第2章 謝罪に至るまでの簡便な経緯

 食事はまだスタッフが戻ってきていないので用意できないとエリが告げたので、九郎は繁華街の位置を聞いて早めの昼食に出かけることにした。

 街路はホテルから離れると一転して薄暗くなった。建物が密集しているせいだ。背の高いアパートが左右にそびえ、植木鉢を置いた窓から外を眺めている老婦人が九郎の歩く様子を見ていぶかしそうな顔をしていた。慣れておくにこしたことはないと帽子のつばに手をやったが老婦人は面倒そうに肩を揺すっただけだった。住宅街を抜けるとエリの説明にあった噴水広場があった。こちらはさすがに日が当たっていて人出も多い。広場につながる通りに市場が出ており、主婦たちが幾人か食材を買い求めている。テントの下に並んでいるのは果物、穀物、魚、と一般的なものだが、近づいてのぞき込んでみると国籍不明なものが多い。果物も魚もカラフルで正式名はほぼわからず、箱や袋に詰められた乾燥食材や調味料の類は様々な言語のラベルが貼ってある。港街であるだけでなく世界中から様々な流れ者がやってくるこの場所にはふさわしい品揃えといえるだろう。

 頭にタオルを巻いたよく日焼けした顔の店主がやっていた果実専門のテントでマンゴーをふたつ買って、さらにドライフルーツのおすすめを聞いたところ、種類が多すぎるから興味あるものを示してくれと言われた。様々な製造元から仕入れているのか、英語、スペイン語、さらにはヘブライ語のラベルもあったが、興味を引いたいくつかを指さすと、それぞれについて的確な答えが返ってきた。驚いたことに複雑なベリーの変種についても詳細を把握していた。ずいぶんと仕入れにはこだわっているらしい。どうやらピタヤの特殊な品種が希少だとのことでそれを買うことにしたのだが、最後に奇妙な一品が目についた。ビーフジャーキーに似た赤黒いスライスが綺麗にパウチされていたのだが、問題は貼ってあったラベルに印刷してある文字だ。パッケージ印刷されるくらいメジャーな言語であれば、読めないまでもどこの言語の文字か程度はわかるようになる。特に九郎のように旅をしてきた者ならなおさらだ。だが、これはどの言語系列に属する文字かすらわからないのだ。

「これは? 相当珍しいんじゃない? 僕が知らない文字なんてものがあるとは思わなかった」

 九郎がビニールを示すと店主は首をひねった。

「それ、仕入れた記憶ねぇな。問屋で混ざったんじゃないか」

 店主はパッケージをつまんで赤黒いスライスをじっと見た。果実をつぶして砂糖煮にしてから乾燥させるタイプらしく板ガムのようにも見える形状だ。

「いや、本当に何だろう? こりゃ俺にもわからない。仕入れた記憶のないものを売るわけにゃいかないが、種類がわからないのも腹が立つな。においでわかるかもしんねぇ」

 ビニールを破り、スライスを取り出した。すると一瞬にして濃厚にして爽やかな甘い香りが周囲に拡がっていった。九郎は息をのんだ。くっきりと香り立つが、調合されたコロンのようなわざとらしさはない。その香りは脳に直接「その甘さを舌にのせてみろ」と働きかけてくる。まさに蠱惑的だ。店主がすぐにそれを口に入れなかったのも、周囲からの視線を一身に集めてしまったからだろう。隣のテントは当然のこと、通りの向かいはおろか、二件隣の生魚を売っている店の主人までもが食欲と興味に満ちた視線を送ってきていた。

「そんなに見るんじゃないよ! 俺にもこれが何かわからねぇんだ!」

 もう一度大きな声で店主は言った。市場の人々はうなずき、視線を赤黒いスライスに集中させた。と、カシャカシャと妙な声がした次の瞬間、スライスは飛来した小鳥に店主の手からさらわれていた。黒と白の羽を持つ小鳥はあざ笑うように店主の頭上を旋回していた。

「なんだよ、小鳥の野郎……」

 店主は袋からもう一枚のスライスを取り出し、上空を見回してから口に運ぶ。が、その手が途中で止まった。ぼとり、と大きな音を立てて先ほどの小鳥が市場中央に落下したのだ。

 市場に静寂が訪れた。

 白と黒の小鳥はおそらくカササギだったが、この悪食で知られる鳥が断末魔の痙攣を静けさの中で披露していた。くちばしの間から赤黒い泡がぷつぷつと吹き出していた。

 店主は袋にスライスを戻し、九郎に棚においてある新品のビニール袋で封をするように頼んだ。九郎は店主の手がどこにも手を触れないように慎重にその作業を終えると、さらにもう一枚の新しいビニール袋で覆ってきつく縛った。店主は噴水広場の水道に手を洗いに行った。

「他のものは大丈夫なんだろうね?」

 戻ってきた店主に九郎は聞いた。

「もちろん。だから全商品把握してるのさ。新顔だってね? この街じゃこんなことはよくあるから注意しな」

 店長は妙な顔で「ひひひ」と笑った。


                   ○


 市場を抜けてカフェのある通りに入る。さすがに空腹になってきたため目についた最初の店に入ろうと九郎は心に決めた。焼き菓子が売りのベーカリーに最初に出くわしたが、昼食には合わぬと先刻の取り決めを破り、隣の青いルーフが大きく張り出した店にする。「パイ&マッシュ」と窓ガラスに書かれていた。

 店内は二割ほどの混み方だ。常連客が中心であるのか、見慣れぬ九郎に全員が一度は目を向けてくる。壁際の丸テーブルに座ると客商売に慣れた雰囲気の太った女性が注文を取りに来た。夫婦で切り盛りしている店のようだ。昔風の料理を再現しているとのことで、メニューは数種類しかなかったがウナギ料理がメインなのは九郎に思わぬ幸運を感じさせた。パセリソースのウナギ入りパイとウナギ煮込みのどちらにするかと考えていると、最近珍しいものを作ったと女将が自慢してきた。「蜂蜜と胡椒のあぶり焼き」なのだそうだ。ギリシャ風だと説明されたが、それは古代ローマで好まれていた調理法で蒲焼きに近いものだと九郎は知っていた。

「少し時間はかかるんだけど大丈夫?」

「気にしないよ」

 九郎が答えると、女将は厨房の旦那に向かって注文を告げた。が、女将はそこから動かず、いかにも興味深そうな目で九郎に話しかけてきた。時間がかかる料理を待つ間に会話の相手を勤めよう、というわけではなさそうだ。

「ねぇ、あんた見慣れない顔だけど旅行者?」

 嘘をつこうかとも考えたが、ウナギの店となると通うことになるだろう。

「住むんだ。どのくらいの期間かはわからないけれど」

「どのあたり?」

「カークブライド・ホテル」

 その一言で店内の客が一斉に九郎に好奇の目を向けてきた。もちろん女将ものけぞって大いに驚く。

「じゃあ、あんた新しい患者さんかい!」

「そういうことです」

 神妙に九郎はうなずいた。

「そりゃあ助かった。ホテルにお客さんが戻ってくるねぇ!」

「ホテルの客と話す機会があったならこの店を宣伝しますよ」

「ありがたいねぇ! だけどそいつは食べてからでいいさ」

 女将さんがウィンクを決めたので、九郎は礼儀として声をあげて笑った。

「楽しみにしてますから」

 九郎がそう言った瞬間、店内にいた脚の一人が会話が途切れるのを狙っていたかのようにテーブルを離れた。まだ若いスーツ姿の男である。

「いやいやいや、ちょっとお話いいですか?」

 九郎の回答を待つ気はないらしく、有無を言わず男はテーブルの向かいに座った。彼はそんなぶしつけな態度にぴったりの顔立ちをしていた。整ってはいるが美形というには顔の各パーツが大きくて表情が大げさで、すべての表情がわざとらしく、本心は常に違うところにあるように見える。顔色が青白く顔中に汗をかいていたので判別はしづらいが東南アジアあたりの血が入っているように見えた。

「……食事が来るまでなら」

 どうせそれまではすることがないのだから、と考えて九郎が言ったとき、女将が男の背後から「やめときな」と表情で語ってくれたのに気づいたが遅かった。

「助かります。ありがとう。親切な人でよかった。いや、本当に親切な患者さんでよかった」

 男は握手を求めてきた。いや強引に九郎の両手を握ってきた。高そうな金時計がはまっているのが見えた。ご存じの通り九郎は機械を寄せ付けない体質であるので「それは壊れてしまった」と言おうとしたのだが、男は九郎が話すより先にまくしたてはじめてしまった。

「私は総合組合の評議会議員をやっていまして、ご存じの通り複雑な政治事情を持つこの街において評議会とは各組合を行政とすればそれを監査する立場ともいえましていわば法律を作り市民の皆様を守る立場にあるわけですが、その議員のひとりとして働かせていただいているんですよ、評議会議員は選挙で選ばれるのはご存じないかと思いますが、ともかくその私は過去の落選をバネに地道に活動を行いまして皆様のご支援の結果議員にさせていただいたのです。私モーリス・チョムをよろしくお願いいたします」

「つまりあなたの名前はモーリス・チョムで評議会議員なわけだ」

 言葉の量の割には中身は少ない。九郎は早くもぞんざいな対応を決め込んだが、モーリスは気づいてもいないようだった。

「その通りです。評議会議員としてはそれなりにきちんと勤めてきた。いや、人によってはかなりと評価してくださった人もいますし、それなりというのはあたらないかもしれませんが標準的な評議会議員よりもマトモといっては変ですが、やはり普通よりも抜きんでて素晴らしい……いや、やや上であると認識してくださってかまいませんが、それというのも私はあなた方のような哀れな呪われた人間方を救済すべく活動しているのであり、ともすれば職業規約が人権を侵害するまでに肥大化したこの都市においては古い盟約によって何があるかわからぬとはいえですね、やはり人間としての権利は所有しているのですし、つまり自由に最低限の生活を送ることに尽力してきたわけですし、その活動が認められてこその当選だったといえるわけです。つまりその必然的な結果として私は評議会議員であるわけです」

 もう話を聞くまでもなさそうだと見切りをつけ、息をついた瞬間を見逃さず九郎は口を挟もうとしたが、モーリスは素早かった。なんと先ほどまで座っていた自分のテーブルの水を取ってくると手で九郎の発言を制してから水を飲んだのだ。

「いや話を中断して失礼しました。私がいかにして評議会議員を重要と思い人々もまた私が議員であることに必要性を見いだしているかわかっていただけたと思います。当選したわけですし、なにしろ」

 そこで再び話の途切れを見つけたが、モーリスは黙れとばかりに両手を前につきだしていたので、九郎は女将に手を上げてなんとか「水。ガス入り。あと煙を立てても?」とだけ言うことができた。ポーチを出してガラスパイプを取り出し砕いた葉を詰めている間にグラスとミネラル水の小瓶がやってきたが、その間もモーリスは絶え間なく話し続けていた。

「その議員である私が迫害されていたとしたらどうしますか? あなたどう思いますか? ねぇだって私は市民のために働いてきたし市民から信任されているはずなんです。だからこそ議員を辞めるということはないはずなんです。少なくとも市民はわかってくれるはずですし、あなたもそうでしょう? つまり……」

 九郎は話を聞いていなかったが、水を飲んでパイプから煙を吐き出している際、モーリスの懇願するような視線に気づいた。

「……わかるでしょう?」

「ふぅむ……だろうかな」

 いい加減に答えて吸っている葉のフレーバーに思考を移す。フルーティなものよりチョコレート風のそれが好みなのだが土地と品種により違いがある。この街で良い店を探せるだろうか? などと。

「そうなんです。あなたは良い人だ。いや良い人でなくてもわかるはずなんです。当然の真理にして現実に私は評議会議員なのですし」

「話を先に進めよう」

 モーリスにもようやく九郎がうんざりしてきたのには伝わったらしい。どうにか口を挟むことに成功した。それにしてもウナギの調理には時間がかかる。

「そうでした。感情が先走ってしまい……。ところが私が議員を辞めさせられる瀬戸際なんですよ。だから……この私が評議会議員をですよ?」

 モーリスの態度がまくし立てるものから妙に媚びたようなものになりはじめた。変化に気づいた九郎がパイプから口を離す。

「だけど、僕が聞いた限りじゃあんた議員は一年目だが?」

「そうなんです! だからこそチャンスが与えられるべきなんだ!」

「そこはどうだっていいさ。つまりなんなんだ?」

「評議会議員を辞めさせられそうなんです。だから……」

「……よく知らないが患者にそいつをどうにかする権限はないと思うな」

「いや私も議員ですから規約には詳しい方です! 患者にその権限はないです。患者は保護されている。その悲惨な境遇と体験の代償として! ですから患者は何をしても特に責めを受けない立場にある。そうなんです! そうでしょう?」

 語気は強いが何か話題の中心を迂回しているような口ぶりだった。

「患者が保護されているのは知っている。その代償ならどうやら今受けているようだけれどね」

 九郎は眉をひそめた。彼が何を言いたいのかおぼろげながら理解しはじめていた。

「いや! そうじゃないんです。そこじゃない! つまりあなたは何をしても法的にも規約的にも責任を負わないわけだ。そこです。大事なのは!」

「つまり何なんだ?」

 いい加減核心に触れろ、と煙をモーリスの顔に向かって吐き出すと、覚悟を決めたかのような咳払いが返ってきた。

「わかりました。ズバリ言いましょう! どうか私のかわりに市民らに謝罪してはくださらないでしょうか!」

 バン、と音を立ててモーリスはテーブルにひれ伏した。

「謝罪?」

「そうなんです。人々の前で謝罪をしなくてはならない立場に追い込まれたのです。記者会見が開かれるんです。テレビにも新聞にも出るでしょう。私はそこでうまくやらないと議員でなくなってしまう! うわぁあああ!」

 平伏したままモーリスは泣き声をあげはじめた。

「謝罪をしなくてはならない立場、ねぇ? なるほど事件があったわけだ。で、いったい何に巻き込まれたんだ?」

 九郎もここで完全に事態を理解した。モーリスが騙されたのか、妙なものをつかまされたのかは知らないが、彼のこの口べたさでは、その記者会見とやらもまともなことにはなるまい。

「事件? いいえ、事件なんていうのもおこがましいくらいの小さなことで……」

 モーリスは涙をぬぐいながら顔をあげた。

「それは?」

「いえ、そんなたいしたことではないんですよ」

 九郎はやや間を置いてから声を荒らげた。

「つまり?」

「評議会運営費を着服しましたぁ!」

 すねた顔でモーリスは横を向いた。

 九郎はモーリスが存在しないことにして水のボトルに貼ってあるラベルを読み始めた。幸い読み取れる言語だった。イタリア北東部、小ドロミテ山脈の地層で濾過されたバランスのよい炭酸入りナチュラルミネラルウォーターです。標高570メートルのトッレベルヴィチーノはカモンダに原泉があります。[栄養成分表示100mlあたり]エネルギー0、たんぱく質0、脂質0、糖質0、炭水化物0……。

「ホントに命がかかってるんです! お願いしますよ!」

 モーリスは水のボトルを奪い取った。勝手に残りを飲み干す。

「ちょっと……」

「命の問題なんです! 命の! 隠していましたけどね、私、命を狙われてるんです! 脅迫文書が評議会に届いていまして、謝罪会見しないと殺すって!」

 そう言われると九郎も困る。

「本当か嘘かは知らないが、それならなおさら自分で出席しないといけないんじゃないか?」

「いえ、謝罪が納得できなければやはり殺すって」

 即答された。確かに客観的に見て大方が納得するような謝罪がモーリスにできようはずもない。それは彼も自覚しているわけだ。九郎は妙に納得してうなずいた。

「そりゃあまさに八方塞がりですな」

 「だから!」

 必死な中にも妙に自信をにじませながらモーリスは九郎の手を握った。

「……だからあなたに頼んでいるんです。こちらもあなただけに謝罪をしてもらおうってわけじゃないんです。妥協しましょう。同席はします! この通り誤解されやすいタイプなのであなたに主にしゃべってもらおうと思っているわけで。なんとかチャンスをください! 非常時なんです! だからこうしてお願いしているわけです! この通り!」

 モーリスは強く両手で九郎の右手を握りながら再び泣き出した。それが空涙かどうかはどうでもいい、ともかくイエスかノーかを言わなければこの場を逃れられそうもない。

「とはいえ同席したら君に共感していることになるじゃないか。普通、悪いとわかってる人間の謝罪を代行する奴がいると思うかい?」

 九郎は言ったが、すでにモーリスは「なにとぞ! なにとぞ!」としか言わぬ機械と化していた。

 だが救いはあった。笑顔で女将さんがウナギとバケットを運んできたのだ。

「はい、お待ちどう」

 魚醤と蜂蜜と胡椒。混ざり合った三つの香りは官能的だった。この香気は蒲焼きに引けを取らないかも知れない。

「話はこれまで。僕は腹が減ってるんだ」

 九郎の言葉にもモーリスは手を離さない。

「引き受けてくれるまで私はこの手を放しません!」

 ここでやけを起こして引き受けてはいけないと九郎は呼吸を整えた。

「そろそろこちらも怒るしかなくなるんだけどね」

 声を低くすると女将さんが助け船をくれた。

「この議員さん、こんな馬鹿ではあるけど、これでも店の常連ではあるんだ。それがいなくなるのは痛手には違いないからね。こいつを食べて決めてくれないか? これが気に入ったならあたしの顔に免じてくれ。気に入らなかったなら二度とここには来なくていい」

 ウナギがテーブルに置かれ、ようやく九郎はモーリスの手から解放された。ウナギの芳香はいよいよ強くなり九郎は我慢できずにナプキンで手を拭いた。

 そしてまことに残念なことにウナギは絶品だった。九郎は運命論者であり神秘論者であったから、粛々と運命を受け入れた。

「あんたが何かを信じているならあんたの神に感謝するんだね」

 九郎は言った。

「ありがとうございます!」

 モーリスは実に軽く頭を下げ、いそいそと立ち上がった。そして腕時計を見て「じゃ、約束があるんで」と店を去って行った。

 その失礼さより先に時計が壊れていなかったことに九郎は驚いた。確かに彼の金時計は時を刻んでいた。

「彼はものすごい幸運なのかもしれませんね」

 九郎は女将さんに言った。

                   ○


 翌日モーリスに連れられて評議会運営事務所に行ってみたが拍子抜けするほどに簡素な作りでそこで行われている手続きも簡単だった。六つのデスクが中央に並べられただけの小部屋に六人が黙々をパソコンを打っている。幸い九郎はデスクには近づかずに済んだ。カウンターがあって、そこに事務員の一人をモーリスが呼びつけたからだ。面倒くさそうに対応した眼鏡の女性は世界大戦勃発のニュースを聞いても淡々と応答しそうなほどに無表情だった。それでもモーリスの何倍も有能であることはすぐにわかった。モーリスが無茶苦茶を言うのを軽くいなしながら九郎に必要事項を伝えてきた。

「記者会見への他者同席には前例もありますし、患者であられる以上は誰もあなたの行動を阻めません。発言については記録が取られますが覚悟の上かと思いますし、それについての権利はすべてあなたに帰属します。記者会見に必要な資料はすぐにお渡しします。他に希望は?」

 モーリスは何事かわめきはじめたが、事務員は九郎だけを話の通じる相手と定めたらしい。

「速記人を用意して欲しい。僕は患者だが、そのせいかどうか近くに電子機械があるとそれを壊してしまうんだ。録音装置も壊れるかもしれないし、テレビカメラも写らないかもしれないんだ」

「それが故意になされるものだとしたら重罪だと思いますが」

「いや故意じゃない。その証拠に時計を見て」

 事務員は腕時計を見た。それは止まっていた。

「致命的なことにはならないと思う。僕が離れればいいのさ」

 九郎が数歩下がると秒針が動き始めたが事務員は驚きもせずただうなずいた。

「では各社に伝えましょう」

 帰り際、モーリスが大げさな礼をしてきた。それを聞き流した九郎だったが、別れ際の一言はやはり気になった。

「私の時計は狂っていませんよ。どうもあなたとは気が合うらしい」

 モーリスは時計を見せてほほえんだ。ご遠慮願いたいところではあるが、昨日、今日、と二度接触して大丈夫だった時計ははじめてなのも確かだった。九郎の流儀上、何か運命的なものでもあるのだろうと信じないわけにはいかなかった。

 そして当日、特に浮き立つ気持ちもなく九郎は記者会見場へと足を運んだ。いくら資料を読み込んでも絶望的な情報しか手に入らなかった。要するにモーリスは遊行費として多額の金を使い込んで破産したので返金の見込みはなく任期中の議員辞職を拒むつもりなのだ。これで謝罪会見をしたとて何の意味もないだろう。ともあれモーリスの挙動にさえ気をつけておけば、その場でモーリスを裏切ることにためらいはない。辞職を約束させて警備部に逮捕させればそれで逆恨みされたとて知ったことではない。エリに事情を話したところ「患者は殺人しても特に罪にはなりませんから」と笑顔で拳銃を貸してくれ、それは足首のホルスターに忍ばせてある。暴力沙汰は苦手だが修羅場となれば過去に何度も体験している。もっとも拳銃とは相性が悪いから使ったことはないのだが。

 約束時間に評議会議事堂の会見場隣控え室に入る。すると眼鏡の事務の女性が例の無表情でとんでもないことを伝えてきた。

「モーリス・チョム議員が逃げました。連絡がつきません。探しに行った秘書が彼のアパートでこんなものを発見しました」

 事務員はメモを見せてきた。港の地図に印がついていて脇に時間が記入されていた。今より少し前の時刻だ。

「高飛び屋というのがいまして。それを頼んでいたのでしょう。まだ記者たちは議員の逃亡を知りません」

 彼女はこともなげに言った。

「なるほど。元から逃げるつもりだったが、僕を巻き込んで記者会見に本気であるかのように見せかけたのか」

 不思議と不快感はなかった。

「どうなさいますか?」

「いいよ、僕が記者に事実を言おう」

 時間がきて会見場に入った九郎はざわめきに包まれた会場を手を広げて鎮めると、まず記者たちが所持している機械が壊れたことをお詫びをし、自己紹介がてら、どこまでローテクのものなら壊れていないか記者たちに尋ねることで笑いを誘った。そして笑顔が消えぬうちにモーリス・チョムが今は来ていないことを告げた。再び会場が騒然としだしたので、モーリスとの出会いについて語った。そこから彼と出会った店の話にふれ、さらにそこからウナギの話にスライドさせた。ウナギは稚魚の産卵場所が謎であること。生魚となってからも不思議な生態を持っていること。それを利用したウナギの特殊な漁法。世界のどの地域で珍重されているか。血に毒がありながら生食する方法。さらに日本とローマの料理にある不思議な共通点。それらについて語ること一時間を越えていたが、いよいよ料理の味の話となると、描写は微細になった。ウナギの背開きと骨切りについて。蒸し方について。焼くときに塗る魚醤の具合と蜂蜜について。白焼きとホースラディッシュに似た野菜ワサビについて。山椒という胡椒を越える鋭さと痺れを伴うスパイスについて。特に、東京の名店のう巻きと肝吸いについての描写はその味を体験したことのない記者たちの喉を鳴らした。

 一時間以上の独演会に拍手まで起こったが、最後に九郎がモーリスが高飛び屋を雇って逃亡した旨を告げたとき、それは怒号に変わった。もっとも九郎はそれを言うなりすぐさま姿を消していた。

 評議会の事務員にも顔を合わさずに裏口から九郎はするりと逃げだしてホテルに戻った。エリが玄関ホールに迎えに出てきた。

「大丈夫でしたか?」

「すっかりあの馬鹿議員には騙されたけどね」

 足首からホルスターを外して拳銃を返す。

「そのことなんですが。モーリス・チョムが殺されました」

「は?」

 エリがさっきテレビのニュース速報で入ったのだと教えてくれた。記者会見が過ぎた時間に桟橋にやってきたのだそうだ。その頃なら高飛び屋に指定した時間はとうに過ぎている。

 これぞ運命。時計はしかるべき時に壊れたのだ。

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