計画ではある。

 目の前に座る先生は、何やら複雑な表情で。

「まあ……欠席しないだけ良いんだけどさ」

 そう言うと、教卓の上にあった小型のパソコン、というか大きめのスマホっぽい機械を手元に引き寄せた。出席管理のシステムとかで、学生証をピッとやると出席が取れるという、なかなかハイテクなやつだ。昨日の授業も……と、そこで思い出した。

「あ」

「ん?」

 首を傾げる先生に顔を向けたまま、わたしはこそこそと、しいちゃんが座っている近くまで移動する。顔も見ず、後ろ手でツンツンとしいちゃんをつっつくと、カード状の何かを、わたしの手に乗せてくれた。

 再び先生のそばに戻り、それを出席管理システムに近づける。

 ピッと音が鳴ると同時に、わたしの氏名と『遅刻』という文字が表示された。

「……山田さん」

 じろりと睨みつける先生から、目をそらすわたし。

「自分の学生証を椎名さんに預けていたのかい? それは、つまり──」

「ええと、先生っ」

 とっさに言葉をはさむ。

「き、昨日はお昼すぎに、急に寒くなったじゃないですか?」

「うん? まあ、そうだったね」

「わたしは用意周到に上着を着てきてたんですけど、しいちゃんは──いえ、椎名さんは無策にも薄着だったので、授業中すごい寒がってたんです」

「はあ」

「それでわたしが上着を貸してあげたら、ぬくぬくと気持ちよくなったのか、椎名さん、授業中なのに眠っちゃって……授業が終わって起こしても起きないから、上着は貸したまま放置して、わたしは一人で先に帰っちゃったんです」

「……それで?」

「その上着のポケットに──わたしは学生証を入れたままだったんですっ!」

 推理を終えた名探偵のごとく、わたしはきりりりっと必要以上のドヤ顔を作る。

 しかし呆れ顔の先生。

 背中にひしひしと感じる殺意のような何かは、しいちゃん怒りの視線だろう。

 とっさに思いついたことを口にしてしまったものの……あとが、こわい……

「……まあ、なんだ」

 先生は手にしていた出席管理システムを教卓の上に戻しながら。

「一応、筋は通ってる。椎名さんが授業中に居眠りをするような子ではないことを除けばだけど……しかし、すごいね」

「え、何がですか?」

「山田さんだよ。今みたいな話が即興で作れるあたり、頭は良いと思うんだけど」

 かちんとくる。

「……それ、馬鹿にしてるんですかっ!」

 思わず語気を強めていた。

 この前、この授業でやらされた就職活動対策のテストとやらで、わたしはひどい点数を取っている。わたしが馬鹿だってことは、先生だってわかってるはずだ。

「褒めてるんだよ、掛け値なしにね」

 むかつくほど優しい顔を浮かべながら、先生は続ける。

「そういうセンスは学校の勉強だけで鍛えられるものではないからさ。けど、それだけ頭の回転が早いなら、きちんとした方法さえ身につければ、普通に勉強もできるようになると思うよ」

 ──できなくていいです。勉強なんて嫌いですから。

 言おうとして、流石に言葉を呑みこんだ。

 この先生は絶対に言わないだろうけど、世間の常識的な人々とやらは、こう突っ込むに違いない。

 勉強が嫌いなら、どうして大学に進学なんかしたのか、と。

 対するわたしの答えは──お母さんに言われたから。

 それが子供のような答えだということは、いくらわたしでも理解してた。

「まあ、嘘はいけないよ、山田さん──もちろんズルをするのもね」

 諭すように言う先生に、すいませんでした、と素直に頭を下げた。

 さて先生が言うズルとは何か。

 昨日、つまり月曜の午後に、わたしは「経済思想史」という授業をとっている。

 それはおじいちゃん先生がプリントも配らず難しい話を延々と続けるという、言っちゃ悪いけど本当につまらない授業。一緒にとっているしいちゃんですら、難しすぎてわからないとぼやいているくらい。

 そしてゴールデンウィークが終わった頃、わたしはバイト先の店長から月曜午後のシフトに入って欲しいと頼まれて──

 それ以来、その授業は完全にサボってしまっている。

 ただ……ええと、そのおじいちゃん先生は、出席確認がずさんというか。

 あの出席管理システムを教卓近くの生徒に適当に渡して、以後、生徒同士がリレーのバトンのように渡していく、という方法をとっているのだ。

 つまり、まあ、おわかりだろうか?

 学生証さえ誰かに渡しておけば、サボっていても出席になるという。

 すなわち代返というズルができるわけで……

「というか、僕が言うのも変だけど」

 先生は頬を掻きながら言う。

「どうせ嘘をつくのなら、学生証を家に忘れましたってことにすれば、代返のことが僕にバレるようなことはなかったんじゃないかな」

「……あ」

 わたしは慌てて振り返る。

 しいちゃんが、わたしを見下すような生暖かい目で、ばーか、と声を出さずに口を動かした。どうもそのことに気付いていながら、わたしに学生証を渡したらしい。

「うう……」

 やっぱりわたし頭悪いじゃんと、逆恨みのように先生を睨む。

 呆れたように笑う先生。

「ただ冗談めかして言ってるけど、代返はもちろん不正行為だ。もし学則通りに処罰したら結構重い処分がくだる。証拠不十分だし見逃してあげるけど、次からその授業にはちゃんと出ること。良いかな?」

「はあい……」

「椎名さんも、友達だからって甘やかしちゃダメだよ」

 その言葉に、しいちゃんは立ち上がって。

「はい、すいませんでした」

 先生に向かって頭を下げた。


 わたしはしょんぼりしたまま、女の子グループの方に戻る。

 話を聞いていたらしい男子たちがニヤニヤとわたしを見るのを尻目に、わたしはしいちゃんの横の席に座る。しいちゃんは無言のまま、丸めたプリントでポコンとわたしの頭を叩いた。

「あう……」

 他の女の子たちは顔を見合わせると意地悪く笑顔を浮かべ、同じようにポコポコとわたしを叩く。

 色々と恥ずかしくなって、わたしは机に突っ伏した。

 そんなわたしに、しいちゃん先生は、今やっていることを説明してくれる。

 何でもテーマに沿ってディスカッションをしているのだとか。

 テーマは地域振興。

 スマホで調べても良いらしく、話した内容のメモには、地方の過疎化とか、ドーナッツ化とか、シャッター街とか、それらの問題の対策として、営業努力をするとか、マーケティングを頑張るとか、そんな小難しい言葉が並んでいた。

「……ふうん」

 何となく聞き覚えのある単語。

 たしかお母さんのお店の常連さんから聞いたような……

 お母さんの働くスナックは外見も内装もレトロというか昭和というか、まあ古臭くて、東京にあったら絶対お客さんなんて入らなさそうなお店。

 けど……あ、そうだ。

 お母さんいわく、営業努力を頑張った結果、近くに住むひとたちが夜ごはんついでにお酒を飲むような、たまり場的な感じになって、何とかうまくやっていけるようになったらしい。

 わたしも昔から夜ごはんを食べに通っていて、お客さんと話すことも多かった。

 商売をやっていたひと、ずっと工場で働いているひと、市役所のひと、色んなひとたちがいた。その中で……ああ、そうそう。昔、シャッター街の立て直しに頑張ったというおじちゃんがいて、子供だったわたしに色々と話をしてくれたんだった。

 と、そんなどうでもいいことを思い出しながら。

 わたしは授業が終わるまで、眠い目をこすりつつ、ただぼんやりとみんなの話を聞いて過ごしていた。


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