余韻【参】 ー光の残像(視覚)ー
枯枝 葉
第一節 幻の写真
地方紙の小さな連載で撮った一枚の白黒写真が、編集者の目に留まったのが始まりだった。街角にうずくまる老人の影を、夕暮れの光とともに切り取った一枚……華やかさには乏しかったが、不思議な余韻を残した。
やがて雑誌からの依頼が増え、都心のギャラリーで個展を開くと、評論家たちは「明暗を操る写真家」と評し、若き写真家の名は業界に広まっていった。
だが、喝采が長く続いたわけではない。
時代はすでにカラー写真の鮮烈さを求め、広告や雑誌は「目を奪う色彩」を競い始めていた。白黒に固執する慶一の姿勢は、いつしか古さとして扱われ、次第に居場所を狭めていった。
ある日、都心のホテルで、雑誌編集部とカメラマンたちが顔をそろえる合同会議が開かれた。壁一面にスクリーンが設置され、新しい広告キャンペーンの試作が次々と映し出されていった。
「次号の特集は『都市の息吹』です。読者は明るさと勢いを求めています。ですから──」
編集長が言葉を区切り、リモコンでスライドを進めた。そこには鮮やかなカラーのモデル写真が並ぶ。
「葉山さん、今回はこういう方向でお願いします。陰影の強いモノクロは、誌面に馴染まないんですよ」
会議室に笑い声が少し広がった。慶一は黙ったまま写真を見つめていたが、やがて低い声を漏らした。
「……都市の息吹は、色彩でしか表現できないのでしょうか?」
空気が一瞬止まる。
彼の隣にいた若手のカメラマンが、慌てて冗談めかした。
「まあまあ、葉山さん。モノクロは渋いですけど、今のトレンドじゃないんで」
しかし慶一は譲らなかった。
「光と影が織りなす表情こそ、人間の真実を映すと思うのです。色に頼れば、かえって余分なものまで写り込んでしまう」
編集長がメモを閉じ、笑顔を保ったまま言った。
「哲学は立派ですが、雑誌は商品です。スポンサーが喜ばなければ、意味がありません」
慶一は頷き、口を閉ざした。
会議室に、空調の低い唸りだけが耳に残る……。けれどその沈黙には、慶一の譲らぬ意志が色濃く滲んでいた。
会議の帰りに立ち寄った地方美術館は、平日の夕刻のせいか人影もまばらだった。
冷房の効きすぎた廊下を抜けると、白壁の展示室が広がった。「白百合の祈り」のピアノ曲が、静かに流れている。慶一はほとんど期待はせずに、中へと足を運んだ。地方の写真展といえば、どうせ観光地の風景や子どもの笑顔ばかりだろう、そう思っていたからだ。
ところが、壁の一隅に掛けられた一枚の白黒写真の前で、足が止まった。
柔らかい逆光に照らされた横顔。長い髪が頬にかかり、うつむく姿は、呼吸の気配まで写し込まれているようだった。
胸の奥が、不意に痛んだ。
──
その名が、声にならぬまま喉に絡んだ。
数年前の事故で、永遠に失ったはずの人。写真に写る女性は、彼女の面影をそのまま映したようだった。
慶一は近づき、キャプションに目を走らせた。
〈出展者:葉山慶一〉
自分の名前が、そこに記されていた。
頭が真っ白になった。
撮った覚えはない。
どこで、いつ、誰が撮ったのか──胸に黒い靄が降りる。
写真の前に立ち尽くす慶一の耳に、館内放送が遠く響いた。
「まもなく閉館のお時間です──」
けれども彼の時間だけが、あの日の事故現場に引き戻されたかのように、凍りついていた。
慶一は写真の前から動けずにいた。
背後から控えめな声が聞こえてきた。
「こちらの作品に、関心をお持ちですか?」
振り返ると、濃紺のスーツに身を包んだ学芸員が立っていた。名札には〈芦屋紗季〉とある。彼女の眼差しは、ただ事務的なものではなく、写真の前に佇む慶一の胸の内を探るような静けさを帯びていた。
「……ええ。この写真は、私には特別な意味を持っているのです」
言葉を選びながらも、慶一の声にはかすかな震えが滲んだ。
紗季は数秒の沈黙の後、口を開いた。
「由来を、少しお調べしてみましょうか。出展資料が残っているはずですから……」
慶一は彼女の顔を見つめた。思いがけない申し出に戸惑いながらも、胸の奥に微かな明かりが灯るのを感じた。
「……助かります。この横顔は、数年前に亡くなった人に、驚くほど似ているんです。私はその事故のとき、何もできなかった。守るどころか、最後に交わすはずの言葉すら……」
声が詰まり、続きは言えなかった。
紗季は表情を変えず、静かに頷いた。
「写真に、そうした重さを見出されているのですね。……私も、視力を失いかけたことがありました。幼い頃ですが、暗闇しか見えない日々が続いたんです。だからでしょうか、人の心に映る影に触れると、どうしても他人事とは思えなくて」
慶一はわずかに息を呑んだ。
彼女の言葉は慰めではなく、どこか遠い痛みからにじみ出た響きだった。
「……奇妙ですね。写真ひとつの前で、こうして過去を口にしてしまうなんて」
「ええ。でも、光と影は、不思議と人を引き合わせるものかもしれません」
二人の間に短い沈黙が流れた。
展示室の白壁に反射する光が、写真の余白を柔らかく照らし出している。
紗季は控えめに微笑んだ。
「ところで……この作品の撮影者について、少し記録を確認してみますね」
その一言が、慶一の胸に新たなざわめきを残した。
撮った覚えのない一枚に、自分の名が記されている。その不可解さは、説明の言葉を拒むかのように彼を黙らせていた。
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