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  • 僅か8か月後にリスクを冒してでも東北に行く、というのは……極端ですね。
    何があったのか、あるいはどうしても会いたい人がいたのか。
    あるいは、会津(福島)があるから、後のことを考えるとみておきたいと思ったのか。
    この先の書簡が楽しみです(w

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    本当に極端ですよね。
    5月には「二、三年江戸でじっくり勉強したい」と言っている人が、年末には藩の手続きが間に合わなくても東北へ行ってしまう。

    私も、そこまでして東北へ行きたくなった理由として、「どうしても会いたい人物がいたのだろうか?」というのは気になっています。

    それとも特定の誰かというより、東北の海防や軍備、各藩の様子を自分の目で見たいという気持ちがどんどん強くなっていったのか。
    会津を含め、実際に各地を見て回っていますし、そのあたりの動機がこれからの書簡に現れてくるのか楽しみです。

    そして書簡だけで分からなくても、松陰先生には『東北遊日記』という、そのものズバリの旅の記録も残っています。
    今までの『東遊日記』と同じように、書簡では省略されている「その日に何を見て、誰に会って、何を考えたのか」が日記には残っているかもしれません。

    書簡を年代順に追って、それでも「なぜ?」が残ったところを日記で横から覗いてみるのも面白そうです。

    今はまだ真面目な江戸留学生なので、ここから「手続きより今行く!」となるまでに何が起こるのか、私もかなり気になってきました(笑)

  • 確かに今のところは優等生と言いますか。普通にやっていますね。
    これが後の脱藩上等になっていく過程に何があったのか、きっかけみたいなものがあったのでしょうか?

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    本当に今のところは、かなり真面目な優等生なんですよね。
    藩の許可を受けて江戸へ来て、倹約して、先生について学んで、自分でも勉強会を始めて、「できれば二、三年ここで学びたい」と考えている。

    それが年末には、過書を待たずに東北へ出て、結果として脱藩扱いになるところまで行くので、この数か月の間に何が変わったのかは私もとても気になっています。

    何か一つの大きな事件があって突然変わったのか、それとも宮部鼎蔵たちとの交流や江戸で得た知識、もっと各地を自分の目で見たいという気持ちが少しずつ積み重なって、「藩の手続きより今動くことのほうが大事だ」という方向へ傾いていったのか。

    このあたりが書簡を年代順に読んでいく中で見えてきたら、とても面白いと思っています。

    後世の「脱藩も辞さない吉田松陰」を先に知っているだけに、今の「制度の中で真面目に学ぼうとしている松陰先生」との距離がかなりありますね。
    その間を埋めるものが何なのか、私も楽しみに追っていきたいです。

  • タンパク質と食物繊維が足りてない……と思っちゃいました(笑)

    しかし、松陰の学んでいることを見ると、現代の学生は恵まれていると思えてしまいました。
    やってることがホントに講義とゼミ。
    彼がわざわざ江戸まで来て学んでいることが、どこの大学でも容易にできる。
    何なら高校でもできる。
    あるいは松陰が今の大学見たら、天国だと思うのかも(笑)
    あ、馬術は無理ですが(w

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    やっぱりタンパク質と食物繊維、足りなさそうですよね(笑)
    飯に金山寺味噌と梅干し、たまに魚……と考えると、現代の感覚では「もう少しちゃんと食べて!」と言いたくなります。

    そして現代の学生は恵まれているというのも、本当になるほどと思いました。
    松陰先生がわざわざ萩から江戸まで出て、先生を探して入門し、決まった日に『易経』『論語』『書経』の講義や討論へ通っていることを考えると、今なら大学の時間割を組むだけで、かなり近い学び方ができてしまいますね。

    松陰先生が現代の大学へ来たら、確かに「ここは天国か」と思うかもしれません(笑)

    ただし、この時点の「書生三昧」はまだ序の口です。
    この先の日付の書簡を見ていると、松陰先生、さらに講義や勉強会を増やしていって、だんだん「それ履修しすぎでは……?」という状態になっていきますので、そのあたりもお楽しみに(笑)

    馬術については、私は以前、獣医大学の馬術部の練習を見学したことがあります。
    現代でも馬術が身近にある場所はありますが、さすがに普通の大学生活の中で「空き時間に馬場へ行って乗馬の稽古」という環境はなかなかないですね。

    そう考えると、江戸遊学の松陰先生は、座学だけでなく身体の鍛錬まで全部ひっくるめて履修していた学生だったのだなと思います。


  • 編集済

    個人的にはAIの解釈に異を唱えるっ。
    何のかんの言いながら肉を与えてる松陰は文句を言いながらも猫が可愛いと思ってた可能性がある気がします(w

    気になったので江戸時代の猫に対する扱い見てみると、幕末頃だとペットとしての文化が強い上に、『ネズミ駆除をしてくれる猫』は非常に高値だった記録もあるようで。
    つまり猫にも違いがあるのを松陰が知らなかったはずはなく。
    それなのに『小狸奴』、つまり子猫を迎え入れたのは、可愛さにやられたのでは……(w
    「ほら、ネズミ捕れっ、この。……肉が食べたい? 仕方ないな……」
    とか言いながら詠んだとか……ダメですか(w

    『吉田松陰、子猫を衝動買いした疑惑』を提唱します(w

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    いつも近況ノートの猫の写真に癒されています!
    今回そもそも「松陰先生は猫好きだったのかな?」と気になったのも、猫の写真を拝見したのがきっかけでした(笑)

    そして「吉田松陰、子猫を衝動買いした疑惑」、これはかなり魅力的な説ですね(笑)

    松陰先生が本当に鼠退治だけを目的にしていたなら、最初から実績のありそうな猫を選んでもよさそうなんですよね。

    それなのに「小狸奴」。

    もちろん「小」が本当に子猫を意味するのかは慎重に考えたいところですが、和泉様の

    「ほら、ネズミ捕れっ、この。……肉が食べたい? 仕方ないな……」

    を読んだら、もうその光景が頭から離れなくなりました(笑)

    しかも「徒だ鮮腴を貪るを知るのみ」と文句を言いながら、実際には猫がうまいものを食べているわけで……。
    松陰先生、口では「お前は何のためにいるんだ」と怒りながら、案外かわいがっていた可能性も否定できない気がしてきました。

    AIの「実用動物として買った」という解釈と、和泉様の「可愛さに負けて子猫を迎えた」という解釈、両方を頭に置いて読むと、この詩が急にかわいく見えてきます。

    「吉田松陰、子猫を衝動買いした疑惑」なかなか侮れない説です(笑)

  • これは中々微笑ましいというか何というか。

    うまい肉を食べることだけは知っていると嘆いている以上、最初にうまい肉を与えた者がいたわけで、松陰先生が働かせる前に肉を与えて失敗してしまった可能性もありそうですね(^^;)

    あるいはネコを思い通りに働かせる者こそ、真に徳と知をもった人物であるのかも……( ̄▽ ̄;)?

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    「最初にうまい肉を与えた者がいた」という見方、なるほどと思いました(笑)
    確かに松陰先生が「働け!」と怒る前に、誰かが先に待遇だけ良くしてしまった可能性もありますね。

    そして最後の、
    「ネコを思い通りに働かせる者こそ、真に徳と知をもった人物」
    というところに感心しました。

    人間相手なら、相手の資質を見て、やる気を引き出して、長所を伸ばすというのが教育者としての腕なのでしょうが、猫相手にはそれが通じない(笑)


    「役に立たない」と叱るより、どうしたらその気になって働いてくれるかを考えるほうが、確かに人使いの上手さなんですよね。
    猫の詩から、まさか教育論や人材活用の話まで広がるとは思いませんでした。

  • 行程表がきっちり決まってたということですが……。
    当時の道路事情などからすると、おそらく雨などで普通に予定が狂うことはあったはずで……そのあたりどうしていたんだろう、と思います。
    あるいはそういうトラブルがあるたびに修正して共有してたとか?
    そういう高度な情報共有を行っていたとすれば、やはり侮れないなぁ、とは思えますね。
    手紙が追い付く、というのもそれですし。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    そこは私も気になりました。
    これだけ長い旅ですし、雨や川止め、体調不良などで予定がずれることは当然あったはずですよね。

    それでも3月18日に萩を出た手紙が、移動中の松陰を追いかけて4月5日に三島で届いているのを見ると、当時の郵便事情というか、手紙を届けるための情報網はかなり整っていたのだと実感します。

    単に「江戸方面へ送れば届く」という話ではなく、「今この人はどこを通っているのか」「次はどこへ行くのか」をある程度把握して、必要なら送り先を修正しながらつないでいったのかもしれませんね。

    現代のような即時連絡はできなくても、その代わりに宿場や藩邸、人づての連絡網がかなり機能していたのだとすると、本当に侮れません。

    松陰の書簡を読んでいると、本人の思想だけでなく、こういう江戸時代の通信インフラまで少しずつ見えてくるのが面白いです。

  • 何日にそこ、翌日はここと慌ただしいというのは、インスタ写真撮るための日程組んで慌ただしく移動しているらしい現代とも相通じるものがあるような気もしますね(^^;)

    基本的には武士は公務員みたいなものという印象ですが、やはり色々慌ただしいというのはそこかしこに見受けられますね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    「インスタ写真を撮るために予定を詰め込んで慌ただしく移動する現代人」というたとえ、なるほどと思いました(笑)
    松陰の場合は写真ではなく、古戦場や城下町を見て「何か詩や文章に残さなければ」と思っていたのかもしれませんね。
    今回も「これだけ色々見たのに、ほとんど感慨を作品にできなかった」と反省しているので、現代なら「せっかく旅行したのに全然投稿できなかった」みたいな感覚が少し近いのかな、と想像しました。

    それから「武士は公務員みたいなもの」という見方も、確かに分かりやすいですね。
    書簡を読んでいると、「武士の日常業務」という面が思った以上によく見えてきます。

    江戸に着いてすぐ勉強三昧かと思えば、住居も決まらず忙しそうです。
    理想の遊学生活に入る前に、まず慌ただしい現実が待っていたのかもしれませんね(笑)

  • 仕事柄、お客さんからお酒などもらったりすることもありますが「そのまま金で欲しい」なんて罰当たりなことを思ったり思わなかったりしています( ̄▽ ̄;)

    参勤交代も現代の旅行風に考えるとすぐに終わりそうなものですが、数百人数千人単位で移動するので、予期せぬ事態とかも起き得るものではありますね。

    福島か栃木あたりには、伊達藩の参勤交代の旅費が予算に欠かせないなんてところもあったようですし、遠いところは大変ですが途中のところは「何かアクシデント起きて連泊してもいいよ」みたいなことを思っていたりしたのかもしれませんね(^^;)

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    お客さんからお酒をいただくことがあるお仕事……いったいどんなお仕事なのだろう、と少し気になりましたが、そこは想像するだけにしておきます(笑)

    でも確かに、ありがたい贈り物でも、実用性だけ考えると「現金だったらもっと便利なのに」と思うことはありますよね(^^;)
    松陰先生の場合は、酒そのものより「殿様から賜った」という名誉のほうが価値だったのでしょうが、現代人の感覚ではつい換金性を考えてしまいます(笑)

    参勤交代についても、伊達藩のような大人数の移動が地域経済に与える影響まで考えると面白いですね。
    大名側には巨大な出費でも、街道沿いの宿場や地域にとっては大口のお客さんでもあるわけで、「今日はもう一泊してくれても……」と思う側がいたとしても不思議ではなさそうです。

    長州藩の書簡を読んでいると、どうしても長州側の事情ばかり見てしまうので、他藩や街道沿いの地域から見た参勤交代のお話もとても興味深いです!

  • 岡崎まで来れたということは……もうすぐ富士山が見えてそして箱根山+相模の丘陵地帯という坂地獄(笑)
    まあ手紙に書いているかは分かりませんが……箱根はありそう(w

    どうしても松陰のイメージって『先生』的なものになりますが、この手紙で『殿様からお酒もらえた~♪』というテンションを見るとまだこの頃は若いんだなぁ、とも思いました(w

    作者からの返信

    レビュー&コメント本当にありがとうございます!

    岡崎まで来ると、いよいよ富士山や和泉様のお膝元が近づいてきますね(笑)
    箱根や相模の坂道を松陰がどう通ったのか、私も書簡に何か残っていないか楽しみにしていたのですが、残念ながら全集の書簡では次の手紙の時点でもう江戸に到着しているようです。

    ただ、松陰は書簡以外にも旅の記録を残しているので、そちらを探せば箱根や神奈川を通った時の様子が見つかるかもしれません。

    そして「殿様からお酒もらえた~♪」は、私もまさにそんな印象でした(笑)
    後世の「松陰先生」という完成されたイメージで見ると意外ですが、この時はまだ22歳なんですよね。

    しかも「ありがたいことでした」と報告するだけではなく、その時の呼出状まで兄に送って「これ見て!」とやっているところが、なんとも若者らしくて微笑ましいです。
    こういう人間味が見えてくるのも、書簡を年代順に読んでいて面白いところだなと思います。

  • 楠木正成自身のエピソードが気になりました。
    墓がなぜこんな場所に、と思ったら正成最期の戦地がここなんですね。
    鎌倉時代末期の武将として、用兵に優れた人物であるくらいしか知らなかったのですが、江戸時代に水戸光圀によってこういう形で見直されていたんですね。
    しかも江戸幕府の下で忠義の士として見直されているのは面白い。
    それがのちの尊王の考え方に繋がるのは皮肉というしかないですが。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    そうなんです。私も今回調べていて、「江戸幕府の体制の中で、水戸光圀が忠臣として顕彰した楠木正成が、後には尊王思想の象徴になっていく」という流れがとても面白いと思いました。
    幕府側・尊王側と単純に分けられないところが、幕末思想のややこしさでもあり面白さでもありますね。

    一方で、私はまだ「なぜ江戸後期から幕末にかけて、楠公崇敬がここまで大きな熱を持ったのか」という感覚が、今ひとつ掴み切れていません。
    忠義の模範として評価されたことは分かるのですが、墓を訪ね、拓本を座右に置き、自分の生き方の規範にするほどの盛り上がりとなると、当時の人たちが何をそこに求めていたのか、もう少し時代の流れを追ってみたいところです。

    松陰先生についても、兵学者として楠木正成の用兵に惹かれた部分と、「忠臣」としての生き方に惹かれた部分がどう重なっていくのか、興味深いです。

  • 最初に思ったこと。
    追伸のが本文より長いのでは……(笑)

    米の価格は現代とは意味が違いますしね。
    解説にあるようにそもそも財政にも庶民の生活にも直結することですし。

    それにしても参勤交代のって、少なくともこの時期は一緒に行ってると言っても結構ばらけるわけですね。
    そして参勤交代が地方の大名にとって負担というのがよくわかる……。
    萩⇒伏見で半月近く。
    この間の旅費を考えると……うっひゃあ(w

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    私も判読しながら「追伸のほうが長いのでは……?」と思っていました(笑)
    本文で「その他はまた後便にて」と一度きれいに締めているのに、その後から殿様の病気、楠公の墓、別紙の詩、大番の話と次々に出てくるんですよね。

    この「いったん締めた後に、思い出したことをどんどん足していく」感じが、この頃の手紙では普通の形式だったのか、それとも松陰先生自身の癖なのか、私も気になっています。
    今後の書簡でも追伸の長さをちょっと意識して見てみようと思います(笑)

    参勤交代も、行列が一枚岩になってずっと同じ速度で動くものではなく、松陰たちのような別動組が先行していたりするのが、書簡を読むと具体的に見えて面白いですね。
    そして萩から伏見まででもこの日数と人数ですから、宿泊や食事、人足などを考えると、本当に巨大な出費だったのだろうなと思います。

  • 実のところ倒幕の要因には黒船とか雄藩の躍進よりも、安政の大地震の負担が大きかったというような話もありますからね。庶民は生活が何より大事というのは今も昔も変わらないでしょうし。

    なので日常の米価とかそういうものにも目を光らせていたのかもしれませんね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    安政の大地震の負担が倒幕の背景の一つになった、というお話は興味深いです。
    黒船や尊王攘夷などを追っていると、どうしても政治思想や外交の大事件に目が行きますが、実際に暮らしている人にとっては、米価や物価、災害の被害といった日々の生活のほうが直接切実ですよね。

    そう考えると、松陰が旅先で「米価が下がっているらしい」とわざわざ家族への手紙に書いているのも、単なる雑談ではなく、社会の状態を見るための重要な情報だったのかもしれません。

    安政の大地震については、幕末政治とのつながりを意識して見たことがあまりなかったので、これは気になります!

  • 靴擦れは痛いですからねぇ(^^;)
    靴擦れしないというだけで毎回アディダスの同じサイズ買っています。

    そして、旅の極意はなるほどという感じですが、
    「草履最高」
    歩き回って痛めた。

    となると、「子供か」というツッコミをしたくなります( ̄▽ ̄;)

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    私も靴は結局、履き心地が合うものを選びがちです。
    少しでも足に合わないと長く歩いた時の疲れ方が全然違いますよね。

    そして今回の
    「草鞋最高!」からの「足が痛いので休みます」
    の流れは、たしかに「子供か」と言いたくなります(笑)

    でも、こういうところを読むと、後世の「吉田松陰」という大きな名前ではなく、22歳で旅に出て、道を間違えたり、草鞋を褒めたり、足を痛めて休んだりする一人の若者が見えてきて、書簡を読んでいて良かったなと思います。

    思想や行動だけでなく、こういう人間味が残っているのが書簡の面白さですね。

  • 江戸時代の旅事情が垣間見えるのがいいですね(w
    現代の靴がどれほど耐久性と履き心地がいいかが改めて分かる……。
    あと道もいいですしね、今の方が。

    ちなみに出ていた地名である保土ヶ谷、戸塚はどちらも無茶苦茶なじみがある場所なのでちょっと笑っちゃいました(w
    ただ、多分一日で戸塚に行く人は相当旅慣れた人だけだったと思います……あそこ、手前に山越えがあるから(笑)
    (今でも箱根駅伝で話題の権太坂)

    実際、戸塚のあたりは坂地獄なので、マジで旅人泣かせです(笑)
    松陰の場合は上京するから、そうなると……遊行寺の坂が地獄★
    いや、箱根よりマシですが(笑)
    あと神奈川あたりも実はかなり山(w
    要するに神奈川県内はかなり嫌がらせのように山がたくさんあるんです(笑)

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    保土ヶ谷も戸塚も、やはり実際に馴染みのある方から見ると「そこを一日で歩くの?」という感覚になるんですね(笑)
    地図だけ見ていると距離の数字に目が行きますが、権太坂や遊行寺の坂まで考えると、同じ30〜40kmでも負担が全然違いそうです。

    神奈川は今の道路や鉄道の印象が強いので、江戸時代の旅人目線だと「こんなに坂だらけなのか」と驚きました。
    松陰が実際にどこでどのくらい消耗したのか、興味深いです。

    こういう現地感覚の補足、とてもありがたいです!

  • 10年くらい前に480円のサンダルを買ってしばらく歩いていたら、「これは心臓に負担かかっているなぁ」と思って捨てたことがありましたので、現代でも草履問題は馬鹿にはできません(^^;)
    軍の既製品はいいものになっている……のでしょうか。
    兵器本なんかはありますけど、軍靴の性能はあんまり聞かないかも?

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    480円サンダル、そこまで身体に来るとは……。足元の問題って本当に侮れないですね(^^;)

    そういえば川野様の作品でも、軍隊で靴がどれだけ重要かという話が出ていましたよね。あれを読んだ時も、武器や兵器だけでなく「兵士がちゃんと歩けること」自体が軍事力なんだな、と印象に残りました。

    今回の松陰の「足が痛くならない草鞋は軍陣の要需」という感想も、そう考えるとかなり実感のある話なんですね。

    私も実際の軍靴の性能には興味があります。耐久性や防水性だけでなく、長距離を歩いた時の疲労や靴擦れの出にくさ、重量なんかでかなり差が出そうですし、兵器ほど表に出ないけれど重要な装備なのかもしれません。

    軍靴だけを比較した本、あったら面白いですね(笑)

  • この時代、長州から江戸まで何日かかるんだろう……というのが先に気になりました(w
    そして非常に長いがゆえに、手紙で道中でも連絡するのは……現代だとSNSで『〇〇なう』とか画像付きでやるのに感覚は近いのかもですね。
    そう考えると草履のエピソードも現代風に解釈すると面白そう(笑)

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    長州から江戸まで、実際にどのくらいかかったのか調べてみると、松陰は3月5日に萩を出発して、江戸に到着したのが4月9日なので、なんと35日間の旅でした。
    途中に船を使う区間もありますが、基本はひたすら街道を進んでいくわけで、これは確かに道中から「三田尻まで無事に来ました」と一報を入れたくなりますね(笑)

    そう考えると「〇〇なう」はかなり近い気がします。
    今回なら、
    「三田尻なう。無事です。あとこの草鞋めちゃくちゃ良い。足痛くならない。軍用にもいける」
    でしょうか(笑)

    そして、ちょうど次の書簡の解説で草鞋が出てきます。
    次回は松陰が江戸までの旅で草鞋をどう用意していたのか、当時の旅では草鞋をどのくらいで履き替えたのかなども少し調べて解説しています。

    現代だと旅先から靴の写真を添えて投稿するところを、松陰は叔父への手紙に草鞋レビューを書いていると思うと、急に身近になりますね。

  • 私はハブ機能の方に注目しました。

    こういう形でまとめ役に渡してそこから個々人に……というような形になると当時の顔役は今よりずっと強い立場だったんだろうなと思えてきます。
    こういう中から色々な組織なりヤクザ団体なりも出来ていったんだろうなぁと。

    現代は携帯電話やネット環境がありますが、一方で郵便はどんどん衰退にあるわけで何十年か後には田舎は顔役とか会社にまとめて郵送して直接渡してもらうなんて制度が復活するかも、とか思いました。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    「手紙のハブ」ということは、単に親切に転送してくれる人というだけでなく、「誰と誰をつなぐか」を握っている人でもあるんですね。
    そう考えると、当時の顔役の力が今よりずっと大きかったというのも納得です。人脈そのものが通信網の一部だったわけで、そこから様々な組織が形成されていくという見方も面白いです。

    そして未来の郵便のお話、これは思いつきませんでした!
    現代では個人から個人へ直接届くのが当然になっていますが、人口減少などで郵便網の維持が難しくなれば、「地域の拠点までまとめて運んで、そこから各人へ」という仕組みが合理的になる可能性はありますね。

    江戸時代の手紙を読んでいたら、何十年後かの郵便制度の話になってくるとは(笑)
    技術が進んでも、条件が変わると昔の仕組みが別の姿で復活することがあるのかもしれませんね。


  • 編集済

    どっちかっていうと移動の方に注目しました。
    長州⇒長崎熊本⇒長州と短時間に移動してますが……現代ならそりゃ電車で1日ですが、当時はほぼ徒歩。
    つまり10日とかはかかるわけで……費用とかも小さくない。
    凄いわ……(w

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    そこに注目されるとは! 言われて改めて日数を考えると、本当にすごい移動量ですね(笑)

    こちらは書簡を追うことばかり考えていて、地名をぽんぽん並べていましたが、当然その間をほぼ自分の足で移動しているんですよね。
    しかも移動するだけで何日もかかり、宿代や食費も必要で、そのうえ現地では人を訪ねて本を読み、話を聞いている。

    現代の地図感覚で読んでいると、つい地名だけがワープしてしまいますが、書簡の日付と突き合わせると「この間ずっと歩いていたのか」と見えてくるのが面白いですね。

    移動日数から読んでくださる視点、完全に盲点でした。ありがとうございます!

  • この持っていきかただと、仮にキリスト教に詳しければ「キリストなど十字架にかかったではないか!」とか言い出しそうですね(^^;)
    最後の方は実は知っていた感もしてきますが……

    アヘン戦争の情報なども知れ渡っていたでしょうから、日本にも絶対に来るという関心は持っていたのでしょうね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    確かに、キリスト教に詳しかったら絶対に持ち出しそうです(笑)
    「十字架にかかったではないか!」から、「大事を成すには命を惜しんではならぬ」方向へ行きそうなのが、後年の松陰先生を知っているとちょっと怖いところです。実は知っていたのか……。私は松陰先生の殉死・死を賭して志を示す方向には、あまり賛成できないので、この21歳の時点の「苦難に負けるな」くらいでいてほしい気もします(^^;)

    アヘン戦争についても、長崎まで来て西洋砲術を学んでいる人たちですから、「いずれ日本も」という危機感はかなりあったのでしょうね。

  • 最初は皆、批判されてきたというくだりが後々に「自分は死んでも構わんのだ」というようなところになってくるのかもしれませんね。

    話題とは直接関係ないのですが、長崎の地名に永昌とか江迎とか中国っぽい地名が結構あるのが、いかにもそういう地域と繋がりがあった場所ぽくて面白い感を受けました。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    それ、私も後の松陰を知って読むと怖いなと思いました。
    今はまだ友人に向かって「苦難があるほうが大仕事にはいいんだ!」と言っている段階ですが、後になると、その理屈を自分自身にも容赦なく適用していくんですよね。
    まだ21歳なのに!

    そして地名!
    そこに目が行くとは(笑)。
    確かに中国っぽいですね。こういう脇道も書簡を読む楽しさという気がしてきました。

  • とりあえず思うこと。
    手紙が……濃い(笑)
    まあこの辺りは、ネットで短文に慣れたからなおさら思うんですよね。
    昔は手紙一つでも決して安いものもではないから、それに十分な文章を詰めたのでしょうし。
    ただそれでもこれは……色んな意味ですごいですね。
    後半楽しみにしています(w

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    松陰先生が熱いです! 愚痴をこぼしたりすると、こんな熱血の励ましがきてしまうのかと驚きました(笑)
    後半は延々と列挙した歴史上の人物に関する話が主です。
    あと、思ったのは雨で傘を買ったけど邪魔になったとか昔からのあるあるだなと思いました。

  • 現代でも「孫子」がビジネス書などで紹介されていることもありますが、そうしたアプローチに近い感はありますね。
    とはいえ、実際のところ、それしかなかった、というのもあったかもしれませんね。
    例えば当時のヨーロッパの書籍……例えばクラウゼヴィッツの「戦争論」を当時の松陰が読むことはできないでしょうし、実際に使われている兵器などを連想しろというのも無理でしょうし。

    今更桶狭間や長篠の戦いを持ち出してどうなるとも思わなかったでしょうし、使えそうなツールがそれしかなかった、というのもあったのかも。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます! 私はクラウゼヴィッツの「戦争論」を名前しか知らなかったので、これは勉強になりました。

    AIで調べてみると、『戦争論』はまさに19世紀前半のヨーロッパで生まれた近代的な戦争理論なんですね。クラウゼヴィッツ自身はナポレオン戦争を経験し、その経験から戦争そのものを理論化しようとした人物なので、嘉永二年の松陰からすれば、そもそも手に取ることのできない本だったわけですね。

    そう考えると、今回の松陰の答案がますます面白く見えてきます。

    私たちは後世の知識を知っているので、

    「もっと近代的な兵学はなかったのか」
    「西洋の軍事理論を参考にすればいいのでは」

    と考えてしまいます。

    でも20歳の松陰の立場からすると、使える知識は限られている。

    そこで、

    田単
    張巡・許遠
    中国の兵法書
    日本の戦史
    儒学や政治思想

    といった、彼が実際に学んできたものを材料にして、「外国船が来たら、この知識をどう使えるだろう?」と考えている。

    そう考えると、今回の「整治激励」という答えも、単なる精神論というより、当時の松陰が持っていた知識の中から、必死に「使えるもの」を組み立てた結果なのかもしれません。

    そして、そこがちょっと面白いところで、松陰は「外国」という未知の相手を考えているのに、思考の材料はものすごく古いんですよね。


    桶狭間や長篠についても、単に「昔の日本でもこういう戦いがあった」というだけなら、たしかに嘉永二年の問題には直接役立ちません。

    でも、松陰にとっては「過去の戦争から、人間や組織がどう動くのかという原理を取り出す」という使い方だったのかもしれません。


    現代の私たちは、兵器や戦術の違いに目が行きますが、松陰が見ていたのはむしろ、

    「どうすれば人間は戦えるのか」
    「どうすれば組織は崩れないのか」
    「どうすれば指揮官の命令が末端まで届くのか」

    という、時代が変わっても使えそうな部分だったのかもしれません。

    そして、そう考えると「戦争論」を知らなかった私としては、逆にちょっと興味が出てきました。

    クラウゼヴィッツの『戦争論』と、松陰が読んでいた中国兵学を並べてみたら、「戦争について考える」ということが、19世紀前半の東西でどう違っていたのか、かなり面白い比較ができそうですね。

    そして、現代のビジネス書のアプローチにも「孫子」が使われたりするのですから、古くても現代に通じるものもあるかもしれませんね。

  • 実際に並べてみると相当な量になりますね。
    ひょっとしたらまだ見つかっていないものとか失われたものもあるかもしれませんし。

    最近はめっきりなくなりましたが、昔は住所録みたいなものもありましたし、プライバシーなどより届けるためのシステムが重視されていたという側面もあるのかもしれませんね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます! AIに助けてもらいながらの返信です。

    年代順に実際に並べてみると、本当にかなりの量になりますね。これだけ残っていること自体がすごいのですが、逆に考えると、まだどこかに見つかっていない書簡があったり、そもそも失われてしまったものも相当あるのかもしれません。

    特に松陰の場合、書簡の相手がかなり広いので、「誰に、いつ、どんな手紙を書いたのか」を追っていくと、まだ見えていない人間関係が出てくる可能性もありそうです。

    それと、昔の「住所録」のようなものも面白いですよね。

    現代だと住所や連絡先はかなり慎重に扱いますが、昔の人にとっては「この人に手紙を届けるために、どこに住んでいるかを知っておく」ということが、今よりずっと実用的だったのでしょうね。

    松陰の書簡を見ていても、「誰々へ送ってください」とか、「誰それのところへ届けてください」という、人から人へ手紙を渡していくネットワークがかなり見えてきます。

    そう考えると、昔の住所録や人名録みたいな資料は、単なる住所の一覧ではなくて、その時代の人間関係を復元するための「ネットワーク図」のようなものなのかもしれません。

    書簡そのものが見つからなくても、住所録や日記、書簡の控え、別の人が受け取った手紙などから、「この人と松陰はつながっていたのでは?」と分かることもありそうです。

    そう考えると、今並べている書簡一覧も、まだ完成品というより「これから空欄が埋まっていくかもしれない年表」くらいに考えておいたほうが面白そうですね。


  • 編集済

    これ、むしろ松陰がそれまでに何を勉強していたのかが透けて見えそうですね。
    信賞必罰は中国韓非子が出典ですし、兵の用い方は孫氏、呉氏、六韜三略あたりは読破してそう、と思いました。
    特に六韜三略は政治のことも書いてあるそうですし(私は読んだことないですが・汗)

    作者からの返信

    コメントありがとうございます! 私も、今回の「対策一通」を読んでいて、そこがかなり気になりました。

    考えてみると、20歳の松陰がいきなり「士気を高めるには信賞必罰が必要で、命令系統を整えなければならない」と考えたわけではないんですよね。

    その背景には、やはりそれまでに読んできた漢籍や兵学書がかなりありそうです。

    特に「信賞必罰」という考え方なら韓非子などの法家思想を連想しますし、軍隊をどう動かすかというところでは、孫子・呉子・六韜・三略など、中国の兵法書が当然候補に入ってきます。

    ただ、「松陰がこの本を何歳で読んだ」と一冊ずつ確定できる史料があるわけではないので、「読破していた」とまでは言えないのが難しいところですね。

    でも、今回の答案に出てくる発想を見ると、少なくともそうした中国の政治・兵法思想をかなり身近なものとして学んでいたことは感じます。

    そして、ここが私には面白いです。

    明倫館の問題は「外国船が来たらどうする?」という、当時としてはかなり新しい問題です。

    ところが、それを考えるために松陰が使っている頭の道具は、

    「昔の中国の名将は、なぜ兵を動かせたのか」
    「君主や将は兵士をどう扱うべきか」
    「賞罰はどうあるべきか」
    「命令系統をどう維持するか」

    という、何百年、何千年も前から蓄積されてきた兵法・政治思想なんですよね。

    つまり、

    「新しい問題を、古典から学んだ理論で考えている」

    わけです。

    これを考えると、松陰の「学問」というものも、単に昔の本を暗記することではなかったんだろうなと思います。

    古典を読む

    そこから政治や軍事の原理を学ぶ

    それを現在の長州藩に当てはめる

    「では、実際に外国船が来たらどうする?」と考える

    という使い方をしている。

    六韜三略についても、今回ちょっと気になって調べ始めたのですが、兵法だけではなく、君主と臣下、人材登用、政治のあり方などにも話が広がるので、今回の松陰の答案との相性がかなり良さそうです。

    そうなると、今度は「松陰が20歳になるまでに、いったい何を読んでいたのか」という別の問題が出てきますね。

    今回の策問をきっかけに、松陰の本棚を少し覗いてみたくなりました。

    ペリー来航の4年前なのに、松陰の頭の中では、すでに古代中国の兵法から外国船までが一本の線でつながっていたのかもしれません。

    この視点で松陰の次の書簡を読むと、また違ったものが見えてきそうです。

  • 時代背景的に、まだペリーが日本に来てない段階(外国船が日本近海に現れていた段階)で『新しい政治』の話が出てたってことが分かりますね、これ。
    萩(長州藩)でこれなら、あるいは日本全国で色々議論されていたのか、それとも長州藩が先進的だったのかはちょっとわかりませんが。

    先の通信網の返信面白かったです。
    飛脚便の存在は知ってましたが、もう一つ気になったのが費用だったんですが……納得。
    相乗りさせてもらえば安くなるでしょうね  (w

    作者からの返信

    コメントありがとうございます! ここ、私も気になったところです。

    AIの助けを借り調べてみると、「新しい政治」という発想そのものは、どうも長州だけのものではなさそうです。

    江戸時代の藩校は18世紀後半から急速に増えて、幕末には全国で200校を大きく超えるほどになっていました。もともとは藩士の子弟に儒学などを学ばせる学校ですが、藩政改革が盛んになると、「学問をさせる → 人材を育てる → 藩政に登用する」という方向が強くなっていったようです。

    嘉永2年の頃だと、水戸藩では弘道館、佐賀藩では弘道館の拡張など、長州以外でも教育と藩政改革を結びつける動きが進んでいます。

    その意味では、今回の明倫館の「策問」も、長州だけが突然始めたものというより、19世紀の諸藩に広がっていた「これからの藩をどう立て直すか、そのためにどんな人材を育てるか」という流れの中にあった、と考えたほうがよさそうですね。

    ただ、長州の場合は村田清風以来の改革と明倫館の拡充がかなり強く結びついていて、「学問のできる人を取り立てる」という雰囲気が、この手紙からもかなり伝わってきます。

    そう考えると、松陰が「あなたも策問に答えてみませんか」と友人を誘っているのも、単なる勉強会というより、「これからの藩を担う人材として見てもらえるかもしれないから、書いてみなさい」という意味合いがあったのかもしれません。

    ペリー来航の4年前ですから、まさに「黒船が来てから日本が慌て始めた」というだけではないんですよね。

    むしろ、その前から各藩で「このままで大丈夫なのか」「人材をどう育てるのか」「政治をどう立て直すのか」という議論が積み重なっていて、そこへ外国船問題が重なっていった、と考えると面白いです。

    このあたり、長州以外の藩では同じ頃に何をしていたのかを横に並べてみると、かなり面白い比較ができそうですね。

  • 全部通して最初に思ったことが『ものすごい量の手紙だなぁ』でした。
    同時にこれだけ書いて送る手段がちゃんとこの頃あるということでもあるんでしょうし、そのあたりはなんか今はイメージしづらいかも。
    今みたいに通信の秘密とかも守られるわけではないでしょうし……。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます! 私もその頃の郵便制度が凄く気になりました。返信にAIコピペは長すぎるのですが、とても面白かったし、この作品の企画にあっているので、長いけどAIの回答を掲載します。

    実際に調べてみると、「松陰はものすごい量の手紙を書いている」だけでなく、「それを運ぶ仕組みが、思っていた以上にちゃんと存在していた」というのが見えてきます。

    江戸時代の通信は、現代の「郵便局+郵便ポスト」というイメージとは全然違いますが、決して「旅人に手紙を託して、あとは運任せ」という世界ではありません。

    松陰の時代には、かなり立派な通信インフラがあった

    江戸時代には、

    幕府の継飛脚
    諸藩の大名飛脚
    民間の町飛脚・定飛脚
    知人や商人などに託す幸便

    など、複数のルートがありました。

    特に町飛脚は、武家や町人の日常的な通信を担っていて、飛脚問屋には「どこ宛てならいくら、どの宿を通る」といった料金や経路を記した帳簿までありました。つまり、かなりシステム化されています。

    しかも、幕府の公用通信になるとさらに凄い。御状箱を宿場から宿場へリレーする継飛脚という仕組みがあり、到着時刻まで記録して次の宿へ引き渡していました。

    東海道なら江戸から京都まで約492km。通常の徒歩なら2週間ほどかかるところを、飛脚は3~4日程度で届けたという説明もあります。

    だから松陰の書簡を年代順に並べていると、

    「いや、この人、いつ書いてるんだ?」

    というくらい大量に出てくるわけですが、同時に、

    「そもそも、こんなに頻繁に手紙をやり取りできる社会だったのか」

    という疑問も出てくるんですよね。

    そして「通信の秘密」は、かなり違う


    「今みたいに通信の秘密とかも守られるわけではないでしょうし……」

    という感覚が非常に鋭いです。

    現代の郵便は、基本的に「差出人→郵便事業者→宛先」という、内容を第三者から隔離することを前提にしています。

    ところが当時は、誰が誰に何を託したのか、誰を経由して運んだのかが、もっと人間関係に依存している。

    特に政治的に微妙な内容になると、これは結構怖い。

    松陰の場合、単なる私信だけではなく、政治情勢についての情報交換や意見書なども大量に書いています。実際、現存する書簡には、門下生との情報交換がかなり生々しく残っています。

    しかも面白い例として、松陰が「長州藩が江戸へ飛脚を出すので、その便に自分の書状も託す」と書いているものがあります。


    「手紙を書いた。郵便局に出した」

    ではなく、

    「長州藩の飛脚が江戸へ行く。じゃあ、その人にこれを持っていってもらおう」

    という世界です。

    さらに面白いのが「誰に届けるか」

    ここも現代人には想像しにくいところです。

    住所を書くと郵便局が自動的に届けてくれるわけではありません。

    「○○村の○○さん」
    「○○藩の○○様」
    「江戸の○○屋」
    「○○という人物のところ」

    という具合に、人間関係や商家・藩・宿などのネットワークそのものが住所の代わりになる部分が大きい。

    なので、手紙を書くことは同時に、

    「この手紙を、どの経路で、誰に託して、どこへ届けるか」

    という物流設計でもあったんだと思います。

    そして、ここからが『吉田松陰全集』の書簡リストを作っている者としては、かなり面白いところだと思います。

    「この手紙、何日に書いた?」だけではなく、「松陰はこの手紙をどうやって相手に届けたんだ?」という疑問が出てくる。

    さらに、

    松陰が萩にいる
    相手が江戸にいる
    その間を何日くらいで届いたのか
    次の返事はいつ来たのか
    その間に別の人物から情報が届いている
    その情報を受けて松陰がまた書いている

    と追っていくと、書簡そのものが幕末の情報ネットワークのログみたいに見えてくるんですよね。

    『全集』の書簡を年代順に並べる作業は、単なる年表作りのつもりでも、だんだん「幕末の通信網を可視化する作業」になってきそうです。これはかなり沼が深い……📜🕸️

    なお、国立歴史民俗博物館にも江戸時代の「飛脚便」の実物書状がまとまって残っています。現代人が想像するよりずっと「普通の通信手段」だったことが実物からも分かります。