二
「目が覚めたかね」
なんだか懐かしい声が、どこか遠くから聞こえた。だがその声は初めて聞くものだから、懐かしいのは気のせいだろう。
「……顔色も幾分か良くなった。偶然あそこにいた
額に乗せられていた手のひらが、私の体温を確かめるように頬を撫で、離れた。
その手はとても温かくて、心地よかった。もう思い出せないくらい遠い記憶になってしまった母のことを、想い馳せてしまうほどに。
なぜか痛む両目を何とかこじ開け、目を凝らせば。
目の前には、私の顔を覗き込む中年の男と、手拭いが掛けられた桶を持つ綺麗な少年がいた。
「……誰、だ」
男は可笑しそうに笑うと、私の頭を優しく撫でた。それは子供をあやすような手つきだった。
「人に名を尋ねる前に、自分の名を名乗りなさい。それが礼儀というものであろう」
「……すまない」
謝罪の言葉を呟いた私は、ゆっくりと体を起こした。
身体が重く感じたのは体調不良かと思ったが、それは違った。私に掛けられている何枚もの布団の所為だった。
上半身を起こした私は、ぐるりと辺りを見回した。
どうやらここは、どこかの家の一室のようだ。
室内には私と中年の男と、私と同じ歳くらいの男の子がひとり。それだけで窮屈に感じる畳四枚分の部屋に、私は寝かされていた。
いや、正確には栄太郎とかいう少年に助けられ、ここに運び込まれたのだろう。
私は叩きつけられたように痛む体に鞭を打ち、その場で両手をついて頭を下げた。
「…私の名は、
うむ、と男が言う。桶を持っていた少年が、手に持っていたものをその場に置いて、私の傍へと寄った。
「無理に起きなくていいよ。楽になるまで、休んでいて」
少年は私を支えるように背側に回ると、ゆっくりと私の体を寝かせてくれた。それを不満に思ったのか、中年の男が眉を顰める。
「
きさ、と呼ばれた綺麗な少年は私に布団を掛けると、男の方を振り向いた。
「先生、あなたは鬼ですか。病人と話など」
「しかしなぁ」
男は困ったようにぼりぼりと頬を掻いて、綺沙を見つめた。
綺沙は両腕を胸の前で組むと、駄目、ときっぱり言い放つ。
「鬼ではなく人ならば、彼女を寝かせてください。それに、話をするよりも先に、するべきことがあるでしょう」
「なにがあると言うのだ」
子供のように肩を竦めた男の肩に、綺沙の白い手が乗る。
「お弟子さんたちに任せっきりにしている、薬草集めですよ」
男はがっくりと肩を落とすと、重い腰を上げ、襖戸の向こうに行った。
残された私は、すまない、と綺沙という少年に向かって囁いた。
綺沙は驚いたように目を見張ると、唇を柔らかく綻ばせ、二、三度首を横に振る。
「あなたが謝ることなんて、何もないよ。……ごめんね、先生は時折、無茶を言う人で」
歳の頃は、私とさほど変わらないと思っていたが、彼の方がいくつか上かもしれない。
大人びた雰囲気とせつなげな微笑みに、胸を震わせられたから。
そういう顔は、いつも難しいことを考えている大人たちが見せていたものによく似ている。
「……華純、だっだよね」
私の枕元で手拭いを濡らした綺沙が、そう尋ねてきた。
私が首を縦に振ったのを見て、彼は安心したように笑う。
「さっきは驚いたよ。血の池に浸かってきたのか、ってくらいに真っ赤な姿で、あなたは栄太郎に担がれてきたんだよ」
栄太郎とやらに助け出されたことは聞いていたが、真っ赤になった記憶が全くなかった。
山を二つ越えた先にある町へ薬を求めに出かけていた私は、その帰り道で、焼かれていた村から逃げてきたあの少年と出逢ったのだ。
確か、名はハジ。なぜ村があのような目に遭っていたのかは分からないが、賊か何かの仕業だろう。
あの少年を逃がすために、私は刀を振るい続けていた。
私は袖を捲ったり胸元の袷を覗いたりして、流血するような怪我をしていないか確認した。
多少の擦り傷や青あざはあるが、斬られたような痕はない。ひと月も経てば万全に回復するだろう。
「……ほとんど返り血だから、大丈夫だ」
「それは、傷の具合を診た女の人が言っていたね」
綺沙は苦笑交じりに頷くと、豆やタコがある女らしくない私の手を見て、目を丸くさせた。
「……あなたは剣術を?」
「ああ。居候先が道場をやっていて、私はそこで
私は季節関係なしに荒れている両掌を綺沙にそっと見せ、掛布団の中にしまい込んだ。剣をやっているから仕方ないとはいえ、女のような綺麗な手をしている綺沙からしたら見苦しいものだろう。
「師範代って、指導者の次に凄い人だろう。あなたは強いんだね」
綺沙はふんわりと笑うと、布団の中に隠した私の右手を包み込むように持ち、そっと撫でる。
春の陽気のようにあたたかい温度に触れた私は、なんだか気恥ずかしくなって、目を逸らした。
「……そんなことはない」
綺沙はまた笑うと、私の手を離し、おもむろに立ち上がる。そして優雅な足取りで襖戸に手を掛けると、私を振り返った。
「どうやら帰ってきたようだ。……あなたは目をつぶっていて。寝ていると言っておくから」
煩いからね、と綺沙は微笑むと、細い人差し指を私の唇にあてがい、柔らかな声音で囁いた。
「おやすみ、華純」
その言葉の後に問答無用で寝かされた私は、何かに吸い込まれるように意識を手放した。
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