転換期

 人生の転換期とは、本当に突然やってくるものらしい。

 その事実を僕が知ることになったのは、一年前の夏の日。

 僕が高校生になって初めての夏休みの前日だった。

 その日は、うだるような暑さだったのを今でも鮮明に覚えている――。


 ◆


 七月二十日、天気は快晴。

 空高く上がった太陽が、容赦なく地面を焦がしている。

 あまりの熱量のためか、周囲には陽炎かげろうがゆらゆらと揺らめいていた。

 あの太陽は、一体全体何と張り合っているのだろうか。

 気温は日に日に増してきていて、今月は30℃越えを何度も連発していた。

 これが童話の世界なら、激しい風が吹いてもいいはずだが、来るのは生暖かい空気の壁だけだった。

 インドア派の僕の青白い肌も、紫外線のせいで焦げ茶色に変色している。

 

 「暑い、それにしても暑い」

 

 僕は学校からの帰路につきながら、日陰を探してとぼとぼと歩いている。

 時刻は今日の気温のピークでもあるお昼過ぎ。学校は午前中だけで終わった。

 明日からは待ちに待った夏休みのため、午前中の終業式のみで解散となったのだ。

 他の学生は部活動なり友人とのカラオケなりで忙しそうだったが、僕はそんな彼らには目もくれず、一人教室から抜け出し、こうして通学路を歩いている。

 高校生になって、中学生の頃のような幼稚ないじめは鳴りを潜めた。

 これは、この学校には僕のことを知るものがいないというのも大きいと思うが、それ以上に誰も僕に興味関心が無いというのが正しいところだと思う。

 そのため、あの頃のような最悪な学校生活というものからは抜け出すことに成功していたが、僕の人生は今日に至るまで孤独であることに変わりはなかった。

 だが、それでも構わないと今でも思っている。

 なぜなら僕は、だからだ。このまま最悪な汚名を付けたまま生きるくらいなら、最悪な人生のまま最悪な最後を迎えたい。

 そうすれば、限界まで縮んだバネが解放されて、きっと来世は幸福な人生が待っている。

 これが僕の最新の死生観だった。


 しばらく歩みを進めていると、我が家の赤い屋根が見えてくる。

 エアコンの効いた部屋まであと数十メートル。そう思うと、陰鬱な僕の心にも明るい太陽が灯ってくる。

 

「疲れた……」

 

 ただ通学路を歩いているだけなのに既に疲労困憊ひろうこんぱいだ。

 単純に僕が運動不足だけという線もあるのだが、その原因のほとんどは、この暑さであることは間違いないだろう。


「あ、お兄ちゃん……」

 

 これでやっと休めるといったところで、不意に後ろから僕を呼ぶ声が聞こえた。

 毎日聞いている聞きなじみのある声。僕の2つ年下の妹の声だ。

 でも、いつもと声のトーンが違った。

 いつもなら妹はもっと元気で、憎たらしくて、僕と真逆でよく笑う子のはずだったのに。

 

「どうした……んだ」

 

 僕は胸中に不安を覚えながらも、振り向き妹の姿を確認した。

 

「………………」

 

 しばらくはあっけにとられていたと思う。

 なぜなら、彼女の顔は目立つところに青あざがあり、髪は砂まみれのボサボサ。衣服は乱れており、制服のスカートには刃物で切られたかのような跡が残っていた。

 いや、それよりももっと大きな異常があった。僕の理性は理解を拒んでいたが、脳みそは本能的に理解してしまう。

 妹の白いシャツにはべったりと赤い液体が付着している。それも数滴とかそんな次元の話ではない。

 胸から足の付け根に掛けて大量の血液が、べったりと付着していたのだ。

 何か事件に巻き込まれたのだろうか。それとも大きな事故にでもあったのだろうか。

 僕の頭の中は、パニックで様々な思考がループしていた。

 そして、考えがまとまったところで、ある1つの結論に到達する。

 妹は事件に巻き込まれたのではなく、事件を起こしてしまったのではないかと。

 

「なぁ……その血ってお前のか……?」

「違う」

「じゃあ、誰のだ?」

「………………」

 

 妹は僕の質問に首を振り、下を向いて黙ってしまう。

 これだけで、僕には察しがついてしまった。

 それも僕が想像した中でも特に最悪の結論だった。

 

「エイコちゃん……」

 

 妹はぽつりと、一言だけ言葉を発した。

 エイコちゃん――僕は顔も見たことがない子の名前だったが、妹のクラスの同級生だったことを知っている。

 なぜなら、彼女の名前は妹の口から良く発せられた名前だったからだ。

 親友かどうかはわからないが、少なくとも友達の関係だったはず。

 それなのに、妹のシャツに付いた血は、そのエイコちゃんのものだと言う。

 

「殺したのか……お前が? そのエイコちゃんのことを……」

「………………」

 

 何度目かの長い沈黙が続く。

 この間に僕たちの側を通った通行人はいなかった。これが、運が良かったのか悪かったのかと問われれば、きっと後者だろう。

 もし、誰かが通っていたならば、きっと既に110番されていたはずだ。

 そうすれば、きっとこの先僕らはこれ以上の過ちを犯すこともなかっただろう。

 

「殺した……私が、殺した。だってエイコちゃんが、すべての元凶だったから……! たくさんの男の人を使って……私に、私にあんなことを……!」

 

 妹の目からは大粒の涙が流れ、太陽光に焦がされたアスファルトの上に落ちる。落ちた雫は直ぐに蒸発し、涙の後は一切残らなかった。

 

 妹は嗚咽おえつ混じりに、僕に事の次第を話してくれた。

 そもそもの発端は、やはり数年前の父の犯罪が原因だった。僕らの父は無期懲役囚。罪状は強盗致傷だった。

 いわゆる闇バイトと呼ばれる犯罪者斡旋事業の末端兵。つまりは一番下っ端の実行犯だった。

 パチンコに行くための金が欲しい。警察から聞いた父の犯行動機は、吐き気を催すほど醜悪なものだった。

 そんな父の犯罪は、瞬く間に全国へと広がり、ニュースやSNSでは連日報道されていたという。

 当時小学生だった僕には、あまり理解できる状況ではなかったが、周囲の大人の反応が日に日に冷たくなっていくのを今でも覚えている。

 それに続けて同級生たちにも大人の思考が電波にしたように波及していき、僕の周囲はいつの間にか僕を排除しようとする勢力が多数派になってしまっていた。

 それが、僕が中学の時に抱えていたいじめ問題の原因であり、今現在新たな犯罪を生んでしまった遠因でもある。

 いじめは、僕だけが抱えていた問題と思っていたが、どうやら妹も僕と同じ問題を抱えていたらしい。

 友達がいて、家ではいつも笑顔だった妹。彼女の抱えていた闇を考えると僕の目にも熱いものがこみあげてくる。


 エイコちゃんが行ったいじめは、僕が受けてきたいじめと比べても特に酷く残虐なものだった。

 犯罪者の家族のくせに偉そうなこと言うなと、中傷を受けるかもしれないが、それでも言わなければいけないことがある。

 エイコちゃんが行ったことは紛れもない犯罪だった。まず、複数の男性を使い、妹に暴行と強姦を行った。

 男性の一人が、エイコちゃんと恋人の仲であったようであり、まず間違いなく指示役は彼女であった。

 そして、力尽きぐったりしている妹の姿を見て嘲笑していたようだ。

 想像するだけではらわたが煮えくり返ってくるほどの業腹ごうはらだ。

 その後、男性たちは先に帰り、なぜか残っていたエイコちゃんと妹は二人きりで放置された。

 

「全部、エミちゃんが悪いんだよ」

 

 エミ――僕の妹の名前だ。妹にはこの言葉の真意が分からなかったらしい。

 それでも、エイコちゃんが自分を見下し、蔑んでいるのがハッキリと分かったようだ。

 エイコちゃんは、言いたいことを言い終えると踵を返し、妹に背を向ける。

 その後ろ姿は無防備そのもので、この瞬間、妹の中の絶望が殺意に変わった。

 そこからのことは、妹もよく覚えていなかったようだ。

 気が付くと、エイコちゃんに馬なりになり、鉄製のスコップを片手に彼女の腹と首をえぐっていた。

 これが、妹が犯した事件の顛末である。


 一通り喋り終えると、妹は力尽きたように電柱にもたれかかって座り込んでしまった。

 僕は妹の話が終わるまで、一言も喋れずにいた。

 口をはさむ隙間が無かったというのもそうだが、一言でも発してしまったら喉と目の奥に設置されたダムが決壊し、感情が爆発してしまうと思ったからだ。

 僕は座り込む妹に目線を合わせて、こう問い掛けた。

 

「君は……この後どうしたい?」

 

 妹は僕の言葉を聞くと、驚いたように顔をあげた。

 どうやら、僕のこの言葉は全くの予想外だったようだ。

 数秒の逡巡しゅんじゅんの後、ためらうように、でもはっきりと僕の目を見て妹は答えた。

 

「お願い、お兄ちゃん。私と一緒に死んでほしい」

「わかった」

 

 僕は妹の肩を抱き寄せると、力いっぱいに抱きしめた。

 僕らはこれから死ぬために逃げる。

 僕たちにはこの物語を終わらせてくれる神様はいない。終わらせるには自分の手でどうにかするしかないのだ。

 まずは準備を始めよう。

 僕は妹の手を引いて、これで最後になるかもしれない玄関の扉を開けた。

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