余韻【参】 ー光の残像(視覚)ー

枯枝 葉

第一節 幻の写真

 葉山はやま慶一けいいちが初めて名前を知られるようになったのは、二十代後半のことだった。

 

 地方紙の小さな連載で撮った一枚の白黒写真が、編集者の目に留まったのが始まりだった。街角にうずくまる老人の影を、夕暮れの光とともに切り取った一枚……華やかさには乏しかったが、不思議な余韻を残した。

 やがて雑誌からの依頼が増え、都心のギャラリーで個展を開くと、評論家たちは「明暗を操る写真家」と評し、若き写真家の名は業界に広まっていった。


 だが、喝采が長く続いたわけではない。

 時代はすでにカラー写真の鮮烈さを求め、広告や雑誌は「目を奪う色彩」を競い始めていた。白黒に固執する慶一の姿勢は、いつしか古さとして扱われ、次第に居場所を狭めていった。


 ある日、都心のホテルで、雑誌編集部とカメラマンたちが顔をそろえる合同会議が開かれた。壁一面にスクリーンが設置され、新しい広告キャンペーンの試作が次々と映し出されていった。


「次号の特集は『都市の息吹』です。読者は明るさと勢いを求めています。ですから──」

 編集長が言葉を区切り、リモコンでスライドを進めた。そこには鮮やかなカラーのモデル写真が並ぶ。

「葉山さん、今回はこういう方向でお願いします。陰影の強いモノクロは、誌面に馴染まないんですよ」

 会議室に笑い声が少し広がった。慶一は黙ったまま写真を見つめていたが、やがて低い声を漏らした。

「……都市の息吹は、色彩でしか表現できないのでしょうか?」


 空気が一瞬止まる。

 

 彼の隣にいた若手のカメラマンが、慌てて冗談めかした。

「まあまあ、葉山さん。モノクロは渋いですけど、今のトレンドじゃないんで」

 しかし慶一は譲らなかった。

「光と影が織りなす表情こそ、人間の真実を映すと思うのです。色に頼れば、かえって余分なものまで写り込んでしまう」

 編集長がメモを閉じ、笑顔を保ったまま言った。

「哲学は立派ですが、雑誌は商品です。スポンサーが喜ばなければ、意味がありません」


 慶一は頷き、口を閉ざした。

 会議室に、空調の低い唸りだけが耳に残る……。けれどその沈黙には、慶一の譲らぬ意志が色濃く滲んでいた。


 会議の帰りに立ち寄った地方美術館は、平日の夕刻のせいか人影もまばらだった。

 冷房の効きすぎた廊下を抜けると、白壁の展示室が広がった。「白百合の祈り」のピアノ曲が、静かに流れている。慶一はほとんど期待はせずに、中へと足を運んだ。地方の写真展といえば、どうせ観光地の風景や子どもの笑顔ばかりだろう、そう思っていたからだ。


 ところが、壁の一隅に掛けられた一枚の白黒写真の前で、足が止まった。

 柔らかい逆光に照らされた横顔。長い髪が頬にかかり、うつむく姿は、呼吸の気配まで写し込まれているようだった。

 胸の奥が、不意に痛んだ。

 

 ──瑞希みずき


 その名が、声にならぬまま喉に絡んだ。

 数年前の事故で、永遠に失ったはずの人。写真に写る女性は、彼女の面影をそのまま映したようだった。


 慶一は近づき、キャプションに目を走らせた。

 〈出展者:葉山慶一〉

 自分の名前が、そこに記されていた。


 頭が真っ白になった。

 撮った覚えはない。

 どこで、いつ、誰が撮ったのか──胸に黒い靄が降りる。


 写真の前に立ち尽くす慶一の耳に、館内放送が遠く響いた。

「まもなく閉館のお時間です──」

 けれども彼の時間だけが、あの日の事故現場に引き戻されたかのように、凍りついていた。


 慶一は写真の前から動けずにいた。

 背後から控えめな声が聞こえてきた。


「こちらの作品に、関心をお持ちですか?」


 振り返ると、濃紺のスーツに身を包んだ学芸員が立っていた。名札には〈芦屋紗季〉とある。彼女の眼差しは、ただ事務的なものではなく、写真の前に佇む慶一の胸の内を探るような静けさを帯びていた。


「……ええ。この写真は、私には特別な意味を持っているのです」

 言葉を選びながらも、慶一の声にはかすかな震えが滲んだ。


 紗季は数秒の沈黙の後、口を開いた。

「由来を、少しお調べしてみましょうか。出展資料が残っているはずですから……」


 慶一は彼女の顔を見つめた。思いがけない申し出に戸惑いながらも、胸の奥に微かな明かりが灯るのを感じた。


「……助かります。この横顔は、数年前に亡くなった人に、驚くほど似ているんです。私はその事故のとき、何もできなかった。守るどころか、最後に交わすはずの言葉すら……」

 声が詰まり、続きは言えなかった。


 紗季は表情を変えず、静かに頷いた。

「写真に、そうした重さを見出されているのですね。……私も、視力を失いかけたことがありました。幼い頃ですが、暗闇しか見えない日々が続いたんです。だからでしょうか、人の心に映る影に触れると、どうしても他人事とは思えなくて」


 慶一はわずかに息を呑んだ。

 彼女の言葉は慰めではなく、どこか遠い痛みからにじみ出た響きだった。


「……奇妙ですね。写真ひとつの前で、こうして過去を口にしてしまうなんて」

「ええ。でも、光と影は、不思議と人を引き合わせるものかもしれません」


 二人の間に短い沈黙が流れた。

 展示室の白壁に反射する光が、写真の余白を柔らかく照らし出している。


 紗季は控えめに微笑んだ。

「ところで……この作品の撮影者について、少し記録を確認してみますね」


 その一言が、慶一の胸に新たなざわめきを残した。

 撮った覚えのない一枚に、自分の名が記されている。その不可解さは、説明の言葉を拒むかのように彼を黙らせていた。

 

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