『ふたたびカークブライド・ホテルより』
水城正太郎/金澤慎太郎
第1章 東洋人の患者
長距離船が港に入ったのは霧が一面を白く染めていた早朝のことだった。湾内に入ってからは汽笛を何度か鳴らさなくてはならなかったほどに視界は悪かった。乗客の多くはまだ寝ていて、開いたカーゴから車は一台も出てこず、タラップにも人影はない。霧が晴れるまでは何もできまいと船員たちも下船準備には身が入っていない。
そんななか九郎だけはトランクを引きずって船室を出ると、いずことも知れぬ彼方へ視線をさまよわせている船員を見つけて下船したい旨を告げた。驚いた顔になった船員だったが、九郎のきちんとした身なりと提示された一等のチケットを見て、下船手続きのために客室係を呼びに行った。
九郎はタラップからカークブライドの街を見やったが、霧のせいで見えるのはねじれたような造形の尖塔だけだった。石造りでどうやってねじれた形状にできたのか興味深かったが、この距離では細部はわからなかった。
「ねじれているな」
九郎はやってきた客室係に言った。まさにトランクをかつごうとしていた客室係はその手を止めて自らのネクタイを確認しはじめた。
「そうじゃない。あの塔」
「そうでしたか」
客室係はそちらに目をやったが、それだけ言ってその後はどう答えたものか当惑しているようだった。
「カークブライドははじめて?」
九郎が聞いた。
「そうなんです。申し訳ない。ええ……その……よい旅を」
「旅は終わりだよ。滞在なんだ」
「そうでしたか」
かみ合わない会話にばつの悪い思いをしたのか、客室係は素早くトランクをかつぎ、早足でタラップを降りはじめた。九郎も後を追って小走りになった。浮き桟橋に置かれたトランクを受け取った九郎は少し息が乱れていたが、客室係はそれ以上で、激しく肩を上下させていた。
トランクを体の脇に移動させて落ち着け、別れの挨拶をしようと九郎が振り返ったとき、客室係はすでにタラップを戻りはじめていた。そうか挨拶はないのか、と九郎がきびすを返したのと視線に気づいた客室係が振り返るのが同時だった。そして、客室係は何事か用件があるのかと九郎の様子をうかがい、一方の九郎は挨拶があるのかと客室係の様子をうかがった。間の悪い空気が流れた。さらに互いに用件などないのだろう、とあきらめて振り返るのも同時になった。こうなるとどうにも気がかりになるもので、結局、言葉を掛け合うには不都合なほどに距離が離れても、九郎と客室係は幾度か歩きかけては振り返るという動作を繰り返すことになった。
ついに人間とすらかみ合わなくなったのか、と九郎はいぶかしんだ。機械に阻害されていることには慣れていたが、このうえ生物とまでそりがあわなくなってしまってはかなわない。
九郎の生活は電子機器との戦いだった。コンピュータや携帯電話はもちろんのこと、電卓や信号機に至るまで彼が近づくと異常な動作をするのである。過去に存在した理論物理学者がこのような体質の持ち主であり、それは彼の名にちなんでパウリ効果と呼ばれているらしいが、パウリの場合は九郎に比べればまだ冗談の範疇に収まるものだと考えてよい。なにしろ九郎は住民票が電子管理となったとたんに戸籍を失い、ありとあらゆるカメラに写らず、電車の券売機すら使えない体だった。この船旅も、偽造パスポートのうえ、わざと古い客船を乗り継いで、長い時間をかけてのものである。
しかし、カークブライドがもし複雑な機械のように噛み合ったシステムを持っている街だったならば自分を阻害するかもしれない、との思いが、上陸してすぐに九郎の頭に浮かんできたが、それは杞憂だった。浮き桟橋から街に踏み出してみると、霧のせいで街路は暗いが街並みにまったく法則性のないことは一目でわかった。石畳の道は長さがまちまちで、曲がり角は直角である方が少なく、鋭角に切れ込んでいたり緩やかなカーブを描いている。ヴィクトリア様式の建物の壁には途中で途切れて使用できぬ階段すら見つけることができた。九郎はただ街を流されていけば目的地につける気がしていた。
○
はたして霧が晴れた頃、導かれるように小さな街の端にたどり着いた。
『カークブライド・ホテル』
ヴィクトリアン・ゴシック様式の典型ともいうべき建物で、城とも見まがう壮麗さだ。赤い壁面に緑の三角屋根の中央棟から鳥が左右に羽を広げたような格好で棟が連なっている。上から見れば角度の浅いV字に見えたことだろう。各棟は白い飾り窓に赤煉瓦の壁というのは共通しているものの、どれも形状は微妙に異なっており、角度と日の当たり方によって様相をくるくると変えるのだろうと思われた。整えられた芝生が緑のカーペットのような庭は広大で、屋根のあるベンチや幾何学的立体のオブジェが配されていた。門に当たる部分はなく、街の公園がホテルの敷地と同等なのだろう。
白い階段を上った正面玄関は幸い自動扉ではなく、鍵もかかっていなかった。白く塗られた木製の扉を入ると、青を基調とした落ち着いた色のタイル張りの玄関ホールが広がっていた。左右にはそれぞれ別の棟へと続く階段が半円を描くように配置されており、その中央、玄関から正面の位置に黒檀のカウンターがあった。それは窓から差し込む朝日によって淡く輝いていた。
カウンターに歩み寄る。奥の棚には使われている形跡はないが、欠かさず手入れされているのか清潔だった。が、人影は見えない。卓上ベルが枝にとまった小鳥の剥製の横に置いてあった。鳴らすと階段下にあった扉が開いて、ワンピースのパジャマ姿の女性が現れた。
「お客様? いえ、まさかね」
褐色の肌にアッシュブロンドの髪の持ち主だ。髪型は乱れていたが、本来はおっとりとした顔立ちを優しく丸く覆うのだろうと思われた。小柄で体つきは枝のように細いが、姿勢はしっかりとしており、健全さを感じさせる。
「すまない。僕は手紙で伝えていた通り、一切、時間というものを守らないんだ」
九郎が言うと、彼女は細めていた目を見開いた。瞳はブルーだ。目を覚まそうというのかパジャマの腹を持ち上げて顔を拭いた。細く美しい足と白いショーツがあらわになったが、それで少女だと思っていたのが少年だと知れた。
「大丈夫ですよ。起きる時間が三十分ずれただけです。手紙にあった予告日よりは三日ずれていますが」
少年はほほえんでパジャマ姿のままカウンターの裏に入る。
「僕はいつもこんなものだよ。だから滅多に約束はしないんだ」
少年がカウンターに置いた鍵は一〇四号室だった。
「客は僕だけ?」
「今はそうです。あなたがいないとはじまらないので。詳しいことはオーナーから話があると思いますが、まずはお部屋に案内しますのでそこでしばらくお待ちください」
少年はパジャマ姿のまま先に立った。出てきたのはとは反対側の階段下の扉へ向かう。
「ありがとう。ええと……なんと呼べば?」
九郎の声に少年は振り返った。
「エリです」
「僕の国では女の子の名だ」
「宗教的なものだそうですよ」
「この街で暮らすには宗教的である必要はあるのかな?」
「特に気にしている人はいないですけれど。いいや、私もそうですけど、気にしていない人のほうが多いというだけでしょうか? どちらかといえば、街の規約が厳しいんですよね。租界みたいなものですから、規約の全部を総合組合が決定していますし」
「法について厳しいとは聞いていたな。でも、自由都市とも聞いていた」
「すぐに慣れますよ」
親しげなな笑顔をエリは見せた。
「君はここの生まれ?」
「そうです。認定看護師ですので、何でもお申し付けくださいね」
「法の範囲内でそうするとも」
グリーンに塗られた廊下は長く続いていた。部屋番号だけ変えられた白い扉がずらりと並んでいたが、奥から四番目の一〇四号だけは特別のようだった。大きめの黒い扉が重たげにそびえていた。そして一〇一から一〇三にあたる扉は存在しなかった。
「ここだけで四部屋分あるんです」
エリはそう言って鍵を開けた。
家具はヴィクトリア様式で、ソファ、クローゼット、ライティングデスクとそろえてあった。かなりの広さだったが、奥に扉があるところをみるといわゆるスイートで、見えているのがまだ二部屋分なのだということがわかった。
「奥にはバスもあります。長旅でお疲れならどうぞ」
「とりあえずはいい。ところで電気機器や複雑な機械部品はないよね?」
「お手紙にもあったので、テレビやラジオは外してあります」
「手数だけれど、あれもいらないんだ。外してくれていい」
九郎は壁の時計を指さした。古そうな振り子時計だ。
「あれもですか? そうおっしゃるなら」
「遠からず壊れる。それに僕は時間を守らない」
「わかりました」
エリは笑ってその場を去った。
九郎は部屋を一通りぐるりとまわり、家具の具合を座ったり押したりして確かめてから火の入っていない暖炉に火掻き棒を突っ込んだ。奥の部屋に移るとガラスで仕切られたバスルームとベッドセット。住み心地はこの上ないといえた。窓を開ける。敷地が広大であるため手入れされた庭しか視界には入らない。奥の部屋は角部屋でこちらは違う風景があった。梨の木と水仙の池、向こうに温室も見える。寒く海が近い土地にしてはよく出来ていた。
部屋の確認を終えた九郎はトランクからポーチだけを出しテーブルに置くとソファに身を投げ出した。ポーチにはパイプセットが入っている。木製のグラインダーで一枚の葉を適度にすりつぶし、硬質ガラス製のパイプに詰めて火をつけると、深く吸い込んだ後にぼんやりと天井を眺めた。しばらくそのままでいた後、ポーチから乾燥マンゴーの袋を取り出してちぎり食べ、九郎は満足そうに目を閉じた。
機械が欲望を加速させるか新生させる存在とするならば原初の欲望たる肉体的快楽は何によって補助されたかという疑問が沸いてくるのも当然ではあるが化学的組成しか持たぬ物質と機械がイコールであるとは納得できるものの結果としての酩酊と人体機械論はまるで結びつくものではないのだったが機械と機能と言い換えたとき無意識機械であるとか女性機械であるとか暴力機械であるとかの成立を例外とすべきかどうか……と考えたところで、パイプに特有の脳の混乱が褪めはじめた。マンゴーの繊維の感触と相反するとろける甘さだけが口に残る。
そんなかなりの酩酊を終えて九郎が立ち上がった頃、エリがノックの後に入ってきた。
「オーナーにお会いください」
○
エリの先導から一瞬でもはぐれてはならないと心配になるほどホテルの構造は複雑だった。いや客室やホテルの設備に関係があると思われる部分は迷いようがなく機能的に配置されていたのだが、一歩オーナーの管轄にあると思われる区域に入るや建物自体が牙を剥いてきたと表現してもよかった。行き止まりの廊下。突如出現する虚無の部屋。隠し扉は言うに及ばず、三階全体が隠しフロアなのだと聞いたときは笑い出すよりも納得していた。
「それで階段の長さがまちまちだったのか。そういえば悪霊を恐れてこのような構造になった屋敷があると聞いたが、そのようなものなのかい?」
「違います。ここは目的があってこのような構造になっていますから、部屋はすべて簡単に記憶できるようになっていて迷いませんよ」
「目的は?」
「度を超しすぎないように、と聞いています」
「度を超す……? 何の?」
「わかりませんが、ホテルがホテルとしての分をわきまえるようにということなのだと思います」
「ホテルの建築物としての地位というのは聞いたことがないな」
「難しいところですが、総合組合の規約にあるのだと思います」
「ともかく、僕は帰り道に君がいなくても大丈夫ということなのかい?」
「どうでしょう? どんなに単純でも迷う人はいますし」
「……帰り道も君に任せることにするよ」
「そのようにします。ここではなんなりと申しつけ下さいね。私も分をわきまえていないといけなくて、つまりあなたの意思に従うよう決められているということです」
「もちろん法律の範囲内でということだろう」
「はい。この街に定められた規約にはそうあります」
「覚悟はしてきたが、この街に早く馴染みたいものだな」
「どうでしょうか? よく考えたらそれはかなり難しいような気がしてきました」
やがて門のごとく豪華な造りの、しかしサイズは一人しか通れぬほど小さな扉にたどり着いた。そこはなんらかの区切りになっていることが明白だった。古い文字で書かれて読めない荘厳な言葉が掲げられていたからだ。
「オーナーの部屋なので誰にとっても気詰まりな造りになっているだけです。お気になさらず、気楽にお入り下さい」
エリは九郎を通すと、戸の向こうで待機すべくかしずいた。
入ってみると、エリの言葉通り、そこはなんと言うこともない普通の執務室なのだった。
「ようこそ。募集に応じてくれて助かっている」
執務室の大きな机に座っていたのは端正な顔立ちだが薄い唇をした男だった。年齢ははっきりとしないが九郎よりは年上だろう。背後の窓からの逆光のせいでなければ肌も髪も色を失っていた。
「ずいぶん遠くまで募集記事を出したものだと思いました」
九郎は歩み寄り、オーナーの落ちくぼんだ目の底にある瞳が赤いのを確認した。
「なり手がなくてね。結果、遠くの国まで手紙を出すことになった。海に瓶を投げ入れることまでしてみたものさ」
そこで会話はやや間が開いた。
「……失礼。冗談としては上品すぎて笑わなかっただけです」
九郎は言った。オーナーは首を振った。
「いいさ、君は患者なのだから。確かにそうとわかったよ」
オーナーは見かけ同様に丈夫ではないのか、よろけて立ち上がった。それを支えるように九郎は握手をした。病的だが魅力的にオーナーはほほえんだ。
「何人目かは忘れたが、君を患者として歓迎しよう」
「患者を募集していると聞いて、僕のことだと思いました。それにカークブライドのことを本で読んで、ここには住みたかった」
九郎はオーナーに手を貸して座らせた。
「ああ、良い街だ。緩い法律と多すぎる規約のおかげで誰もが自由な街だ」
「中でも患者は自由と聞いています」
半ば問いかけのような九郎の言葉にオーナーはうなずいた。
「そうだとも。患者にはこの街のすべての者が奉仕するように規約がある。何人も君の迷惑にはならないだろう」
「どうして患者が必要なんです?」
「ホテルにはまさかのために医療設備を設けておかなくてはいけない規約がある。そうでなければ営業ができない。だが、医療設備が常時稼働していることを示すには患者がいなければならない」
「なるほど」
「前の患者が去り君が来るまでの間、設備はすべて停止し、使用人には暇を出していた。ようやく呼び戻せる」
「良いことをしたような気になりますね。しかし、患者などすぐ見つかりそうな気もしますが。病気のものなどどこにでもいるでしょう?」
「そうではない。病気は治る。すぐに患者ではなくなる。老人となれば体のどこかが悪いものだし、治療を受ける権利もあるが、それが自然なのだから患者とはいえない。その上、病気だと嘘をつくことは罪としてはかなり重い」
「そう聞くと僕は患者ではなくなるような気もしてきますね」
九郎には自信がなくなっていた。
「大丈夫。私の見たところ、君は確実に患者だ。たとえそうでなかったともしても、少なくともそう名乗る資格は確実にある」
オーナーは請け合った。
「それならば契約を?」
「自由都市は契約をしない。だが、ある程度の面通しは必要だ。総合組合に行く必要がある。いずれ街にも出てもらわなくてはならないが、基本的にはここを住処に自由に暮らしてくれ」
「それで給料をいただけるんですか?」
「もちろん。患者でいればいいのだから。それが何よりいちばん得がたいことだ」
「主治医は?」
「君が探してくれ。必要なはずなんだが、それについての書類は失われている。現状ではエリ看護師がいればいいとこになっている」
「釈然としませんね」
「自由とはそのようなものだ。規約に縛られたいのなら総合組合にいって書類を探すんだ。現状、書類は職業別に分かれている。だが、職業ごとの規約はその職業の者がすべて記憶しているのだから、規約は必要な時にしか参照せず、必要な時が来たことはない」
「患者の規約は見てもいいんですか?」
「もちろんそうだが、総合組合の法務部裁判係は嫌がるだろう。彼らは規約を一括管理することを規約にしている」
「規約を破ったら?」
「警備部警察係が処理している。彼らは些細なことでも追放したがるから、そのような処理だろう」
「気をつけますよ」
「なるべくなら追放されたならすぐ帰ってきて欲しい。患者の規約は患者しか知らないが、前任は一ヶ月程度しか不在期間をおかなかった」
「どういうわけかわからないけれど、僕はカークブライドでやっていけると思いますよ」
「そういうだろうと思った。患者とはそういうものだ」
納得したように九郎とオーナーはほほえみあった。
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