意図した成果は日々の弛まぬ努力の果てに #16 BEYOND THE BORDER
「魔法が使えないからといって自分を責めてはだめよ。そんなことくらいで世界が終ったような顔されても、逆にこっちがどう反応していいのか分からないから。いい?ノエル、聞きなさい。使える人には使える人の苦労があるの。慰めてるわけじゃないわよ。あんたには世界は不平等だって文句を言うような物の見方が狭い人間にはなってほしくないの。だってその不平等って、宇宙規模で見当はずれな勘違いだから。ミロ風に言えば、くそだっせえってやつよ」
これは、ほとんど放心状態のノエルに向けて、ロキが放った言葉だ。
厳しくも優しく思いやりのある姉に似つかわしくない辛辣な物言いが珍しくて、ノエルは毛布の中から顔を出した。
実は魔術にノエルの本心があったことなど周りの人間のほとんどは知らない。両親も知らないし、ノエルの成長を促してくれた道場の師範にだって打ち明けていない。
それを言うのは恐怖心から激しく躊躇われた。
ノエル、十の時。
ルカとライが通う剣術道場に入門してから、迎えた四年目の夏。
ノエルの連戦連勝が始まりだした時期だ。
格上の相手との勝負を好むだけあって、時には星を落とすこともあった。しかし負けを引きずらず、次戦に向けてメンタルを切り替えられるノエルの黒星は在籍十二年間でたったの八度のみ。
卒業するまでとうとう個人戦での連敗はゼロという偉業を持つに至り、彼女の評価は日増しに高まるばかりだった。
一方の団体戦では持ち前の明るさと前向きな性格がチームを助け、彼女の将来に指導者たちは大きな期待を寄せた。
存在感で仲間を鼓舞できる主将肌ではない。
だが、ただただ強さを追い求めるばかりではないノエルのまっすぐな姿勢は道場の連帯感をより強固なものに変貌させた。
ノエルがいれば戦績に安定感が出るという仮説は数字が証明しており、ルカとライの二枚看板を筆頭に破竹の勢いは止まるところを知らなかった。
歓喜の輪が咲けば、そこにはいつも彼女の笑顔があった。
だが、そんなノエルがたった一度だけ無断で稽古を休んだことがあった。
当然、周囲が心配したのは想像に難しくない。
田舎に住む人間の日常生活において、魔法という事象はありふれたものではない。
だからロキがそれを見せてくれるまで、ノエルが魔法が発現する瞬間を目撃してきた回数は片手で足りた。
ロキが指の先に淡い光を集めたと思うと、おもむろに水の入ったコップに指先を浸し、瞬く間に氷を張っていく。
ミロが指の先に淡い光を集めたと思うと、おもむろに水の入ったコップに指先を浸し、瞬く間に水を蒸発させていく。
信じがたい奇跡の連続に、ノエルは興奮のあまり打ち震えた。
それは試合で勝った時に得られる感情とは全くの別物だった。
ロキの優しい笑顔にミロの得意げな表情を見て、幼いノエルはまだあどけなさの残る顔を綻ばせた。
ある稽古帰りの夜、ノエルはロキの家を訪ねた。
書物を読みふける姉が何か物言いたげな妹に声をかける。
「ノエルもこれに興味あるの?」
「うん、あたしもロキ姉みたいになりたい!」
「ノエルにも適性があればいいね」
十歳のノエルは大きく頭を振った。
膨大な知識量を必要とする魔法の勉強を始めるノエルをロキは応援したが、ミロは特に何も言ってこなかった。何かを始める時にミロは何も口出しをしないし、褒めたり叱ったりもしない。良いものだと分かっていても勧めたりもしてこない。それは自分以外に関心がないからではなく、人の価値観には不干渉を貫きたいからだとノエルはいつかロキに教えてもらったことがある。
「魔法は化学式と同じ理屈よ。もう授業で習ってるでしょ」
「うー、あたし化学式って苦手なんだよぉ」
「じゃあ諦めなさい」
剣術は道場で学べても魔法を道場で学ぶことはできない。ノエルが通う学校にも魔法を使える教師はいなかった。
だからロキから直接学ぶ以外に方法はなかったが、ノエルとしてはむしろそっちのほうが有難い。厳しいわよと半ば釘を刺されつつも、気心知れた姉から教わる方が上達できそうな気がしたからだ。
それ以来、稽古の後にロキの家に寄ることが、彼女の一日に追加された新たな日課となった。
「思い出して。水なら酸素と水素が結合してできるように、魔法も何かと何かの組み合わせなの。かなりシンプルに言うとね。初歩的な理解としてここはオーケーよね?」
ノエルに苦手意識があることをロキは知っている。剣を振る事には情熱的になれても勉学にはてんで弱い。だがロキの容赦は中途半端を求めない。
「まだ何も始まってもいないのに途中で投げ出すなら、そうね、一年間は口きいてやらないけどどうしようかしら?」
「わ、わかってるって。ぜんっぜんオッケーだよ!」
恐れおののくノエルにロキはにんまりと微笑んだ。
「高度な物質を作ろうとしたら自然、化学式も長くて複雑になるの。もう色んな原子がかたっぱしからくっついてる感じね。魔法も同じ。簡単なものは使えても、高付加価値のものになると色々なものを組み合わせ、入れ替え、立体的に構築しないといけない。言うまでもないけど、それをやるのは紙の上じゃないわよ。頭の中で、しかも一瞬に」
ロキなりに噛み砕いた説明も、ハッキリ言ってノエルには意味不明である。
厳しくも刺激的なこの挑戦はノエルにとって何から何まで未知の分野だ。
それでも苦手意識を脇に追いやり根気よく頑張った。
家に戻っては睡眠時間を削り、明け方近くまで復習に時間を充てたことも何度もある。
慣れぬ勉強に多くの時間を投下できたのは何よりもロキの存在が大きい。自分の用事を全て後回しにしてでも、彼女は遅くまでノエルに付き合ってくれた。
そして、一定の手応えを得たノエルはロキが見守る中、教わった通りの手順で初歩的な魔法の生成を試みた。簡易的な陣図と術語で生成できる、
燭台に立てられた蝋燭に明かりを灯すために、両手に魔術書を抱えたノエルは目を瞑り集中力を高めていく。
部屋の明かりを完全に落とし、煌々と輝く月光が部屋に差し込む唯一の光源となった。
術語を紡ぐノエルの口ぶりはたどたどしい。
傍らのロキは瞬き一つせずその様子を見守っている。
どちらに転ぶか緊迫の一瞬。
身体が緊張し、四肢は強張っていく。
激しく動いているわけではない。
事実ノエルは微動だにしていない。
額に浮かぶ無数の汗粒を拭う様子も見せず、ノエルはただひたすらに黙した。
指先に明かりが灯るか灯らないか。
成功すれば部屋はもう少しだけ明るくなるはずだった。
しかし、反応はついぞ返ってこなかった。
どれだけ待ってみても指先に温かさが感じられない。
もしかしたら脳裏のイメージではいけないのかもしれない。
どこかで間違えた恐れもある。
動揺を隠せず、取りつかれたようにノエルは術語を口にした。
「…っ」
極度の緊張で口内が完全に干上がり、舌がもつれ、上手く発音できない。
茫然とするノエルの額に浮かぶ汗が頬をつたい、衣服を濡らし始める。
震える脚がとうとう自重を支えきれなくなり、ノエルは腰から崩れ落ちた。
不意に両目を閉じたロキが視界に入った。
分かったことはただ一つ。
ノエルには魔法の才がない。
慢心はない。
しかし率直に言って予想だにしなかった。
その現実はどこまでも残酷だった。
今日のこの一瞬にかける準備は万端だった。
ノエルはこれほどまでに必死になったことはなかったし、剣術同様にサボったこともない。
しかし、結果はこの通りだ。
ロキという最高のお手本の指導を得ながら。
境界線の向こう側にノエルは行けなかった。
この時ノエルは始めて稽古を休んだ。
大騒ぎとは言わないまでも周りはいつもと違う光景に違和感を覚えた。
いつもどこかに彼女はいるからだ。
だが今日はまだ誰もノエルの笑顔を見た者はいない。
一日中自室に閉じこもり、食事も受け付けないノエルを両親は心配に思い、娘が慕うロキに事情を相談した。
先の言葉は毛布にくるまり何一つ反応を見せないノエルに向けてロキがかけたものだ。
挫折感を断ち切ることが必要だった。
以来、これまで以上に剣に真摯に取り組むようになった。
ノエルは自己の連勝記録を塗り替えていく。
勝負を挑む者たちの申し出は嬉々と受諾した。
傍目に見れば、いよいよ突き抜けてきたかと思う人間もいたかもしれない。
だが実はそうではない。
ただ、振り払うために必死だっただけだ。
三人の兄と一人の姉への強い尊敬と憧れ。
四人の個性がノエルの性格や考え方、生き方に大きな影響を与えたのは言うまでもない。そしてそれがノエルの強烈なモチベーションであることに今も変わりはない。
自分もそうなりたい。
けれど。
自分にはルカやライのような剣才はない。
自分にはロキやミロのような魔力はない。
全くもって受け入れがたい運命だ。
ノエルは強い兄や立派な姉のような人間になりたかったが、どうやら同じ道は歩ませてはくれないらしい。
同じ人間でもみんな少しずつ違う。
だとしたら、そんな自分に何ができるかを三日三晩熟考した。
ノエルが進路を検討する時期を迎えたちょうど一年後、四人は成人を迎える年に生まれ育った田舎を離れ、ノエルの知らない都会へ揃って旅立っていった。
行き先は、聖シオンは第二の州都マーセルにあるイーギスグランカレッジ。
そこは、あらゆる脅威に対抗するために設立された魔術防衛に特化した軍事専門校と称されていた。
何をするにしてもずっと一緒だった時は唐突に終わりを迎え、何年もの間随分寂しい思いをした。
二度とあんな辛い思いをするのは御免だ。
ただもうそうはならないとノエルは考えている。
なぜなら、このイーギスがノエルの新しい住所になったからだ。
ルカとライが中心になって剣術道場の名を高める一方で、ロキとミロが何もしなかったわけではない。
燻らせるには惜しい圧倒的な才能を当然周囲が放っておくわけもなく、どこからともなく二人の才児ぶりを聞きつけた者たちがレーンヴァルトを訪れてきた日のことをノエルは今も鮮明に覚えている。
その日の夜、二人は越境入学することをルカとライ、そしてノエルに告げた。
地元の学校では二人が素質を持て余しているのは誰の目にも明らかだった。
その上レーンヴァルトには魔法を学ぶ場がない。
もはや当然の成り行きに近い形で、ロキとミロは列車で片道二時間の魔導学芸院に通うことを決めた。
風光明媚な地元から急峻な山岳を隔てた先にオルヘという街がある。
人の往来を拒むように聳え立つ山々が独自の文化を作り上げたのだとしたら、現在のオルヘが良質な知識を貪る学徒の園として名が通っていることには頷けた。閉鎖性の高さゆえの学識的な発展例だった。
肩口まであるライムの金髪が風で揺れている。
魔術の素養があるライムにはそもそも転籍できる下地があったのだ。
「オルヘ出身なんですわたし。ロキ先輩とミロ先輩の名前はわたしのいた初等部にまでしっかり届いていましたよ」
道理で二人のことに詳しいわけだ。
ロキとミロはマーセルに発つ前年、その一年のほとんどをかの地で過ごすようになった。
数か月に一度帰省した時に聞かせてもらえる土産話。
ノエルはそれを待ち遠しく思うようになった。
離れ離れは嫌だ。
しかし、二人はきまって一晩では語り尽くせないほど興味深い話を蓄えてノエルの前に現れるのだ。
そこで過ごした時間がロキとミロの更なる成長を促したのは間違いないだろう。
象牙の塔の住人さながらに知の探究に熱心なロキならまだしも、蕁麻疹が出るくらいに勉学を嫌うミロをして、愉しいと言わしめた街である。
思い返せば、この頃から大の活字嫌いで有名だった彼が、神の気まぐれか悪魔のいたずらかと思わせるほどに、一心不乱に読書にふける光景を目にするようになった。
行ったことがないノエルはそれだけで興味が湧くが、自分にとって幸運なのはオルヘがライムの出生地ということだ。
ライムの横顔を見ていると自然と頬が緩んでくる。
好きの対象が同一だと親近感が増すというのはどうやら的を得ているらしい。
そんな一節が何かの本に書かれていた。
さらに思い出そうとするノエルは歩みを止め、感嘆の声を漏らす。
振り返り自分を見つめるライムの背後に、突如、大きな公園が視界の隅々まで広がったからだ。
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