第二節 白黒の余白
展示室を出た二人は、美術館の喫茶コーナーに腰を下ろした。
窓から射し込む夕陽がテーブルに淡い影を落とし、珈琲の湯気は頼りなく揺れている。
「……もし差し支えなければ、さきほどのお写真についてお聞かせいただけませんか? 強く心を動かされていたように、お見受けしましたものですから」
紗季は正面から慶一を見据え、彼の言葉を待った。
慶一は指先でカップを撫で、しばらく沈黙した。やがて目を伏せたまま言葉を紡ぎ出した。
「……彼女は――瑞希と言いますが、僕の恋人でした。数年前、突然の事故で──それも、私の目の前で……」
声が震えた。
「交差点の横断歩道でした。信号が変わり、彼女が踏み出した瞬間でした。ブレーキを踏み損ねた乗用車が、信号を無視して突っ込んできた。僕は手を伸ばしたのに、ほんの数歩が届かなかったんです。
地面に崩れる彼女の頬から、血の気が引いていくのが見えた。倒れている彼女のそばで、気づくと何度も名前を呼んでいた。一度だけ、薄っすらと瞳を開けて、囁くように――「おるご……」と。これが最後でした。救急車のサイレンが聞こえても、時間はまるで止まっていて……。そのとき、僕の肩にはカメラがぶら下がっていた。なのに、シャッターを切るなんてことは、全くできなかったし、思いつきもしなかった」
言葉は途切れ途切れになり、慶一は目を覆った。
「もし撮っていたら、少なくとも最後の瑞希を……僕は残せたのに。でも撮れなかった。……だから僕は、恋人だけじゃなく、カメラマンとしての自分の眼と手の意味までも失ったんです」
慶一は長い沈黙ののち、手元のコーヒーに視線を落とした。
「……事故のあと、世界から色が抜け落ちたように思えました。街も、空も、人の顔さえも、すべて白と黒の濃淡でしか見えなかった。それ以来、僕はカラーで撮ることができなくなったんです。シャッターを押すたび、どうしても色を拒む。いえ、色が私を拒むのです。残されたのは光と影だけ……」
彼は言葉を選びながらも、ふっと息を吐いた。
「でも、今はそれでいいと思っています。光と影が織りなす表情こそ、人間の真実を映す。色は、ときに記憶をごまかす。けれど、影は決して嘘をつかない。僕にとってモノクロの世界は、失った彼女を追い求める一つの手段であり、同時に人間そのものを見つめ直すための唯一の方法なんです」
静かな喫茶室に、氷を割る音が遠く響いていた。紗季は息を呑んだまま、慶一の告白を遮らずに聴き続けていた。
窓辺に射す夕陽が二人の間の白いテーブルを淡く照らし、その影の揺らぎは、言葉では埋められない余白を、微かに浮かび上がらせていた。
慶一の言葉に、紗季はしばらく黙っていた。
カップの縁に指を添え、窓の外にやがて広がる夜の街を見つめる。その横顔には、どこかためらいと、語ろうとする決意が交錯していた。
「……実は、私も似たようなことを経験しました」
静かな声が、やがて慶一に届く。
「小学生の頃、病気で目を失いかけたんです。何度も手術を受けて、やっと今の視力を取り戻しました。でも、長い間、視界は霞んでいて……黒い影が水面に広がるみたいに、少しずつ世界が消えていくのを感じていました」
慶一は思わず息を呑む。紗季は続けた。
「その頃は、学校でからかわれていました。黒板が見えなくて答えられないと、男子たちから『わざとだ』なんて言われて……友だちだと思っていた子に手を引かれながら廊下を歩いていても、心のどこかで置き去りにされている気がして。正直、辛かったです。でも学校ではそうあっても、家に帰ると母が、絵本を読んでくれるんです。『今、このページには青い海が広がっているよ』って言いながら……目に見えない色や形を、声や言葉で想像するしかなかった。だから、見えないものを想像する眼差しを、自然に身につけてしまったんです。――いえ、身につけることができたのだと思います」
言葉の端々に、幼い頃の孤独と、そこから芽生えた強さが滲んでいた。
「だから、葉山さんの言葉……よく分かります。光と影だけでも、そこに人の真実は映り込む。むしろ影があるからこそ、想像で補えるものがある。だから私にとっては……色よりもモノクロの余白の方が、確かなものに思えるんです」
慶一はその瞳を見つめた。
彼女の声に、瑞希を失ったあの日から初めて、ほんのかすかな救いの響きが混じっているのを感じ取った。
「光と影の間にしか、真実は残らない……」
二人の言葉が重なった。
互いの瞳に宿る光と影が、言葉よりも深く響き合っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます