饒舌と寡黙のブラックマンバ #10 燃焼レイジ

ノエルの視線の先ではジャスが右足を上げている。

そしてどういうわけか、男の身体はくの字に折れ曲がり膝が震えていた。

何かがこの一瞬の間に起きたようだ。

ノエルは瞬きをした覚えはない。

しかしノエルの目はそれを捉えることができなかった。


ジャスは腹を押さえながら崩れ落ていく男の髪を乱暴に掴みあげた。

そしてそのまま自分の顔を苦悶に満ちた相手に近づけていく。

フードのはだけた表情に張り付いていたのはどこまでも酷薄な笑みだった。


「さっき敵に回すとか言ってたろ。馬鹿な俺に教えてくれないか、誰が誰の敵になるのかを」

「て、てめえ。がはっ」

激しく乱れた呼吸と嗚咽のせいで言葉を操るのもままならないらしい。

床に寝転んだ体勢なら少しはマシかもしれないが、ジャスはそれを許さなかった。

男の顔をじっと見つめるジャスが何を考えているのか、ノエルには計り知れない。


ただ、髪を掴まれた男子生徒の中でジャスに対する怯えが大きくなっていくのは手に取るようにわかった。

「つまらねえな。もうしまいか。…なら、そこで寝てろ」

反応がないのを見て取ったジャスは男の襟首を掴み、そしてそのままテーブルに放り投げた。

「うそ!?」

その信じがたい有様にノエルは驚き声を上げる。


ほんと何してんだコイツ。

ジャスの蛮行はありえない。

しかしこの場合はどちらかというと、男子生徒の体が宙を舞ったことのほうが信じられなかった。

ジャスは自分とさほど身長差がないので、男子生徒たちの方が体格はいい。

それを腕一本、である。


さらに言うと、ノエルの思考回路に人間を放り投げるという選択肢はない。

それが武道の世界ならともかく、この男は力んだ様子を微塵も見せずに、不要になったモノをゴミ箱に投げ捨てるかのように一人の人間を投げ飛ばしてしまった。

ゆうに三メートルは飛んだと思う。


だから、当然派手な音が鳴り響いたし、床に落ちた皿は何枚も割れた。

木製のテーブルは受け身を取れない男の落下の衝撃で音を立てて半分に折れてしまった。

またも一瞬の出来事だったが今度はハッキリと見た。

ことさら体格に恵まれているわけでもないのに、あの細身に一体どれだけのパワーがあるのか。

そして改めて思う。こいつ本気でありえないな、と。


投げ飛ばされた男は気を失ってしまったようでピクリとも動かない。

血が床を濡らしているのはどこかを切ったからだろう。

「すまんな。女に手を出すヤツは生理的にちょっとダメなんだ」

不機嫌な顔で手をはたきながらジャスがそう嘯く。

その台詞をスルーできるノエルではない。

「な、あんたがそれ言う?!さっきあたしを殴ろうとしたでしょ絶対」

「本当に殴るわけないだろ阿呆が」


小馬鹿にした目つきにノエルは状況を忘れ激高した。

「構えろ!あんたが殴らなくても、そのスカした顔をあたしはぶん殴るから!」

頭に血が上ったノエルが手を振り上げた瞬間、椅子を蹴り上げる音がした。

ノエルが振り向くと、仲間をやられた三人が顔を真っ赤にしていきり立っていた。

「このガキ、やりすぎだろうが!」

「四人がかりの先輩様に言われたくねえ台詞だな」

ジャスに突き飛ばされたノエルが目にしたのは、他の男たちがジャスに一斉に襲い掛かる光景だった。


いち早く顔面を襲ってきた拳を余裕で交わし、涼しい顔で左の膝を男の鳩尾に叩き込む。

倒れこむ男のシャツと襟首を掴み、何をするかと思えば、突進してくる男を目掛けてまたしてもジャスは放り投げた。


まともに正面衝突した二人が悲鳴を上げながら食堂のテーブルと椅子をなぎ倒していく。

場は完全に騒然となってしまった。

もう滅茶苦茶である。

ライムは目まぐるしく変化するこの状況をうまく処理できないようで、立ちながら固まってしまっていた。


ジャスはあっという間に三人を無力化してみせた。

非効率的な動きが一切ない。

自分が立っている場所から一歩も動かず、必要最低限の労力だけで自分よりも大きい男子生徒たちを地に這わせている。

ノエルの本分は剣術だが格闘術も素人ではない。

田舎の道場では三段を授与されており、こちらの大会でも上位入賞の常連だった。


だからジャスの動きには正直言って驚かされた。

実際のところ悪感情を抜きにして素直に見惚れるものがあったし、認めたくないが、心情的には先ほどの瞬間をもう一度巻き戻して見直してみたいと感じたくらいだ。

動きの繋ぎ目をここまで意識させないヤツに出会ったことはない。

それはノエルが目指す理想型の一つだった。

ましてそれを目の前で見ることができるとは。


「て、感心してる場合じゃないってば!」

思わず漏れてしまった言葉の意味に内心舌打ちする。

ノエルはジャスと残った最後の一人の前に強引に身体を割り込ませた。

「あんた、やりすぎだって!ストップストップ!」

「どけ。あと一人で終わるからちょっと待ってろ」

それは、ちょっと買い物でも行ってくるくらいの軽い調子で。


ノエルは危うく分かったと言いそうになる。

依然としてライムは固まったままだ。

頼れるのはもはや自分しかいないらしい。

「いや、そうじゃなくて!もういいじゃんか。この人、もう完全に」

びびってる。

腰が引けた最後の一人から戦意は伺えない。

一瞬の内に終わった鮮やかなジャスの瞬殺劇に反撃はおろか口さえもまともに動かなくなったようだ。


ジャス一人に対し、男は四人だった。

ところが何も出来ずにこの有様だ。

ノエルですら驚愕なのだから、張本人である最後の一人など今のこの状況を受け入れられないはずだ。

当初の威勢は打ち砕かれ、突き付けられたその圧倒的な実力差に引きつった顔が痛々しい。

「それは無理だ」

逃げ出したいだろうがジャスがそれを許そうとしない。

もはや蛇に睨まれた蛙も同然だった。


ジャスがそう言い捨てるやいなや、ノエルは自分の頬のすぐ横を何かが走り抜けたのを感じた。

遅れて風が頬を撫でる。

「あ、あんたねえ」

鞭のように勢いよく放たれた拳が男の顔面を穿ったのだ。

成す術もなくまともに食らった男の体が背後に大きく飛ばれていく。

もはや何度目かの派手な破砕音を出しながら。


倒れたテーブルや椅子に割れた食器類。無数に散らばる破片。

まるで嵐が過ぎ去った跡だ。

休日の静かだった食堂は今や見る影もない。

ノエルの顔がひくつく。

「…あのさ、正気なら普通ここまでやんないよね」

「手加減してどうする。やるなら最後までやるんだよ」


こいつ。

これだけのことをしでかした張本人のくせに、あまりに平然としすぎた態度はどうかしてる。

両者の間で何らかの話し合いが決裂した瞬間をノエルはしっかりと目撃した。

そして男たちはジャスを取り囲み、言葉ではなく腕力に訴えようとした。

だからこの結果は自業自得なのかもしれない。


しかしだからといって、ここまで徹底的にやることはなかった。

「こんだけぐちゃぐちゃにして、あんたにはブレーキってもんがないのか!」

「じゃあ聞くが、どうしていれば良かったんだ?」

「んなこと知るか、そんなの自分で考えなさいよ!」

「なら、これが俺の解答だ。俺はこうしたほうがいいと思ったからそうしただけだ」

「やりすぎだっつってんのよ!」


ノエルの怒りをジャスは受け流す。

「声のでけえ女だな。手加減が必要なら他を当たれ」

一切悪びれる素振りも見せない男にノエルの拳がわなわなと震える。

自分ばかりが熱くなるだけであまりに滑稽だった。

このまま噛み合わない会話を続けても無駄すぎる。

頭に血が上り過ぎて本気で今すぐ飛び掛かってしまいそうだった。

その横っ面に強烈な張り手をお見舞いしたい。

ノエルは自分から手を上げることはしないが、今ならそれも許されると思った。



「あっそ、じゃああたしにも手加減しないんだよね?」

ノエルは腰を落とし両腕を胸の前で構える。

ジャスが一瞬怪訝な顔つきになったと同時に、ノエルは床を蹴った。

「なんのつもりだ?」

「手加減しなくても、あんたは女は殴んないんでしょ。でもあたしは殴るし。我慢できないんで!」


ジャスに何度も拳を打ち込む。

例え交わされようともノエルは気にしなかった。

ただ怒りに任せているわけではない。

それでもジャスは余裕の表情でノエルの拳をいなしていく。

体捌きが上手すぎるのだ。

掠りもしないのが非常に腹が立つ。

おちょくられているような気がした。


「この、逃げるな!」

距離を詰めたノエルはジャスの胸元をがっちりと掴んだ。

そのままジャスを背中に抱え込み、滑車の要領でぶん投げる。

イメージとしては信じられない表情で宙を舞い慌てふためくジャスをこの目で拝める、はずだった。


ノエルは武道の経験者だ。

地元ではたくさんの男たちを相手に互角以上の戦績を上げてきた。

打撃も投げも大人相手でさえ十分通用するレベルなのだ。

しかし、信じられない顔をしているのはジャスではなく、まさかの自分である。

ほとんど動いていない。

全身全霊の力を使っているのにも関わらず、だ。

せいぜいジャスの踵が微かに上がった程度なのはかなりショックだった。


「やめとけ。無駄だ。せっかく掴ませてやったが、お前にゃ無理だ」

バカな者を見るような寒い目つきがノエルを射抜く。

やけにすんなり懐に入り込めたと思ったら、どうやら手を抜いていたらしい。

まさしくこれも手加減だ。

手加減しないとか、いけしゃあしゃあと抜かしていたくせに。

全然通用しないこと以上に密かに手を抜かれていた事実に頭の中が沸騰した。

「くそ!」

ノエルは目を見開き頭を大きく振りかぶった。



その時ライムの目にはノエルが何をしようとしているのか想像できなかった。

突然いきり立ち始めたノエルの声でなんとか我に返ることができたライムが目の当たりにしたのは、浅黒い肌を持つ男に先ほどまで自分と親しげにお喋りをしていた後輩が血相を変えて殴りかかっている光景だった。

これにはかなり肝を冷やした。

しかし、それ以上に肝を冷やす出来事がたった今目の前で起きた。


ジャスが激しくのけぞる。

「ぐッ」

額を押さえたジャスはノエルを振り払い大きく距離を取った。

「…女がヘッドバットするか、普通っ」

少しは利いたらしい。

これまで涼しい顔をしていたジャスが始めて顔をしかめた。

それに対する嬉しさを素直に祝いたいところだが、如何せん自分がしたことに対する反動でそれどころではない。

ノエルは赤くなってしまったおでこを両手で押さえながら数歩よろめいた。

自分でやっておいて何だが脳震盪になりそうだ。


「ったー!!この石頭!」

「…お前にだけは言われたくねえよ」

ジャスの憎まれ口もどこか痛々しさを感じる程度のことはできたらしい。

ノエルの奥の手の一つ、頭突きである。

近年稀に見るほどに綺麗に決まった。


ただいつもなら大抵この一発で相手を沈黙させられるのだが、あいにく相手のジャスはそうはいかなかった。

「でも一発あてた!」

誇るが涙目のノエルである。

「調子に乗るなよ。俺が女を」

「いいからかかってこい!」

「この女ッ」

俄然気勢を上げるノエルにジャスが苦虫を噛み潰したような表情で吐き捨てる。


騒然とした食堂の中、入り口付近に避難した生徒たちはみな不安な表情を浮かべ、こちらの様子を見つめていた。

普段の食堂であれば、混乱はこんなものでは済まなかっただろう。

今が休日の午前中だったのは不幸中の幸いだった。

最初はジャスと男子生徒のトラブルだったのに、いつの間にか自分とのトラブルに置き換わってしまっている。


当事者のノエルでさえ何故こうなったのかよく分からなくなってきているのだから、関係ない弾三者達にとってこの状況の原因は理解不能に近いだろう。

ただここに来てノエルは少々心配になってきた。

男同士の揉め事に首を突っ込む女、という評判がおかしな方向に作用しなければいいが。

入学初日に悪目立ちしてしまった後だけに。


突然背後でテーブルや椅子などの残骸が崩れる音がした。

「ジャスてめえ…」

それは一番最初にやられた男子生徒だった。

息も絶え絶えにジャスを見上げる視線は弱弱しい。

身体を起こすことすら叶わないようで、ぎらつく視線を必死に搾り出してはいるものの、ジャスへの恐怖を隠せないようだった。


「手加減はしないが、倒れているやつをやる趣味はねえ。だが、やられ足りないならさっさと立ち上がれよ。再起不能がお望みならな」

「いや、あんたもう寝てていいよ!もういいから!」

ノエルの剣幕は必死だ。

立ち上がれば、次こそ完全に病院直行だろう。

短時間だが一つ分かったことがある。

このジャスという男の性格についてだ。


言葉通りのことを実行することに躊躇いがないばかりか結果にも責任を負っていない。

だがこのまま寝てれば手は出さないという彼の言葉をノエルは直感的に信じることができた。

ぶっきらぼうで、無愛想で、粗雑で偉そうな乱暴者なジャスの中には何やら厳格な線引きが色々とあるらしい。


ジャスが面白くなさそうな表情で口走る。

「一発で終わりか、だらしのねえ先輩だ」

「あおんな!」

そんなノエルの考えなど知ってかしらずか、顔中を恥辱と苦悶に歪める男をジャスは指で挑発している。

こういうヒールな仕草がここまで様になっている人間をノエルは一人しか知らない。

記憶に上るその人物も何というか、ほぼこんな感じだ。


「そこまでだ!」

突如として降り注いだ横殴りするかのような轟音はノエルの思考を強引に静止させた。

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