09





 寒い、怖い、嫌だ、見たくない聞きたくないあんなもの!

 なんで、あんなものがあるんだ!この世界は綺麗で暖かくて優しくて柔らかくて、嫌なことなんて何もない、そんな素敵な!



 「ノーチェ、ノーチェ、大丈夫、大丈夫だから。あれは追いかけてきてない」



 あんな黒くてどろっとしていて嫌な、そんなの無いのに、怖い、あれは絶対にあっちゃいけないものだ、流れていくはずなのに、凝ってしまってる、なんでだよ!



 「ほら、顔上げて。落ち着け、な?」 

 「何があったのですか、ヴィヴァルディ……ノーチェ、大丈夫ですよ」



 ヴィーにしがみついた手にゆっくりとレンの手が重なる。ゆっくり温かさが伝わってきて、震えが徐々に収まっていく。丁寧に指に手をかけて、こわばっていたこぶしを解かれる。体に入っていた力が徐々に抜けていって、意識して落ち着いた呼吸を繰り返せた。ゆっくりとレンの手が俺の背を撫でる。少しぼんやりするけど、どうしようもなく恐ろしいというわけでは……うそ。あれは怖い。怖いけど、怖がってても仕方ないなら、無理やりにでも落ち着かないと。



 「ごめん、なさい」



 もうだいじょうぶ、とヴィーから離れて立ち上がる。レンがぽん、と一回背中をたたいてから離れていった。震えはどうにか収まって、鳥肌が立つ程度だ。ぱんぱん、と自分でほほをたたいて気合を入れる。あれが奥にいるのはどうしようもない。村人が何でかわからないけどあれになってしまっているのも、どうしようもない。しなくちゃいけないのはこの事態の打開策を探ることだ。



 「ヴィヴァルディ、改めて何があったのか……」



 ああ、と返事をしつつもヴィーはこちらを気遣うようにみている。わた、し……ではなく、俺を気にしすぎてもよくないよな、と自分から話をすることにした。奥に部屋があって人の出来損ないにここにいてください、と頼まれたことを。



 「たしかに恐ろしそうな見た目のようですが……」



 それだけでそんなにおびえるものでしょうか、というレンの疑問に対して、あの感覚を思い出す。



 「怒ってて、悲しんでいた。絶望していたところに希望が一筋だけ見えて、がむしゃらにできることをしなきゃと思ってる。たぶんなんでもするんだ……俺たちが、生きている人が妬ましくて仕方がない。たぶん……」

 「ほかにわかることはありますか?そもそもあれは何なのか……」



 何、なのか。よくないものの塊、だとは感じたけど。そもそも何なのか。



 「わからない、けど、核はあの奥にあった部屋だ。あそこがおおもと、全てが詰まってる……ヴィー、前来た時は普通の村だったの?」

 「ああ。ハームキアはなんてことのない農村だったさ。別段引き止められることもなかったし、税として納められる麦も質がよくて、御料地じゃないが陛下のパンを作るのに使われたりすることもある。御料地の監督をしている青の愛し子が確認して高品質で問題のない麦だと判断してるからこそだろう……俺が見逃してただけってことはないはずだ。三年ほど前の話だが」

 「ではこの三年で何かがあってこうなったのでしょうね。原因から取り除ければと思いましたが判断がつかないのであれば脱出を試みるべきでしょうか。奥の部屋は『よくない』ということですし」

 「そうだな。できるだけ肌の露出を減らして人で梯子を作って昇るか。梯子人員はそのままここで待機、地上に上ったら囮に先に逃げてもらってあとからノーチェを護衛しつつ村の外まで走る、ってところか」

 「それ、は……」



 囮と穴に残る人々がどうなるかわからないじゃないか。仕事だから愛し子を優先しなくちゃいけないのはわかるけど、でも、だからと言って……



 「それなら僕は梯子にもなれませんけど、ここに残ります。囮になれるほど走る体力なさそうですし、愛し子様が逃げるのの迷惑になったらいけないので」

 「イース!それはだめ……」

 「自分から言ってくれてありがとうございます、ではそのように」



 レンが俺の声を遮ってうなずく。背が高い順に梯子に立候補したり走る速さを思い出したりなどの相談が始まった。



 「ヴィー!」

 「ノーチェ、さっきお前も言っただろう。いざというときが来たら見捨てて逃げる、と。今がそのいざというとき、だ。俺たちがついてきたのは楽しく旅をするためじゃなくてお前の護衛をするためだ。わかってるな?」

 「わかってる、けど、だって」

 「ノーチェはやさしいな。だが割り切れ。俺たちが束になってもかなわない価値がお前にはあるんだ」



 彼らが唯人で、俺が愛し子だから……?それ以外に何もないけどでも、だからと言って。俺は愛し子なんだから、唯人の彼らの護衛よりも、身体能力は高いはずだろう。守られる必要なんて、本当にあったのだろうか。旅案内をしてくれる人がいればもしかして、十分だったんじゃないか?どうしよう。彼らはまだ、仕事だと、納得しろといわれれば無理やりにでも納得するが……イースは俺が退屈しないようにと、俺が気に入ってるそぶりを見せていたから連れてこられただけじゃないか。まだ子供で、音楽の才はあっても、ただの……。



 「待って。奥の部屋を調べてから、に」



 思い出しただけでも怖いけど、でも、うん。あそこが核なら壊してしまえばいいのかもしれないし。今のところ、ここから逃げなければ危害を加えてはこないのだから。



 「ですが」

 「恐いだけ、なんだ。直接何かをしてきてはいないから」

 「敵対して……は、確かにいないな。ここにいれば危害を加えてこないのなら、部屋に行くのも別にかまわないのか。それで原因がはっきりしたら言うことはないな」

 「しかし、ヴィヴァルディ」

 「ああ。なぁ、ノーチェ。お前があれほどまでに怖い、と思う場所だ。おそらく危険があるぞ」

 「え」

 「そういうものだ。怖い、ということはお前の手に負えない程度の危険があるのかもしれない。それでも行きたいのか」



 行きたくなんて全くもってないが、試してないことがあるのにみんなを犠牲にしつつ逃げるなんてしたくない。あの黒いの、俺が散らさずにいたら貼りつかれたみんながどうなるかわからないし、わからないけど嫌な予感しかしないし。



 「情報があったほうが、逃げやすい、と思う。もし入らないでくださいって、またあの……人、のようなのが言っていたらそれにしたがって戻ってくればいい。何かはわからないけど、言葉は通じるのだから……だめなら、もう、みんなの言うことに反対しない。おとなしく、どんな方法を使ったとしても、従う」

 「だ、そうだぞレンドリア」

 「……わかりました。いいですか、ノーチェ。絶対に軽はずみな行動はとらないでください。たとえ簡単にどうにかできそうであっても」






 さてと。探索だ。一度行ってるヴィーで良いだろうと、やはりレンおよびその他の隊員は待機。歩く先にアレがあるのだ、と思うと恐ろしさが先に立って探ってしまう。黒くてどろりとした悪感情の塊。澱んで濁って引きずり込もうとする何か。よくよく目を凝らせば、クモの糸ほどの細い力の流れが生じている。意識して閉じている俺以外の人や生き物から徐々に吸い取っているのだろう。


 手をつないで視界を二人とも確保して、歩いて行った先にはやはり、いた。先ほど必死でここにいてください、と言っていた人の出来損ない。……いや、先に比べて大きく、なっていないだろうか?形成されつつあるのか、顔はほぼ出来上がっている。



「アドルフ、か……?」



 信じられない、とヴィーが問いかける。だれ、と聞こうとしてそういえば宿屋の主人がそういう名前だったはずだ、と思いだした。三年前に、宿屋の主人だったはず。



「ききき、ききっ、き、きしさま、よ、よ、よ、ようこそはあむきあへ」

「アドルフ、なにを」

「ここっ、ここの小麦は逸品ですからららららららららら」

「お前はなんなんだ!」

「あれ、立てない、騎士様俺はいったいどうし」



 壊れたレコードのようにところどころひっかかりつつ、アドルフは宿屋の主人が客を出迎えるかのような言葉を発し、立ち上がろうともがいている。足は片方膝くらいまでしかできていないのだから、立てるはずがない。


「あれ?あ?俺は何をああ寒くて苦しく熱くて痛くて息ができなくて熱くて熱くて助けて死にたくない死にたくない死にたくない死にたくな、」


 ぴたり、と声が止まる。どうにか立ち上がろうともがいていた動きも止まる。見開かれた目玉が虚空を見据え、そして何度か瞬いた後に落ち着き払った態度で俺のことを見た。


「愛し子さま、ここにいてください」

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