第三話 裏庭の逃走劇
空中に飛び出した忠継は、わずかに残った理性で自分が何をされたのかを理解した。
(……空気だ、空気が飛んで来ているのだ!!)
最初に脇腹、そして今、右胸の辺りを殴りつけた歪みの塊。吹き飛ばされながらなんとか視界におさめられたそれは、どうやら空気を固めたようなものらしい。
(団扇のようなものは見当たらなかったが、天狗が風を操るという話は聞いたことがある!! となると、ここはやはり……!!)
忠継の中で、ここが天狗の国であるという確信が強くなる。今忠継を襲っている現象は、明らかに人知を超えていた。
同時に、窓の高さから落ちたにしては随分と軽い衝撃が体を襲う。
「ぐっ、う、ごほっ、ごほっ」
叩きつけられた衝撃よりも、空気の塊によって肺を叩かれたことによる衝撃でなんども咳きこむ。見れば、どうやら忠継は庭の植え込みの上に落ちたらしい。落ちたときの体制を考えれば、地面に叩きつけられなかったのは幸いだった。
胸をおさえながら植え込みから起き上がり、しかし、すぐにふらついて膝を突く。同じ妖怪でも、実は狐に化かされているという可能性も浮かんだが、今忠継自身が感じている痛苦は明らかに本物だった。
「くそっ、どうやら俺は本当に神隠しか何かにあったらしい!!」
何とか痛みが治まってくるのを感じながら、忠継は自分の置かれた状況に呻く。このままここにいては何をされるか分かったものではない。一刻も早く元いた場所へ帰らねば命にかかわる。
「あの女、確か裏庭にマホウジンがどうとか言っていたな」
もし天狗たちが忠継を妖術でここに連れてきたのなら、その裏庭のマホウジンがその妖術である可能性は高い。エミリアの言うことをすべて信じるのは不用心とも言えるが、他に帰る手がかりもなかった。
「とにかく裏庭だ……!! 裏庭を探さねば!」
そう忠継が決意するのとほぼ同時に、遠くから何人もの人間の足音と、金属同士がぶつかり合うような音が大量に聞こえてくる。
危険を察知した忠継が振り返ると、そこに現れた五人ほどの、簡素な鎧をまとった兵士らしき天狗達と目があった。
「いたぞぉ!!」
「くっ!!」
声に反応するように忠継は五人から背を向けて走り出す。だが三歩と走らないうちに背後から、先ほどの天狗が妖術を使ったときと同じ感覚が襲ってきた。
(まさか!?)
直感に従い、とっさに斜め前に飛びだす。すると忠継の真横を高速で何かが通り過ぎ、目の前の地面にぶつかり爆ぜて穴を開けた。
(っ!! ……やはり今の感覚、これが妖気と言うやつか!!)
今まで感じたことのない、しかし確かに感じる感覚をそう判断した。どうやら背後の五人も妖術を使うらしい。
(妖術を使う化け物が五人。切って捨てるには数が多いか)
そもそも今追ってきている五人のなかにさっきの大男が存在していない。他にも何人同じような化け物がいるか分かったものではないこの状況で、まともに対峙するのは明らかに愚策だ。
(とにかく裏庭だ。裏庭のマホウジンだ!!)
目指す場所をもう一度強く念じ、忠継はこの場を離脱すべく行動を開始する。手始めにと目の前の生け垣に目をつけ、それを飛び越え|ようとした(・・・・・)。
(は?)
いきなり地面が大幅に遠のいたことに、忠継は心中で驚きの声を上げる。すぐに地面が戻ってきて、地に足がついても、忠継の驚きはおさまらなかった。
(なんだ? 今のは?)
困惑しながらも背後の気配にそれどころでないと判断し、着地した姿勢から再び走りだす。すると自分の足が叩きだす速度が、いつもよりはるかに速いことに気が付いた。
(体が、異常に軽い!!)
見れば、背後の天狗たちはこちらの足にまるでついて来れていない。元から足にも自信はある忠継だが、あまりにもその差は劇的だった。
思わず自分の背に羽が生えていないことを確認してしまう。そこまでするほどこの体の軽さは異常に感じられるものだった。
(いや、今は理由などどうでもいい! とにかくこれなら振り切れる!!)
そう確信しながら忠継は妖術の的にならぬよう、左右に跳躍してジグザグに走る。直線に走っているわけではないため無駄の多い走り方だが、それでも背後の天狗たちはどんどん引き離され、忠継が建物の端に近づく頃にはかなりの距離を稼いでいた。
(よし、これなら――っ!!)
と、忠継が逃げ切れると確信したそのとき、目の前に建物の影から、さらに天狗が二人現れ、事態の逆転を突きつけるように大声を上げた。
「侵入者ぁ!!」
目の前の天狗の一人が忠継に気付き、すぐさま妖気を発して手の中に図形を描く。忠継はそれに反応し、図形から飛び出したものを避けようと左に飛ぶが、虚空から生まれたそれは忠継を追って腕に絡みついた。
「なっ!?」
腕に絡みつくそれは、妖気を発する半透明の鎖だった。半透明であるはずなのに感触は冷たい鉄そのもので、猛烈な力で忠継の右腕に絡みつき、体勢を崩そうと引き倒しにかかってくる。
「ぐ、お!!」
「もう一本だ!!」
さらにもう一人の生み出した鎖に左腕の自由を奪われ、忠継はさらなる力との力比べにさらされる。どうやらこの鎖、それ自体が蛇のように動き、また絡みついた対象に力をかけられるらしい。
「どうだ!? 【縛鎖蛇≪チェーンバイパー≫】は避け辛いだろう?」
二人目の天狗に鎖で囚われ引かれながら、しかし忠継も負けじとその場で踏ん張りを効かせる。体格の大きな天狗二人との力任せ。それに鎖自体が力をもっているとなれば、普通の人間では対抗できない。
だが、忠継の軽くなった体は、ここでも異常なまでの力を発揮した。
「ぬ、ぐぐぐぐうう!!」
「な、にぃ……!?」
「こ、いつ、どんな馬鹿力……!?」
忠継の視線の先で、二人の天狗の顔が驚愕に歪む。無理もない。二人がかりの力に忠継は抗ったばかりか、徐々に二人を引きずり始めているのだから。
「ぬ、う、がああああ!!」
「な……!?」
「げ……!!」
忠継が雄叫びをあげ、鎖を力いっぱい引っ張ったことで、ついに力比べは収束した。鎖を操っていた二人の天狗、その体が前のめりに倒れ、大地に叩きつけられることによって。
「ふぅ、ふぅ」
多少息を荒げながらも鎖が消えたことを確認すると、忠継は倒れて呆然とする天狗二人を飛び越えて再び走りだす。
背後に追い付いて来ていた五人はそれから少しして、完全に侵入者を見失った。
「見失った?」
「はい。近くにいた兵が追っていたそうなのですが、足がやたらと早く、屋敷の裏でその姿を見失ったそうです。現在、裏庭を重点的に捜索しております」
「ふうん……」
兵士の報告を受け、エルヴィスはしばし考え込んだ。次々に浮かんでくる疑問の中から目の前の騎士に答えられそうなものを選び出していく。
「とりあえず、エミリアが一緒だったって話だけど?」
「はっ、少しの間行動を共にしていた模様ですが、エミリア様にはお怪我はございません。ダスティン団長が駆け付けたときには若干狼狽されていたようですが、今は、えー、今は……」
「|いつも通り≪・・・・・≫だった、と?」
「は、はい」
エルヴィスの言葉に騎士は安堵したように同意する。大方いつもの病気だろうと予測したエルヴィスの予想はどうやら正しかったらしい。エルヴィスでもあの症状を直に見ると聞こえのいい言い方は思いつかない。この家の当主である自分の妹に対して、悪口に近い状況報告をしなければならない目の前の騎士は、さぞ苦悩も多かろう。
もっとも、エルヴィス自身も人のことは言えないのだが。
「それにしても、まだ魔方陣の解析も始まっていないというのにこの騒ぎ。これじゃしばらくは調査を進められないかな。あの変な剣も持ってかれたんだっけ?」
「はっ、申し訳ございません。エミリア様のお話では、カタナと呼んでかなり執着していたらしく、エルヴィス様のお部屋に案内したと」
「ん? と言うことは、エミリアはその男と会話しているのかい?」
「はい。いろいろと会話を交わしていたようです」
「へぇ……」
報告に、エルヴィスの中で妹への期待が高まる。ぜひとも話を聞きたいという欲求が強まり、強烈な衝動となって全身を駆け巡る。
「ふふふ、いいね。エミリアの奴がそいつからどんなことを聞いたのかすごく興味深い」
整った顔で上品に笑いながらも、目だけを子供のように輝かせてエルヴィスは笑う。実際、心情的には楽しみを取り上げられた子供が、さらに大きな楽しみを見つけたような状態だった。
エルヴィスの妹のエミリアには一つの病気とも呼べる症状がある。だがそれは、決して他人事ではなく、さらに言えばエミリア一人だけのものですらなく、むしろクロフォード家に伝わる遺伝病のような代物だ。
すなわち、強烈な好奇心と、それを満たすための異常なまでの行動力。妹と同じくそれを受け継いでいるエルヴィスは、自身の知識欲を満たすべく、まずは実際に会って話をしたうらやましき妹のもとに行くことにした。
「ふふふ……、はっはっは。いいね。本当にいい」
「あの、エルヴィス様?」
「まったく、馬鹿どもの相手に呼ばれてウンザリしていたら、別邸の庭に未知の魔方陣と変な格好の人間ときたもんだ。まったく。神は知識に関しては飽食を禁じないと見える!!」
「あの……」
「ああ!! そうだった、悪かったね。とりあえず逃げた男は殺さずに捕まえて。いろいろ聞きたいことがある。すっごく面白そうだ!!」
「は、はあ」
「僕はとりあえず実際に話したエミリアに話を聞いてみるよ。あいつめ、面白そうなことに一人で首を突っ込んで。ふふふふふふ」
いっそ不気味とも言える笑いを浮かべ、呆然とする騎士を置き去りにしてエルヴィスは自身がいた部屋を飛び出す。その眼の先には見つけたばかりの研究テーマが輝きながら解明のときを待っていた。
一方裏庭では天狗の追跡を逃れた忠継が、木の上で息を潜めて隠れていた。
近くにはまだ鎧を纏った天狗たちがうろついている。
(……それにしても、なにが裏庭だ!)
自分を探す天狗たちが去っていくのを見ながら、忠継は内心で悪態をつく。
(表より広いではないか!)
忠継がいる裏庭と思われる場所は明らかに表の庭より広かった。
表と違い手入れが行き届いているわけではなく、樹木が乱立して半ば森に近い環境であるため、扱いとしては裏庭として扱われているのだろう。だが一方で、広さで言うなら間違いなくこちらの方が広い。
(こんな場所でどうやって見知ってもいないマホウジンとやらを見つければいいんだ!?)
もっとも、こんな裏庭だからこそ、忠継はまだ見つからずにいられているとも言えるから忠継自身の気分は複雑だ。
忠継が今居る木の上は枝も高い所にしかなく、異常な身軽さを発揮し続ける忠継の肉体でなければ登れないような木だ。常人には隠れるのに向かない木であるため他の木よりは見つかりにくいだろうが、それだって何時まで見つからずにいられるかは分かったものではない。
(何しろ相手は天狗だからな)
今のところ飛ぶようなそぶりこそ見せていないが、天狗に翼は付き物だ。そもそも相手がいつまでも地上ばかりを探してくれるとは限らない。
(相手が一匹や二匹なら切って捨てればそれで済むのだが……。こう数が多くてはそれもままならん。下手をすれば囲まれて犬死だ)
武士として生まれた以上、死を恐れるような軟弱な精神は持ち合わせてはいないが、主君のためでも民草のためでも、さらには家のためでもなく、ただ旅先で天狗にとり殺されるなどさすがに我慢ならない。『死ぬならもっとしかるべき場所で』というその一念だけが、忠継を無謀な斬りこみから遠ざけていた。
(とりあえず、隙を見て木から木に移動し、それらしきものを探すか)
知恵を振り絞って、なんとかそう答えを出し、忠継は周囲の様子をうかがう。手ごろな木に目星をつけ、周囲に天狗が来ていないのを確認すると、枝から飛び降りて目星をつけた木に向かって一気に駆けだした。
最初の木に飛び移ったときと同じように一気に飛び上がり、枝をつかんで体を引き上げる。
眼にもとまらぬ速さで行われたその移動は、およそ江戸にいた頃にはできない動きだった。
(これが無ければとうに捕まっているな。……む!?)
木の上で再び周りの様子をうかがっていると、わずかに離れた場所から人の気配を感じた。眼を凝らして見ると、天狗が三人、こちらに歩いてくるのが見える。
(まずい)
慌てて気配を殺し、天狗をやり過ごすべく木の幹を盾に身を隠す。
だが、運の悪いことに三人の天狗は忠継が潜む木に向かってどんどん近付いていた。近づく足音の落ち着き方からして忠継を見つけているわけではないようだが、わずかでも気配を悟られれば瞬く間に発見されてしまうだろう。
忠継は木の上で必死に息を殺す。緊張の余り顔中から冷や汗が吹き出して、
それが顔を伝う動きすら天狗たちに悟られてしまうのではないかと肝が冷える。
だが気配を殺すその努力が幸いしたのか、木のすぐそばを通った天狗たちは、それでも忠継に気が付くことなくその場を通り過ぎていった。
(そのまま、行ってしまえ)
そう思いながら忠継は、天狗達が移動したことによって見える位置に来てしまった己の体を、注意深く木の幹に隠し直す。枝葉が視界を遮ることを考えれば簡単に見つかるとは思えなかったが、それでも見つかる危険性は排除しておきたかった。
だがそばで響いたカチャリという音がその判断の迂闊さを訴える。
(!!)
「ん?」
「む?」
「今のは?」
忠継と三人の天狗達が一斉に音に反応し、その発生源を探し始める。
一番早く見つけたのはやはりというべきか忠継だった。だがそれは当然の話だ。自分の腰、そこにさした二本の刀がぶつかって音を発していたのだから。
(っ、迂闊!!)
その事実に気付き、自身の迂闊さを呪うが既に遅い。見れば、行き過ぎようとしていた三人の天狗達はこちらに向けて警戒しながら近づいてきている。このままでは見つかるのは時間の問題だった。
(どうする……!)
枝の隙間から天狗たちの顔が見える。
忠継の判断は一瞬だった。
「なぐぇ」
足元で驚きの声が潰れるような悲鳴に変わる。
それが木から飛び出した忠継が、天狗の一人の顔面を踏みつけた結果だった。
さらに忠継は足に力を込め、後ろに倒れようとする天狗の顔面を足場に跳躍する。
「いたぞぉ!!」
天狗の叫びと共に忠継の両足が大地を踏みしめ、背後で人間一人が地面に崩れ落ちた音が聞こえた。
(とりあえず一人は減らせたか!!)
背後から二人分の足音が追ってくるのを確認し、踏み台にした一人が気絶したことを認識する。残り二人ならばひと思いに斬ってしまおうかとも思ったが、
(……新手か!!)
前から現われた二人の天狗によって、そうもいかなくなった。
二人が揃って両手で光る図形を生み出し、妖気を操る感覚を放ちながら空気の歪みを生みだす。彼らの手元から襲い来るのは先ほど受けた空気の砲弾だ。
「何度も食らうと、思うなぁ!!」
飛来する空気の歪みを見切り、左右に跳躍して回避する。先ほどこそ不意を打たれて直撃してしまったが、冷静に対応できれば避けられないものではない。
ただしそれは、天狗たちにとってはそうではなかったようだ。回避した忠継の動きに呆けたような表情を浮かべ、こちらが近づいているというのに大きな隙を晒している。
(今なら、斬れる!!)
隙だらけの相手にそう判断し、忠継は腰の刀に手を伸ばし鯉口を切った。抜刀と共に手近な天狗を切り捨てようとしてしかし、背後から発せられた妖気にとっさに振り返る。
「っ!!」
背後の一人が忠継を拘束するべく放った鎖を、振り向きざまの抜刀で弾き飛ばす。刀身と鎖の先についていた分銅がぶつかり、空中に橙色の火花が散る。
「クッ!!」
「チッ!!」
背後の天狗と同時に舌打ちし、忠継は体の回転をそのまま用いて進路を右に変えた。先ほど空気の砲弾を飛ばしてきた二人も今のやり取りで我に返ったのが気配で伝わってくる。この状況で相手と斬り結ぶのは分が悪かった。
再び天狗四人を背後に取り、忠継の疾走が始まる。
(行ける!! 奴らの足は俺より遅い。もう一度振り切れれば……!!)
先ほどの経験を踏まえた、確信にも似た判断。だがその考えは、忠継の上からさした影によって儚くも霧散することになった。
周囲が急に暗くなったことに驚き、走りながら周囲を確認すると、背後を走る天狗の一人が妖気を上に向かって送り込んでいる。
(なんだ……!?)
忠継が妖気の先を見上げた瞬間、その先にあった透明な塊が忠継に襲いかかる。先ほどの空気の砲弾とは訳が違う。人一人を優に超える大きさを持つそれに、忠継の体はなすすべなく飲み込まれる。
(ぐ、ああ!! これは……水!?)
気付くと同時に忠継の周囲が水で満たされ、それが水の証であるかのように浮力で体が浮きあがる。忠継自身は川にでも投げ込まれたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
周りを見ても追いかけて来ていた天狗達は普通にこちらに向かって走っている。どうやら忠継だけが水に包まれた状態にあるようなのだ。
(くそ!! こんなもの!!)
息を止め、心中で悪態をつきながら、忠継は必死に刀を振り回す。だが刀に伝わる手ごたえは水の抵抗意外に感じられず、どんなに振り回しても水がどこからか漏れることすらなかった。
(くそっ! くそっ! くそっ! おのれ妖術使いめ!!)
必死に刀を振り回し、心中で悪態をつきながらひたすらもがく。だがその行為もむなしく、水の檻は忠継の体力を奪い、同時に呼吸の出来ない苦痛を与え続けていた。
時間の経過と共に、だんだんと空気が口から洩れるのを防ぐことしかできなくなっていく。
(く、そ……!!)
揺らめく水面の向こうで追いついた天狗達がこちらを眺めているのが見える。水面が反射しているため表情までは見えなかったが、忠継はこちらが息絶えるのを待っているのだろうとあたりをつけた。同時に自分の最後が近いことも。
(……ここ、までなのか!!)
忠継の脳裏に単純で簡単な疑問が浮かぶ。それは死に対する抵抗というより、ただ純粋な疑問だった。
(死ぬ、のか? 何も成せぬまま、いや、成すべきことすら分からぬまま……?)
忠継の脳裏に母の顔が浮かぶ。さらに険しい表情の父の顔。思えば厳格な父はいつもこんな表情だった。
(こんなものか、俺の一生は。結局俺は何者にも成れぬまま終わるのか)
そこまで考えたとき、脳裏に兄の姿が浮かんだ。申し訳なさそうな表情。父と違い一度しか見たことのないその表情は、間違いなく「すまない」といったあの時の表情だった。
それに対して生まれるのは強烈な反発。
(違うやめろ、そんな顔をしないでくれ!!)
忠継の意識に急激に力が戻る。思い出した兄の表情に引きずられるように内心で強力な感情が荒れ狂う。
(兄上は悪くなどない! そんな顔をせずとも、俺は俺の道をしっかりと見つけて見せる!!)
それは申し訳なさそうな表情をする兄への怒りではなかった。両親や兄にあんな顔をさせてしまった、兄が無事に生き延びたことを、兄自身にすら心から喜べなくさせてしまった自身の不甲斐無さへの強い怒りだ。同時に不甲斐無さでいうならば、自身の今の状況の何とふがいないことか。
(そうだ。俺はここで死ぬわけにはいかない)
示さなければならない。己が自身の道を歩めることを。そのために生まれて十八年暮らした江戸を旅立ったのだ。ここで死んでは示しがつかない。
忠継の体に活力が戻る。空気が無いため、胸が切り裂かれるような痛みを発しているが、それでもここで死ぬわけにはいかなかった。
(それでも殺すというのなら!!)
刀を握り、水中で構えなおす。
(妖怪変化も妖術も、邪魔するもの全て――)
刀を振りかぶり、全身の力を込め、振り下ろす。
(――斬って、捨てる!!)
瞬間、右腕に妖気が集中し、発光する感覚と共に、振り下ろした刀が妖気の水を文字通りの意味で斬り捨てた。
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