編集済
三への応援コメント
お忙しいことと存じますので、こちらからご返信をのぞむことは致しません。僕が割いた時間に対し、安曇さんが懇切に割かれる時間とのあいだに釣り合いがとれていない気がするので、心苦しいものがあります。しかしどうしても一点気になることがありました。そしてそれが取りも直さず本作が純文学らしからぬ最大の批点であるのではないか、と思った次第です。
――
異世界テンプレと現代世界のごくありふれた地獄。二つの世界を接続すると仰る時、安曇さんの肉体とその御足が踏まえている現実の地平が、二つの世界の間に介在していないように感じます。一方に異世界テンプレがあり、これと比況するに、安曇さんはご自身の身辺を挙げずに、一足飛びにアンゴラやコロンビアに移りました。安曇さんの肉体からの遠さは、異世界テンプレもアンゴラ、コロンビアも同じなのではないでしょうか。
異世界テンプレというフィクションを、アンゴラ、コロンビアの属するリアルの地平へと(純文学的手続きによって)押し下げようとなされているように見えて、そのリアルが肉体と同一地平線上に理解されていない(と僕には思われる)ために、むしろアンゴラ、コロンビアの方がフィクションの地平へと浮き上がって、フィクションと同化させられているように感じます。
《おそらく、多くの人がこの両者の知識を知っているとわたしは思っています》と仰いますが、肉体と同一地平において注意深く理解しようとしないかぎり、知識は多く、"フィクションの地平において知る"ことと同義になるおそれがあるのではないか。
純文学の緊張は、すべて作者自身の肉体と同一地平において描かれるがゆえにもたらされるのではないでしょうか。志賀直哉は雨に流される蜂の亡骸や、串刺しにされた鼠の溺死、イモリが自分の何げない投擲に斃れるのを、自分の身に引き比べて心痛めました。それを絶賛された他ならぬ安曇さんが、フィクションの地平において(と僕には思われる)異国の地の出来事を引き合いに出されたことに、僕は釈然としないものを感じざるをえません。
――
純文学:リアル(知識)の地平-肉体の地平//フィクションの地平
本作 :リアル(知識)の地平-フィクションの地平//肉体の地平
――
これだけの反応を引き出されたこと自体が、安曇さんの企図の一部成功を証ししているのかも知れません。一読者の一反応にすぎませんので、なにとぞお気になさらず。
作者からの返信
尾川さま、再び感想をいただけたこと、嬉しく思います。
自作をもとにして文学談義ができるとは、とてもありがたいことです。
尾川さまは note の連載を読まれているので、これが実験的な作品であることをご存知かと思います。この短編は簡単な調べものも含めてAIを利用しておらず著作権的に完全にクリーンであり、分析や講評の対象となることを前提としております。ですから、こうやって議論に利用されるのはもっとも望ましい形でありました。
ご質問の件についてお答えしたいのですが、簡単ではありません。
わたしは、第15部の読者判断進行を重視していますので、遠回りとなってしまいますが、そこから説明させてください。
◇ 読者判断進行の設計と診断
わたしは主に異世界テンプレートを好む読者を中心におき、その物語的な枠組みを異化しようとしました。その上で、制度が人間を消費していくありさまをプロットに詰め込みました。さらには、彼らのテンプレへの読みの姿勢だけでなく、普段暮らしている現実、そこに潜む不気味な制度(日常)を異化しようと目論みました。日常を日常たらしめる「幻視」は高度な制度(システム)によって維持されている。主人公以外の全員が幻視に沈んでいる。幻視魔術などというのはそのほんの一部に過ぎない。
普段は「読者のテンプレート的な、自動化された読みの態度」が倫理的判断を阻害します。作中では、倫理的判断を妨げるものとして「制度」が登場します。恐ろしい物事を当たり前のように感じさせる仕組みです。
ここで設計された読者判断進行を見てみましょう。
想定読者のペルソナは、異世界テンプレを読んでいる時に倫理観が前景化しない読者です。この読者に対しては「純文学」というラベルは邪魔であり、「異世界テンプレ」というラベルから、読者に厚く堆積したスキーマを呼び出すことが重要でした。本文の1行目で「冒険者ギルド」という単語を出した理由です。
一方で、この作品を純文学の自主企画に放り込んだ場合には、読者とその読みの姿勢はがらりと変わるはずです。第15部の読者判断進行でいうと、解釈的判断が機能しづらくなります。読者が前提として持っている知識に依拠したテクストなので、なにしろ説明がありません。「十五歳の少女が魔物を殺す戦力である」という箇所は、想定読者においては解釈的判断のみが一瞬だけ起動して通り過ぎる場として設計されています。第二話に進むと魔物じゃないことがわかってしまうので遡及的に解釈は書き変わりますけど、第一話では通り過ぎる予定でした。解釈、倫理、美学。いずれも反応しない想定です。
しかし、読者層が変われば話は別で、解釈的判断が想定通りに行われません。ジャンルの知識がないからです。また、想定された読者においては死んでいるはずだった倫理的判断が、生きてしまう。これは様々な反応を呼ぶ可能性があり、設計外です。
その読み方の分岐が、結果として、尾川さまの「緊張感の瓦解」を生みだした。そういう経路がありえるのかなと思いました。そしてそれは、次の話の流れにつながっていきます。
◇ 少年少女兵における倫理的判断
作品の意図として、前述の通り、テンプレ(フィクション)と日常(現実)を接続する試みがあります。 制度による情動操作と人間の消費。その仕組みを破綻なく維持するための幻視。その極致として選んだのが民族浄化を行う少年少女たちであり、同時に彼らが冒険者であるという転倒です。
幻視に沈まない主人公が、その制度を「業務」として遂行する、その冷徹な眼差しだけが、事実を捉えている。すべては「事実」として処理される(「と思う」の除去)。主人公にとって、幻視に沈んだ者と語らう必要はなく、「情動」は業務を進めるために制御する対象に過ぎない。そして、肝心のその主人公の情動や欲望は、テクストから読み取れる範囲では、制度が自分の予期通りに働く様子を「眺める」こと。制度が破綻すると予期されるのであれば、実際に破綻する様子を「眺める」こと。そして都市が脈動するイメージに常に五感が奪われ、ほとんど現実を生きていない。でも現実と信じられているものは実際には幻想である。彼女だけが現実を見ることができる。
これは「絶対にどこにも解釈を落ち着かせないぞ」という作者の強い意志です。そうでないとここまで徹底できません。
ここまでは、明確な意図をもとにしています。ここからは、設計されたテーマ外となります。つまり、わたしもただの深読みをする読者になります。テクストが作者の意図を超えていくのは普通だと思いますが、そういった効果が実際には生まれたと主張するものでもありません。つまり、書いていないことを勝手に読み取るものです。
さて、わたしたちは子どもが兵士になる陰惨な現実を知ってはいますが、そこに関心はありません。主人公は読者にとって共感しがたい人物として描かれていますが、幻視に沈み、制度やアルゴリズムによって生かされているわたしたちは、どうなのでしょうか。積極的な加担よりもいっそ醜く感じることもあるかもしれません。まあ、書いている時にはそんなこと考えてなかったんですけど。
少年兵? 搾取とジェノサイドの構造の反対側で豊かに暮らすわたしたちにとっては、どうでもよいことではないでしょうか。すべては、メディアの向こう側にある、SNSのアルゴリズムで選別されなければ流れてこない程度の現実でしかありません。もしその現実を「知りたい」と願ったとして、それはいかなる欲望でしょうか。……などと後付けをすると自分が思慮深い人間のように思えて気持ちがいいです。危険です。
制度を遂行する者と、そのおかげで豊かさ(魔鉱石)を享受する者。この関係は作品のテーマ外です。しかし、どこにも着地しない気持ち悪さを感じ取っていただけたのであれば、もしかしたら、そういった現実の構造があるからかもしれません。
話がずれてきてしまいました。いずれにせよ、「子どもを戦場に送るなんて」という倫理的な解釈は、起動しないことが前提でした。描いた仕組みは、「より大きな制度全体」に倫理的な判断を向かわせる、そういうつもりでした。
また、少年兵の現実をリアルに描くこと。こちらも関心の対象外となります。その目的においては、ぼんやりしているぐらいでちょうどよいです。
しかし、話には続きがあります。
◇ 純文学の定義の解釈と創作プロセスの必要性
ここからの尾川さまの読解は、一読者でも批評家でもなく、創作者としての読みに入っていかれたと思います。それは自然な流れであると思います。note の分析理論があり、作者が「純文学」というラベルを冠した作品だからです。
尾川さまの感想と批評は、テクストの構造そのものだけではなく、テクストの背後にある書き手の態度や意図を読もうとする傾向があると感じました。「安曇さん自身のちょっとした迷いがあったのではないか」「異化の実践というより、リアリティを際立たせるための題材の選択であったのではないか」。テクストの効果よりも、テクストを書いた人間の動機を問うているように見えます。実際、少年少女兵のくだりは、わたしの感想欄の記述であってテクストに書かれた内容ではありませんでした。
第15部の枠組みで言うと、これは倫理的判断の第三水準(暗黙の作者の倫理的位置)に対する反応のようにも思えます。テクストが何を達成しているかよりも、テクストの背後にいる書き手がどのような態度で書いているかを問い、その態度に対して倫理的な評価を行う。テクストの背後にある書き手の誠実さを読み取ろうとする、そのような振る舞いを感じ取りました。
一方のわたしの連載は、設計と分析のプロセスは開示したものの、より個人的な欲望や衝動、わたし自身のプロファイルは明かしてはいませんでした。さらに、純文学性の定義も簡単にしかしていません。これは議論を進める上では障害となりそうです。
◇ 純文学の定義
実践は多くの場合、分析に先立ちます。つまり、分析は後追いであり、優れた文学作品の解析によって理論化されました。ここには論を展開するスペースがないため、大雑把になってしまうのですが、文学性の高い作品要素として「異化と世界の開示」「回収不可能な感情と他者性」「恒久的空所、偶然性の保持、認識の生成」というまとめ方をわたしはしています。実際には他にも利用可能な概念があるので、このまとめ方には恣意的な面があるのですが。
これらは日本の純文学にも適用可能です。文壇は批評において、学問や理論的語彙は取り入れることはありませんでしたが、そもそも創作において分析理論は不要なのです。ポストモダニズムが日本に紹介される前から、芥川賞の受賞作はモダニズムやポストモダニズム的な要素がありました。要は、先ほどの三要素が含まれるのです。芥川賞の選評を読んだことがあるとなんとなくわかるかと思うのですが、彼らは自身の読書体験をもとに語ります。そして、そこに学問的な語彙が登場しないにも関わらず、三要素が強い作品が選ばれています。安部公房も遠藤周作も大江健三郎も中上健次も、新しいところでは小川洋子も川上弘美も明確にそうだと思います(又吉直樹の火花は三要素ともあまりなかった気がしますし、例外はもちろんあるのだと思います)。またこれはちゃんとした分析ではなく、わたしが読んだ時の感覚なのであやしいのですけど。でもたとえば、芥川の『藪の中』には、強い到達不可能性を感じます。学問の言葉を使わずとも、むしろ使われない批評が、分析と一致する。これは理論が有効であることの証左だと思います。
彼らが使っていた「文学性」「切実さ」「新鮮さ」「緊張感」といった不精密な語彙の裏側で、構造的純文学性を検出する判断が機能していました。モダニズムやポストモダンの概念が輸入される前から、選考委員は結果としてポストモダン的な構造を選んでいたのです。安部公房の『壁』がわかりやすい例であると思います。
しかし、一方で日本独特の文化もありました。私小説の歴史が長かったですよね。海外ではモダニズムでしたけれど、その頃の日本は違いました。「社会の中の個人」ひいては、社会の全体像を描くヨーロッパの近代小説に対して、日本の私小説は 「社会から退いた個人の内面」に焦点を合わせていました。自然主義が科学的に描こうとするのに対して、田山花袋や島崎藤村が「自分自身の体験をありのままに書く」方向に向かわせました。文壇内という小さな共同体の中で、作者も読者も距離が近く、作家のプライベートまで知っている。そこで私生活を暴露する作品としての強度が強まった。それが私小説の成立条件のひとつだった、とも聞いたことがあります。これは論文でも試論でもないレベルですので、出典や引用はご容赦ください。ここまでの認識は、わりと常識の範囲内であるはず。たぶん。
尾川さまのこちらのご発言「純文学の緊張は、すべて作者自身の肉体と同一地平において描かれるがゆえにもたらされるのではないでしょうか」は、私小説との相性がよいように思います。特に「作者自身」と書かれている点です。
しかし、尾川さまが要求しているのは、私小説的な体験の告白ではないと思います。それだとこの小説は書けなくなってしまいますので。おそらくは、作者の身体的現実と作品世界が地続きであることでしょうか。あるいは作者が、そのようであろうとして格闘した際に滲みでる、その痕跡のようなものでしょうか。
いずれにせよ、身体的リアリティを文学的誠実さの指標とするのは、筋が通っています。それは力強い文学であると思います。しかし、それだけではありません。カフカの『変身』は身体的な感覚を描きますが、作者の身体的現実とは大きく異なります。
また、適用範囲の問題があるかもしれません。わたしは、アンゴラやコロンビアの少年兵を参照する時、そこをリアルに描く必要はありません。それは「少年少女兵における倫理的判断」の節で書いた通りです。制度が現実を覆い隠すことが重要な焦点であり、その向こうにある、覆い尽くされた現実の陰惨さそのものはテーマではありません。
その時に、わたしが(あくまで感想の返信としてですけど)参照した、アンゴラやコロンビアの少年兵が「知識としてのリアル」であって「肉体としてのリアル」ではないことはむしろ重要であるさえと思います。異世界テンプレートとアンゴラの少年兵が、わたしの身体からの距離において「等しく遠い」と感じたならば、それはその通りであり、そこに強度を求めてはいないのです。
では、作者であるわたしは何者であり、何を参照して書いているのでしょうか。
◇ 創作プロセス
わたしは「トランスグレッシブ・フィクション」というジャンル小説が好きです。純文学性のスペクトラムは必ずしも強くないのですが、エンタメやホラーからも距離があり、一概にエンタメには回収できないジャンルです。恒久的な空所があり、単純な物語のスキーマに回収されない強さがあります。同時に「ああ、現代社会を風刺する系の露悪的なあれでしょ?要は風刺で社会や風俗批判してるんでしょ?」みたいに異化がうまく働かない感じが歯痒いです。ナボコフの『ロリータ』もトランスグレッシブ・フィクションぽいかもです。
18軸で定義するならば、第1部の事件性における「逸脱」が激しくセンセーショナルで、第15部の読者判断進行において「倫理的判断」を著しく撹乱するタイプのジャンルであると思います。
どうでしょうか。事件性が逸脱しており倫理的撹乱を引き起こす。『窓口業務』も少しそれっぽくないですか?
わたしがこのジャンルで好きな小説を適当に二つ挙げると、ブレット・イーストン・エリスの『アメリカン・サイコ』とチャック・パラニュークの『インヴィジブル・モンスターズ』です。アメリカン・サイコの主人公は殺人鬼だし、インヴィジブル・モンスターズの主人公もなかなか凄まじい逸脱をした人物です。
つまり、私小説にはできません。では、エリスやパラニュークはどうやってこれらの人物を書いたのでしょうか。あるいは動機はどこにあるのでしょうか。
パラニュークはワークショップで「デンジャラス・ライティング」を学んだ作家です。文体的な源流はカーヴァー的なミニマリズムです。デンジャラス・ライティングとは、書き手自身が怖いこと、恥ずかしいことを書くという方法論です。タブーを書くことは目的ではなく、書き手が自分の恐怖や恥部に向き合うための手段として位置づけられます。ワークショップの主催者であるスパンバウアーはゲイであり、エイズ患者であり、ネイティブ・アメリカンの精神的伝統に深く関わる人物です。彼の小説は近親相姦、ペドフィリア、人種差別といった主題を扱います。まあ、わたしは読んだことはないのですけど。パラニュークはそのワークショップの在籍中に『インヴィジブル・モンスターズ』と『ファイト・クラブ』を書きました。
文体的な規則としてスパンバウアーから受け継いだものは、ラテン語系の語彙の排除、抽象的な測定表現の排除、副詞の排除、思う、知る、気づくといった思考動詞の排除。これらの制約は、語り手の認知を身体的な描写に強制的に落とし込む効果を持つとされています。
どうでしょうか。尾川さまがご指摘になられた箇所ですよね。「と思う」がない。だんだんとタネが明かされてきました。
彼は「ある種の権力を持っていた人物が、その権力を失い、新しい権力の源を見つけなければならない」というテーマをずっと書いているそうです。わたしもインタビュー記事を読んでなるほどと思いました。作家として描きたいテーマが明確にあり、作品に反映されている。
次は、エリスです。パラニュークがワークショップで学んだのと対照的に、エリスは21歳の時、自分の生活をそのまま素材にして『レス・ザン・ゼロ』を書きました。自伝的な本です。つまりは私小説ですね。でも彼は『アメリカン・サイコ』で殺人鬼を主人公とします。自分の環境と生活を豊かな感受性で描き出す、という作家がどうやってこれを書いたのでしょうか。
彼は『アメリカン・サイコ』の創作プロセスについて、こう語っています。まず語り手の声を探す。ここでの語り手は殺人鬼であるベイトマンとなります。声が見つかったら、膨大なアウトライン(本文と同じ長さに達することもある)を書く。そしてその声の中に入り込み、自分の痛みを語り手の表現の動機として利用する。「パトリック・ベイトマンを書いていたとき、わたしはベイトマンのように感じていた」とエリスは述べているのですが、これは殺人衝動のことではないでしょう。
わたしの理解はこうです。
人物の声を見つけ、プロットを書き、声に入り込む。
声を見つけるという行為には、人物像を作り出し、語りの設計をするということだと思います。連載では「誰がどう語るか」(第7部から第12部)です。プロットが長いのは筋を書くわけではないかもしれません。アメリカン・サイコのプロットはかなりぐちゃぐちゃです。アウトラインを書きながら、な何かが熟成されていくのではないでしょうか(これは、勝手な想像です)。そしてプロットを書いたら、声に入り込む。これは、語り手の「語る動機」を自分のものとしている。主人公は作者とは別人格だけれど、語る動機で繋がっている。その辺が、出発点が私小説であった名残なのでしょうか。
わたしの書き方はエリス的であると思います。プロットはかなり綿密に練ります。そして実際の執筆では、語り手になりきって書きます。こんなサイコパスみたいな主人公になりきって書く、というのは異常でしょうか。しかし役者も役作りをしますよね。そういうメソッドがあると聞いたことがあります。プラダを着た悪魔ではメリル・ストリープは撮影外の時間でも役になりきり、スタッフとも共演者にも役どころの人物として振る舞っていたそうです。それは極端な例ですけれども、わたしもまた執筆中にはなりきっています。
そしてわたしの書く動機はというと、それはサイファが登場人物に訪れる瞬間を描くことです。それが長編で試みているものです。短編ではやろうとしていないですけど。わたしはエピファニー、センス・オブ・ワンダー、サイファというように自分が描きたい瞬間を、その強度から3つに分けています。書きたい動機と理論は無関係です。理論化したところで、意味はない。しかし、対応する言葉を学術体系の中から見つけようとする。それは自分が孤独ではないと思いたいからかもしれない。あえて言葉に対応させなくても自分の中では経験として理解している。しかし、こうやって他者に伝える手段としては便利です。
とはいっても、サイファはあまり有名ではないかもしれません。カール・ヤスパースが提唱した概念です。
現存在
・人間は日常的にはまず「現存在(Dasein)」として生きています。社会の中で役割を果たし、対象を認識し、日常を運営する存在です。しかし、限界状況に直面すると、人間は「実存」という段階になります。
実存
・実存は、死、苦悩、闘争、罪責といった、いかなる合理的な手段によっても乗り越えることのできない状況にある人間のありようです。限界状況に突き当たったとき、人は自己の有限性を自覚します。現存在としての日常的な確実性はなくなりました。この挫折の経験を通じて、人は自己の存在そのものを問い始めます。この問いの中に立つ者が「実存」です。
超越者
・実存は自己の有限性を自覚することで、有限性を超えたものの存在に触れます。超越者は世界の中の特定の事物ではなく、世界全体を根底で支えているもの、しかし決して対象として把握できないものです。神と言い換えることもできそうですが、ヤスパースは特定の宗教の神とは同一視しませんでした。対象化した瞬間にそれは超越者ではなくなるからです。
サイファ(暗号)
・超越者のひとつの顕現の姿をサイファと呼びます。それは世界そのものです。現存在から実存に至った瞬間。日常の枠組みが壊れます。それまでは世界はただの対象です。夕焼けは気象現象だし、ゴミ袋はゴミ袋です。でも枠組みが挫折し、世界を「対象」として処理する能力が一時的に失われたとき、世界はそのまま、ただそこにあるものとして現れます。そのとき世界が暗号として語りかけてくるのです。
わたしは、限界状況を幾度も経験する先に、啓示のように訪れるそれを、小説の中に登場させようとしています。映画の『アメリカン・ビューティ』と同じです。サイファを描くことはできないけれど、それが誰かに訪れる瞬間は描くことができる。でも、それはつまり、ほとんど理解されないものを描こうとすることです。残念ですが、どうにもならないことです。
ですから、わたしは純文学でもエンタメでもよいのですけど、まずは普通の小説をなんとか書きたいと思っています。そして、そのなかでサイファが登場する瞬間を描こうとしています。あらゆるプロットを押し除ける形で、サイファを訪れさせます。プロットを作ったあとで、そこに破壊をもたらす感じです。別に私小説なら私小説でもよいのですが、小説の形態は手段であって目的ではありません。
長々と申し訳ありません。
ことは文学であり、作者の実存の問題でもありますので、質問の答えといっても難しく、つい冗長になってしまいました。
そのようなわけで三話の感想欄がすべて埋まりました。
お付き合いいただきありがとうございました。
二への応援コメント
先達ては委曲を尽くしての二つの経路の展開を示してくださり、ありがとうございました。全く仰る通りだと思います。書物に向かう時の知覚の異化と、外界に向かう時の知覚の異化とがあって、どちらが上でどちらが下ということはなかなか決められそうにないこと。純文学性がいくつかの指標によるスペクトラムをなしていて、それらをバランスよく兼ね備えていることが望ましいこと(先の例で言えば、異化の第一の経路だけに特化していては、純文学であるというよりはむしろ寓話に近づいてしまうこと)。第二の経路のほうがインパクトが大きいことにも同意します。僕もはじめて純文学のまばゆいとば口に邂逅したのが、志賀直哉「城の崎にて」でありましたので、安曇さんのご意見にはげしく同意します。
たくさんお言葉をいただきましたので、僕も最後まで拝読して感じたところを付け足そうと思います。
受付嬢自身の手もとの描写は、まったき異化の好例であると思います。読者は以後、女性の手を見る時は、知らず、そのように品隲してしまいかねないほどの影響力があると感じます。
歴史の最後尾に、ここヴォールトをくぐった者の意識を接続させる心理工学的なつくりは巧妙をきわめており、その意匠の最先端に自分が位し、自分こそが、新参者の意識の上にあらたかな按手をほどこす最後の者だ、というふくれ上がったような、同時に抑制のきいた受付嬢の自意識が立ちはだかっている不気味さ。僕たち自身も現実にそのどつぼに嵌っている可能性について反省させられます。
ところが、ここまで具体的に書いているのに、四人パーティ、十五、六歳、これには少女も含まれているというところで違和感をおぼえます。こんな稼業に女性が加わるのは現実的でないし、第一、効率主義の受付嬢がこのことを批判の対象にしていないことから、僕の中で一気に緊張感が瓦解しはじめました。
また、なぜこの受付嬢はこんなに明晰なのか? 非現実的なまでに、幽体離脱をさながら、自分の置かれている肉体的状況から記述が乖離し、遠くから述懐している。この記述の仕方のほうにむしろ問題があるのではないか、とさえ思われます。
彼女自身の判断が状況を決定しすぎている。《いい質問だ(と思う)》《フィーはしっかりしている(と思う)》《彼は一目でわたしに恋をした(と思う)》の「と思う」の部分が脱落する傾向があります。断定的に世界の不安定さを統括しすぎているきらいがあります。
彼女は嘘は言うまいと努めているが、何を守ろうとしているのでしょうか? 良心を守ろうとしてか。それともただ職業倫理に忠実なだけか。しかし忠実でありうるのは、彼女の内なるいかなる欲望がそうさせるのか――むしろここが闡明されるか否かが、純文学であるか否かの岐れ道であるかもしれません。村田沙耶香「コンビニ人間」と同じに。
――
すべての筋、情報、印象も、文体を通してしかもたらされません。読者にアクセスする唯一の経路が文体であると思います。もはや小説は文体でしかない、と言っても僕は過言ではないといつも考えております。読みの惰性を裏切るような構造の設計にこだわるということは文体にこだわるということであり、読者の抱く感情を最終的に宙吊りにして終らす構造の設計にこだわるということも畢竟文体にこだわるということと同じではないでしょうか。でありますから、平山文人氏の仰ることはこの意味で正しく、文章に修辞的に凝るということは、それらすべての構造的設計に凝ることと同義であると考えます。たしかに、機能しない修辞、構造に寄与しない修辞というものは、虚しさもここに極まるのでありますが……。
作者からの返信
尾川さま、全文を通してお読みいただき、またこれほどまでにしっかりとした感想と批評をいただき、大変ありがとうございます。
端的にいって嬉しいです!
5つの問題提起をいただいたと思っております。
申し訳ありません。長くなってしまうのですが、順に回答をさせてください。
1. 少女の参加の非現実性について
2. 語り手の非現実的な明晰さ
3. 語り手の断定性
4. 語り手の内的動機の不在
5. 文体の重要性について
■ 1. 少女の参加の非現実性について
これは「効率主義の受付嬢がこのことを批判の対象にしていないことで緊張感が瓦解した」という点についてです。
まず、一方に異世界もののテンプレートがあります。
もう一方に、現実世界があります。
そして現実世界には、二つの世界観があると思います。
ひとつは「戦場に女性が出るのは不自然だ」という特定の文化的前提。近代日本の徴兵制的な男女分業のイメージ、あるいは西洋中世の騎士的な戦争観でもよいかもしれません。もうひとつは現代世界のありふれた地獄です。
ここで異世界テンプレを転覆させて、現代世界のありふれた地獄とつなぎたい、という作者の意図があるものと思ってください。
◇ 異世界テンプレートの作品群が読みの前提とするもの
まず異世界テンプレートにおいては、ティーンの少年少女が冒険者として戦うという展開が一般的です。これは異世界を前提とすると起こりうることであり、それは魔法があるからです。 RPGゲームの世界を作中に取り込む方法として、魔素を取り込んで強くなるという設定がよくあり、『窓口業務』でもそれをそのまま踏襲しました。テンプレを踏襲した上で破壊するためです。作中で剣術が素振り数十回程度とされているのは、魔法が主力であることを意味します。これはテンプレートとして説明なしに理解される前提がありましたが、作中でも受付嬢は、魔術で戦うことを前提とした説明をしています。
受付嬢にとっては、少女が戦場に出ることに違和感はなく、日々の業務となっています。
◇ 現代世界のありふれた地獄
次に、その上で我々の世界の現実があります。少年少女兵があり早ければ10歳未満から兵士とさせられ、自爆攻撃を含むあらゆる行動に利用されます。魔法があれば戦えることは銃があれば殺戮が可能だというのと同じ理屈で、綺麗に対照をなしています。アンゴラでは入隊時に脱走者の処刑に参加させられ、処刑対象が自分の家族だった例があります。コロンビアでは友人を殺すよう命じられた証言もありました。メディアはあまり報じませんがこの世の地獄のように思えます。少年兵の方が多い国もあれば、少女兵の方が多い国もあるようです。現実の方が遥かに陰惨です。
◇ 二つの世界の接続
ただし、この世界の舞台はアフガニスタンやソマリアではありません。もっと現代的な都市システムがあります。議会がありロビー活動もあるようです。つまり、かなり完成された支配のシステム、民衆のためのの感情の迂回路や罪悪感を減らす仕組み、情報や教育の統制といった洗練されたメカニズムが必要になるでしょう。
そして、その都市側のインターフェースであるかのように振る舞う受付嬢がいる。主人公が遂行しているシステマティックな制度です。完全に制度の顔をした異常な人間です。『コンビニ人間』の主人公も生まれながらのサイコパスでしたけれど、システムに奉仕して一体となっている点については似ているところがあるかもしれません。
◇ 問題点
では問題は、じゃあこれが伝わるのだろうか? という話です。
そのためには、異世界テンプレが好きだったり詳しい読者である必要があります。
同時に現代世界の、しかもあえて地獄の方に接続しないといけない。
おそらく、多くの人がこの両者の知識を知っているとわたしは思っています。あとはその認知を起動するだけです。しかも、それを説明的にならずに届けるようにしたい。でもそれが本当に難しいのだと思います。
尾川さまの感想を読む限り、わたしは全然そこに届いていません。
■ 2. 語り手の非現実的な明晰さ
◇ チート能力の現実への写し取り
異世界テンプレにはチート能力を持った人物が出てきて無双します。わかりやすい例だと、努力しない、反省しない、葛藤しないし、バンバン殺す! 普通はここで倫理的な判断が起動して読者が気持ち悪くなって離脱しそうです。しかし、離脱しないで商業的に強く成り立っているのが現実です。
そのチート能力を持った人間を、チートでなく現実に存在する能力で実現したのがこの主人公です。これなら気持ち悪いことに気づくだろう。「どうだ? 気持ち悪いだろう」というのは作者の声ですが、そういう意図でテンプレートから写し取られています。
◇ リアリティ・ラインに耐えうるか
端的にいうと、リアリティ・ラインをあげれば、気持ち悪さが現出するはず、という理屈です。
その上で、尾川さまが問題にされているのは、記述の仕方であると考えています。語り手が非現実的に明晰であることが、このリアリティ・ラインで許容できるか。仮に許容できたとしても、その上で、違う描き方があるのではないか。そのような問いだとわたしは理解しました。
ならば、その明晰さは、主人公の語りの中でどのように実装すべきか。引き上げたリアリティ・ラインと整合は取れているのか。最大の問題点は、第三話で痛みを克服している点でしょうか。治癒術師がいるくらいなので事前に痛みを抑えるというのはありそうではありますが、そういう描写がさりげなく入れば、問題が小さくなったかもしれません。反面、主人公の異常性が弱くなるため、なにか別の手立てを見つけるか、案外弱くなっても作品の強度は落ちないのか。
◇ リアリティを保ちつつ安易に「人間」に回収させないことは可能か
人物をただの物語上の「装置」としないことは重要だと思います。装置を描きたいのではなく、装置のような「人間」を描きたいからです。尾川さまの感想を拝見する限り「非現実的な明晰さ」と評されたものを経由して「装置」としての存在感は十分すぎるようです。
では、「人間」の部分はどこにあるのか。安易に人間として描くと、今度は装置ではなくなる。そこで、小さな揺れとして描くことにしました。
◇ 完全な装置にならない「揺れ」
これは後続で説明する「主人公の動機」にも繋がるのですが、そのように装置として描いた上で、その人間性をどう展開していくのか、というところがより大きな問題になるのかと思います。
そしてこれは note の連載の「実践 分析編(エクセジェシスの試み)」で書いたのですが、2点ほどここにも書かせてください。
「フィーが、扉の手前で振り返った。わたしと目が合う。彼女は、少しためらってから、小さく手を振った。わたしは振り返した。お見送りは、窓口業務のひとつだ」。
この記述は少しだけ過剰であり、業務報告にはない微細さがあります。フィーのためらいの「少し」、手振りの「小さく」。これらの副詞は、語り手がフィーの身体の動きを注意深く見ていることを示しています。業務に必要な観察の精度を超えた、人間の身体への注意です。
「彼がはじめて窓口に来たときのことを、わたしは覚えている。今日の少年たちと同じだった。日焼けした顔、大きな目、受付を見て固まった表情。あの頃のわたしは窓口に出て二年目で、今よりもう少し若かった。彼にも最初のパーティがあった。四人組だった。名前を思い出そうとした。リーダー格の少年の名前は出てこなかった。少女がひとりいた。その子の名前も出てこない。彼らはいつからか数値になった。あるいは最初から数値だった」
この箇所は、設計書の信頼性の記述と整合しています。名前が出てこないこと、彼らが数値になったことの記述は、語り手の倫理的逸脱を示しています。しかし、「名前を思い出そうとした」という一文があります。思い出そうとした。この行為は、設計書やプロットにはありませんでした。思い出そうとすること自体が、語り手の中に名前を思い出す動機が存在したことを示唆しています。
こういったゆらぎは、もっとあっても良かったのかもしれません。一方で、後述する内的動機づけにおいて人間性を出そうとする意図もあり、この程度でもよかったのではないかと思ってもいます。
■ 3. 語り手の断定性
前述の1と2については、わたしとしても反省点が多く、尾川さまの読みを支持します。つまるところ読者の中でどんな判断が起動するかは「第15部 読者判断進行」で書いた通りなのですが、わたしが「こうなってほしいと願う」「それが思惑通りにいかない」という点で失敗している以上、後付けで何を解説したところで、どうにもならないからです。
しかし、この断定性に関しては、成功したのかな? とも思っています。
主人公もすべてを断定するわけではありません。
尾川さまの「世界の不安定さを統括しすぎている」は、語り手の断定の射程を実際よりも広く読んでいる可能性があります。語り手が統括しているのは世界ではなく窓口です。そしてその窓口においては、断定は不自然ではなく専門家の判断そのものです。
「この感覚を設計した人間を、わたしは知らない。何百年も前の、名前の残っていない誰かだ。優秀な人だったと思う。」
ここは断定していません。これは業務ではないので。
でも一方で、今目の前にしている子供たちを前にしてはすべてを断定しています。それはむしろ必要です。子供たちは出生奨励策で生まれてきた余剰人口であり屠殺されることで初めて価値を生む資源です。いい質問だと観察するならば、フィーは頭がよい可能性があり、その応対についてはより慎重に振る舞う必要がある。過剰評価かもしれませんが、能力を多少上方修正して対応するぐらいがちょうどいい。頭のいい子供であれば、もっと手をかけて騙す必要があるでしょう。
これはただの業務上の処理であって「思う」必要はありません。思春期の男の子を手玉に取るなど造作もないことであり、「彼は一目でわたしに恋をした」というのは「思う」必要はない。それは事実であることが明瞭であり「いや、案外そうじゃないかもしれない。もっと慎重に進めなくては」などとはならない。それは無能な受付嬢の振る舞いです。
尾川さまは、純粋な読者として感想を下さった面と、批評として書いてくださった面があると思います。その中で、もしこのような気持ちの悪い主人公に対して「読者としての尾川さま」の内部に倫理的な解釈の枠組みが反応したと仮定します。その場合にはわたしは成功した可能性があります。
語り手の断定性はとても気持ち悪く設計されています。それが有効に機能し、修辞的な設計がどう機能しているのかという美学的な判断よりも「この主人公は気持ち悪い」「このような描き方をする(暗黙的な)作者には耐え難い」という倫理的な解釈が起動した。もし、そうならば設計通りだからです。この気持ち悪さを安易に通り過ぎてほしくはありませんでした。もしそうなら、わたしの意図としては成功です。
一方で「批評する尾川さま」の内部に、美学的な判断が働き、「と思う」がない。これは語りとして不自然であると解釈されたのであれば、失敗であったのだと思います。
■ 4. 語り手の内的動機の不在
尾川さまは「何を守ろうとしているのか。良心か、職業倫理か」と問いました。この問いの形自体が、語り手を人間的な動機の枠組みの中で理解されようとしている。そう読めました。良心か職業倫理かという二択は、どちらも人間的な了解可能性の範囲内にある動機だからです。
こちらについては、わたしとしては、不在とか弱いとかではなく、強い動機付けがあるつもりでした。
同時にそれが伝わっていないという失敗でもあります。
彼女はフェティッシュです。映画でも『悪の法則』や『チタン』では、車や金属に性的興味を示す人間が出てきますけれど、それのちょっと穏やかなやつだと思ってください。
彼女は、一貫して、都市(システム)に奉仕し、その作動が予期通りであることにこだわりを示しています。現行の組織体制はおろか、現在従事しているシステムの永続性や持続性には関心がありません。むしろ遺失文明が蘇り、忌人が支配する世界を望んですらいるように見えます。彼女は体制に与しているようで、体制には無関心です。その心は常に都市の脈動に向かい、それどころか遺失文明が都市を破壊する様子を思い描いた上で、そこに神を見ています。
第一話に登場する「ヤナの手の震えの原因を理解して、わたしは満足する」のもシステムが予期通りに動作していることの確認と満足です。
これらの描写は特に第二話や第三話の後半で、わかりやすく強調したつもりです。
そのため、実は内的動機については伝わっているのではないか? とも(少しだけ)思っています。届いてはいるが、それが彼女の内的動機として受け入れらない、という拒絶があったのであれば、それはわたしにとっては成功だったとも思います。
■ 5. 文体の重要性について
こちらについては、第一話の感想でのわたしの発言は不適切であったかもしれません。申し訳ありません。文体は重要です。疑いようもありません。発言の意図を補足させてください。「修辞的に凝った文体」それも「人物の知覚の描写の積み重ね」が重要とも取れるような企画の意図が理解できなかっただけでした。
『窓口業務』では一貫して「匂い」や「味」の描写がありません。完全に視覚に寄せています。そして第三話で密室となった空間の最初に匂いの描写「安い香の匂いと、カビの臭いが混ざり合った、いかがわしい安宿の一室」で初めて登場し、それが最後です。味も最後の最後でちょびっとだけ出てきます。
これは読者が意識する必要がない部分です。そうと意識しなくとも伝わる部分かと思っています。一貫して距離を大きく取りつづけ、第三話で匂いを登場させ、距離を詰めました。わたしは書かれていないことも同じぐらい重要であると思いますし、「修辞的に凝った文体」が必要かどうかは、描きたいものによると考えています。
一方に文体があり、他方に構造がある。尾川さまは、そこに橋をかけようとしてくださった。おかげでわたしもこのように、訂正の機会をいただけました。
ありがとうございました。
編集済
一への応援コメント
はじめまして。尾川と申します。
noteにご掲載の18のパラメータについて、すでに一部拝読しております。文芸批評の理論を体系的に学んだことのない身としては、ポエティック(個人的創作論的)に着崩されていないだけに、信頼のおける宝の山のように映ります。今後も参考にさせていただきます。
作品を純文学的たらしめる要素を実践的に落とし込んでみたのが本作ということでした。しかし僕がおおもとから「おや」と思いましたのは、異世界もののテンプレの上に異化を行使された点でした。見慣れたものという意味では、テンプレはたしかに見慣れています。けれども本作においては、現実の事務手続きや職場環境を異世界の側に引水し、具体的かつ緻密にえがくことでリアルに近づけようとされている。しかしどこまでリアルに漸近させようと、異世界ものという土台そのものがリアルではあり得ない。
僕は異化のかなめは再発見であると見ています。異化された描写が読者の生きる現在と地続きであるから、作品内の異化はたちどころに読者の生きる現在を何等かのかたちで変質させずにはおかない。生きる現在を違和感をもってとらえ直す(再発見する)ことはむずかしい。だからこそ純文学は生きる現在と地続きである作品内において異化を行使する。
異世界もののテンプレはそもそも異化すべき対象であるのでしょうか? 僕は純文学理論の実践に異世界ものを選ばれたところに、安曇さん自身のちょっとした迷いがあったのではないか、――異化の実践というより、リアリティを際立たせるための題材の選択であったのではないか、などと拝察いたしました。けれどももし異化のかなめを再発見であると暫定的に措定したならば、異世界ものには生きる現在と地続きの・再発見すべき地平・必ず万人が共通して認識するところの立ち帰るべきリアルがありませんので、やはり、異化の対象としてはふさわしくないのではないか、と。
作者からの返信
尾川さま、はじめまして!
読んでくださり、ありがとうございます。
連載の方も読んでいただけたとのこと、大変うれしく思います。
そして鋭い批評に打ち震えております(よろこびで)。
本質をついたご意見でしたので、すみません。
返信も長くなりそうです。ご了承ください。
尾川さんのご批判の核心を、わたしなりに整理してみます。
> 僕は異化のかなめは再発見であると見ています。異化された描写が読者の生きる現在と地続きであるから、作品内の異化はたちどころに読者の生きる現在を何等かのかたちで変質させずにはおかない。
これはシクロフスキーの異化の原義に照らして正確な理解だと思います。トルストイの『ホルストメール』が馬の目を通じて「所有」を異化するとき、読者が再発見するのは、自分が生きている現在の制度の人工性です。異化の最も純粋な形態は、読者の現実世界の知覚の脱自動化である。違う対象を異化してもいいけど、最も価値があるのは読者の世界と地続きであること。この点について、異論はありません。
一方で、純文学における異化は、枠組みそのものにさえ向かいうる、とわたしは考えます。異化の経路を二つに分けてみます。
◇ ◇ 第一の経路 ◇ ◇
第一の経路は、読みの枠組みの異化です。受容理論のヤウスが提唱した期待の地平の概念。読者はテクストを読む前から、ジャンルの慣習や先行作品の経験に基づいて「この種のテクストはこう展開するだろう」という期待の枠組みを持っている。これが期待の地平です。エンターテインメントは期待の地平の内部で効果を生む。地平は裏切られることがあっても、地平そのものは安定している。純文学は期待の地平そのものを揺さぶる方向に作用する。
シクロフスキーの言う「自動化された知覚」は、現実世界の知覚だけに生じるものではありません。文学的なスキーマの知覚にも生じます。「テンプレート」という語そのものが、スキーマの自動化の極限を指していますから、それはまさに異化の対象です。毎日のように異世界ギルドものを読んでいる読者にとって、受付嬢の笑顔は水や空気と同じぐらい透明に処理されている。もはや意識にのぼらない。
テンプレを枠組みを高精度になぞり、でも意味を全て反転させ、完全に破壊したら?読者は同じ読書体験を今後できるでしょうか?
読者がこの作品を読んだあとで、別の異世界ギルドものの窓口シーンを読んだとき、受付嬢の笑顔がかつてと同じように透明に処理されるかどうか。もしそこにわずかでも引っかかりが生じるなら、それは読者の「読みの枠組み」が変形したということです。ヤウスの用語を借りれば、期待の地平そのものの変形です。
これは『窓口業務』でわかりやすくやっている/やろうとしていることです。これは最低限、読み取ろうと思えば読み取れる水準で書けたかなと思っています。自己評価に過ぎないのですけど。
◇ ◇ 第二の経路 ◇ ◇
第二の経路は、知覚の様式の異化です。シクロフスキーの異化の原義は、認知的な枠組みの問題以前に、知覚そのものの脱自動化を指していました。文体の密度、リズム、語彙の選択、統語の屈折が、読者の知覚の様式を変容させる場合がある。
映画の『アメリカン・ビューティ』を観た時の衝撃は忘れられません。鳩の死骸をクローズアップし、宙に舞うゴミ袋を延々映し続けるのです。その時に思い出したのは、志賀直哉の『城の崎にて』でした。温泉宿(だったかな?)で療養しているので時間の流れがゆっくりしています。そこで蜂の死骸や死に抗う鼠などを見つめる語り手の視線と文体の質感が、読者の知覚を脱自動化します。普段は望んで死を見つめないでしょう? 当時の志賀直哉は怪我で死にかけたあとで療養で暇だったから、普段見ないものに注意が向かったのだと思います(このお話は作者の実体験です)。読者もまた、蜂の死骸やいもりの動きを、日常の中では決してしないような注意力で見つめさせられることになります。わたしはこの短くて何も起こらないお話を忘れることができません。読んだは中学生の頃でした。死生観などとは無縁な年頃なのに記憶に残っています。
こちらの経路はどうでしょうか。『窓口業務』の主人公は特異な眼差しの持ち主ですが、異能やチートではありません。数理に明るく情動のコントロールに長けていますが、数理は大学の学部卒程度の知識ですらない。情動のコントロールといってもカウンセラーやセラピストの能力とさほど変わらないかもしれません。でも彼女は幻視に沈んでいません。二話ではギルドの高官も幻想を見ているのに、彼女だけが冷徹な眼差しを持っています。だから一般人の枠内に収まる能力なのに、それを異常なほど高精度に活用できるのです。人の死も情動も自分自身すら冷静に見つめる眼差しが向かう先は、「人が制度に取り込まれ、数字になり、素材として都市に消化されていく感触」であると思います。子どもが兵士になり地雷で死ぬことも含めて現代と地続きです。これは社会の中にいると見えづらい本質で、しかも「現代を舞台に異化」しようにも、ありふれていて異化しづらいです。なぜなら「ふんふん、なるほど。こういうお話ね」と読む態度が定まってしまいそうだからです。これは第一の経路ですね。異世界テンプレが知覚や認知のフレームを極限まで自動化しているのならば、その枠の中に現代世界の出来事を包んで異化したらどうなるでしょうか? どうだろう。きっとうまくいっていないのでしょうね。
『窓口業務』は端的にいうと、民族浄化のお話です。あるいは、民族浄化に接続する制度暴力の話として設計したつもりです。そして軽く入れた含みとしては、舞台は異世界ではなくて未来となりえる仕掛けとなっています。魔術の発動回路を持たないのが現代の我々で、なんらかの事情で分岐した生命進化の先が彼らです。フィーを始めとした純粋な子どもたちが殺すのは、我々です。こうやって認識を転倒させながら異化を試みているのですが、果たしてどうなのか。この判断は作者にはむずかしいところです。
◇ ◇ 尾川さまの問い ◇ ◇
> 異世界もののテンプレはそもそも異化すべき対象であるのでしょうか
こちらへの問いはお答えできたつもりです。
「テンプレ」については第一の経路であり、読者の読みの枠組みの破壊であり、それが異化の対象です。大量の書物で溢れている現在、読者の読みの態度や枠組みを破壊することは、最初の関門として重要かと思っています。そうしないと「中身に到達できない」「自動処理されてしまう」。それに投稿先がカクヨムである以上、書き手としてテンプレに完全無視を決め込むのもどうなのか? という思いもありました。
> 作品内の異化はたちどころに読者の生きる現在を何等かのかたちで変質させずにはおかない。
> 安曇さん自身のちょっとした迷いがあったのではないか、――異化の実践というより、リアリティを際立たせるための題材の選択であったのではないか、
こちらについては「現代世界の諸問題」を異世界テンプレに包んでおり、民族浄化を執行しているのがテンプレの主人公側で、虐殺されているのが現代の我々である、という転倒などを駆使して、「異化」がうまく機能しづらくなっている現実(とわたしは思っている)に対抗しようとしました。こちらは第二の経路となります。主人公の特異な知覚とプロット上の工夫によりそれを達成しようとした。
「異世界ものだから現実と地続きでない」のではなく、異世界ものとして自動処理してしまう読者の読み方そのものが、現実の制度的暴力を見えなくする知覚の形式と地続きだ、ともいえるかもしれません。
とはいえ、尾川さんが提起された問いは、ここで終わっていないと思います。
もっと深い問題提起があって、とても難しいです。
第一の経路の読みの枠組みの異化は、読者の「生きる現在」を変質させるのでしょうか。テンプレートの読み方が変わったところで、それは読書習慣の変化にすぎないのでは? 現実世界の知覚を脱自動化するシクロフスキー的な異化と、読みの枠組みを脱自動化するヤウス的な異化は、本当に同じ重さを持つのでしょうか? 第二の経路がうまく働いなかったとして、第一の経路しかなかった場合について考えてみた時、それは「純文学」の看板を掲げるに相応しい強度があるのでしょうか。
純文学性とはつまるところスペクトラムであり、純文学というのがある種の権威であり閾値であり「区別」である以上、「異化」「カタルシスの拒否(感情的にどこにも着地しない)」「未決定性(恒久的空所)」のいずれかまたは全てが高いレベルで実現されている必要があると思います。
これはわたしには難しすぎる問いで答えはありませんが、個人的経験として第二の経路の方が強力であると感じます。でもこれはあくまで個人的なものです。純文学を志す方は、特異な体験(それは現実でも文学でも映画でも漫画でもいい)に認識の枠組みを壊された者であると思っています。その壊され方によって強度が変わるのではないでしょうか。
いずれにせよ、異化もなく予定調和で感動させようとし、空所も残されないようなタイプの小説は明確に大衆小説であって、もしそこにエンターテイメント性もなくて、ただ修辞的にだけ凝った文体があるという小説は「単になにもないだけ」であり、文学的な価値はないと考えます。
◇ ◇ 蛇足 ◇ ◇
ここ最近の純文学作品は、第一の経路でまず習慣化してしまった読書スキーマを破壊し、そのあとで第二の経路で知覚の脱自動化に取り組むような仕掛けが多いでしょうか。テーマの現代化についても気になります。村田沙耶香先生の『世界99』はこの辺よくできているのかなと思っていました。
一への応援コメント
安曇みなみさん、私の企画に参加していただいてありがとうございます。
しかしながら、この作品は……純文学としては……読めないかな、と一章を通読して思いましたので、ここまでに致します。しかし、これはあくまで自分の定義での純文学とは違う、という事に過ぎません。内容自体はとても興味深いです。が、まだまだ読まねばならない作品が待っていますので、申し訳ないのですが、ここで失礼します。
作者からの返信
平山さま、お読みいただきありがとうございます。
お忙しい中、一章を通読してくださり、ご感想まで書いてくださったこと、嬉しく思います。
誤解がないよう、念のためひとつだけお伝えさせてください。
この作品はエンターテインメントとして書いたものを純文学の企画に無理に投稿したわけではありません。また、純文学を書こうとしたけれど失敗した、それでも投稿した、ということでもありませんでした。
実は、文学理論に基づいて純文学の構造的条件を定義し、その条件を満たすように設計して書いた作品となっております。異世界ファンタジーの語彙を使っているのも、そのジャンルの枠組みそのものを内側から異化する意図によるものでした。
ここまで真摯に純文学として書こうとしても伝わらない。その自分の力不足に落ち込んでおります。
論点がずれてしまいました……。ともかく、ジャンル違いの迷惑な企画参加を意図したものではない。むしろ本人はとても自信たっぷりに参加していた、ということだけ誤解のないように、お伝えしたいと思いました。
ありがとうございました。
***
せっかくの機会なので、少しだけ語らせてください。
文学について語れる機会など滅多にありませんので。
わたしが考える純文学は、文体の装飾性ではなく、構造の性質で定義される、というものでした。
読み終えた後、読者の中で問いが完結しないこと。登場人物を善悪で裁こうとしても、テクストがその着地を許さないこと。テクストが最後まで埋めない空白があって、読者がその空白を持ち帰ること。
この三つが揃っているとき、その作品は純文学的な性質を持つ、と考えて書いたものになります。誰も興味がない話なのにわたしは note というサイトで延々と語っているのですけど。
この定義に従えば、カーヴァーのミニマリズムも、カフカの乾いた散文も、修辞的には素朴ですが、構造においては純文学です。逆に、どれほど比喩が凝っていても、問いがテクスト内で完結し、読者の倫理的判断が安全に着地するなら、それは構造的にはエンターテインメントに近いと思うのです。
純文学かどうかは、文の美しさではなく、読後に読者の中に何が残るかで決まる。わたしはそう考えています。
それからもうひとつだけ。蛇足を承知で書かせてください。
カフカも安部公房もカズオ・イシグロも、SF的・幻想的な設定で純文学を書いているわけですが、さすがに「異世界ギルドの受付嬢」まで行くと話が違ってくるだろう、というのは、冷静に考えればそうですよね。テンプレの語彙を見た瞬間に、純文学としては読めないと感じられたのは、予期してしかるべきだったと思います。
ただ、これはまさにその反応を利用したくて選んだ舞台設定でもありました。ギルドの受付嬢が親切に仕事を紹介してくれる。読者がその場面に持ち込む安心感や親しみそのものを、構造的な仕掛けとして使いたかったんです。異世界テンプレを純文学にできるか、という実験です。
なんといっても note の連載でそのことを予告した上で、「異世界テンプレで純文学はできる」として書いたものだったのです。
しかし、そうです。
平山さまのご反応を見る限り、(お気遣いいただき、だいぶ柔らかくは書かれていますけれども)そもそも全く純文学としては読めないものだ、というそういう率直な感想をいただけたものと思います。
今後も精進いたします。
三への応援コメント
冒頭から最後まで徹底して硬質なテキスト、お見事です。
多層な比喩に一切の無駄がないのも良いですね。
そうかと思えば「神はそこにいる。」こうあっさりと書かれている部分に、かなり重要なそれが埋め込まれていたり。
読み手を選ぶ作品だとは思いますが、そう割り切ってしまうと全然こういうテイストもアリだと思います!
作者からの返信
最後まで読んでいただき、ありがとうございました
物語論の分析技術は、書き上がった作品の分析だけじゃなくて、事前の構造設計にも使えるよね?という学術的に検証されて合意が取れてるとはいえないけれど直感的には「使えないわけない」というお気持ちがあり、それを検証する試みでした。
なんかうまくいった気がしてます
しかも著作権が自分にあるので、好きなだけ創作論で引用できて便利です!
一への応援コメント
いいですね!
数式、統計。
それらにあてはめられる残酷な現実は、しかしそれが数字として捉えられている間はその悲惨さが字義上はマスキングされる。
戦争や戦闘を語る際にしばしば指摘されるそれが、ノンフィクションではなくフィクションとして展開されると、こうなるのか。
稠密なテキストの情報も、むしろこの調子・展開・表現であれば、グッと引き立つ感じがします。
作者からの返信
涼風さまに読んで感想をいただけるのは嬉しいです!
ラノベもエンタメも純文も歴史資料も創作論も全部読まれてるような方なので。
ライトノベルやライト文芸の作者さまが、事実上の戦争や戦闘(あるいは殺戮)をちゃんとしたエンタメの形で読者に届ける才能は、すごいなといつも思っておりました。最近わたしの読んだやつだと、魔女と傭兵とか、魔女と猟犬とか。
異世界ものを純文にしようとすると、制度を脱構築して異常性を明かしつつ「ひとつも気持ちのいいところなんてないよ!」「読後感悪いけどそれは売りにしてないよ、エンタメになっちゃうもん」という感じで薄気味の悪さをホラー的な快楽や残虐さの悪ノリにならない形で全面に出すことになって、たぶん主題も必要になるんだろうから、読者の居心地はますます悪くなり、「なに読まされてるんだろ?」となるけど、たまにはそんなのだっていいじゃないですか。
というわけでジャンルに回収されないように頑張ったんですけど、そういえば純文学ってライトノベルなんかよりずっと変態じゃないですか。投稿サイトが性癖と欲望の見本市みたいになってるから忘れてたけど、そもそも純文の方が変態じゃないですか。
それでもって、気づけば異世界もの、というよりかは受付嬢の人間性を解体してしまい、手の美しさを延々と描写してしまい、自分の性癖が見えてきて恐ろしくなって描写を控えめにしたものの、見る人が見れば、この作者は変態フェティッシュの塊で、それを一生懸命隠そうとしてるんじゃないか?と疑われそうだと思って、あれ?快楽から離れた純粋な文学にしようとしてたはずなのに、もしかしたらこれは、投稿サイトの変態性癖小説を推し進めただけなのかな?という気がして、それこそ自分の動機だったんじゃないかって気づいたんです。
文学ってこわい!
三への応援コメント
おおおう。
なんともコメントが難しい、でも背筋が冷たくなるお話でした。
彼女は受付嬢より、将軍とかの方が向いているかも知れませんね。
どっちも、まともな神経ではやってられません。
作者からの返信
コメントありがとうございます!
えへへ、そんなこといっちゃってー。風上さまも美人受付嬢の手のひらで転がされたいのでしょ?
将軍は全体指揮だけど、彼女は少数の超希少な冒険者の個別具体的管理だから適正が違うかもです。
でもあれです。一人称の語り手の頭がよい設定だとものすごく書きやすかったです。頭ポンコツな子の一人称ってほんとに難しかったんだなと。
ちなみに物語論で分析されるような純文ぽい技巧のオンパレードなので書いてて楽しかったです。「あ、これ、普段読んでる本とおんなじ空気ある!」みたいな。
二への応援コメント
定期的に読み返してしまいます。うーん、有害種が人間だってわかる場面やはり衝撃です…
作者からの返信
感想ありがとうございます。衝撃といっていただけるのは嬉しいです!
「徹底的にやってやるんだ」となんだかよくわからないままに心に決めました。テンプレに親を殺されたわけでも恨みがあるわけでもありませぬが、絶対テンプレを壊してやるーっ!と意気込んで書いてました。むしろそっちが衝撃かもです