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  • 第1話への応援コメント

    私は、作品の構造や、その奥にあるものを読むのが好きです。
    本文の分量を超えるほど長くなってしまいましたが、この作品から私が感じ取った、奥で支えているものについて書かせてください。

    一読すると、「認知が乱れた老人が、理不尽なクレームをつけて返金を受ける話」として読めます。

    老眼鏡を勧められて怒る
    ウインドウに映る老人を、自分だと認識できない
    「二名だけど」と言うのに、一人掛けに案内される
    桃色の軽自動車を探す
    九十番を探す
    赤い車を探す
    最後は電動自転車で帰る
    入れ歯が合わず傷に染みているのに、ハンバーガーに血の味がするとしてクレームを入れる。

    表面から見れば、これは現実認識が崩れていく話に見えます。
    読み返すと、ただ崩れているだけではない気がしてきます。



    語り手は、何も見えていないわけではありません。

    老人の姿も見えている
    銀色の安っぽい時計も見えている
    一人掛けの席に案内されたことも、わかっている
    車が見つからないことも、わかっている
    入れ歯が傷に染みることも、口の中で感じている

    そして作品の後半、電動自転車で帰る場面で、こんな描写があります。

    「尻の肉がサドルを押す。細い脚がペダルを踏みふくらはぎに瘤(こぶ)を作る」

    語り手自身が、ここまで書いています。
    老いた身体の細部まで、ちゃんと届いています。

    問題は、届いていないことではないと思います。
    届いたあと、その情報がどこへ行くかです。



    老眼鏡を勧められた
    → 店員への怒りになる

    一人掛けに案内された
    → 「馬鹿にされた」という受け取りになる

    車が見つからない
    → 「私は呆けてしまったみたいだ」と、一瞬だけ自分へ近づく
    → でも次の行で「この暑さだ、仕方ないと思った」になる

    入れ歯の傷から出たかもしれない血の味
    → ハンバーガーへのクレームになる

    溶けたシェイクのクレームで300円
    血の味のクレームで1250円
    → 「300円儲けた」「店長は馬鹿だ」という勝利になる

    受け取ったものが、「私の老い」「私の記憶違い」「私の身体の問題」という場所へは戻ってこないし、
    すべて、外への不満か、自分の優位を確認する方向へ流れていきます。

    怖いのは、語り手の認識が止まっていることではないと思います。

    むしろ、ずっと動き続けている。
    外から見れば崩れている。
    でも語り手の内側では、ある方向へ、きちんと処理され続けている。

    ただ、「私」という宛先だけが、どこにもないということです。



    この作品でいちばん重要な一文は、車が見つからなくなった直後に出てきます。

    「私は呆けてしまったみたいだ」

    ここだけが、語り手の認識が「私」に最も近づいた瞬間だと思います。

    注意したいのは、「みたいだ」という言い方です。
    「私は呆けた」ではない。
    「呆けてしまったみたいだ」。

    まだ確信ではない。
    様子見のような、仮置きのような言葉です。

    それでも、語り手の中に「私は呆けているかもしれない」という方向の言葉が浮かんだのは、作品を通じてここ一度だけです。

    でも次の行で、その言葉はすぐに別の方向へ行ってしまう。

    「この暑さだ、仕方ないと思った」

    近づきかけた「私」の方向へ向かう言葉が、「暑さのせい」に変わる。

    ここで、この作品の構造はほとんど決まったように感じました。
    以降、語り手の認識が「私」に向かって進む瞬間は、もう来ません。



    もうひとつ、ずっと引っかかる場面があります。

    「私は、二名だけど、と店員に伝えた」
    「ハンバーガーショップで二人分の注文をして」

    語り手はラーメン店でもハンバーガーショップでも、二名・二人分と申告しています。
    でも外からは、一人として扱われている。

    二人目は誰なのか。

    ここだけは、最後まで答えが出ません。

    作品の終わり近くに、こういう一文があります。

    「帰り道の記憶だけは残っていた。出掛ける時の私の記憶が残念だと言った」

    出かけるときの記憶が、語り手の手元にない
    誰と出かけたのか
    なぜ二名だったのか
    その答えが入っていたかもしれない記憶が、ない

    「二名」そのものは、店員への怒りにもなりきらない
    自分の優位の確認にもならない
    自分自身への認識にもならない

    ただ繰り返されて、答えのないまま置かれています。

    この作品の中で、「二名」だけは少し異質に感じました。
    語り手の認識がどの方向にも流れていかない。
    外への不満にもならず、勝利にもならず、ただ残っている感じです。

    その残り方が、かなり怖いと思いました。



    作品の終わりでは、語り手の「勝利宣言」のあとに、三つのものが置かれます。

    電動自転車を漕ぐ老いた身体の描写
    「出掛ける時の私の記憶が残念だと言った」という一文
    「背を見る店長が、私を一瞥していた」という最後の視線

    語り手は、どれも処理しません。
    処理しないまま、作品が閉じます。

    特に、「出掛ける時の私の記憶が残念だと言った」という一文は、少し奇妙な形をしていると思います。

    「私の記憶」が主語になっている。
    その記憶が、「残念だと言った」と書かれている。

    本来なら、記憶は語り手が持っているもののはずです。
    でもここでは、記憶のほうが語り手を見て、語り手を評価しているように読めます。

    語り手が評価する側ではなく、評価される側に回っている。

    でも、語り手はそのことを受け取りません。
    受け取らないまま、最後の視線だけが残ります。

    店長が、帰っていく語り手の背を見る
    語り手自身には見えない背中を、他人だけが見ている

    この終わり方で、語り手の勝利の外側に、語り手が処理できないものが静かに残されている気がしました。



    語り手は勝っています。

    本人の中では、本当に勝っている。

    「300円儲けた」
    「あの店長は馬鹿だ」

    これは嘘ではないと思います。
    語り手の認識の中では、完全に成立している。

    ただ、その勝利は、次のような認識を一度も通っていない。

    「私は老いた」
    「私は記憶を間違えた」
    「私は一人だった」
    「私の身体から血の味がした」

    勝利は成立している。
    でも、その勝利を受け取るはずの「私」が、どこにも届いていない。

    ここが、この作品のいちばん苦いところだと思いました。



    「1550円の勝利」というタイトルは、読後少し胸が締め付けられます。

    お金の勝利でも、クレームの勝利でもないと思います。
    「私の老い」「私の記憶」「私の身体」をどこにも届けないまま、外への不満と自己優位だけが動き続けた、一日の閉じた結果です。

    語り手の勝利は、たぶん嘘ではない。
    少なくとも語り手の中では、本当に勝っている。

    でも、その勝利の中に、語り手自身を受け取る場所がない。

    そのことが、この作品を静かに、どこまでも苦いものにしていると思います。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    私は書く時は何も考えずに即興で書くので、ホームセンターに買い物に来た主人公がクレームを入れる、描写を書いてる内に私の思考の中のパズルがこう書けば面白くなるかな、そんな感じで書き進めていったように記憶しています。ラーメン屋さんが(幻夢)とあるのでこの時点で、私の頭の中に「幻」「夢」で行こうという考えがあったと思います。

    私、これを書いたときは小説歴半年行ってなかったので、かなり試行錯誤で書いていた(今も試行錯誤なんですが(汗))んです。確か投稿してから手直し3回ほど入れたと思います。投稿して直ぐに結構評価も入ったので。つい嬉しくて。


    感想頂いたような思考が私の中にもあったように記憶しています。この主人公の行動に余白を作って終わらせてあげたいと思ったのと、その余白を読者に委ねるということだったと思います。


    私の中で「余白」を意識して残した作品だと思います。