竜王の船

新木伸

第1章「超能力開花」

ある夏の出来事

 女子高生が一人、古びた建物を駆けあがってゆく。


 チェックのスカートの内側で膝裏が跳ね、制服の短い裾がぱたぱたと暴れる。

 跳ねぎみの髪をショートカットにした、快活そうな顔つきの少女だった。


 朝の七時台という時間にも眠そうな様子はまるでなく、その鳶色の目は、ぱっちりと開いて前を見つめている。


 朝靄の残る校庭を駆けてきたその勢いのまま階段を登りきった少女は、革のローファーをぽいぽいと脱ぎ捨てると、スリッパの音を鳴らしながら、まっすぐ続く寮の廊下を歩きはじめた。


 一つ、二つ、三つ――。

 寮の廊下は、同じ形のドアがどこまでも続いている。

 区別のつかないそのドアを、六つ、七つと数えていって、八番目のドアの前に立つ。


 少女は大きく、息を吸った。


「くぉらぁー、夏生なつおぉーっ!」


 叫ぶと同時にドアを開け、部屋の中になだれこんでゆく。


 物の散らばった――いかにも男の子の部屋といった室内で、雑誌の山と、なにか機械のパーツが詰めこまれた箱の間とを、器用にすり抜けてゆく。


 窓際のベッドに到達すると、少女は夏服の脇腹に手をあて、ベッドの上の人物を見下ろした。


 まくらを抱いて、くうくうと、少年が寝息を立てている。


「起きろってばー、ほら夏生っ」


 少女は布団を引っぺがしにかかった。


 慈悲もないその仕打ちにも、少年は目を覚まさない。


「くおら」


 スカートの下から、にょっきりと脚が伸びてゆく。

 黒ソックスのその足で、えいとばかり、少年の顔を踏みつけにかかる。


「ううん……」


 少年がようやく反応した。寝返りを打って、顔をそむける。


 その手強さに嬉しくなったのか――。

 少女の顔に、にへらーと、笑みが浮かんでゆく。


「なーつー、おっ♡」


 危険な笑みを浮かべたまま、女子高生はベッドの縁に膝をつき、身を乗り上がらせていった。


    ◇


 夢を見ていた。


 霧のただよう山中をさまよい続けているうち、ふと目の前に、洞窟がぽっかりと現れる。


 どこまでも続く、その真っ暗なトンネルの奥から、なにかが呼んでいるような気がしたか。


 怖くもなく。不気味にも思わず。足は自然と洞窟のなかへと向かった。

 ゆるやかに下る一本道を、まっすぐに歩いてゆく。


 しばらく歩いてゆくと、道が終わりを告げていた。


 そこに、一人の少女が待っていた。


 美しい少女だった。

 細いからだを半透明の光り輝く布が覆っている。

 緑色をした長い髪も、白い肌も、すべてが発光しているようで、生きている人では有り得ない神々しさに満ちていた。


 精霊に出会ったと、そう思った。


 少女は両手をからだの前で合わせていた。祈るようなポーズで見つめてくる。


 その唇が、動いた。


 なにかを言っているようだった。だがなにも聞こえてはこない。


 少女に近づき、彼女の言葉を――、彼女がなにを自分に告げようとしているのか、それを聞こうとした。とても大事なことのように思えた。


 少女は懸命に、なにかを伝えようとしている。


 理解しようと、努力した。


 だがやはりなにも聞こえない。


 なにを願っているのか、どうしてもわからない。声が聞こえない。


 もどかしさに衝き動かされて、もっと近づく。その肩を掴む。彼女に実体があって、触れることの叶う存在であることに、軽い衝撃を覚える。だがそれよりも強い衝動に突き動かされていた。


(…………)


 見つめてくる彼女は、また、声にならない言葉を紡いだ。


 彼女の手が伸びてくる。


 たおやかな腕が首に回され、優しく絡んできて、それで――。

 ぐいっと。思いっきり。


    ◇


「あだだだだだだだっ!」


 夏生は目覚めた。


 首に絡み、締め上げてきているのは――。

 白くて柔らかくはあったが、美少女のたおやかな腕――とかでなく、なんだか、もうすこしボリュームのあるものだった。


 足。

 そう。これは、足だ。

 生足だ。


「くらえシャイニング・トライアングルぅ!」


 そんな声が頭の上から聞こえてくる。


 頬と首が――左右からぐいぐいと絞りあげられる。

 狭くなった視界の端にスカートの裾が見え隠れしていた。


 つまりこの太腿は、女の太腿で。


「うわわっ!」

「どうだ。起きたか。夏生おっ」


 ふたたび、知っている声がした。

 女の太腿に錯乱ぎみの夏生であったが、その声の主が誰なのか、ようやくわかった。


「ま、真琴――っ、おっ、おま――っ、おまえ、なっなっ、なーーっ!」

「よしっ」


 首を取り巻いていた甘い香りが、すっと離れていった。


「うし。起きたね。二度寝は禁止だからっ」


 そんなことを言いながら、真琴がベッド脇に立つ。

 ウエストでスカートの位置をくいくいと直し、ずり落ちていた黒いソックスを上まで引っぱりあげる。


「わっ。うわっ。わっ。わあっわあっ」


 夏生は何が起きたのかわからず――。

 何が起きたか実はわかっていたがそれを信じられず――。

 女子高生がスカート姿でプロレス技をかけてきたとか。

 生足と生股間と生下着とに挟まれて締め上げられていたとか――そんなアリエナイ。


 壁際まで逃げていった夏生は、夏向けの薄い布団一枚を体の前に引きつけて、身を守ろうとしていた。


「わーっ、わーっ」


 なにか言ってやろうと口を動かすものの、出てくるのは、ただ悲鳴のような声ばかりである。


「なーに、女の子みたいに騒いでるんだか。――びっくりした? びっくりした? ねーねー、びっくりしたぁ?」


 前屈みになって顔を近づけて言ってくる真琴に、夏生は、こくこくと、ただうなずき返すばかりであった。


「ほら。野球やる約束でしょー? はやく起きてくるー」


 軽く手を振って、彼女は――春日真琴は、寮の部屋から出て行った。


 彼女の姿が消え。

 開け放されたままのドアから、風が吹き込んできた。

 部屋を抜けた風は、窓へと一直線に向かって、青い空へと逃れてゆく。


 梅雨も明けきって、八月も間近い空は、雲ひとつ見あたらない快晴であった。

 カーテンも開け放されていて、じりじりと照りつける太陽がリノリウムの床を焼き焦がしつつあった。


「やきゅう……? なにっ?」


 ばくばくと、心臓がまだ収縮を重ねている。


 乱打する鼓動は、しばらくは落ち着いてくれそうになかった。


    ◇


 歯磨きと洗面を済まし、夏生はラウンジへと向かっていた。


 ふだん寮内をうろつくときには、Tシャツにパンツ一丁なんていう格好であるが、いまは真琴が待っているであろうから、それなりの格好に着替えている。


 一年と数ヶ月ほど住みついて、とっくに見慣れたいつもの男子寮の廊下なのに、クラスメートとはいえ女の子が待っているのだと思うと、光景さえ違って見えてしまうから不思議であった。


 夏休みに入り、七月も終わりを迎えた寮内は、無人かと思えるほど人がいなくなっていた。


 歯を磨いている間も、トイレに立っている間も、先輩にも後輩にも同い年の連中にも、誰にも遭遇していない。


 ほとんどの者が帰省を済ませてしまったらしい。


 寮食のほうも夏休み突入と同時に止まって、食事も出ないこの寮にいまだ居残っているのは、自分ひとりかもしれない――と、そんなことを考えつつ、タオルをくるくると回して夏生は廊下を歩いていた。


「約束、約束、やーくーそーくー……。なんだっけ?」


 真琴がなにかを言っていた気がする。

 ――が、なにを約束していたのか、とんと記憶にない。


 春日真琴という女は――。あまり女とは思えないのだが――。


 がさつというよりは大雑把。

 顔だってわりかし綺麗で、美人の範疇に入るだろうに、色気というものにまったく欠けている。

 それこそ壊滅的なまでに。


 だからこそ性別を気にせず遊ぶことのできる仲であるわけだが――。


 夏生はラウンジに入っていった。


 サンダルの音を鳴らしてテーブルの間を回ってゆくと、夏服姿の女子高生は、もうすっかり風景に溶けこんでしまっていた。


 テレビをつけて、朝のおはよう番組などを流している。

 備え付けの給湯器から注いだ薄い緑茶を、誰かのカップを勝手に使って、あたりまえのような顔をして飲んでいる。


 そしてラウンジの窓辺に、もうひとり――。


 花模様のティーカップで優雅に紅茶などをたしなむ男子の姿があった。


 真琴がこちらを向かないことに、ややほっとしつつ――夏生はその背中を素通りして窓際へと向かった。

 青年の向かいの席に、どっかと腰を下ろす。


「帰ってなかったのかよ――秋津」


 経済新聞から目をあげた青年は、眼鏡の夏生を一瞥したきりで、また手元の紙面に目を戻した。


「君が帰らないうちは、私だって帰らないさ」


 いつもながらの意味深な言葉を、いつものように夏生はスルーした。

 「私」とかいう有り得ない一人称も、朝の八時から髪型をびしっと決めて紅茶と経済新聞を装備したこいつが言うと、妙に様になってしまう。


 学校創設以来というこの秀才は、夏生と出身中学を同じくする友人だちであった。


 中学三年の当時でさえ「東大現役合格間違い無し」とまで言われた彼――秋津真人あきつまさとが、こんな僻地にある、レベルが高いともいえない半寮制の学校をどうして選んだのか、その理由はまったくもって不明である。


 「君がいるから」という、冗談だか本気だかわからない理由を、秋津はよく口にする。


 一部の女子が黄色い声で騒ぎたてるような不純な意味ではなく、「一緒にいると退屈しない」という意味であるのだと、夏生はそう思うことにしている。

 余計なことに首を突っこんでトラブルに巻きこまれることの多い夏生であるが、そのたびに秋津は面白がって、一緒に渦中に飛びこんでくるのだった。


 彼曰く、退屈とは人生最大の敵であるのだそうだ。


 友情とは微妙にベクトルの違う不健全な何かを感じながらも、夏生もまあ、として秋津のことを認めていた。


「あ。起きてきた」


 椅子の背を跨ぐ格好になって、真琴が体を向けてくる。


 その目に正面から覗きこまれて、夏生はつい、目を伏せてしまった。


 ほんの数分前――あの白い生足に、首四の字を掛けられていたのだ。目を合わせることなど出来るはずがない。


 向こうはきっと意識していないのだろうし、すっかり忘れているのだろう――そうは思っても、やっぱり無理だった。十七歳の健全な男子高校生としては。


「で……、なんだって? 約束だって? おれ、なんか約束してたっけ? おまえと」


 夏生は強引に話を変えた。


「やきゅう~ぅ」


 真琴が椅子を揺する。子供のようにガタガタとやる。


「野球?」

「そう。野球。まえ言ったじゃん。約束したじゃん。けっこう楽しみにしてたのに。夏休み入っちゃうし」

「そんな約束、してたっけ?」

「ああ――」


 新聞に目をやっている秋津が、そんな声を出す。


 思いあたりがある、とでもいうその声に、夏生は追及するのをやめた。

 夏生につきまとってくる秋津は、自然と、真琴とも顔を合わせる機会が多くなる。

 三人でつるんで、なにかやることが多い。


 カラオケで秋津の意外な持ち歌を引きずり出してきたのは、あれは真琴の功績だ。


「野球はいいとして……。三人で野球なんて、できるかよ。三人でやるのは、それはキャッチボールっていうんだ」

「えー、できるよー。なんてったっけ。ほら。透明ランナー制とかいうやつ?」

「やだよ。おまえノーコンだし。走らされるし。それにおまえフォームめちゃくちゃなくせに、なぜだか、当ててきやがるから」


「あれぇ? 変? どこが変?」

「そもそもバット握る手がちがうんだよ。右手と左手が逆さまなんだよ」

「あっれー? こうだよね?」


 と、構えてみせるその持ち手が、すでに逆さまだ。

 フォームはがちゃがちゃなくせに、目だけは異様にいいという、へんな運動神経の持ち主であった。


「だいたい三人で、どうチーム分けすんだよ? 野球ってのは二チームで、つまり偶数でないと――って、どうした?」


 真琴が廊下のほうをじいっと見つめているので、夏生は会話を止めた。

 真琴と同じ、その方向を見る。


 だが、そこにはただ、壁があるだけだ。


 真琴がよくみせる癖であった。

 時折こうして、どこか変なところを見つめていることがある。


「――じゃあ、四人でだったら、いいのかな?」

「なにが? ああ野球か」


 突然、話を再開されて、夏生は面食う。――が、なんとか話についていった。


「しずー、そんなところに隠れてないで、入っておいでよー」

「え?」


 真琴の鳶色の目が、壁から戸口の方向へと、すうっと移動してゆく。

 その視線が廊下へと続く戸口に到着したとき、そこに、女の子の姿が現れる。


「……えっと。あの」


 おずおずと、遠慮がちに入ってきた女の子の――その大きな胸に、夏生の視線は吸い付けられた。


 ぴたりとしたノースリーブのサマーニットが、立体の形を際立たせている。

 山の高さはその下側に影ができるほどで、腹へと落ちてゆくその段差は、ほぼ垂直に切り立っている。


 は――と、我に返った。


 気まずいくらいの間があいてしまっていた。

 彼女は真琴なんかとは違い、視線の意味を敏感に理解していた。

 胸をかばって顔を赤らめ、咎めるような目線を夏生に向けてきている。


 その彼女の顔に――夏生は見覚えがあった。


「あ。冬野とうのだ」


 クラスメートの名前を、夏生は口にした。

 胸のほうにばかり目がいっていて、たったいままで、誰だか気づいていなかった。


 地元の農家が実家である真琴などと違い、女子寮の住人である。クラスよりもそちらのほうでの印象が強い。


 男子寮と女子寮とは、もちろん別々であるわけだが。

 寮の食堂だとか、銭湯サイズの風呂場の前にあるロビーであるとか、そうした共有スペースで何度か見かけたことがある。


 話したことは一度もない。

 いつも控えめな物腰で、おとなしそうな女の子に思えた。

 背中まで届く漆黒の髪と、眉のところで一文字を描く前髪から、どこか古風な印象も受ける。


「それは?」


 気まずさからようやく脱出して、夏生は声をかけた。

 彼女が――冬野志津が、大きな袋を手から提げていることに、たったいま気がついたのだ。


「ごはん」


 と、そう答えてきたのは真琴である。

 志津のほうは完全にうつむいてしまっている。

 ビニール袋を持つ手にきゅっと力をこめ、リノリウムの床を見つめたままで言ってくる。


「……あ、あの。女の子のほう、私以外、誰もいなくって。でも男の子のほうには、残っているひとがいるって聞いて……。それでお邪魔でなかったら、ごはん、作らせてもらおうかなと、そう思いまして……」

「あー、あたしあたし。言ったのあたし。頼んだのあたし。野球やるのに、空きっ腹じゃ困るもんね」

「だから野球は三人じゃ――」

「――志津もやるよねー。ねっ?」

「え? あ。は、はいっ。うまくできるか、わからないですけど、お邪魔で……、なければ」


 一文字に切り揃えた眉の下から、上目遣いのひたむきな目線が夏生に向けられる。


 だめとも言えず。夏生は「まあべつに」と言葉を濁すしかなかった。


 真琴が「やったー!」と元気にはしゃぐ。

 どうしてこんなにテンションが朝から高いのか。どうしてそんなに野球なんて高校生にもなってやりたいものなのか。


「おい。――おまえは、やるのか?」


 新聞を読み終わった秋津は、長い脚を組みあわせ、片手で文庫本を開いている。その秋津に、夏生は訊いた。


「君がやるのであれば」


 至極わかりきった答えが返ってくるだけだった。

 ラウンジの隣には、簡単な煮炊きのできるミニキッチンがある。

 志津はそこに姿を消した。

 火を付け、水を流す音が聞こえはじめる。


 夏生のとりあえずの興味は、朝食のメニューへと移っていた。


 寮食が止まってしまってからというもの、カップ麺ばかりで、まともな朝食はひさしぶりだった。


「あ……。三対三で、六人だったら、だいぶまともな試合になるかな?」


 また例によって壁を見つめて、真琴が唐突にそんなことを言いはじめる。


「こんどは誰だ」

「小鉄ちゃんと大鉄君。――って、ねえねえ、なんで二人して、そんなところ、隠れてるの?」

「うー……。ニーニーぃ……」


 小さなやつと、大きなやつとが、ラウンジに入ってくる。


 小さなほうは、小学六年生くらいの女の子。――というのは、女の子だと知っているからわかることで、初対面で見たら、80%くらいの確率で間違えてしまいそうだった。

 男の子のように短い髪で、スパッツと野球帽のよく似合うボーイッシュな女の子であった。


「誰がニーニだ。おまえのホントのニーニは、それ、となりにいるだろーに」

「いいの。これは単なるアニキだから。ニーニーは、ニーニーのほうだけなのー」

「ああ大鉄君……、ほらしょぼくれちゃってる」


 その大きなほうは、肩をがっくりと落としてはいても、戸口につかえそうになっていた。

 なにしろ身長二メートルの巨漢である。

 肩を左右順番にくぐらせて、だいぶ苦労してラウンジへと入ってくる。


 名は大熊大鉄。


 空手部の猛者に勝負を挑まれて、「やめてくれ」と伸ばしたその手でKOを決めてしまったとか、その種の武勇伝には事欠かない漢であった。


 プロレスもしくはK‐1にでも行ったなら、きっと世界が獲れるであろう。

 だが本人はべつに争いが好きというわけではない。〝熊〟とはよく言ったもので、怒らせさえしなければ、いたって穏やかなものであった。


 夏生には、ひとつだけ信じられないことがあり――。

 こんななりをしていても、大鉄はじつは、夏生のクラスメートなのだった。

 つまり高校二年生ということだ。


「もーっ、アニキ、ついてこなくていーいって、言ったのにィー」


 妹に叱られて、しゅんとさらに小さくなる。

 だが小さくなっても、二メートルは二メートルである。

「アニキがいるとー、部屋が狭くなっちゃうのー! クウキがへるのー!」


 こうまで言われても何一つ言い返さない。

 この熊はシスコンの熊だという噂がある。


 あそこの家は――母、姉、妹、祖母、叔母、すべて合わせると、一ダースもあるような、そんな大型女系家族であるらしい。

 女性に対する服従属性が付いてしまっているのは、そんなところに原因があるのかもしれない。


「アニキっ、そこっ、おすわりして!」


 半分の身長の妹に、そう言われた大鉄は――なんと、膝をついた。


 床のマス目を四つも使って、大鉄は正座する。

 夏生は哀れみの目を向けた。――が。大鉄は漢であった。心で泣き、顔で嗤っていた。


「ニーニーぃ……、ヘビつかまえてくれるっていう約束ぅ~。プレゼントぉ~」


 厳しい声で兄に正座を命じた妹は、うってかわって甘い声になると、夏生の手をつかまえにきた。


「やくそくって、いわれたってなー……、したっけかな~……、そんなの~……」


 腕を振られるままにして、夏生は言った。

 とぼけているわけではなく、本当に覚えがない。

 真琴の野球の約束のほうも、とんと覚えがない。


「ニーニー、ひどいよ~」


 めきり。

 正座を続ける大鉄のほうから、なにか、奥歯でも砕ける音が聞こえてきたような気がした。


「いやまあ、いいけど。裏山でいいんだよな? でも野球やって、ヘビもやって、あー、ちくしょう。今日はバイクの整備しようと思ってたのに。……ったく」

「ごはん。できましたけど。――あ。大熊さん。小鉄ちゃんも」


 熱々のみそ汁の鍋を手に入ってきた志津が、二人の存在にようやく気づく。


「おはようございます」


 三十度に身を折って礼儀正しい挨拶をする彼女が、この場の空気に、まるでふさわしくなかった。

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