第2話 狸の内緒話

  狭間の弁当屋を、自分の恩人でもある女性の孫が正式に引き継いでから、もうすぐ一度目の年越しだ。

 自宅アパートの台所で米を研ぎながら、森尾さんは考えを巡らせていた。

 休日である今日は孫娘達が遊びに来る予定で、背後の茶の間では、エプロンを掛けた大きな狸が鼻歌を口ずさみながら、二足歩行で掃除機を掛けている。曾孫と遊ぶのを楽しみにしている森尾さんの夫である。

 夫婦二人以外は誰も居ない部屋の中では、彼女らは本来の姿をとっていた。だから今は、台所の森尾さんもいつもの丸い シルエットに、毛むくじゃらの狸姿だ。狸姿の森尾さんは、気弱な夫に話をしてしまおうと、意を決して後ろを振り返った。


「…………ねえ、あんた。実はさ、梅園さまが、くるみお嬢さんの前に現れたんだ」


 森尾さんよりもほっそりとした狸である彼女の夫は、がたんと掃除機のパイプを取り落とした。


「な、なんだって。だって、梅園さまと初代さまのお約束の日は、来年の冬のはずだろう」


 毛を逆立てた夫の細い足が、今にも崩れ落ちそうに震えだす。

 狭間の弁当屋を始めた人間の女と、梅園神社の神はちょっとした成り行きで、重大な契約を結んでいる。

 それは、美味しい飯を作る孫娘を贄として嫁に貰い受ける代わり、人間を食べるのを止め、狭間の弁当屋を守る。そういう取り決めだ。それは夫婦には忘れたくても忘れられない事実だった。


「来年って言ったって、もうすぐ年明けだし、もう店に来ちまったんだよ。考えてみたらあの方がそう長く待てるわけがなかったんだ」


 よろよろと歩いて来た夫を、腹で受け止めてやった森尾さんは、彼の肩を揺さぶった。


「ねえ、あんた。元々私達は梅園さまの御使いなんだ。忘れちゃいないよね?」


 見つめ合っていた夫の、黒飴のような丸い目から涙が溢れる。

 元々、森尾さん達、化け狸夫婦は、梅園の神の使役で、そして梅園の神は、二匹にとって最も恐ろしい相手だ。


「そんな…………くるみお嬢さん、なんて可哀想なんだ! まだ子供みたいなもんで、料理の腕だって半人前で、それでも気丈に頑張って一人で店を開けてるっていうのに…………食われちまうなんて!」


 泣き伏せた夫の頭を、森尾さんが乾いた肉球でばしばし叩く。


「だから! そこをなんとか! 私達が守って差し上げようって相談をしているんじゃないか!」


 叩かれて頭をがくがくさせる夫は馬鹿馬鹿と言った。


「無茶苦茶言うな! 相手は人喰い梅の神だぞ! 下手すりゃ俺達みーんな鍋にされて食われちまう!」


 夫の言う通りだった。森尾さん夫婦は項垂れた。


「…………だけどさ、初代さまの恩情を、あんただって忘れちゃいないだろう」


 夫の白髪の混じった黒い前足に、森尾さんは似たような前足を置いた。


「失敗続きで、始末されかかっていた私達を、あの方は店の見張りとしておいてくれって梅園さまに頼んで下さって」


 森尾さんの前足を、夫が握り返す。


「それだけじゃなく、俺達の子供らの世話までしてくれて、おまけにお前には一から仕事を教えて可愛がってくれた」

「くるみお嬢さんだってだ。あんな事になったのに、私達のことを責めたりもしないし、私達のこと、まるで家族みたいに慕ってくれる」


 ついに抱き合って泣き出した二匹は、固く誓いあった。


「守ろう! くるみお嬢さんを! なんとしても!」

「そうだよお守りしよう! それに、くるみお嬢さんの作る料理さえ美味ければ、梅園さまはお嬢さんを食べないはずだ!」


 夫婦狸は頷き合うと、二人の役割についての相談を始めた。

 けっきょく、森尾さんはパートとして、くるみが作る弁当の味見をし、アドバイスをし、夫は家族を守り、弁当屋がどうしても人手不足のときは店に出るという、今までと何ら変わらない役割になったのだが。

 二匹は真剣だった。

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