第二章 傷痕

 一条いちじょう由乃ゆのとはマッチングアプリで出会った。

 クリスマスが近づく昨年の一二月中旬、その日会うはずだった女性に突然「恋人ができたからもう会えない」と告げられた。生憎その日は他の女性たちも都合が悪く、しかし、だから仕方ないと引き下がる気分ではなかった。誰でもいいから見繕おうと思い、ダウンロード後にアカウント登録しただけのマッチングアプリを久しぶりに開いた。プロフィールを更新すると、しばらくして『いいね』が付き始める。主婦、OL、大学生……そして、私のプロフィールをよく見ていないらしい男性も少々。スクロールしていく中で、場違いなほど丁寧な文体でプロフィールを形作るアカウントが目についた。自撮り写真もない、デフォルトの『NO IMAGE』と表示されたプロフィール画像。どんな女性だろうと逆に気になった。

『はじめまして。選んでくれてありがとうございます。』

 マッチ成立後、私はすぐにメッセージを送った。すると、彼女もまたすぐに返信を寄越した。

『はじめまして。こちらこそ、ありがとうございます。早速ですが、今夜お会いできますか。』


 話が早くて助かる。そう思いながら先方の指定した麻布十番駅まで向かった。高級住宅街が並ぶこの地区は、時折個人の顧客に呼ばれることはあるが、仕事以外で来るのは初めてだった。駅の改札を抜け、待ち合わせの場所に立つ。アプリから到着のメッセージを送ろうとしたその時、「あの……」と、控えめな声が私に声をかけた。

 スマホから顔を上げると、白い上品なコートを纏う女性が立っていた。顔を隠すようにカシミヤのマフラーを巻き、白い帽子を目深に被っている。烏の濡れ羽色──そう例えるのが相応しいほど艶やかな黒髪がひとすじ、穏やかに靡く。色白の肌は寒さのせいかほんのり赤らんでいた。ひと目で育ちの良さを感じる彼女は、肩にかけたショルダーバッグの紐をきつく握りながら私を見た。プロフィールには三一歳と記載されていたが、黒目がちの可愛らしい顔立ちだ。私と目が合うと、彼女は驚いたように瞬きをした。

「……え……あ、あなたが、トオルさん……?」

「はい。ユノさん、ですか? ──その顔、私では期待外れでしたか」

「いえ……! お、お綺麗な方で、びっくりして……」

 由乃は俯き、顔にかかる黒髪を忙しなく触りながら動揺した。その指先には結婚指輪が光っているのが見える。彼女の体が震えていることに気づき、私は目を細めて地図アプリを開いた。

「寒いですよね。カフェにでも入りますか? それとも、ホテルに直行?」

 さらりと訊ねると由乃は大袈裟に肩を跳ね、顔を真っ赤に染めた。

「ひ、人に見られたくないので、ホテル、で……。あの、私、予約してます」

「わかりました。とりあえず行きましょうか」

 にこりと微笑むと、由乃は何やらもごもごと呟き、最終的に頷いた。私が歩き出すと、数歩後ろから静々とついてくる。私が歩みを止めると、彼女も一歩後ろで立ち止まった。

「……ユノさん、私はどちらのホテルかわからないので、ホテルの名前を教えていただけますか」

「あ……すみません、えっと……このホテルです。会員なので……」

 スマホ画面を見せられる。そこにはラブホテルではなく、高級ホテル『ヴェールアムール麻布』スイートルームの予約完了画面が表示されていた。

「……このホテルですか?」

「お気に召しませんか……?」

「いえ、あまりに格が高くて驚きました」

 一泊一室一〇万円。予約画面を見たところ、デイユースではない。

「こんな素敵なホテルに、本当に初対面の私と行っていいのですか?」

「……はい。マッチングした方と行くと心に決めて、予約しましたので……トオルさんと行きます」

 由乃は真っ直ぐに私を見た。彼女はひどく自信なげで流されやすい印象の女性に見えたが、己がこれと決めたことは突き通す質のようだ。

「それに、私に反応してくださったのはトオルさんだけなので……予約が無駄にならなくてよかったです」

「そうでしたか。ユノさんがそう言うなら、遠慮なく。駅から割と近いようですね」

 由乃の言い様だと、マッチングしなければキャンセル料を一〇〇パーセント払い予約を取り消すつもりだった、とでも言っているようだ。ほんの少し気圧されつつ、私は地図アプリの案内に従って歩を進めた。


 ヴェールアムール麻布は目立たない路地にひっそりと佇んでいた。地上一〇階、地下二階の一二階建てであるそのホテルは、ガラスと黒大理石を基調としたモダンな外観に、柔らかな間接照明が施されたエントランスが目を引いた。ロビーはシャンデリアとアート作品で彩られ、ラグジュアリーな雰囲気が外からもわかる。しかし、由乃は表口を通り過ぎ、細い路地を通った先の裏口へと進んだ。そこには生体認証システムで開くドアがあり、由乃は手のひらをかざし、機器に顔を近づけた。すると、認証音と共にドアが開き、由乃が「ふう」と安心したように息を吐いた。

「手の静脈と、目の網膜の認証……だそうです。ハイテクですよね」

「随分と厳重なセキュリティですね」

「ええ、こちらは専用エントランスで、限られた方のみ入れる場所ですから」

 由乃は何でもないことのようにそう答え、真っ直ぐに通路の先のエレベーターホールへと向かった。VIPは生体認証と同時にチェックインが自動完了するらしく、一階にロビーは無かった。慣れた様子でエレベーターに乗り込み、九階のボタンを押す。このエレベーターはVIP客専用機で、地下一階のスパ、地下二階のバー、そして九、一〇階のVIPフロアにのみ停まるようだ。エレベーターは専用のセキュリティシステムにより一般フロアとは完全に隔絶され、監視カメラもなく、完全なプライバシーが確保されているらしい。

「私も、聞いた話ですけど……もしかしたら」

 どこか昏い顔で何かを言いかけ、由乃は口を閉ざした。九階に着いたようだ。

「一条様、おかえりなさいませ」

「ええ、ありがとう」

 エレベーターホールの片隅に待機するコンシェルジュの女性が優雅に礼をした。彼女は由乃と私を無遠慮に見ることもなく、何の詮索もせずフロアキーを由乃に渡した。VIP客の『秘密の逢瀬』を見ることに慣れているのだろう。彼女は穏やかな表情を崩さず完璧な角度で礼をして、私たちを見送った。

「このホテルは非接触のキーで部屋の鍵を開けるのですけど、表の生体認証も、アナログな私は全然慣れなくて……カードキーは何かに紛れて失くすのが怖くて、手元に置いておけないんです」

「鍵を回したいタイプ、ですか?」

「ええ……お友達には古臭いと笑われます。でも、『鍵をかけた』感触が手に伝わる方が安心しませんか?」

「確かに、電子音だけより施錠の実感はありますね」

「トオルさんもそう思います? ……嬉しい。私の周りだと、母くらいしか理解してくれる方がいなくて」

 緊張が解れてきたのか、由乃はそっと微笑みながら部屋のドアを開けた。

 スイートルームは当然のごとく広々とした空間で、部屋の中央に置かれたキングサイズのベッドがまず目に飛び込んできた。シルクのシーツが間接照明に照らされ、控えめに煌めいている。部屋は静かなアンビエント音楽が流れ、時間感覚を穏やかにしている。奥にはソファスペース、そしてガラス張りの一角にはジャグジーがあった。ソファの近くにはミニバーが設置されており、グラスやシャンパンが並んでいた。

「こちらのお食事、とても美味しいんですよ。トオルさんも夕飯、まだですよね?」

「はい。ではお言葉に甘えて」

 ルームサービスでは、専門のシェフが用意するコース料理が振る舞われた。「私たち二人だけですし、マナーは気にしないでください」由乃はそう言ったが、ご馳走になる手前そうもいかない。クライアントのフォーマルな会食に呼ばれることもあるため、テーブルマナーは一通り身につけていた。由乃は驚き「素敵ですね」と微笑んだ。

 食後、ベルベットのソファに腰掛けてワインを傾けた。由乃は酒が苦手らしく、ノンアルコールのカクテルを飲んでいた。始めは私の好きなワインの銘柄、ワインに合うチーズなど他愛のない話をした。酒を嗜まない由乃にとってはそんな些細なことさえ未知の楽しい雑談らしく、笑顔で何度も頷いていた。そして、彼女の心の鍵は緩んだ。「私、夫に愛されていないの」彼女はどこか投げやりにそう漏らした。身の上話をぽつぽつと始めた由乃の声に耳を傾ける。

 彼女の夫は、資産家であり会社経営者でもある一条隆太郎。五八歳の彼とは三〇近く歳が離れている由乃は、世間から何かと憶測を持たれているらしい。

「あの人と結婚した二三歳の頃は……顔と、胸の大きさと、若さだけの女と何度も陰口を叩かれました。事実、その通りだったので何も言い返せなくて。自分の身体が憎らしい」

 悪意ある言葉を思い出したのか、由乃は膝の上に置いた手をぎゅっと握った。

「若さがなくなるにつれ、もう私には魅力がないようで。夫には何人も若い愛人がいるんです。認知した子も、何人か……」

 あなたも十分若いですよ、とは言わなかった。こと、年齢に関する感覚はデリケートなもので、いくら周囲がフォローしたところでそれは相対的な話であって、当人の絶対的な認知は変わらないからだ。言ったところで、一過性の満足しか得られない。今夜、私たちがしようとしていることのように。

「このホテルは結婚前、あの人によく連れてこられました。セキュリティが厳重だから、と……今は、彼女たちとの逢瀬に使っているのでしょうね」

 由乃の目が自虐的な色を帯び、全面ガラス張りの窓から望む夜景を見つめた。かつて彼女も、この景色を夫である彼と眺めていたのだろう。

「ふと思ったんです。どうして私は、何年も、一日中夫のいない家にいるのだろう? って。私も、何か悪いことをしよう……そう思ったんです。アプリの写真を見て、がつがつせず抱いてくれそう……と思った方に印をつけました。トオルさんだけが反応してくださった。でも、まさか……」

 由乃の顔が赤くなる。絹のような黒髪がヴェールのように、俯く由乃の顔を隠した。私は手を伸ばし、ヴェールに触れる。そっと彼女の耳にかけると、潤んだ瞳が私を見た。

「私に抱かれるのが怖くなりましたか」

「いえ、そういうわけでは……ただ、もう何年も……夫にも、誰にも、人に触れられたことがなくて、その」

「自分を曝け出すのが怖い?」

「……はい」

 こうして一晩を過ごすために、マッチングアプリで見ず知らずの私を選んだこと。一晩を過ごすと決めた相手との行為を躊躇うこと。由乃の大胆さと怯えが同時に存在するように、一見矛盾しているが、両立はするのだ。私のプロフィールをよく見ないで『いいね』を送ってきた男性と、私を選んだ由乃が同様であるように。

「それは、私も同じですよ」

 頬に手を添えると、彼女は決心したように唇を結んだ。彼女や彼女の周囲は、身体だけの女と言うが、決断後の推進力は彼女の美点ではないだろうか。今回の行為が美点とは言い切れないとしても。

「お願いします」

 由乃がまるで三つ指を揃え礼をしそうな剣幕だったため、私は思わず笑ってしまった。


 シルクの海が波打つ。そこに浮かぶ私たちは重なり合い、波に揺られ、甘い声を上げながら沈んでいく。つ、とこめかみに流れる汗を感じた。私が身を起こすと、彼女は縋るように腕を伸ばした。

「まだ、まだこうしていて……離さないで……」

「……帰らなくていいの?」

「いいの……帰りたくない……あの人は、愛人のところにいるもの……もう、ひとりはいや」

「そう。だから、スイートの『一泊』を予約した?」

 由乃は速い呼吸のまま無言で何度も頷いた。熱に浮かされ、欲と涙に濡れた瞳が私を求める。それに応えるように、半開きの唇に口付けた。由乃の細い腕が私の背に回る。私たちは再び重なり合った。

「……一晩中、私を愛して」

 彼女はせつない声をあげながら、私の動きに合わせてぎこちなく揺れた。背に回された腕がしがみつくように絡まる。彼女が憎いとこぼした柔いふくらみが押し潰れるほど、強く。


 その日は結局、ホテルで一晩過ごした。翌日の午前中はフリーで、仕事は午後から。元々会う予定だった女性と過ごすために調整したスケジュールの名残りである。奇しくもその相手が由乃に変更されただけだ。私は起き上がり、バスローブを羽織った。枕元のリモコンを押して遮光カーテンを開ける。光を通さない厚地がゆっくりと開いていき、東の空に朝焼けが空を彩るのが見えた。透き通る冬の空。青とオレンジが交わる境界を眺めていると、背後で衣擦れの音が聞こえた。

 由乃が目覚めたのかと思ったが、寝返りを打っただけでまだ夢の中のようだ。私は部屋を通り抜け、ジャグジーとは別に用意されたシャワールームへと足を運んだ。オーバーヘッドシャワーが取り付けられた浴室はコンパクトながら閉塞感はなく、そこにもバスタブが置かれていた。蛇口のレバーを捻ると、水からすぐに熱い湯に変わる。その豊富な湯量が昨夜の痕跡を洗い流していった。

 洗面台で髪を乾かし、身支度を終えても由乃はまだベッドに横たわっていた。昨夜流れていたアンビエント音楽は消えており、静寂が朝を包む。他の宿泊客の物音は一切聞こえない。防音か、このフロアにいるのは偶然私たちだけなのか、それとも、一夜を明かした人々は皆息を潜めているのか。部屋のドアを見つめていると、背後からか細い声が聞こえてきた。

「……会員でない方は、扉の鍵を開けられませんよ」

 私が先に帰ろうとしていると思われたようで、由乃が困ったように微笑んでいた。シルクのシーツを纏い、どこか朧げな彼女の肩は一層白く、細く見える。

「エレベーターにも乗れません。緊急時なら非常階段は使えるかもしれないけれど……平時はこのフロアに入るのも、出るのも、会員の認証が必要なのです。まるで壮麗な監獄に閉じ込められているようではありませんか?」

 首を傾けた彼女の黒髪がさらりと靡く。『監獄』などという、彼女らしからぬ物言い──といっても昨日出会ったばかりだが──を意外に思いつつ、私は微笑み返した。

「では、監獄の鍵を持つユノさんはさしずめ看守ですか。そんな冗談が言えるなんて、一晩で随分吹っ切れたようですね?」

「……ふふ、そうかもしれません。あの……敬語、使わなくて良いですよ。昨晩のような気軽な話し方、好きです」

 由乃に対し気軽な話し方をした覚えがなかった私は、彼女の言葉に逡巡した。黙る私を見て「すみません」と顔を逸らした姿で、行為中の話だと気づいた。

「わかった。君も気軽に話してくれて構わないよ」

「私は……フランクな話し方は落ち着かなくて。この話し方は癖のようなものと思っていただけるとありがたいです」

「そう」

「あの、朝食……食べていきますよね?」

 おずおずと、反応を窺うように由乃が言う。

「ご馳走になろうかな。その前に、シャワー浴びておいで」

 彼女の肩にバスローブを羽織らせる。彼女は頬を染め、吐息のような声で「はい」と呟いた。


 ルームサービスで朝食をとり、私たちはチェックアウトの時刻まで雑談を交わした。互いに本名だったと知った由乃に「どんな漢字ですか?」とペンと手帳を差し出された私は、虚を突かれつつも文字を書いた。スマホの変換ではなくわざわざ文字で書かせるのは、彼女らしいと思った。

「まあ……透琉さん。なんて瀟洒しょうしゃなお名前」

「大袈裟じゃない?」

「いいえ、とても美しくて、相応しい……あの、私のことは由乃と呼んでいただけますか?」

「いいよ、由乃。私も好きに呼んでくれて構わない」

「はい、……透琉さん」

 秘密を囁くような声色で、由乃は私の名を呼んだ。

「透琉さん……また、会えますか? いいえ……お会いしたいです。どうか」

 由乃の痛切な瞳が、懇願の色を湛えて私を見た。

「いいけど、次はもう少しカジュアルなところにする?」

「カジュアル……ですか? 私はこういう、人の目が気にならない場所が好きなので……よければ、次からも私にご用意させてください」

「君がそう言うなら。でも、あまり無理はしないで」

「無理なんて。私が……そうしたいだけです。我儘のようなものですから、透琉さんは気になさらないで。それに──」

 そっと手を包まれる。由乃は、まるで祈るように目を閉じた。

「この身体をあんなに大切に扱っていただいたのは初めてでした。ありがとう……」



 記憶が混濁する。何故、由乃のことを思い出したのか。それは一昨日から連絡がぴたりと途絶えているからだ。由乃は出会ったあの日から毎日のように、いや、文字通り毎日私に連絡を寄越していた。しかし、一昨日の夜に私が最後に送ったメッセージが既読になることはなく、それ以降何の音沙汰もなかった。

 蹲っていたところで尋問は終わらないだろう。しばらく座り込んでいた私はゆるゆると顔を上げる。案の定、石川刑事は何度か小さく頷き、手帳をめくった。

「ご気分が優れないところ、申し訳ない。水野さんの恋人について伺いたいのですが、彼と面識はありましたか」

「……一度だけ会ったことがあります」

「どのような印象でした?」

「印象……仕事ができる風のビジネスマンでしたが……女性の機微には疎そうというか、鈍そうでした。後から考えると、彩葉の気質では彼に不満を抱くのも当然だと……想像できました」

「なるほど。整理すると──水野さんは恋人への不満を抱え、あなたと親しくなった。恋人がいながら、塩見さんとも……関係を持った。水野さんは塩見さんと特別な関係になりたい様子だったが、あなたに複数の女性関係があると知り激昂した……間違いありませんか」

「ええ、簡単に言うとその通りです」

「ふむ……複雑な状況ですね」

「そうですか? よくある話だと思いますが」

「……確かに、昨今ですとそういった話は珍しくないのかもしれませんね」

 石川刑事がペンでこめかみを掻く。森巡査が「警部補」と、何かをたしなめるような目で彼を見た。

「いや……申し訳ないです。ああ、塩見さん、もう一つ伺いたいことが」

「……何でしょうか」

「最近、似たような刺し傷で亡くなった女性の事件がありまして」

 石川刑事の目が探るように私を見た。背筋を這うような嫌な予感がする。その予感は、得てして当たるものだ。

「一条由乃さんという方をご存知ですか」

「……由乃? なぜ、由乃の話になるのですか」

「おや、お知り合いのようですね。ええ、ニュースにもなっていた件です。資産家の妻が死体で発見された、あの」



 五月、ゴールデンウィーク。私と真尋は百貨店のコスメカウンターに出掛けた。私の姉──霧島きりしま瑠莉奈るりなの誕生日に、彼女が愛用するブランドのコスメをプレゼントするためだ。私にとって『相手に似合うベスト』なメイクを施すことは容易だが、『相手が好むベスト』を測り選ぶことは少々苦手だ。似合うという認識は、あくまでも外から見た他人の意見だから。たとえ他人が似合っていないと言ったとしても『私がこれを好きだからいいの』と答える人は、似合う、似合わないという枠の美とは異なる、自らの内にある自信から溢れた美しさを放っている。そして不思議なことに、似合うように見えてくるのだ。故に今日は、私よりも姉の好みを知り、姉の好みに近いセンスを持つ真尋に協力を仰いだのだった。

 姉の華やかな容姿にはローズやレッドが合うと考えていた私は、真尋の「るり姉、最近はピンクとかベージュとか、落ち着いた系好きだよ」という助言に少々驚きつつ、テスターを手に取り色味を確認した。母の赤い口紅をこっそり塗り「似合う?」と笑っていた姉を思い出す。彼女は昔から鮮やかな色が似合う女性だったが、いつの間にか好みが変わっていたらしい。「透琉ちゃんにも塗ってあげる」そう言って唇からはみ出ながらも姉に塗られた赤い口紅が、私の初めてのメイクだった。その後、厳しい母に二人揃って叱られたけれど。

「助かるよ。姉さんの趣味が変わってたのは知らなかった。真尋は瑠莉奈姉さんとよく会うの」

「透琉よりはね〜。るり姉のショップ、よく行くし。この前も、透琉が全然デートしてくれないって寂しがってたよ。プレゼントもいいけど、たまには会って姉孝行してあげなよ」

「姉さんと会うと……一日中連れ回されて着せ替え人形にされるから疲れる」

「あはは、昔からるり姉のワンピとか着せられてたもんね、透琉。かわいかったなあ……あ、これも好きそう」

 真尋が手に取ったアイシャドウもまた、ルージュと同じように、ベージュ、ピンク、ブラウンといった穏やかな色だった。店員に断りを入れ、手首の内側に色を乗せ発色を確かめる。頭の中で姉の容貌を描き、目元にそれらを乗せると、確かに異なる魅力を感じられた。


 コスメを購入した後、私たちはゴールデンウィークに賑わう人々の波間を縫って、コーヒーショップにやって来た。新発売の季節限定が飲みたいと言う真尋のリクエストだ。今日のお礼も兼ねて、私がご馳走することにした。彼女が注文したドリンクは濃い紫がかった赤色で、それを覆う山盛りのクリームが見るからに甘そうだった。

「苺おいしい! 一口飲んでみる?」

 勧められたが、やんわりと断った。私は昔ほど甘いものが好きではなくなったから。代わりに、何も盛られていないブラックコーヒーを一口飲む。すると、テーブルに置いたスマホにメッセージアプリの通知が映った。

『透琉さんは、ゴールデンウィーク中もお仕事ですか? どこか、一日だけでもご予定は空いていませんか?』

 由乃からのメッセージだ。今朝からやり取りを続けているが、まだ話が続いている。今日の彼女は延々と話したい気分のようだ。

「ねえ、さっきからずーっとスマホの通知すごいけど、また新しい女の子? そんな頻繁に連絡よこすなんて……まさか未成年じゃないよね」

 テーブルに向かい合う真尋が呆れたようにストローを回した。彼女は、赤いフローズンドリンクの上に乗った山盛りのクリームをぺろりと平らげていた。

「いや、年上」

「うわっ……既婚者?」

「みたいだね」

「……引くわ……透琉もさ、ちょっとは後ろめたさとかないの? よくやるね、その人も」

「別に、いいんじゃない。本人がいいなら」

 真尋の小言に答えながら返事を打つ。由乃とメッセージアプリの連絡先を交換してからというもの、彼女からは毎日のように連絡が来た。そのほとんどは他愛のない雑談だが、定期的に「会えませんか」と、例のホテルに呼び出された。由乃の指定する日は大抵が月曜だった。彼女の誘いは一見控えめながらどこか強制力を持っている。彼女は会うたびに、まるで数年振りに再会したかのように目を潤ませ「来てくださって嬉しいです」と安堵の息を吐くのだ。私が約束をすっぽかすと思っているのか、と聞いたことがある。その質問に対し、彼女は激しく否定した。

「私なんかのためにお時間を使っていただけるのが嬉しくて……夢なのではないかと、透琉さんに初めてお会いした日からずっと思っているのです。来てくれなくても仕方ないのだと。でも、あなたはこんな私に会いに来てくれる……」

 彼女が私に向けた最初の戸惑いは全て消えていた。深い感情を滲ませる瞳で、私の腕の中におさまる彼女は愛らしかった。

 スマホ画面を眺めながら黙った私に、真尋が「おーい透琉さん?」と目の前で手を振った。

「何?」

「『何?』じゃない! あのね、久しぶりに会った私が目の前にいるのにスマホばっかり見てるの、失礼だと思う! しかもそれがどこぞの人妻とか最悪なんだけど」

「ごめん、そうだよね。通知切っておくよ」

「とか言って、なあなあにするに一票。私が切りまーす」

 真尋は自分のスマホを持つ手とは逆の手で、私のスマホを取り上げた。

「……プライバシー侵害」

「安心して。透琉と人妻の会話なんて見たくないから〜……設定設定、はい、はいっと……よし、通知全オフ」

「全部切らなくてもいいのに」

「透琉がるり姉の誕生日プレゼント選びに私を呼んだんでしょ! 快く協力した私に感謝しなさい」

「はいはい……わかってるよ。付き合ってくれてありがとう、真尋」

 経験上、これ以上真尋の機嫌を損ねると面倒なことになる。私は彼女の好きなキャラメルチーズケーキを追加注文し、今度は素直にシェアに応じることで事なきを得た。──そう思ったのだが、真尋の遺恨は存外深かったらしい。

「私の後輩もね、五年近く付き合ってる彼氏がいるくせに、他に好きな人ができたとか言って最近浮ついてるの」

 肘をついた真尋が不服そうにそう漏らす。私は黙ってコーヒーカップに口を付けた。

「何で好きな人だけを見れないんだろう? 別の人を好きになったなら、彼氏と別れればいいのに。なんで付き合ったまま他の人に目移りするんだろう? 私には理解できない」

 真尋は私に質問しているようで、その後輩を責め立てるようでもあり、自問しているようでもあった。私は彼女の言葉に彩葉を思い出した。彼女もまた、真尋の言う『理解できない』存在なのだろう、と。

 フォークが柔らかいケーキに突き刺さる様を眺めながら、私は言った。

「真尋は昔から一途だから、そういうの許せないんだね」

「一途? そうかな……許せないっていうか、ただ、彼氏をキープしながら別の人を好きとか言う神経が分からないだけ、だよ……」

「きっと、一人の相手では埋められない部分を得たくて、相手が一人では満足できないんだろうね」

「……透琉もそうなの? 一人じゃ満足できない?」

 真尋の目が真っ直ぐに私を射抜く。彼女の視線は、正面から影に容赦無く光を当てるような、時に苛烈な強さを持っている。その光に晒されながら、私はにこりと微笑んだ。

「私はただ、気持ち良ければいいだけ」

「サイテー」

「うん、自覚はしているよ」



 私と八歳離れている姉の瑠莉奈は、三〇代半ばを超えてなお若々しく、大人の魅力も湛えた女性だ。彼女は結婚、出産を経た後に個人経営のセレクトショップを開業した。口コミとSNSで『センス抜群なのに手頃』『店内全部がフォトスポット』と広まり、更には『店長さんが超美人』などと評され、姉の親しみやすい人柄も相まって特に女性に人気らしい。昨年併設されたカフェスペースも好評で、隠れ家のような癒しの場として愛されているようだ。

 ゴールデンウィークに購入した誕生日プレゼントを渡しに姉の店を訪問したところ、ちょうど客のいない時間帯だった。姉は喜び、ドアのプレートを『CLOSED』に裏返して私を店内に迎えた。

「こっちこっち! 座ってて、コーヒー淹れるから!」

「いいの? まだ営業時間なのに」

「ええ、もちろん! 今日はバイトの子がお休みの日だから、早めに閉めようと思ってたし……でもまさか透琉ちゃんが来てくれるとは思わなかった! 最近どう? 元気? 相変わらず素敵なメイク」

「うん、姉さんも元気そうで良かった。これ、早いけど誕生日おめでとう」

「え! 嬉しい! 新作気になってたのよ、ありがとう〜。しかも色番号バッチリ、さすが本職ね」

「お礼なら真尋に言ってあげて。姉さんの好みが変わったの教えてくれたから」

「まーちゃんが? ふふ、そう」

 私はカフェスペースに座り、カウンターで上機嫌にコーヒーカップを準備する姉の後ろ姿から店内に目を向けた。決して広くはないが、アンティークの照明がアイボリーの壁と天井を柔らかく照らし、壁際に並ぶ木材の棚はナチュラルな中に清廉さが感じられる。絶妙に計算された居心地の良い空間に、彼女の選んだ洋服や雑貨が心を擽るような配置でディスプレイされていた。コーヒーを挽く音と香ばしい香りが漂ってくる。同時に、コンコンと店の扉がノックされた。ガラス扉の向こうから手を振っていたのは、姉の夫──私にとっては義兄である──霧島颯斗はやとだった。

「お、透琉来てたのか。久しぶり」

「ご無沙汰してます、颯斗さん」

 フルフレックス制のIT企業に勤める颯斗は、オフィスに出勤した日は退勤後にこうして瑠莉奈の店に寄ることが多いらしい。大抵は彼が先に帰宅し夕飯を用意するのだと以前聞いたことがある。

「聞いてよ颯斗。透琉ちゃん、誕生日プレゼント渡しに来てくれたの」

「おー、瑠莉奈が欲しいって言ってたやつだ。使うの楽しみだな」

「そうなのー透琉ちゃん大好き」

 姉がぎゅっと抱きついてくる。歳が離れているせいか、姉は幼い頃からこの調子でスキンシップ過多なところがある。

「おいおい、透琉が真顔になってるぞ……ほどほどにしてやれよ。それじゃ、夕飯作って待ってるから」

「よろしく〜いつもありがとうね。奏音かのんの宿題は私が見るから、先にお風呂入るように伝えて」

「わかった。俺と奏音の分は先に洗濯しとくよ。透琉も、またうちに遊びに来いよ」

「はい、颯斗さん」

 にこやかに去っていった颯斗を見送ったところで、姉は淹れたてのコーヒーをテーブルに運んできた。

「姉さん、相変わらず颯斗さんと仲良いね」

「そう? 喧嘩も同じくらいするわよ。ううん、喧嘩の方が断然多いわね。昨日も、颯斗ったら私と奏音の分だけアイス買ってきてね、自分はいいから〜とか言って! 今から私が買ってくるって言ったら、いいよいらないよって。私が家族みんなで団欒したい妻だって知ってるくせに、まったくもう」

「……喧嘩? 惚気の間違いじゃないの」

「意見の衝突は喧嘩でしょ?」

 ふんと鼻を鳴らしコーヒーカップに口を付ける姉に苦笑しつつ、私もコーヒーを味わった。本当はサイフォンを用意したかったと言っていたが、スペースの関係で断念したらしい。しかし、ペーパードリップでも十分美味しいコーヒーだ。

「透琉ちゃんもパートナーを探せばいいのに。引く手数多でしょう?」

 突然投げかけられた言葉に、カップを持つ手が止まった。黒い液体が波打つカップをそっとソーサーに戻し、私は肩をすくめる。

「私が恋人と長続きしないのは姉さんも知ってるはずだけど」

「もう、皮肉らないの。……まーちゃんは? ちっちゃい頃からずっと一緒にいてくれてるじゃない」

「真尋? 真尋は幼馴染で、そういうのじゃない。家族みたいなものだよ」

「そう? まーちゃんがあなたと一緒にいてくれるなら、私も安心なんだけどな」

「まあ、真尋が結婚でもしない限りは変わらないと思うよ。私は恋人とか結婚とかはいい。今の生活が気楽」

「そう……でもねえ、後ろから刺されないように気をつけて。女の激情は怖いわよ」

 姉の声が神妙な色を帯びる。私は脅しのようなその台詞に、くすりと笑って頷いた。

「うん、それは十分解ってるよ」

「冗談じゃなくて、本当にね。人の心って、自分の知らないところで膨らんでいくものだから」

「それは、姉さんの経験則に基づいた忠告?」

「……バレた? まあね! 自分が狙ってた男を盗ったとか、人の彼氏に色目使ったとか……結婚してからはそういうのだいぶ減ったけどね。私は何もしてないからほんと難癖よ。自分とその男の問題でしょうに」

 確かに姉は昔からそういう諍いに巻き込まれていたように思う。彼女の美貌はどうしても周囲の視線を惹きつける。姉にとっては災難な出来事だっただろう。黙ってコーヒーを飲んでいると、姉は淀んだ空気を晴らすように「そういえば」と話題を変えた。

「最近、奏音が透琉ちゃんラブみたいでね〜ついこの前まで私のマネして『透琉ちゃん』って呼んでたのに『透琉さんかっこいい』『透琉さんのお嫁さんになりたい』って、毎日言ってるの」

「へえ、奏音が? 光栄だな」

「すごいのよ、おめかしとか興味津々で! 透琉ちゃんのインタビュー記事とか、透琉ちゃんがメイクしたモデルさんや女優さんの雑誌切り取ってスクラップしてあるの。颯斗がそれ覗き見たら、奏音ものすごく怒っちゃってね……自分だけの宝物をベタベタ無遠慮に触られたようなものだから。後で颯斗を叱ったのよ、親だからって子どもの秘密を全て暴いちゃダメだって。小学校に上がった頃までは『パパと結婚する』ばっかりだったものだから、あの人相当ショック受けてたわ」

 颯斗が瑠莉奈に叱咤され肩を落としている姿は容易に想像できた。そして、姪の溌剌とした笑顔を思い出し、自然と顔が綻んだ。奏音は瑠莉奈によく似た可愛らしい女の子だが、穏やかな目元は颯斗の面影がある。昨年の盆に会った時は「わたしもお化粧して」と強請られたが、まだ早いと両親に諭されて頬を膨らませていた。その後、母である瑠莉奈に一応の許可を取り、小学生も使える色つきリップをプレゼントしたら文字通り飛び上がるほど喜んでいた。

「同じクラスに好きな子いないの? って聞いてみたんだけど『ママ、クラスの男の子なんてコドモだよ』ですって! いつの間にあんなこと言うようになったのかしら」

「背伸びしたい年頃なのかな。かわいいね。四年生だっけ」

「そうそう。だからあまりうちの子を誑かさないでね」

「大事な姪っ子を誑かしてるつもりはないし、誑かしたら犯罪でしょ」

「ふふふ、冗談はさておき、今度うちにも顔見せにきて」

 そのうちね。私はそう答え、空になったコーヒーカップを置いた。



「死んだ? 由乃も……?」

「ご存知なかったのですか?」

 森巡査に尋ねられ、私は頷いた。ここ数日はテレビをつけることはなく、ネットのニュースもほとんど見ていない。

「なぜ由乃まで」

「目下、捜査中です。詳しい捜査状況はお教えできませんが……」

「……私が何か関与していると疑われているのでしょうか」

 一瞬、刑事たちの間に緊張が走った気がした。普段なら気付かないほどの空気の流れだったが、過度の緊張状態により感じ取れたように思う。石川刑事がゴホンと咳払いをした。

「聴取はあくまで形式的なものです。関係者と思われる方皆さんにお話を伺っています」

 取ってつけたような台詞だ。今までの誘導するような尋問は、彩葉や由乃の死において私の関与を疑っているせいか。そう考えると、彼らの質問内容や態度にも納得できる。

「私は彼女たちを手にかけていませんよ。ここ二、三日、彼女たちとは連絡をとっていません」

「ご自宅への訪問も?」

「彼女たちがどこに住んでいるのか知りません。会う場所はホテルだけでしたので」

「念のため、そのホテルを伺えますか。覚えているようであれば、最後に行った日も」

 私は、由乃と使っていたヴェールアムール麻布と、彩葉と会う際に使用していたホテルを何軒か挙げた。石川刑事のアイコンタクトに森巡査が頷き、どこかに電話をかけながら玄関の外に出ていった。

「昨夜は自室にいたので、今挙げたホテルには行っていませんよ」

「ええ、そうでしたね」

 昨夜の監視カメラの映像でも確かめるのかと思っていたが、他に意図があるらしい。森巡査はすぐに戻ってきた。私に聞こえない声量で石川刑事に何かを報告している。石川刑事は頷き、再び私に向き合った。

「さて、もう少々ご辛抱ください。塩見さん、一条由乃さんはご結婚されていますが、塩見さんとも親密なご関係だったのでしょうか」

「親密というのがどの程度を指すか測りかねますが、彼女も彩葉と同じセフレです」

「なるほど。一条さんはどうでしょう。それ以上の感情を抱いていた様子などは?」

「さあ……ただ、毎日のように連絡が来ていましたね。彼女の夫には愛人が何人もいるようですし、寂しかったのでしょう」

 由乃の儚げな姿を思い出す。最後に見たのは、涙を堪えきれずに泣いている顔だった。

「毎日……ですか。では、お会いになる頻度も?」

「はは、セフレが複数いるのは確かですが、さすがに毎日セックスはしませんよ。そこまで色欲魔ではありません」

「……失礼しました」

 森巡査が努めて淡々と謝罪した。私の言動に全く動じない石川刑事と違い、彼女は少し動揺がわかり易い。

「最後に一条さんとお会いになったのはいつでしょう?」

「一昨日です。二四日」

「先ほど教えていただいたホテルで?」

「いいえ、私が急遽呼び出したので。渋谷のノクターンです。夜のうちに帰らなければならないと言っていたので、三時間の休憩で利用しました」

「ふむ、あなたが一条さんを呼び出した」

「はい」

「塩見さんから声をかけることもよく?」

「ほとんどないですね……一昨日は、会えるかと聞いたらすぐに来てくれました」

「そうですか」

 なぜ一昨日は自分から誘ったのかと聞かれると思ったが、石川刑事は何かを考えるように眉根を寄せただけだった。

「一条さんとの別れ際、何か変わった様子はありましたか」

「……少し、言い合いになって、泣かせてしまいました」

「内容を伺っても?」

「あなただけを愛している、と言われたので、それなら旦那様と別れて欲しい、そう返しました。断られましたが」

 思考を推し量られているような目が私を見た。「何を考えているのか分からない」よく言われるし、そういう目をよく向けられる。私に縋った由乃の細い指先、潤んだ瞳、震える身体を思い出した。社会的規範を基に物事を見る刑事たちには、私の内心など一つも理解できないだろう。私が彼女たちに向けるこの感情の一欠片さえ、何も。

 刑事たちの質問が止まる。私は視線を逸らし、スマートフォンを眺めた。デジタル時計の数字は思いの外進んでおり、もう随分長く尋問されていることに気づいた。一体いつまでこの状態が続くのか。そう思っていると、新しい声が外から聞こえてきた。

「失礼します。石川刑事、少しよろしいですか」

 それまでの張り詰めた嫌な空気が一瞬解ける。刑事はもう一人いたらしい。

「なんだ、木村。外はどうした」

「それが……宅配業者が、塩見さんに宅配便が届いていると。冷蔵で時間指定なので受け取ってもらえるか確認したいそうで」

「差出人は」

「……綾瀬真尋。個人名義です」

「綾瀬真尋?」

 石川刑事が怪訝そうな目で外を見る。私も顔を上げて眉を顰めた。玄関から出ると、居心地が悪そうに視線を彷徨わせた配達員が段ボールを手に立ち竦んでいた。石川刑事がそれを受け取り中身を探るが、特に見当がつかなかったらしい。ひんやりと冷えた箱は私に差し出された。

「塩見さん。申し訳ないが、ここで開封してもらえますか」

「……ええ、構いませんが」

 配達員が慌てて「開封前にサインを」と送り状から伝票を抜いた。私は押印欄に署名をして、送り状を眺めた。品名には『お菓子』とだけ書かれている。手書きの送り状は確かに真尋の字だ。私は玄関のラックに段ボールを置き、封を開けた。

 中身は、私の好きなチョコレート菓子の詰め合わせだった。ハイカカオのピュアチョコレートが数種類、季節限定の生チョコレート、クッキーやウエハースまで。先日、通話で話していた北海道旅行の土産だろうか。予想通り、中には『とおるへ おみやげ〜♪ まひろより』と書かれた、ファンシーなメッセージカードが同封されていた。

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