第13話 「春日くんの目」
気づいたのは、偶然だった。
水曜日の午後、玲奈は医局のドア越しに声を聞いた。
春日の声だった。
廊下で誰かと話していた。 相手は研修医の村上らしかった。 声が弾んでいた。 玲奈が聞いたことのない声だった。
——あんな声で笑うのか。
そう思った瞬間、玲奈は自分が立ち止まっていることに気づいた。
ドアを開けずに、廊下の声を聞いていた。
——何をしているんだろう。
玲奈はドアを開けて廊下に出た。
春日と村上が振り返った。
「あ、先生」と村上が言った。 「お疲れ様です」
「お疲れ様です」と春日も言った。
いつもの春日の顔だった。
さっきまで弾んでいた声が、少し静かになった。
玲奈は「お疲れ様」と返して歩き出した。
——なぜ。
なぜ、村上と話すときと、自分と話すときで、声が違うのか。
答えはわかっていた。 上司だからだ。 怒られてきたからだ。 当たり前だ。
当たり前なのに、なぜか胸の中に小さな棘が刺さったような気がした。
翌日、玲奈は気づいてしまった。
春日はよく笑う人間だった。
一ノ瀬と話すとき、笑う。
桜田と話すとき、笑う。
村上と話すとき、笑う。
患者と話すとき、笑う。
でも玲奈と話すときは ——笑わない。
笑えないのだ。 いつも、怒られてきたのだから。
それはわかっていた。
でも今日初めて、それが玲奈の中で別の形をした。
——私は、あの人を怖がらせている。
午後のオペ。
今日も春日が器械出しだった。
メスを走らせながら、玲奈はふと春日の目を見た。
術野を見ている目だった。
集中した、静かな目だった。
その目が、ほんの一瞬、玲奈の手元を見た。
確認するように。
守るように。
玲奈は術野に視線を戻した。
でも、その目が頭から離れなかった。
廊下で村上と笑う目とは、 違った。
一ノ瀬と話す目とも、違った。
手術室で玲奈を見る春日の目は——
玲奈は息を整えた。
——考えるな。今は集中しろ。
オペが終わった後、玲奈は片付けをしている春日に声をかけた。
「春日くん」
「はい」
春日が振り返った。
玲奈は春日の目を、真正面から見た。
いつもは視線を逸らす。でも今日は逸らさなかった。
春日の目が、少し揺れた。
「……先生?」
「私が怖いですか」
春日は一秒、間を置いた。
「怖いです」
「そう」
「でも」
春日は続けた。
「怖くなくなってきました、最近」
玲奈は何も言えなかった。
春日はまた器具に視線を戻した。
何気ない顔だった。
でもその横顔が、ほんの少しだけ、笑っているように見えた。
帰り道、玲奈は一人で病院の駐車場を歩いた。
夜風が冷たかった。
怖くなくなってきた、と春日は言った。
その言葉が、棘のように刺さっていた。
でも今度の棘は、痛くなかった。
——怖くなくなってきた。
それはつまり、距離が縮まったということだ。
自分が、距離を縮めることを、許したということだ。
玲奈は空を見上げた。
星が出ていた。
十二年間、誰にも許さなかったことを。
気づいたら、許していた。
——春日蒼介という男に。
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