第12話 「先生は知らない」
火曜日の朝、一ノ瀬は出勤して すぐに観察日誌を更新した。
観察日誌といっても実際には存在しない。 一ノ瀬の頭の中にあるものだ。 それでも毎日更新している。 それほど、状況が動いていた。
今週の変化。
その一。玲奈が春日を怒鳴らなくなった。
その二。玲奈が春日のオペ記録を三回読んだ。
その三。玲奈が食堂で春日と同じテーブルに座った。偶然を装って。
一ノ瀬は深呼吸した。
——いよいよだ。
昼休み、食堂に観察員が集結した。
一ノ瀬、村上、桜田、田中、中村の五名。全員が自然を装いながら、玲奈と春日が座るテーブルから三つ離れた席にいた。
「今日も同じテーブルですね」 と桜田が小声で言った。
「偶然のふりしてますけど、先生、春日さんより先に来て待ってましたよ」と田中が返した。
「見ました」と村上が言った。 「カルテ読むふりしながら入口見てた」
「完全に待ってた」と一ノ瀬が断言した。
中村が腕を組んだ。「先生、自分では気づいてないんですよねえ」
全員が静かにうなずいた。
問題の二人のテーブルでは。
「先生、今日の午後のオペ、難しいですか」と春日が聞いた。
「標準的な難易度です」と玲奈が答えた。
「そうですか」
「……あなたが器械出しなら、問題ない」
沈黙。
春日が少し驚いた顔をした。
「先生、それ褒めてます?」
「事実を言っただけです」
「褒めてくれたじゃないですか、初めて」
「事実です。褒めてません」
「褒めてますよ」
「……食べなさい、冷めます」
玲奈がトレーに視線を落とした。
三つ離れたテーブルでは。
「褒めた」と桜田が震える声で言った。
「褒めましたね」と村上が確認した。
「しかも否定した」と田中が言った。
「でも春日さんに指摘されて耳赤かった」と一ノ瀬が冷静に報告した。
中村が天井を見上げた。
「あの黒崎先生がねえ」
全員がしみじみとうなずいた。
午後、エレベーターで一ノ瀬は玲奈と二人になった。
「先生って」一ノ瀬が切り出した。「春日くんのこと、どう思います? 最近」
「仕事ができる人だと思ってます」
一ノ瀬は固まった。
「て……手術室では、ということですか」
「全体的に」
エレベーターが開いた。 玲奈は先に降りた。
一ノ瀬はエレベーターの中で一人、口を押さえた。
先月まで「仕事ができない人」と言っていた人が。
——全体的に、と言った。
一ノ瀬はスマホを取り出した。 観察員のグループに一言送った。
「先生、全体的に仕事できると言いました」
三秒で既読が五つついた。
五秒で「は???」が四つ届いた。
夕方、帰り支度をしながら桜田が春日に声をかけた。
「春日さん、先生のこと好きですか」
春日は振り返った。
「藪から棒ですね」
「答えてください」
「……怖い先生だと思ってます」
「それだけですか」
春日はロッカーを閉めた。
「一ノ瀬さんにも同じこと聞かれました」
「答えは?」
「同じです」
春日は「お疲れ様です」と言って先に出た。
桜田はロッカー室に一人残って、天井を見た。
全員が気づいていた。
全員が待っていた。
——あとは、本人たちだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます