仮初の玉座 #28 WHAT ABOUT IT,HUH?
シャワー室から出たノエルは着替えを済ます前に真っ先に洗面台に向かう。
ご機嫌な鼻歌が三曲目に差し掛かろうとしていた時、ノエルは唐突に足を止めた。
「あれ?」
鍵がない。
観葉植物がある洗面台の端っこに隠していたロッカーの鍵がなかった。
周りを見渡してみてもそれらしきものは見当たらない。
「え、うそ。ここに置いといたのに」
このままでは風邪を引いてしまう。
タオルを身体に巻いているのでしばらくは大丈夫だろうが、そもそも服を着ないと更衣室から出ることもできない。
更衣室に入ってきた時は自分しかいなかったので、間違えて誰かが持っていくという可能性は考えられなかった。
いや隠したつもりが実はシャワー室に持ち込んでいて気付かぬうちに排水溝の中に消えてしまったという最悪な可能性もなくはない。
ノエルにとってさらにツイてなかったのは、いつもなら何人かが常時いるはずの更衣室に誰もいなかったことだ。
おかげで誰かに助けを求めることもできなかった。
誰かがいれば代わりに業務課に声をかけてもらい、合鍵を持ってきてもらうこともできるのだが、こういう時に限って誰もいないというのは不運は連鎖するとしか言いようがない。
こうなったらロッカーの鍵穴を破壊しようか、と物騒な考えが頭をもたげた時、ノエルの背後で更衣室の扉がゆっくりと開いた。
「あら、あなた。何をしているの?」
振り向くと、毛ぶるような美しい金髪に手をかけた女生徒が立っていた。
上品で整った顔立ちは美人と称するのに相違ない。
男を振り向かせるだけではなく同性さえも見惚れさせる美貌の持ち主はあまりノエルが好きではないソフィア=ラブリスだった。
彼女の背後には二人の女が彼女に付き従うように控えている。
「ソフィア」
しかし、端正な顔立ちに浮かぶ三人の薄ら笑いをノエルは怪訝に思ったが、今はそれどころではない。
寒くなってきたのでいい加減服を着たかったし、タオルの下が素っ裸というのは何故だか気持ちまで心もとなくなってくる。
「いや、でも助かった!鍵がなくなって困ってるんだ。悪いけど業務課の人呼んできてくれない?」
ノエルの髪から水滴が滴り落ちる。
しばらく待ってみても返答はなかった。
ソフィアは口を開かず、形の良い唇に軽薄な笑みを浮かべたままだ。
痺れを切らしたノエルが流石に懇願する。
「ねえ、お願い」
「…どうして高貴なわたくしがあなたのために動かなくてはならないの?」
「え、だってあたしは行けないからこんなカッコじゃ」
「うふふ、滑稽だこと」
「なんだって?」
ソフィアの嘲りにノエルの片眉がぴくんと上がる。
何か鼻持ちならないことを考えているに違いなかった。
一週間前に出会った時からノエルに対して攻撃的だったのが彼女たちである。
「そのカッコで行けばいいじゃない。もっとも、そんなカッコで出歩けば、色んな噂が出回るのは覚悟しないとねえ。アニタもパトリシアもそう思わない?」
芝居がかった仕草でソフィアは背後にいる二人の女生徒に同意を求める。
「あらソフィア、だけど逆に殿方と仲良くお話しできるかもしれないわよ?」
「あはは、それは傑作ですわね。でも案外そうなったらいいと内心思っているんじゃないかしら?」
女たちが口元に手を当てて笑う。
赤くなったノエルは怒声を上げた。
「なによそれ!困ってるんだから助けてくれてもいいじゃんか!」
「だからそれが嫌なのよ。なんでド庶民のあなたを高貴な家柄のわたくしたちが助けなくてはならないの?」
「はあ?ド庶民ってなによ!」
「帰ってよ」
「え?」
「帰ってって言ったのよ。田舎にお戻りなさい。わたくし、あなたにはこの学校から即刻出て行ってほしいくらいなの。あなたのような汗くさいド庶民がいるだけでイーギスの品位が疑われてしまうし、こちらはいい迷惑なのよね」
軽蔑を孕んだ甲高い冷笑が鳴りやむことはなく、ソフィアは見下すような視線をノエルに寄越す。
あまり我慢強いほうではないノエルはしっかりと睨み返した。
「あんたら、むかつくね。何でそんなこと言われなきゃいけないの」
「あなたのような芋娘には分からなくて当然です。失礼、そろそろ次の講義の準備をしなくてはいけないの。今日はこのへんで許してあげるけど、あまりわたくし達の目の前をうろちょろしないようお願いするわね」
「だからなんもしてないでしょ!許してもらうことなんか何もないわよ!」
例え先制されても力でこられたほうがまだマシだった。
正当防衛の言い分が立つので反撃が許される。
腕力勝負なら大抵の同性には負けない自信はあるのだ。
ただ、ここまであしざまに正面きって不当に貶められた経験がノエルにはなかったので実際のところどうしてよいものか迷った。
先日のチンピラのように明確な悪意があるものならまだしも、彼女達は悪意を辛辣な言葉に変換してぶつけてくるだけで、別に誰かを傷つけたわけでもなければ自分が痛い目にあったわけでもない。
ただノエルにしてみれば、あたしが何をしたっていうのよ!という釈然としない気分はある。
歯噛みするノエルを見て、面白くなさそうに鼻を鳴らしたソフィアは再び囀り始めた。
「ふん。これだからド庶民は。とにかく。あるべきイーギスに戻すためにあなたにはいずれここを去ってもらいますから」
何言ってんだこいつ。ほんと、一発グーで殴ってやろうか。
内心毒づく。
ノエルの反応を見て取ったソフィアは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「では、ごめんあそばせ。行きましょう、アニタ、パトリシ…ぎゃん!」
潰れたひき蛙のような声を出したソフィアを侍女のように付き従う二人が慌てて介抱する。
「ソ、ソフィア!」
「ああ、大丈夫?!」
三人組の背後には腕組みをした金髪の女性が仁王立ちしていた。
「どきな、通路の真ん中に突っ立てられると邪魔なんだよ」
始めてみる顔だった。
珍しい褐色の肌は誰かを思い起こさせたが、曖昧な記憶が頭の隅から引っ張り出される前に、頭を両手で押さえたソフィアが震える声で猛然と抗議した。
「何をするのです、アリアン!」
「殴っただけだけど?見れば分かるだろ」
確かにその通りだ。
何をしたのかと問われたから殴っただけと答えた。
余りにも完璧な受け答えである。
だがノエルはこの目でしっかりと目撃した。
拳骨を思いっきり振り下ろす瞬間を。
呆気にとられたソフィアが涙声で声を荒げる。
「そんなことを聞いているのでなくて!どうしていきなり殴ったりするの?!何もしていないじゃないありませんか!」
「何もしてないあの子に何かしたのはあんたたちだろ?同じ事をしたまでさ」
「くっ」
上級生だろうか。
一年生を示すサインとして一本の赤い刺繍が上着の胸部分にあるワッペンにあるはずだが、金髪に褐色の肌を持つ彼女が上着を肩に無造作にひっかけているせいで、あいにく年次は分からなかった。
ともあれここまで強烈な存在感を持つ人物なら目立つはずなのだが、本当に記憶にはない。
「すご」
タオル一枚のノエルが感嘆する。
口で応戦するか力で反撃するか、どうしようか迷っているノエルに強烈な回答を示して見せた女はクールな表情で口角を吊り上げた。
「みっともないね、ほんとにあんたらは」
「なにを、今すぐ謝りなさいこの私に!」
「なんで?あんたらが間違ってると思ったから殴ったんだけど。それよりとっとと鍵を返しな」
「な、何のことかしら?」
狼狽するソフィアにアリアンと呼ばれた女が一歩近づく。
ソフィアの背後に隠れる二人の怯えがびんびんと伝わってきた。
「あの子の鍵、取ったのあんたたちだろ?さっき更衣室でコソコソしてたじゃないか。陰湿なイジメほどかっこ悪いものはないね。盗人猛々しいとはこのことだ」
だから鍵がどこにもなかったのか。
もしあのまま帰していたら、次に誰かが更衣室に来るまで半裸に近い格好でずっと待っていなくてはいけなかった。
そうと知り、彼女の衝撃的な登場で一旦冷め切った怒りがまたふつふつと湧き上がってくる。
「盗み見をしていたのですか!なんて浅ましい!」
「出すのか出さないのかどっちだい?無意味な問答につきあってる暇はないんだ。わたしは我慢が苦手でね」
拳に息を吹きかける。そしてそれはとても効果的だったらしい。
アリアンの有無を言わさぬ迫力に三人がたじろぐ。
もはや後ろの二人は声を出すのも憚られるようだが、ソフィアは精いっぱいの虚勢を張った。
「くっ。アリアン、あなたわたくしにこんな無粋な真似をしてタダですむと」
「あ、念のために言っておくけど、わたしにも同じ事をしたらあんたら分かってるね。あんたらの綺麗なお顔を原型を留めないくらいにぶっ潰してあげるわ。ブランドを大切にする淑女様がそれでは困るだろ?あたしは家柄を自慢する手合いが大嫌いなのさ。ついでに言うと底意地の悪い女なんて最高にクソくらえだ」
「ひっ」
しかし、容赦なく凄みを全身に滲ませるアリアンの前に完全に腰が引けているのは丸分かりだった。
「お、覚えていなさいよアリアン!」
「ふん、どこの世界でも逃げの口上は一緒だね」
我先にと扉の向こうに消える三人にアリアンが思いっきり中指を突き立てる。
いっそ感心するほどの清清しさ、もとい勇ましさだった。
ソフィアから鍵を回収したアリアンがノエルに手渡す。
「ほら。あんたのだろ」
「ありがと。なんかすごいね」
「そうでもないさ。それより鍵はちゃんと持っておいたほうがいい、なんかあってからじゃ困るだろ」
剣呑な見た目に反して、存外細かい性格のようだ。
「そうだね、今度からそうするよ。でも、それにしても腕力でいったね。あたしは迷ったんだけど」
「ふん。あいつらだってくさってもイーギス生なんだ。いくら殴っても死にはしないよ」
「の割には思いっきりいってたよね」
「いいんだよ、むかつくなら力でぶっとばしてしまえばいい。それがわたしの流儀でね。わたしは口が得意じゃないんだ。何も相手の土俵で勝負することはない」
一切悪びれることなく力による制裁を正当化できる人間を始めて見た。
まあ言われてみれば確かにそうだが、正当化もここまでくると見習いたくなるものがある。
少し呆気に取られたノエルだったが次の瞬間にはもう顔は綻んでいた。
「わりとピンチだったから助かったよ。ほんとありがとね」
「礼には及ばないさ。むかついたのはわたしも同じだからね」
「えっと、あたしは」
そう言えば名乗っていなかった。
目の前の褐色女はアリアンと言う名前のようだ。
良く見ればかなりの美女である。
肩口でショートにまとめた金髪に鋭角ながら整った細い眉、柑子色の瞳は意志の揺ぎなさを伺え、肉厚な赤い唇に厭らしさはない。
女性特有の柔らかさはないがシャープな雰囲気は彼女の性格を存分に表現していた。
ノエルよりも幾ばくか背が高い。
ここで会ったのも何かの縁なら軽く自己紹介しておいたほうがいいだろう。
だが、先に口を開いたのは腰に腕を当てたアリアンだった。
「剣術科一年のノエル=フロリアンだろ。知ってるよ。あんたそこそこ有名人なんだって?」
もう驚かない。
フランにも同じことを言われた。
嬉しいのか残念なのか自分でもよく分からない感情のままノエルは苦笑する。
「みたいだね。まあ、意図せずしてと言いますか」
「アリアン=カルミア。あんたと同じ剣術科だ」
「え、そうなんだ。でも、一年生?あたしは編入生だけど、見たことないよ?」
その言葉に一拍置いた同級生は口の端を少し持ち上げ鷹揚に答えた。
「当然だよ。停学が明けたのは昨日だから」
完全に乾ききっていない頭のまま更衣室を出たノエルは足早に業務課に向かった。
ばたばたしていたがようやくこの日常に慣れて落ち着いてきた。
日常の訓練がきついので所属クラブは文科系にしよう。
だが名門ゆえに、なにせ部活動の数が多い。
一つ一つ見て回るよりも、掲示板に張り出された新人募集の張り紙を眺めた方が効率的だ。
バスケット部にいるデュオからは女子バスケット部にどうですかと熱烈に誘われたが、あまりピンとこなかった。盛大にしょげる青年が脳裏に浮かんだが、案の定すぐに立ち消えた。
「ノエル、何してるの?」
「あ、フランだ。ひさしぶりー。あたしは元気だよ」
目の前の業務課の扉が開いたかと思えば、中から出てきたのは先日仲良くなったばかりのフラン=カーニーだった。
「ふふ、見れば分かるよ。てか何で髪濡れてるの?」
ターバンバンドの下で輝く陽気な瞳は相変わらずだ。
「あ、シャワー浴びててね。全部乾かすのめんどくさいし」
「なーんだてっきり、滝行でもしてるのかと」
「えー!あたしてそんなイメージある?」
ノエルがのけぞる。
したり顔のフランの目は可笑しそうに笑っていた。
「必殺技が欲しいんでしょ、ライムが教えてくれたんだ」
「むむ、確かに欲しいけど、言わなくても…」
気の迷いで口走った言葉をよもや覚えているとは。
ライムの記憶力が恨めしい。
「で、何してるの?」
「ん、案内見てるんだ。クラブとか。なんかいいのないかなーと」
「あれ、ノエルってまだクラブに入ってなかったんだ」
「うんまだね。あたし編入じゃん?まだここきて二週間も経ってないけど、そろそろね」
唸りながら張り紙に目をやるノエルにフランが近づく。
「なるほど。で、なんかイイのは見つかりましたか?」
「んー、まだ。運動系よりは文科系にしようかなと思ってるくらいで」
「じゃあさ。それならわたしが入ってる研究会の見学に来てみない?ちょうど今一人部員がいるから紹介も出来るよ」
「いいよ。なに研究会?」
待ってましたとばかりに顔を輝かせたフランはノエルがまだ目にしていなかった一枚のポスターを指差した。
「これ、家庭料理研究会。ま、母ちゃんの味ってやつを再現するお料理勉強会みたいなものだよ。みんな好きじゃない。いくつになってもこういうの」
新人絶賛募集中☆、素人大歓迎☆、経験問わず☆、の三行がかなり目立つ。一番下には代表者フラン=カーニーとあった。
「いいねー。うん、興味あるかも。あたしも田舎でジャムとか作ってたし料理も一通りできるよ」
「そうなんだ!オッケ!じゃあノエルの気持ちが変わらないうちに善は急げだ」
「大丈夫だって。まだ見てもいないのに」
笑みを漏らし、弾んだ気分でノエルは代表者の後を付いていった。
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