エスター
鏡に映る自分の姿を確認する。きつく結いあげられた赤い髪。緑色の瞳。ドレスは地味だが、一応男性と二人きりになる可能性があるならこういったものの方が良いだろう。口がさない噂話をする輩というのはどこにでもいるものだ。自分、エスター・ヴィアトール・ケッセルシュラガーはそろそろ三十に近い年齢だが婚約者がいない。諸々の事情があるのだ、大貴族ゆえの。しかし貴族ではあるのでいつか家のためか国のために嫁ぐ可能性はある。その時に障害となり得るような行動はなるべく取らないに越したことはない。成人した男性の教師役などは真っ先に却下すべきものなのだが。
尊敬するイグザ様と、どうしようもないが信頼はできる従弟殿の頼みであるならば引き受けざるを得ない。むしろ少し楽しみにしている。
個人的に会いたい、とイグザ様に手紙をもらってすぐに、日時や他家との調整を行った。自分にはそこまでの権力はないが、ケッセルシュラガーの当主の娘が愛し子と密談していた、などという噂は立てられたくない。イグザ様も配慮してくださって、個人的に、と言いつつも手紙は公式のものだったし会って話すのは炎狼騎士団の団舎の客室だ。
「イグザ様、お久しぶりにございます」
相変わらずこの方は美しい。自分が初めてお会いした時からほとんど変わらず、勇猛さと優美さを兼ね備えていらっしゃる。
「久しぶりだね、エスター。さぁ、座って。急に呼び立ててしまって申し訳ないね」
「お気になさらず。イグザ様にお会いできるのに喜ばない女性はいません」
「君にそう言ってもらえるとは光栄だ」
他愛もない会話をしながら座って茶に口を付ける。いつも良い茶葉を使っているな、と思う。他の騎士団に行く機会もあるが、やはりここが一番落ち着けると思う。団長が変わらずに、長く一人の人間が組織を運営するとこうなるものなのだろうか。それともやはり、愛し子だからこそ、なのか。
「今日呼び出したのはお願い事があるからなのだよ」
「自分に、ですか?イグザ様の頼みとあればなんなりと……」
「あぁ、いや。ちょっと特殊な状態の子の勉強を見て欲しくてね。断ったほうが良いと判断したならば遠慮なく断ってくれ」
「特殊、ですか?」
「ああ、うん。愛し子なんだ……おそらくもう成人している」
「はぁ!?」
貴族失格な声をあげてしまったが(淑女失格、とは言わない。そもそも淑女ではないからな、自分は)イグザ様は咎めることもなく苦笑された。
「そう言いたくなる気持ちはわかるよ。名前はノーチェ、性別は男、年は十代後半から二十代前半。黒髪黒目の愛し子だ。簡単な会話ならできるが、読み書きはできないし難しい単語も知らない。頭の回転は悪くないが、先入観は排して君が通常、読み書きを習っていない五つぐらいの年頃の貴族の子供に教えるように、物事を教えて欲しい」
「は、その……」
「知能自体は低くないと思う。実際簡単な会話に支障はない。あまり広がってほしくはない話題だから、秘密が守れる人間が良い。成長は早いだろうから教師としての力量のある人間が良い。もしかしたら大柄な男性に近くによられることを怖がるかもしれないから、女性が良い。君は優秀な女性の教師だ。叶うなら、君にお願いしたいと思うんだ」
「……愛し子様の、教師になれるのでしたら光栄ですとも。引き受けさせていただきます」
「ありがたい」
「が、いままでその愛し子の周りの人間はなにをしていたのです、国に申請すればすぐに教育を本人や周りが望むように受けられていたはずです」
「説明は、したほうが良いのだろうが……君には知らされない情報があるのはわかるね?」
「不愉快ながら私は後継ぎでもなく、他国に嫁ぐ可能性のある女ですからね。わかりました。詳しくは聞きません」
「すまない。だが、本人が聞いて答えるようなら構わないよ。無理やり聞き出してほしくはないが。ああ、あと。本人は自分の力には無自覚だ。精神力を強く持つんだよ?」
納得できるか、と聞かれたならできる、と答える。情報は命綱だ。どこまで与えて良いかの線引きはきちんとするべきだろう。自分は国の運営や裏話などの情報を与えられるべき人間ではない。だが最後のいたずらっぽい顔には少し腹が立つ。力の使い方のほうこそ、イグザ様が教えるべきなんじゃないか?
さて。教師とはいっても最初の一回から多種多様の事をするわけではない。自分は大体五歳のころから教えることが多いが、その年齢の子供であれば最初の数回は自分の存在に慣れてもらうことのほうが大切だ。が、今回自分が担当することになるノーチェ様は成人していらっしゃるらしい。悩んだ挙句、文字表と絵本を数冊持っていくことに決めた。イグザ様の館に入るとることが出来るとは。微妙に感動していると、なぜかそちらを見なくてはいけないような気がする扉があった。
「やはり気になりますか、ケッセルシュラガー様」
「やはり?」
コートを脱がせてもらいながらも気になって仕方がない。アルドというこの執事は確か四十年ほど前に孤児院にいたところをイグザ様に拾われて以来仕えているのだったか。いつもはもう少し使用人の数が多いはずだが、いまは必要最低限の信頼できる人しか置いていないようだ、不思議なことに。
「ノーチェ様がお待ちの部屋ですよ」
「……ああ、なるほど。これほどまでに気が惹かれるものなのか」
「一週間経ちましたので私どももだいぶ慣れましたが」
「やはり見た目麗しいのか?」
「それはもう。主人とは一種別の、夜の艶やかさのある美しさですよ」
「男性だと聞いているが」
「ええ、男性ですね。では上着はこちらでお預かりします。御用の際は鐘を鳴らしてお呼びくださいませ」
あまりなよなよされていると好みではないのだがな、と息をついて扉を軽くたたく。
「エスター・ヴィアトール・ケッセルシュラガーと申します、ノーチェ様。非才なる身ではありますが、よろしくお願いいたします。どうぞエスターとお呼び下さい」
一息に挨拶をした。一気にしなくては言葉に詰まってしまいそうだった。無表情だが、美しい。無表情だからこそ、だろうかこれは。丹精込めて作り上げた人形……にしては吸引力が強すぎる。男性であることは確かだ。女性的な気配はあまりしない。だが……そう、いうなれば性別を感じさせない神聖さが確かにある。何もせずにその目の前で立っていたい。ただ相手を眺めていたい。そんな気分になったのは本当に久しぶりだ。
「ノーチェです。よろしくお願いします」
ああ、この声で愛を囁かれたら世間知らずの貴族の娘などは何でもしてしまうだろうな。平静を装いつつまずは文字を教えようか。どうしたものかと思っていたが受け答えも礼もしっかりしているし。最初の数回は文字をおぼえさせればよいか、と思ったが一度見せただけですべて覚えてしまった。流石は愛し子。
絵本に興味を持つかは微妙だ。簡単な歴史書などのほうが良かったかもしれない。次はそうしよう、と思いながら茶を入れる。一応作法も教えてみようか、と思ったが特にこれと言った注意点はなかった。どうやらイグザ様の動作を真似ているようだな。かすかに彼のくせがうつっている。しっかりと伸ばされた背筋、優雅な動き。後は表情さえあれば、と思ったが何となく目元を見ていると表情がわかるような。感情がないわけではなさそうなのでそのうち自然に笑顔も出るだろう。しかも愛し子なのに愛し子の事を知らない。……ああ、確かに特殊な状態、だな。何がどうなればこうなるのか。生まれたときから全く人に接していなければこうなりそうな気はするが……。だが、愛し子だろう?
「本当にご存じないのですね。一体どのような育ち方をしたのです?」
「どのような?」
自分の質問を、ノーチェ様が反復する。理解できていないのだろうか。
「記憶にないのですか?」
記憶喪失、という考えが頭をよぎった。尋ねて答えるなら知っても良い、というイグザ様の言葉はもしやノーチェ様が答えられないだろうからという判断だったのだろうか。信頼されていたわけではないのなら、少し悲しい。思いながらもノーチェ様の顔を見る。何かを思い出そうとする表情だと思ったが、体を震わせてカップを落とす。床に落ちたカップは絨毯の上だからこそ割れなかったが中身をまき散らした。
「ノーチェ様!?」
顔色が悪い。表情が大きくゆがむ。あぁ……!苦しそうな、顔をさせてしまった。見るなら笑顔が良い、幸せそうな表情以外は見たくもなかったのに……!
過去を、思い出せないのは、思い出したくないからなのだろうか。なんていうことをしてしまったのだ!
「ノーチェ様、思い出そうとしなくて結構です」
「……きもち、わるい」
「ノーチェ様、大丈夫です。思い出さなくて結構です。吐きそうなら我慢せずに吐いてしまってください」
口元を押さえて、浅く早い呼吸。茶を飲んだのだから吐くものがない事はないだろう。精神的なものなら当てはまらないかもしれないが、吐いてしまってすっきりとしたほうが良いかもしれない。そう思ったのだが、ノーチェ様はそのまま意識を手放した。ぐったりと腕にかかる重さ。青みを帯びた、透き通るように白い顔色。苦しそうな表情にぞくりとする。かすかに開いた口から覗く、白い歯。……っ、自分が今すべきことは介抱することであって見とれることではないだろう。
どうしよう。
腕の中に意識のない愛し子がいると思うだけで体が震える。思考が空回りする。何をすべきか判断が出来ない。焦りだけが積み重なる。情けなさに泣きそうになっていると、常にない勢いでドアが開かれた。
「ケッセルシュラガー様、いかが……ノーチェ様!?」
アルドは奪い取るようにノーチェ様を抱き上げて走って行った。落ち着いた行動を求められる使用人らしくない。あわてていたのだろう、と後になってから思った。自分はソファーに座っていたのだが、飲みなさい、と暖かいティーカップを渡される。
「あ……」
「顔色が悪いよ。大丈夫、医師の話だと大事ないそうだから。落ち着いて暖かいものでも飲みなさい、エスター・ヴィアトール・ケッセルシュラガー」
「はい」
名をすべて呼ばれると同時に地に足の着いていないようなあやふやな感覚が消えていく。現実味のなかった周りの世界が元に戻る。
「失礼、致しました」
謝罪をしながら茶に口を付ける。イグザ様に名をすべて呼んでもらえるとは。どれだけひどい顔色をしていたのかと自分を叱咤する。貴族たるもの、いついかなる時でも平常心を失ってはならない。貴族としての権利を享受する以上、義務の履行は当然だ。
「イグザ様、いつお戻りに……?」
「先ほどね、アルドが水鳥を飛ばしてきて。どんな緊急事態かと思ってしまった。ノーチェが倒れたと聞いて心臓が止まるかと思ったが、大事ないようで何よりだったよ。何があったのかわかるかい、エスター」
「その、自分の質問が原因だったように思うのです」
「ほう?」
自分のせいであの愛し子が苦しんだのだと思うと自分で自分をどうにかしてやりたいが、自罰感情は役に立たない。これから先、彼が苦しむことがないよう環境を整えなくてはならない。
「その、愛し子様を教えるのは初めての経験だったので比較はできませんが……文字は一度見せて読み上げただけで覚えていただけたので優秀なのだなと。なぜ今まで知ることがなかったのだろうと不思議に思いました。ですから、尋ねてみたのです。いままでどのように暮らしていたのか、と」
「それで、意識を?」
「ええ。思い出そうと努力してくださったようなのですが、気分がすぐれなくなったようで……あの反応は見たことがありますイグザ様。口にするもおぞましいですが、生徒の一人が、攫われて、帰ってきた後に……その……」
イグザ様は憂うように息を軽く吐いた。やっぱりそうだったのかな、と呟く。その反応。まるで予想していたかのような。
「エスター。上の許可は取ってきたから君に伝えても罰は受けない。後は君が知りたいと望むかだ」
「自分が、ですか?」
「ああ。私としてはやはりノーチェの教育は君に任せたい……ならば、配慮するための情報は必要だろう」
「……でき、ますでしょうか。今日だって……」
「うん、そうだね。いま彼が苦しんでいるのは確かに君の言動のせいかもしれない。だがそれは情報を私たちと同じ程度に持てれば避けられたことだろう?君はそれが可能な程度には頭の回転が速いし胆力もあると私は評価しているんだよ、エスターお嬢さん」
からかうように呼ばれる。思わず苦笑した。まだ幼いころ、イグザ様は自分の事をエスターお嬢さんと呼んでいた。おてんばで、乱暴で、強気で、とてもではないが貴族のリトルレディなんて呼べないような自分を。
「そこまで評価していただけるのであれば、聞かないわけにはいきますまい。教えていただけますか、イグザ様」
そして、自分は聞かされた。
愛し子の精神にかかわらず、力を分け与えてしまうあり方を。過去に、保護された愛し子が幾人か存在していたこと。保護された時の状態。愛され大切にされ慈しまれるべき愛し子が、人知れず苦しんでいただなんて!涙が、こぼれた。あわててハンカチで顔を隠し俯いた自分の頭を、イグザ様が撫でる。
「泣かないでくれないかな、エスター」
「泣きたくて泣いているわけではありません、イグザ様。だって、だってっ!」
「そうだね、私たちはそれを当然の事と知っているけど……きっと君には衝撃的だったんだろうね」
泣いているのがなぜか、自分でもわからない。悲しいのだろうか、その存在が。あるいは憐れんでいるのだろうか。わからないが高ぶっていた感情は、徐々に落ち着く。ハンカチで目元をぬぐって、息を整える。
「醜態をさらしまして、申し訳ございませんでした」
イグザ様は特に言葉を発することなく、じっと自分を見ている。化粧は落ちかけ、きっと目は赤くなってみっともない顔になっているだろう。もともと大して見られた顔でもないのに。それでもじっと私を見て、続く言葉を待ってくださっている。金の髪と金の目を持った、武術に優れ光の特性をもった愛し子が。みっともないのは見た目だけで結構。自分は、自分として内面に誇りを持って生きると、あの時誓ったのだ。から元気、ただの見栄っ張り。そう思われても構わない。自分なりに、自信満々に見えるような笑顔を作る。
「ノーチェ様が、嫌だとおっしゃらないのであれば。ぜひ、自分に彼の教育をお任せください」
よく言ってくれたと。笑ってよろしく頼むと言ってくださったイグザ様の顔を、自分はきっと生涯忘れないだろう。
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