第3話 潜入捜査・聖人教師
『女性完全保護課』
その銀色のプレートを見つめながら、朱音は扉に手を掛けられずにいた。
昨日の加害者と、その母親とのやり取り。
国家出生支援センターで目にした、息苦しい光景。
どちらも、まだ鮮明に脳裏へ残っている。
交番勤務では、どんな事件にも冷静に向き合ってきた。
だが、この部署だけは違った。
配属二日目にして、朱音はすでに圧倒されていた。
扉の向こうにある現実の重さが、足を止めていた。
「おはよう、朱音。昨日はよく眠れた?」
背後から、穏やかな声が届いた。
振り返ると、天宮篝が立っていた。
朱音が初日に迷い込んだあの部署で、自分の代わりに扉を開けてくれた女性。
今も変わらない柔らかな表情で、朱音を見つめている。
「お、おはようございます!」
慌てて敬礼すると、篝は小さく笑った。
「そんなに緊張しなくていいのよ」
そして、朱音の肩越しに銀色のプレートを見た。
「初日から大変な現場を見せてしまったわね。ごめんなさい」
「いえ……!」
朱音は思わず首を振った。
「早い段階で学ばせていただけて、むしろ良かったです。私も、皆さんの役に立てるように頑張ります」
篝の期待に応えたい。
その一心で、朱音はまっすぐに彼女を見つめた。
篝は少し驚いたように目を見開き、やがて慈愛をたたえた微笑みを浮かべた。
「昨日の現場を見ても、それでもここに来てくれたのね」
その声は、思っていたよりも優しかった。
「ええ」
「それだけで十分よ。無理に強くなろうとしなくていい。でも、目を逸らさないでいて」
肩に入っていた力が、少しだけ抜けた。
篝の言葉は、朱音を甘やかすものではない。
それでも、ここにいていいのだと思わせてくれる。
「はい」
朱音が頷くと、篝は満足そうに微笑んだ。
「今日は、あなたの先輩を紹介するわね。そろそろ来る頃だと思うけど」
そう言って篝が室内へ視線を向けた、その時だった。
「ようやく現れたな。待ちくたびれたでー」
背後のパーテーションから、ひょこっと一人の女性が顔を出した。
金髪をひとつに束ねた、糸目の女性。
満面の笑みを浮かべながら、軽い足取りで朱音の前へやって来る。
「黒須玲です! 大阪出身や。よろしゅうな、朱音ちゃん!」
玲は自然な仕草で朱音の手を取り、ぶんぶんと上下に振った。
「は、はい! 羽村朱音です。未熟者ですが、よろしくお願いいたします!」
圧倒されながらも、朱音の目は輝いていた。
篝とはまた違う。
明るく、距離が近く、それでいて頼れそうな先輩だった。
「そんな堅苦しくせんでええよ。ま、初々しくてええことやな」
「出張帰りなのに、早速出勤してもらって悪いわね。明日でも良かったのだけど」
篝が気遣うように声を掛ける。
「かまへん、かまへん。うち、仕事好きやし。それに篝に早くお土産渡したかったしな!」
玲は鞄から小さな箱を取り出した。
「北海道名物、『白い恋人』や! 篝、好きやろ?」
しかし篝は、受け取る前から呆れたような顔をした。
「……出張先は大阪でしょう。だからこれは、いつもの『面白い恋人』ね」
「ちゃうよ、篝!」
玲は大げさに肩を落とした。
「そこは一回、箱を見てから言うんや! 『って、大阪の面白い恋人やないかーい!』ってノリ突っ込みするんが関西人への礼儀やろ!」
「私は漫才師ではなく警察官よ。大阪の常識をこちらに持ち込まないことね」
冷静な返答だった。
けれど、篝の口元には小さな笑みが浮かんでいた。
朱音は少し驚いた。
女性完全保護課は、昨日見た限りでは張り詰めた空気に満ちていた。
だがここには、確かに笑い合える関係もある。
篝は手を一度叩いた。
「さて。雑談は終わりにしましょう。今回の任務を伝えるわね」
空気が切り替わる。
玲は端末を操作し、壁面のプロジェクターに一人の中年男性の顔写真を映し出した。
『私立青葉ヶ丘学園 教師 木崎敦史』
朱音は息を呑んだ。
「教師……」
「担当は中等部。でも高等部の授業にも出入りしとるらしい」
玲の笑顔が、わずかに薄れる。
「彼に関する被害相談は、現時点で四件」
画面には、被害内容の概要が映し出された。
不適切な身体接触。
個別面談を利用した心理的な誘導。
卒業後も続いた、私的な連絡と接近。
そして、その横には冷たい文字が並んでいた。
『証拠不十分』
『不起訴』
『学校側による注意指導のみ』
「厄介なんよなぁ。この手の男は」
玲は腕を組んだ。
「被害者が未成年やと、特にな。怖くて声を上げられへん子も多い。しかも、狙うのは孤立しがちで、大人しい生徒ばっかりや」
「孤立しがちで……大人しい?」
朱音が眉を寄せると、篝が静かに補足した。
「覚えておいてね、朱音」
篝の声は低かった。
「痴漢も、モラハラも、DVも。加害者は“抵抗しにくい相手”を見つけるのが上手いの」
朱音は画面の木崎を見つめた。
穏やかな笑顔。
清潔感のある服装。
学校案内の写真に添えられた、優しそうな紹介文。
けれど、そこに映る男へ、朱音は激しい嫌悪感を抱いた。
「だから今回は、潜入捜査よ」
「潜入……?」
玲がにやりと笑う。
「朱音ちゃん。あんた、今日から女子高生やで」
「……はい?」
◇
「動かんといて」
女性完全保護課の更衣室。
朱音は鏡の前で、完全に固まっていた。
玲が器用な手つきで、朱音の髪とメイクを整えていく。
「肌きれいやなぁ。若いってええわ」
「れ、玲さん、近いです……!」
「潜入捜査で緊張してどないすんねん。ほら、目ぇ閉じて」
そんなやり取りをしているうちに、メイクは少しずつ完成していった。
「……よし。完成や」
玲が満足そうに頷く。
朱音は恐る恐る、鏡を見た。
そこにいたのは、新人警察官・羽村朱音ではなかった。
少し気弱そうで、目立たない。
教室の隅にいても、誰も強く印象に残さないような女子生徒。
「……誰、これ」
「今日からアンタは、転校生の羽村朱音ちゃんや」
玲はウインクした。
「我ながらええ出来や。どっからどう見ても、“大人しい女子高生”やな」
その言葉に、朱音の胸がざわついた。
◇
青葉ヶ丘学園に潜入して、一週間が経った。
木崎敦史は、穏やかな笑みを浮かべる教師だった。
「転校したばかりで不安だろう? 困ったことがあったら、いつでも先生に相談しなさい」
優しい声。
柔らかな笑顔。
生徒たちからの評判も悪くない。
だが。
「……気持ち悪い」
休み時間。
保健室の奥で、玲が小さく呟いた。
今の玲は、学園に派遣されたスクールカウンセラーとして潜入している。
「目、見た?」
「え……?」
「獲物を探してる目や」
玲の糸目が、ゆっくりと細くなる。
「ああいう男、うちは何人も見てきた」
この一週間で、女性完全保護課は複数の証拠を押さえていた。
木崎が被害生徒に使っていた非公式の連絡用アカウント。
過去の相談記録。
そして、木崎が校内カメラの死角を把握し、そこへ生徒を誘導していたことを示す行動履歴。
被害者たちは、今も震えながら証言をしてくれた。
それでも、最後の一線を越えた証拠が必要だった。
放課後。
朱音は一人で廊下を歩いていた。
「羽村さん」
背後から、声が掛かる。
振り返ると、木崎が立っていた。
「学校には慣れた?」
「は、はい……」
「悩みがあるなら、先生が相談に乗るよ」
自然な仕草で距離を詰めてくる。
優しげな笑み。
だが朱音は、被害者生徒たちの顔を思い出していた。
通院を続ける子。
不登校になった子。
自殺未遂の末に、ようやく言葉を絞り出した子。
誰もが、涙を流しながら同じことを言った。
――先生は、最初は優しかった。
朱音は静かに拳を握った。
「先生って……みんなに優しいんですね」
「教師だからね」
木崎が笑う。
「特に、居場所がない子は放っておけないんだ」
「――さすが、聖人教師やな」
空気が凍った。
振り返ると、玲が立っていた。
先ほどまでの柔らかなカウンセラーの表情は、どこにもなかった。
「黒須、カウンセラー……?」
「女子生徒四名への不適切接触。個別面談を利用した心理的誘導。卒業生への継続的な接近」
玲は端末を掲げた。
「木崎敦史。女性完全保護課や」
木崎の顔が引き攣った。
「ま、待ってくれ……誤解だ! 私は相談に乗っていただけで――」
「相談された子が、今も男の声で震えとる」
玲の声は冷たかった。
「それでも、自分のことを“優しい先生”やと思っとるんか?」
木崎が後ずさる。
「ち、違う……私は……!」
次の瞬間、木崎は踵を返して走り出した。
「朱音ちゃん!」
「はい!」
反射的に、身体が動いた。
朱音は階段を駆け下りる木崎へ飛びついた。
もつれ込むように床へ倒れ込み、必死に腕を押さえ込む。
「離せっ!」
「逃がしません!」
その時だった。
木崎の口から、苛立ちと恐怖の混じった声が漏れた。
「ただ触っただけだろうが!」
朱音の動きが、一瞬止まった。
脳裏に、親友・美咲の泣き顔が浮かぶ。
誰にも信じてもらえなかったこと。
自分が悪かったのではないかと、何度も自分を責めていたこと。
次の瞬間、朱音はさらに強く木崎を押さえつけていた。
「――それで人生を壊された人がいるんです!」
玲が静かに手錠をかける。
「木崎敦史。未成年女性への継続的接触および心理的支配行為、国家女性保護法違反の疑いで拘束する」
木崎の顔から、血の気が引いた。
「や、やめろ……まさか……」
玲は冷たく笑った。
「察しええやん」
朱音の胸が、強く脈打っていた。
昨日感じた違和感。
この部署が持つ、あまりにも大きな権限。
守るという言葉の裏側にある、重い現実。
それでも今だけは、確かに思ってしまった。
――この男を、野放しにしてはいけない、と。
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