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  • 車窓への応援コメント

    この作品を読み終えて、しばらく考えました。
    純文学として置かれている作品なので、少しだけ硬く書きたいと思います。

    「列車揺られ」は一読すると、仕事を手放したばかりの人間が、行先もなく列車に揺られている、ただそれだけの話に見えます。でも読み終えたとき、何か重いものが少し残りました。

    主人公「私」の置かれた状況を考えました。
    一週間前に「重荷だったもの(職)」が弾けた。解放されたはずです。
    実際、「やけに元気である」とも書かれています。
    ところが同時に、何かに「追われているような気がしてならん」とも書かれている。
    重荷がなくなったのに、追われる感覚だけが残っている。
    この奇妙な並立が、作品の最初の違和感として置かれています。

    「私」はその違和感の中で、叫んでみたいと思っても叫べず、降りようとしても降りられず、三十分以上貧乏ゆすりが止まらない。貧乏ゆすりは幼い頃から親に叱られていた癖で、当時のことを思い出すと「あの頃ほど時間が足りないと思えていた時期は、もう来ないだろう」という箇所が出てきます。
    やるべきことに追われて時間が足りなかった過去の方が充実していた。
    今は行先もなく時間が余り、それでも何かに追われている。
    この逆転もまた、作品の底に静かに流れています。



    最も印象的な場面が、車窓への接触です。
    揺れた衝撃で、冷えた車窓に頭をぶつける。
    その瞬間、陽炎のようにゆらゆらしていた思考が描かれます。

    「ふっと消えて」現実が見えた。

    ここで普通の物語なら、何かが変わります。
    現実に触れたことで、次へ踏み出す力が生まれる。
    そういう展開を読者は自然と期待します。

    しかしこの作品が次に置くのは、そうではありません。

    「何も見えていなかった過去が沸々と湧いてくる」
    「まっすぐ、前にだけ走っても頭をぶつけなかったあの頃に戻りたいなぁ」

    ここを読んだとき、私は少し息が止まりました。
    現実が見えたのに、向かう先が生まれない。
    浮かび上がるのは、何も見えていなかった頃の方がまっすぐ走れていた、という認識だけです。

    現在は車窓に頭をぶつけた。
    過去は、まっすぐ前に走っても頭をぶつけなかった。

    この二つが文章の中で対比として置かれています。
    見えていなかった過去は、まっすぐ走れていた時間として現れる。
    けれど、現実が見えた現在には、次の行先が示されない。
    「現実が見えること」と「前に進めること」は、この作品の中で一致しない配置になっています。



    私自身、気がかりだった最後の一文。

    「男の背中は、トンネルの中に消えていった」

    それまでずっと「私」として語っていた語り手が、最後の一文だけ突然「男」という三人称になります。
    「男」が誰なのか、「私」と同じ人物なのかどうか、作品はいっさい説明しません。
    ただ、その背中がトンネルへ消えていく場面だけが置かれて、終わります。

    現実が見えた後に行先が生まれなかった主体の、その後を作品は定義しない。
    「男の背中」が何者であるかを明かさないまま、視界の消える場所へと送り出して、本文は終わる。



    この作品に対して私が導き出した命題はこうです。

    「列車揺られ」は、現実を見れば人は前に進めるという話ではない。
    現実が見えた後にも行先は生まれず、浮かび上がるのは、何も見えていなかったまま前へ走れていた過去だけである。
    中心にあるのは「頭をぶつけた現在」と「頭をぶつけなかった過去」の対比であり、終端にあるのは、未定義の「男の背中」が、説明されないままトンネルへ消えていくという配置である。

    そこに、この作品にしか持てない重さがあると思います。

    作者からの返信

    ありがとうございます!
    この短い1作品をそこまで吟味して、言語化して、感想にしてくれる事。1人の作者としては何よりも嬉しく思います。本当にありがとう。

    多分作者である僕よりも、あなたの方が物語の中の彼のことを良く観察できていて驚きました。そのおかげで一層、僕はこの作品が好きになったと思います。