空腹を満たして太る

エルシエロシ

プロローグ

 蕎麦がテーブルの上に置かれた。プツプツした食感を味わいながら、箸を別の皿の方へ持っていく。ベチョベチョした油を舌で感じ、上の歯でサクサクとした衣をかじる。たった何秒か汁につけていただけでも、その感触は全然違っていた。このかき揚げの本当の姿はさわやかなものなのか、それとも、ベチョベチョした油なのか。

「この店、私が君くらいの時に初めて来たんだ」

油の感触を蕎麦をすすってかき消しながら、目の前に座っている、白いトレンチコートを着た女性警官の話に目を傾ける。話の途中、彼女は突然話を止め、口をあんぐりと開けたまま店員らしき女性一人をじっと見つめる。よく聞き取れなかったが店員の名前を呟いたのだろう。それに反応して、その店員が俺たちの方を振り返った。




 ドン、という音で全身をピクリと震えると、目覚まし時計と予備の目覚まし時計が時を一秒ずつ刻む音が聞こえた。深夜の部屋に、誰かが立っている。真っ黒の服に真っ黒な顔。全く正体はつかめないけど、その口が歪んでいるように見えた。その人影は一歩一歩、ベッドの上で仰向けに寝ている私のところまで歩いてきて、不定形の物を持っている手が私の顔に近付く。怖くて目を瞑っているうちに、その夢は終わった。息苦しさと最高の寝心地を覚えたまま、時間は過ぎていった。

 潮の匂いのしない海辺、黒色に染まった空。私はそこで溺れているようだ。顔全体に張り付いたスライムのようなものを引きはがしたかったが、その手は動かなかった。黒色の海水を飲み込んでしまった後は目を閉じたように視界が真っ黒になった。


 目覚ましのコールは滋賀とに飽きたように鳴る目覚ましのベルたちと隣の部屋からの壁を殴る音だった。目を開けて枕元で充電してあったスマートフォンの電源を入れる。11時だ。あんな夢を見た割には意外と気分はすっきりしている。あの夢、どんな夢だっけ……? 昨夜の夢を思い返してみようとした。なんか、2つくらい見た覚えがあるような。片方は覚えているが、片方は消却の彼方に飛んで行ってるな。そこに、

「いい加減に、それ止めてくださいよ! 何時間経ってると思ってるんですか!」

隣人の——朝平さんが叫ぶ。ボケっとしていて目覚ましを止めていなかった。この人、最近イライラしているのか生活音がいつもの5割増しほど大きい。壁を破壊しそうな勢いで殴ったりしていて、そのたびに私の平穏な生活が脅かされている。イライラの原因が私ではありませんように、と思いながら布団から出て、1メートルほど先にある棚で震えている目覚ましを止めた。それと共に、隣人が壁を破る音も止まった。

「平日の朝っぱらから何なんですか! あんた学校はどうしたんですか! 私はやっと有給が取れて平和な日々を過ごそうとしていたというのに、昨日の夜中も……」

目覚ましは7時に設定してある。なので、7時から11時までの4時間、目覚ましを鳴らしていたことになる。それも平日の朝に。申し訳なさを感じる前に、大企業の激務でボロ雑巾のような精神状態になっていると噂の朝平さんの言葉が頭の中で勝手に反芻された。平日? 学校?

「あああー!」

思わず叫んでしまった。その声で隣人の愚痴が途切れ、その代わりに壁を蹴る音が聞こえた。気が付けば、高校生活初めての遅刻が確定してしまっていた。身支度をして、テーブルに置いてあったレーズンパンを咥えて走って玄関を出て行った。


 大急ぎで学校に来てみれば、当然のごとく授業が始まっていて非常に入りにくい状態になっていた。遅刻には一生縁がないと思っていたので、こういう時はどうすればいいのか全く知ろうともしていなかった。困っていると、忙しそうに息を切らして廊下を走っている担任を見つけた。彼も私に気付いたようだが、その瞬間、彼の顔に喜びのような怒りのような感情が浮き上がった。

「おいサヤカお前どこ行ってたんだ!」

声が大きい。教室に目を向けると、授業を受けていたクラスメートほとんどが後ろを振り返って私を見ていた。私の幼馴染である延子がニヤニヤしながら私に手を振っているので、小さく手を振り返した。廊下側の一番後ろに座っていた悠佑——こいつも、一応は幼馴染だ。やっぱり遅刻か、と言わんばかりの妙な笑みを浮かべている悠佑だって昨日、大遅刻してたじゃないか。喉元過ぎれば熱さを忘れるとはこのことを言うんだろうな。

 自慢ではないが、私はクラスではいたって普通の存在だ。親子の不仲から家出をしてバイトをしながら日々の生活を送っている事はクラスメート全員が知っていると思うが、それでも特別扱いされることもなく、他の人と同じように接してくれる。周りからの評価も、『不幸な目にあっているけど大人しい普通の女子高生』と思われているはずだ。そうあってほしいし、実際のところそんな感じである。

担任のほうへ向きなおすと、クラスメートにも聞こえそうなほど大きなため息をつかれた。とりあえず、私は何をしたらいいんだっけ? 聞き流したクラスメートたちの話では職員室でカードに遅刻理由を書くだけだと思っていたが、違うのだろうか。

「……とりあえず、話をしないとだな」

そう言った担任は、私たちの方を向いていたクラスメートたちに授業を受けろと黒板に指を差す。私達を見ながら板書していた教育実習の先生がビクッと姿勢を正した。担任は廊下の奥へと歩き始めた。その方向は職員室ではなかった。むしろ、三者面談(親とは絶縁しているので私は二者面談だが)で使われている小さい部屋の方向だった。嫌な予感がする。


「入って座っておけ、ちょっと用事を済ませてくる」

予感が的中して、面談部屋へ連れていかれた。授業の邪魔になるからかなとも思ったが、今までに遅刻した生徒がこんな扱いを受けたという話は聞いた事がない。思っていたのと全然違う。用事を済ませてきたらしい担任はだるそうに、部屋のど真ん中に座っている私と机を挟んで真正面にある椅子に座るや否や、溜息をついた。

「お前、学校来るまでどこ行ってたんだ? 今日の朝、どっかウロウロしてから学校に来ただろ」

「え?」

何故か夜歩きならぬ朝歩きをしていた事になっているらしい。いやいや、寝坊しただけなんですけど。だけって言い方はおかしいですけど。

「寝坊? ……今さっきまで?」

この担任、考えすぎて話をややこしくしている気がするなーと思いつつ話を続ける。

「7時に起きようとして11時に起きちゃったんですよ」

思考停止の表情になった後、だんだんと顔が赤くなっていく。あれ、何か逆鱗に触れるような変な事言った?

「お前なぁ……こちとら警察まで呼んだんだぞ!」

警察? 無遅刻無欠席の女子が学校に来ないだけで? 事件に遭わない限り絶対に遅刻しないって評価をされているなら嬉しいのだけど。

「11時に起きたとか下手な嘘つかなくてもなあ、朝8時頃にお前を見たって話はもう聞いてるんだぞ!」

 やっと、担任と話が噛み合わない理由がわかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る