仮初の玉座 #40 黒皇、来訪す
「ハンナ、連れてきたわよ!」
ノエルはメニフィスの声に振り向く。
麗しの教官はストライプのシャツに黒のカーディガンと今日も昨日と違う服装だ。
「はわわ、メニフィス教官も。今日もカッコイー♪」
顔を朱に染めたウリカがノエルのすぐ後ろに慌てて隠れる。肩に手をかけて人の頭の上できゃあきゃあと黄色い声援を送るのに忙しい。
いかんせん身長差がありすぎるので全然隠れたことになっていないが、わりとどうでもいいのでノエルはそれには触れずにいた。
それよりもメニフィスの後ろを歩く二人の男に目が行くが全く見覚えはない。
感激に打ち震えている空気の読めないウリカを置いて、ノエルはロキに尋ねる。
「ロキ姉、誰あの人?」
「アクセル=ヴァッツァ。シシリーマッツの筆頭幹部よ」
「え、ウソ!何でここに」
筆頭幹部というものがどういうものか分からないが、少なくとも上の人間であることは理解できる。
仕立ての良い漆黒のスーツに純白のネクタイ、紺のベストとシンプルながら、そこはかとなく高級感と美的感覚が際立ち、構成員と同じ服装ながら、両者の間には顕著な格の差がそこにはある。
当然身に纏う空気も只事ではない。
一歩ずつ歩み寄ってくる度に肌を打つ圧力を前にして、ノエルは思わず沈黙を余儀なくされた。
代わりに目を見開き二人の表情を確認するが、黒い丸眼鏡の奥に隠れた男たちの視線は読めない。
ノエルの前を素通りし、二人は地に伏したままの男たちを見下ろす。
「お前ら、何のつもりだ?下手に関わるなと通達しておいたはずだ。それもわざわざイーギスで暴れてくれるとはな」
「…ヴァ、ヴァッツァさん、どうしてここに?!」
長身の男が発するただならぬ雰囲気に驚愕と焦燥の声が上がる。
「それはこちらの台詞だ」
「俺たち、あの…」
「まあいい。後でゆっくり聞かせてもらおうか。だがその前に」
高名な彫刻家が作製したかの如く、鋭利ながらも整った顔つきは人目を引き、枯草色のカーリーヘアには気高さが見え隠れしている。
贅肉を極限にまで削ぎ落としたような引き締まった体つきは服の上からでも容易に見てとれた。
ヴァッツァと呼ばれた男は眼鏡を押し上げる。
そして彼の背後で付き従うように黙している男に声をかけた。
「ダンテ、マフィアを舐め切ったチンピラ上がりには教育が必要らしい。ただし、顔は殴るな。歯がなくなると後で話を聞きにくくなるんでな」
「は」
ずいと一歩前に出た男が両の拳を胸の前で打ち合わせると、骨と骨がぶつかり合う生々しい音がノエルの耳朶を打った。
針山の歩行を強いられるような雰囲気がヴァッツァであれば、この坊主頭の男には逃げ場のない場所で身体を押し潰されるのを待つだけの圧迫感がある。
顔の厳つさ、体格ともにオリバーといい勝負だろう。
ウリカより背は低かったが、それ以上に横幅と筋肉のぶ厚さが全然違う。
あの太い腕で殴られたら歯が折れるどころの話ではない。
こめかみから右の頬にかけて走る長い傷跡を見るだけでも、普通の人間ならば腰が引けるだろう。
「え、ダ、ダンテさん、ちょっ…」
「…」
戸惑いを露にする一人の黒服の襟首を無造作に掴み上げ、無理矢理立たせる。
そして何の躊躇もなくボディーブローを叩き込んだ。
いかなる嗚咽すら発音できずに、男は口から泡を飛ばし再び地面に伏していく。
膝から崩れ落ちた二人目にも同じ手口だった。
強烈な拳を淡々と腹にめり込ませる。
周りのチンピラたちが戦慄するのも無理はないように思えた。
ダンテという名の男は悲鳴や懇願には耳を傾けず、意に介する様子もなく、命じられた仕事をただ忠実に遂行している。
ジャスとウリカにも手ひどくやられた男たちだが、ダンテの暴力を心の底から恐れているのは誰の目にも明らかだった。
「うわあ」
ノエルは唸る。
二人三人とサンドバックにされる様はやはりとても正視していられるものではない。自業自得の制裁を甘んじて受け入れざるを得ない何かが彼らの間で存在するにしてもだ。
ジャスに膝を破壊されたり腕を切断されたわけでもないので、五体満足でいられるだけマシかもしれない。
だが、体格差、威圧感は歴然で闘犬のようなこの男を前にした彼らはさながら蛇に睨まれた蛙も同然だった。
それでも手加減しているように見えるのは、肋骨の折れた音が聞こえないからだ。
絶妙にポイントをずらし、ギリギリの力加減で殴っているのだとしたら、相当の手練れであるのは間違いない。
ロキが粛々と行われる公開処刑を指示した男に向き直る。
「アレをここでやる必要はあるんですか?」
「ロキ殿。お見苦しいものを申し訳ありません。ですが、すぐに終わります」
「何の流儀か知らんが、相変わらずけったくそ悪いことをしてやがるな、お前らは」
男はマルコの皮肉に微笑を返す。
「飼い主の言うことを聞かない犬にはすぐに躾をしないとだめでしょう。それと同じことです」
「アクセルさん。お仲間がこんなことをするなんて、まさか停戦協定を忘れたわけじゃないでしょうね?しかもここはわたしたちのホームなのよ」
貫くようなロキの視線が長身の男を正面から見据える。
アクセルと呼ばれた男の手が眼鏡を顔から離すと、アンバーの瞳が露になった。
「もちろん承知しています。イーギスとの間で交わした停戦協定は今でも有効と認識しています。今回の一件は完全に組織の伝達齟齬のミスです。本当に申し訳ないことをしました」
男の頭を下げる行為にノエルは意外な思いを抱いた。
ノエルにとってのシシリー・マッツとは街のルールからはみ出したならず者の集団だ。
オリバーはマーセルが生んだ必要悪のような存在だと称し全体的に柔軟な見方をしていたようだが、だからといってノエルは彼の主張に頭から納得したわけではいない。
物の見方は人それぞれだと彼は言った。
確かにそうだと思うが、ことこの組織に関しては州都マーセルだけではなく聖シオンにとってもマイナスの存在に決まっている。
市民に非道を尽くし、社会にとって害をなすだけの無益な存在でしかないのだから。
そしてそれは先日偶然居合わせたロフタスパークでの事件を通して、その考えが決して間違いではないことを自分に教えている。
寛容に見ることなど出来るわけがないし、最大の警戒が必要な組織であることになんら変わりはない。
だが、目の前のロキに深く腰を折ったこの男はどうだ。
イーギスに侵入した野暮で卑近な男たちとはまるで正反対の姿がノエルの目には映っている。
むしろこの物腰の柔らかさと折り目正しい言動は脳裏で固定化された印象を激しく迷わせた。
「乱暴な手口で侵入され、好き勝手に暴れただけではなく、こちらに少数とはいえ負傷者が出た事実は重く受け止めていただきたいですね。これでは協定締約前と何も変わらない。闘争時代への逆戻りをご希望なのかしら?」
躊躇いのないロキの糾弾にアクセルは再び口を開く。
「お怒りごもっともです。私個人もそうした由々しき事態は皆目望んでいません」
「口では何とでも言えるのよアクセルさん。あなた自身がそう思っていても、実際に今回のような事態は起きているの」
「無論です。これは幹部以外の全構成員を統括する立場にある私にとっても決して看過できないものですから」
同色の瞳を持つ二人の男女の視線が交錯する。
いくばくかの無言の思惟のやり取りの末、沈黙を破ったのはロキの浅いため息だった。
「…教えてもらいたいことがもう一つあります。答えにくいものかもしれないけど」
「ええ、構いません。恥のかきついでに、私に答えられるものであればなんなりと」
マフィアの若き幹部を見上げ、ロキは毅然と言い放つ。
「あなたたちはガーベラを使って何をしようとしているの?」
「…流石は
「お世辞はいらないわ。身内がこうした事態を引き起こした以上、あなたには当学院に対して説明責任があるのではないかしら?」
「ごもっともです。我々もガーベラは所持していますが、その理由はあくまで流通目的。ご存知かと思いますが、我々が抱える企業の中には小売りもあります。経済活動への純粋な貢献のつもりですよ」
「今回の件を受けて尚それを言うのかしら?」
ロキの指摘には余計な言葉がない。
深い切り込みにもアクセルは動じた様子はなく、ロキを正面に見据える。
「不徳の致すところでもあるのですが、社からガーベラが持ち出された形跡があります。ゆえに追跡できたわけですが、率直に申し上げてこのような効能は我々も確認していません。ご期待に沿える回答でないことは重々承知しておりますが、事実です」
「そうですか、分かりました。私からは以上です」
含むものを感じさせない男の回答を受け、ロキは何かを考えるように目を閉じる。
「ねえ、
その場を離れようとしたアクセルを捕まえたのはメニフィスだ。
腕組みをし、形の良い唇に言葉を載せる。
「答えにくい質問というのは一つだけだったはずでは?」
「ハンナから一つ。私からも一つよ」
「ふ、メニフィス殿も変わらず大胆で。流通を取り仕切っているのは私ではありませんので、詳細は分かりかねます。ただ、重要な取引先ではありますよ」
「いけしゃあしゃあとよく言うわ。あなたは男前だけど今一つ何考えているのか分からないから嫌いだわ」
「いかようにも。ご想像にお任せしますよ」
アクセルは睨むメニフィスに薄い笑みを向けた。
「図体ばかりがでかくなりすぎるのも考え物だな、アクセル」
「お久しぶりです、坊ちゃん。エデン様のプロジェクトの一環でして」
アクセルは胸に手を当て、恭しく腰を折る。
その振る舞いにジャスは顔を渋くし、面白くなさそうな顔で吐き捨てた。
「いい加減、坊ちゃんというのはよせ。…ただそうか、おじきか」
「やつらは三か月前に加入したばかりで、一時的とはいえ、組織を離れたジャス様を知らなかったのでしょう。しかし知らなかったで済まされる問題ではありませんが」
男の目に宿る酷薄な色はダンテの殴打を受ける男たちに注がれている。
「あの程度、俺は別に気にしてねえよ。ほどほどにしてやれ」
「…善処しましょう」
「ロキさん、すまない。俺からも詫びさせてもらう。許してほしい」
微量の沈痛さを伴ったジャスの口調がロキを振り向かせる。
褐色の肌は決まりの悪さを押し殺しているのか、普段のポーカーフェイスではなかった。
「ジャス君?あなたは無関係よ。謝ることはないわ。少なくともあなたは今は組織から離れているし、裏で何かを企みような生徒ではないことくらい知ってます」
「ああ」
「とはいえ、こちらはこちらで今回の件について色々なものを整理し検討しなくちゃいけないの。少し付き合ってもらうわよ?」
「もちろんだ」
「しばらく見ないうちに変わりましたね」
アクセルの揶揄するような口ぶりにジャスは鼻を鳴らす。
「元いた組織を一年も離れてるんだ。新しい水にも慣れるだろ」
「ふ、確かに」
「おじきの考えくらいわかる。俺にここを勧めたのも体のいい厄介払いにしたかったからだろうさ。そうすれば、正面からイーギスと事を構えることもなくなるからな。三年前に結んだ停戦協定もそれを見越したもののはずだ」
「そんなことはありませんよ。エデン様もここでジャス様がいかにお過ごしか気にしていらっしゃいますから」
「ふん、どうだかな。親父はああだし、革張りの椅子の座り心地をせいぜい楽しんでるだろ」
アクセルはそれには直接答えない。
逡巡ともつかぬ表情を浮かべるのみで、男は眼鏡を戻し話題を変えた。
「やはり当初の通り、お戻りになる予定はないと?」
「今はな」
「それは残念です。ナナリィの寂しがる顔が目に浮かびますよ」
呟くように発された言葉を受け、ジャスは僅かに顔を曇らせる。
「俺には最初から関係ねえよ」
用は済んだとばかりにジャスは再びフードを目深に被る。
そして納刀した刀を肩でかつぎ、校舎のほうに消えていった。
青年の後ろ姿を目で追っていたアリアンが目を眇める。
「ノエル、ちょっと待っててくれ」
「え、アリー?」
そう言ってノエルの側を離れた彼女はアクセルの元に近寄っていく。
その場にはアリアンから騎士剣を受け取ったデュオとノエルだけが残された。
ウリカは二人の美女を食い入るように見つめている。
邪魔せず、そっとしておいたほうがいいだろう。
「あの二人、尋常じゃない気当たりですね。教官たちとも何やら顔見知りのようですが」
デュオの言葉にノエルは頷く。
「うん。シシリーマッツとうちが過去に色々あったのはフランからも聞いてるけど、どう考えても、あのアクセルって人とはただの知り合いってわけでもなさそう」
「筆頭幹部ですか。ジャス先輩とは何やら親しげに会話していましたし」
「どんな接点があるんだろ」
「…とにかく、彼をしっかり見ていた方がよさそうですね。僕たちだって、彼と今後会わないとは限りませんから」
警戒をちらつかせたデュオの言葉にノエルは再び頷いた。
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