愛のあと
ルイ
第一章 涙痕
パシン、と私の頬で乾いた音が鳴り、ドアがバタンと激しく閉じる音が響く。足音はあっという間に遠ざかり、私は今しがた出て行った彼女の泣き顔をぼんやりと思い出した。
「信じられない! 私以外にも女がいたなんて……!」
「……お互い後腐れないセフレ。そう言ったのは君だろう?」
「……っ!」
彼女の大きな瞳からボロボロと涙が溢れた。頬が殴られるまでの間、私は呑気にも『綺麗だ』と思っていた。望んだ答えが返ってこなかったせいか、それとも感情の行き場を無くしたのか。なにか、酷い言葉で罵られた気がする。それでも私は彼女の頬を伝う涙の跡から目が離せなかった。
『私たちの関係』を尋ねられることはよくあることだった。そう、まるで恋人同士のように寄り添い、ベッドで情熱的な夜を過ごす。だが、それだけ。スマホで連絡を取り合う彼女たちを自室に呼んだことはないし、彼女たちの部屋に行ったこともない。ラブホテルのベッドの上での交流しか、ない。つまりはセフレである。私はそのつもりで彼女たちの誘いを受けているが、彼女たちは違うらしい。いや、最初は彼女たちもそのつもりなのだろう。曰く、彼氏や夫と体の相性が合わないとか、「あなたなら満足させてくれそう」だとか。彼女たちから誘いをかける一晩限りの遊び。しかし、どういうわけか、一度では終わらない。彼女たちから始まったはずの関係は、いつも形を変えて歪む。
彼女たちは皆、いつしか私と自分の関係を『恋人同士』だと勘違いするのだ。
──ベッドに座り込んでからどれくらい時間が経っただろう。カチ、カチと響くアナログ時計の音が大きく聞こえた瞬間、私はやっと顔を上げた。まるで私だけが過去に置き去りにされているようだ。しかし、時は無常に過ぎていく。ベッドシーツに移った彼女の残り香は薄まり、私の濡れた髪は乾きかけていた。前髪を掻き上げ、バスローブから私服に着替えようと下着に手を伸ばしかけて──静まり返った部屋に軽快な通知音が響いた。先ほどから何回か鳴っていたなと曖昧に思い出す。いつもなら消音モードに設定しているのだが、今日はうっかり消し忘れていた。
私は頬を指でなぞり、スマホのロックを解除した。メッセージアプリには二、三人からの通知が複数。いつもの『
「はい」
「──透琉? やっと既読ついたと思ったら全然返事こないから通話しちゃったよ! 今、部屋?」
スマホから聞こえてきたのは、予想よりも明るい声だった。声の主──
「……いや、外だよ。それに、メッセージを見たのは今。開いてすぐに返事は無理」
音声をスピーカーに切り替え、床に散った衣服を集めて着替えを進めた。
「もう、そこは素直に『気づくのが遅くなってごめんね』とか言うものよ。こんな遅くにまだ帰ってないの? ……誰かと一緒?」
「ひとりだよ」
「ふーん、ほんとに? 明日は土曜日だし、また女の子と一緒なのかと思った!」
真尋は鋭い。彼女の高い笑い声につられて、私も声を出さずに笑った。真尋は私の女性関係を知っているのだ。ふと、明るい声の背景でサイレンの音や雑踏のざわめきが聞こえた。
「真尋こそ、外にいるようだけど」
真尋は街を歩きながら通話をしているのだろう。他人のことを言えないではないか、と溜息をつく。
「私? 私は……友達と遊んで、帰るとこ! さっき、酔っ払いに絡まれたから逃げてるんだー!」
あはは! と笑う声が耳に届く。やけにテンションが高い。酔っているのだろうか。スピーカーから、息が上がっているような呼吸音が聞こえてくる。私は手を止め、スマホに話しかけた。
「……真尋、酔ってる? 気をつけなよ、最近物騒だから」
「え? ああ、うん、ありがと! 私は平気!」
「それで、何の用?」
「えーと、透琉に北海道のお土産あるんだ! でもまだ外みたいだから、また今度にしようかな。明日は?」
「ごめん、火曜まで会える時間ない。月曜なら一日家で仕事だから、なんなら着払いとかで送っていいよ。今度埋め合わせするから。じゃあそろそろ切るね、おやすみ」
「あっ! 待って、透琉──」
通話終了の赤いボタンを押す寸前。突然焦ったような声色で、真尋に名を呼ばれた。
「何?」
「夜遊びもほどほどにね!」
「……お互い様。またね」
切断する寸前に再び念押しのようなお節介を残し、通話は終了した。
真尋と話す間に軽く身支度を整えた私は、誰も居なくなったベッドを一瞥して部屋を出た。
──その日、
◆
私が
「……マルガリータ」
何度目かの強い酒のようで、彼女は俯き気味に注文した。カウンター向こうの馴染みのバーテンダーは、彼女の様子を見て注文を受けるか否か思案しているようだった。ちらと私に視線を向け、まるで助けを求めるようにアイコンタクトを送ってくる。私は小さく溜息を吐き、席を右に詰めた。
「こんばんは。ペース早いね?」
バーテンダーに目配せし、カクテルではなく水の入ったグラスを目の前に置く。すると、彼女はゆっくりと顔を上げて、焦点の合わない目で私を睨んだ。
背まで伸びた栗色のロングヘアは緩く巻かれていたが、ところどころセットが崩れている。この時間でもしっかりとメイクが施され、普段であれば笑えば可愛らしいだろうその顔は、目が据わり、静かな怒りを湛えていた。
「あなたに関係ないでしょ」
「そうだね。ただ君のことが心配なだけ」
「どうして? 私がどうなったって別にいいでしょ」
「それは違うな。お酒は美味しく飲むものだから」
席を移動する前にバーテンダーに注文していたグラスを差し出す。彼女は怪訝そうな目でグラスを見つめた。
「……アペロール・スプリッツ? 軽すぎない?」
「口直しにどうぞ。私の奢りだよ」
グラスがペンダントライトに照らされ煌めく。ワイングラスの中のオレンジ色がシュワシュワと泡立つ様子をじっと見つめていた彼女は、はぁと息を吐いた。
「……ごめんなさい。初対面の人に嫌な態度しちゃった……いただきます」
先程までのペースとは異なり、グラスに唇を付けた彼女は、ゆっくりと味わうようにカクテルを一口喉に流し込んだ。一部始終をそっとカウンターから見守っていたバーテンダーは既に別の客の元へ向かい、注文を受けている。私は彼女に微笑みかけた。
「関係ない人に話して、楽になることもあると思うよ」
再度水の入ったグラスを差し出すと、暫しの逡巡の後──いや、動きが緩慢なだけかもしれない──彼女はグラスを両手でしっかり持ち、水を煽った。カラン、と、私のグラスの氷が音を立てる。ゆったりと流れるジャズの音楽が、時間の流れを遅くしたような錯覚を与える。
「実は……」
一旦落ち着いた状態で言葉をひとつ紡ぎ出せば、洪水のように溢れ出るものだ。聞くところによると、彩葉は彼氏と喧嘩をして一人バーにやって来てやけ酒をしていたらしい。彼氏は同じ会社の先輩社員。勤め先は聞かなかったが、それなりの規模のコスメ会社だそうだ。喧嘩の原因はよくある些細なことで、第三者から見れば呆れた痴話喧嘩なのだろうが、当人たちにとっては重要なことのようだ。互いに折れず、同棲しているマンションから貴重品の入った仕事用鞄のみを持ち一晩の家出をしたらしい。時折相槌を打ちながら話を聞いていると、彼氏との出会いの話──彩葉の新入社員時代、教育係だった彼との話──になり「あの頃は毎日幸せだったな……」と、かつての日々を愛おしむような瞳でワイングラスのフットをなぞっていた。
「君、彼のことが大好きなんだね」
カウンターに頬杖をついてくすりと微笑む。しかし彼女はそこで赤らむような様子を見せず、頷かなかった。
「まあ、なんだかんだ別れてないけど……でも、最近喧嘩ばっかりで」
「まだ何か不満が?」
「……体の相性が良くないの」
ぽつんと呟かれた言葉に「そうなんだ」とだけ答え、じっと耳を傾けていると、彩葉は自嘲するように笑った。
「最初の頃は……すっごく優しくて気を配ってくれてたの。大切にしてくれてる、愛されてるって思ってた。でも最近は全然。雑っていうか、作業? っていうか」
ほう、とモーヴピンクの唇から漏れた吐息は、不満と共に幾許かの甘い欲が含まれているようだった。ふと、彩葉と目が合う。彼女の視線がゆっくりと下がり、革靴の爪先から脚を辿り、下腹部、胸元、腕、手の指先まで向かう。そして、肘をついたままの私の髪の一本一本まで確かめるような眼で眺め、最後に再び瞳を捉えた。
「……あなた、女性の扱い上手そう」
彩葉が唐突に告げた。こういったことを女性に言われ慣れている私は、特に動揺もせず髪を耳に掛け、首を傾げる。
「そう見える?」
「うん、とても──」
彩葉の瞳の奥に熱が揺れた気がした。カタン、と彼女の椅子が鳴る。私達の距離が縮んだ。
「試しに、一晩だけ……どう?」
この時、耳元で囁かれた誘いの声が私の脳に届くのと、彼女の甘い香水が鼻をくすぐったのは──同じ瞬間だったろうか。
「私を全部愛して」
ホテルの一室にて。ドアが閉まった瞬間、彩葉は背伸びをして私の唇に触れた。私は鼻に抜けるアルコールの匂いを感じながら、唇の柔らかさを堪能する。赤く染まった彼女の唇を眺め随分と積極的だねと囁くと、彼女は、悪い? と挑発的に口角を上げた。悪くないよ。私は囁くように告げて、再び唇を味わった。
シャワーはいいと言うからベッドに向かった。彩葉が私を頭から爪先まで品定めしたように、私も彼女を頭から爪先まで同じように──いいや、実際に唇で、彼女のすべてに触れていった。唇から首筋を通り、鎖骨をなぞった先の胸元は、まだ。腋から腕を通り、入念に整えられた小指の爪まで。腹部から下腹部を避けて太腿の内側をなぞった。ぼんやりと私の動きを眺めていた彼女が身じろぎする。ついと視線を上げると、上気した頬で、彼女の目が訴えるように私を見ていた。こんなに美しい君を雑に扱うなんて信じられないな。内腿に唇を寄せそう告げると、彼女の顔が真っ赤に染まった。物欲しそうに腰が揺れ、導かれるまま、秘められた処へ。彼女は、私に刺激されるごとに短く声を上げ、背を逸らしながらシーツを掴んだ。私は彩葉の望む通りに彼女を抱いた。
「ね……連絡先、教えてくれない?」
秘事の余韻に浸る中、彩葉は甘えるように身体を寄せた。私は「いいよ」と静かに返す。メッセージアプリを開き、連絡先を登録した。承認していると、彼女の声が私の名を紡いだ。
「toru……とる……さん?」
「透琉。透明の「透」に、琉球の「琉」」
「ごめん、とおるさん、ね。本名?」
「うん、本名。呼び捨てで構わない」
「そう。透琉……綺麗な名前」
「ありふれた名前だよ。君の方が綺麗だと思う」
「……そうかしら」
「そうだよ、彩葉」
汗で額に張り付いた前髪を撫でると、彼女は「そんなこと初めて言われたわ」と照れたように目を伏せた。私は唇の端をわずかに吊り上げ、囁言を告げるように声を潜めた。
「君の彼氏は言ってくれないの?」
「……彼の話は、今はいいでしょう」
ほんの少し眉が寄り、顔を隠すように私の胸元に顔を埋める。その態度が、答えだったのだろう。
一晩だけ。彩葉はそう言った。しかし、そう間を空けずに二度目の夜があった。
その日は寒の戻りだった。三月下旬もすぐだというのに、冬に戻ったような気温だった。私はクローゼットにしまいかけていたハイネックのニットを取り出し、ボトムスは普段と同じテーパードパンツを選んだ。ネイビーのトレンチコートを羽織り、腕時計のベルトを調整する。
「会いたい」「週末、会えない?」水曜に送られてきた誘いのメッセージ。断る理由は特に無かった。一度目とは違うホテルを選び、新宿駅で彩葉と待ち合わせることにした。
日が落ちると外は一層冷え込んでいた。念の為にと、マフラーを持ってきて正解だった。
「透琉!」
パッと、彼女の名の通り鮮やかな色が咲き誇るような笑顔で迎えられる。私は右手を軽く上げ、彼女の元へ歩みを進めた。
「会いたかった」
彼女が腕に抱きついてくる。あの夜も纏っていたアイリスとバニラの香りがふわりと漂った。彼女は、バーで見た時よりも美しく生き生きとしていた。まるで初めて恋を知った少女のように。しかし、私を見上げるその瞳は、現実を知る女の目だ。
「久しぶり。──へえ、プラムピンクも似合うね」
「え? ありがと……気づいてくれたんだ」
目を丸くした彼女の唇には、先日とはニュアンスの異なる色が乗っていた。先日の落ち着いた桜色とは異なり、艶めいた色っぽさが垣間見えるような色だ。
「職業柄」
「聞いてもいい?」
「うん、メイクアップアーティスト」
「えっ! プロじゃない!」
声を上げた後、彩葉は慌てたように私の腕から離れた。バッグから鏡を取り出し、向こうを向いてしまう。心配しなくてもバッチリ決まってるよと声をかけるが、メイクの仕上がりや前髪の流れる角度を念入りに確認している。
「そっか、だからあなた、赤いルージュがそんなに似合うのね……」
「どうもありがとう」
「はぁ……まさか透琉がメイクのプロだったなんて……肌すっごく綺麗だし同業っぽいとは思ってたけど」
「そんなことよりさ。ねえ、その唇……もしかして私に合わせてくれた?」
向こう側を向いた彼女の顔を覗き込むと、チークの奥からふわりと血色が増した。彼女は鏡をバッグにしまい、視線を落とす。長い睫毛が彼女の瞳を隠した。
「……打算的な女、とか思ってるんでしょ」
「打算なの? 私のためにメイクを変えてくれるなんて、とても可愛いと思うけど」
「気障な台詞ね」
「ふふ、そうかな」
よく見せて。そう言って彼女の顎を指でなぞる。職場で使うには少し深い濃いめの、青みを帯びたプラム色。夜を思わせるその色はおそらく退勤後に乗せたのだろう。彼女の唇を鮮やかに、そして艶やかに彩っていた。
「それで、彼氏とは仲直りしたの?」
「……彼の話はしないでよ」
「おや、まだ喧嘩中だった? それとも、別れちゃった?」
彩葉の肩がぴくりと動く。イエスともノーとも答えないが、視線が地面に向かったさまを見ると、今この時を後ろめたいと考えているだろうことは容易に想像できた。だからといって、私から「やめよう」と言うつもりはない。そして、彼女もまたそうだった。
「お互い後腐れなくいきましょうよ。……気軽でいいでしょう?」
「そうだね。じゃ、行こうか」
その日から彩葉は、私の前で「彼」の話をすることはなくなった。
◆
私が彩葉の死を知ったのは昼過ぎのことだった。その日は仕事を入れていない完全フリーの日で、私は自宅マンションで昼食をとっていた。久しぶりの休暇は逆に落ち着かず、途中で止まっていた文庫本をソファで読んでいても頭に入ってこない。そんな中、彩葉のスマホに残った連絡先を確認した警察から、私に連絡が入ったのだ。
「水瀬彩葉さんのことでお話を伺えますか」
「……彩葉がどうかしたんですか?」
「昨晩、亡くなっているのが発見されました」
警視庁捜査一課の刑事、
自殺? 事故? 彩葉の訃報を聞いた瞬間そんな考えが頭を過ぎった。いや、彼女は自殺をするような人間ではない。では、何処かで事故に巻き込まれた? しかし、事故なら、どうして。
「詳細は直接お話しします。今からご都合よろしいですか? どちらにいらっしゃいますか」
「……はい。自宅にいます」
「では、三〇分ほどでご自宅に伺います。ご住所を──」
私は刑事の質問に冷静に答えられただろうか。この時のことは、目の前が霞むような感覚に襲われた感覚だけを鮮明に覚えている。
「ご協力感謝します。警視庁捜査一課、警部補の石川剛志です」
「巡査の
私は玄関で刑事たちを出迎えた。彼らに聞きたいことがたくさんあった。彩葉は何故死んだのか。どこで、一体どうして──しかし、私が何かを口にする前に氏名と身分証明書の提示を求められたため、私は言われた通り運転免許証を差し出した。
免許証の番号を控えた後、石川刑事が電話と同じトーンで彩葉が刺し傷で死んだことを淡々と説明した。彼の横に立つ女性警察官の森巡査が気遣うように私を見た。彩葉の死を告げた石川の言葉に何も返さない私がショックを受けていると思ったのだろう。視線に気づいた私が口の端に愛想笑いを浮かべると、彼女は目を逸らした。
石川刑事が咳払いをして質問を始めた。無骨な風格を刻み込んだ顔で、手に持ったボールペンの先をトントンと手帳に当てている。
「塩見透琉さん──ご職業は?」
「メイクアップアーティストです」
「メイク、アップ……具体的にはどのようなお仕事で?」
「……人に化粧をする仕事です。フリーランスなので、スタジオや撮影現場に呼ばれて、女性に化粧を施すことが多いですね」
「なるほど。失礼ですが、水瀬さんとのご関係は」
「友人です」
「友人。……それにしては、やりとりが親密なようですが」
探るような眼が私を見た。トーク履歴で私と彩葉のやりとりを知っているだろうに、わざわざ鎌をかけているのか、遠回しな尋問だ。私は腕を組み、小さく溜息を吐いた。
「彩葉とはセフレですから。お互い、割り切った関係でした」
ノートに記録を取っていた森巡査の手が一瞬止まる。石川刑事はそれを一瞥し、事務的に頷いた。
「……そうですか。昨晩、水瀬さんとはお会いに?」
「いいえ。会っていません」
「昨晩はお一人で?」
「ええ、この部屋に一人でいました。クライアントへの資料作成をしていたので」
「そうですか」
石川刑事が何かを書き留めた。すると、おもむろに森巡査が口を開く。
「最近、水瀬さんとのご関係に変化はありましたか?」
「……変化、というと?」
「例えば……もっと親密な関係を求められた、とか」
しん、と音が消えた。無意識に指が顔をなぞる。彩葉に叩かれた頬が再び痛む気がした。
「確かに、今以上の存在になりたがっていました」
「ほう、具体的にはどのような様子でしょうか」
石川刑事の声が低くなる。私は首を振った。
「他にも関係を持っている女性がいることを知られ、頬を叩かれました。彼女も私との関係を割り切っていたはずなのですが。まあ、執拗に付き纏われるほどではありません。可愛いものでした」
「……なるほど」
刑事たちが無言で目配せをする。再び森巡査が私に尋ねた。
「彼女に関することで、何か気づいたことはありませんか?」
「特には。ただ……恋人との関係が上手くいっていないようでした。誰かの特別になりたかったのかもしれません」
「つまり、恋人への不満もあなたに話していた?」
「ええ、始めのうちは。最近は彼のことを話さなくなったので、同じ会社に勤めていることくらいしか知りません。不満だから、私と関係を持っていたのでしょう」
「塩見さんは、水瀬さんに恋人がいることに何か思うところはあったのでしょうか」
腕を組んでいた指が、ぴく、と動く。まるで誘導尋問だ。私は玄関の壁に背を預けた。
「いいえ。割り切った関係と言ったはずです。彼女とは体だけの関係でした」
恋人。彼氏。関係の進展──頭痛がする。
私はかつてのとある日の出来事を思い出した。彩葉の恋人──
◆
四月の月初め。満開を迎えた桜の花びらが散り始めたその日は、朝からよく晴れていた。
春の新作をプロの手で体験しよう。そう謳ったイベントに協賛するコスメ会社のオファーを受け、私は渋谷の複合施設にやってきた。会場に並ぶ数ある有名ブランドと共に名を連ねる『
「あれ、透琉? どうしてここに」
驚きに目を見開いた彩葉が私に声をかけた。彼女の首には、私と同じイベント関係者のネックストラップがかけられていた。
「偶然だね。今日はclairの仕事。君、clairの関係者?」
「え、うん。勤務先……言ってなかった?」
「初めて知ったよ」
「そうだっけ……」
彩葉は気まずそうにタブレットを握り視線を彷徨わせた。いつも通りでいいのに。私はそう思いつつ彼女の様子を眺めた。昼の彼女を見たのはその時が初めてだった。夜の暗闇に映える華やかさは抑えられ、ナチュラルかつ洗練された色使いのメイクが彼女の美しさを引き出している。流れる髪、セミフォーマルだがデザインに曲線を取り入れた服は硬すぎず親しみがあり、耳や首元を飾るアクセサリーに至るまで全身をコーディネートしているのが分かる。私に限らず、誰が見ても彼女のことを美しいと思うだろう。
「待って、うちの仕事って言ったわよね……あなた『SHIOMI』だったの!?」
突然大きな声を上げた彩葉に周囲の視線が集まる。彩葉は慌ててぺこぺこと頭を下げ、声を落とした。
「まあ、仕事はその名前で受けてるね」
「ちょっと……言ってよ!」
「聞かれなかったから」
他人はともかく、自分の名前なんて私にとってはただのシンボルだ。私は本名でいいと言ったのに、私にメイクのいろはを叩き込んだ師匠が適当につけたビジネスネームが、単に名字をローマ字にしただけの『SHIOMI』だ。仕事用の名前をつけなさいと言ったのは本人のくせに「これでいいんじゃない」と。故に、ビジネスネームに思い入れはほとんどなかった。
彩葉が呆れたようなため息をつく。「仕事のできる女性」から、ほんの少し砕けた空気が滲むのが見えた。
「あなたってほんと、そういうとこあるわよね……」
「そういうとこ? ごめん、分からない」
首を傾げると、彩葉もすぐに説明できず口を開きかけ、しばらく迷った末に「そう!」と閃いたように言った。
「よく気配りしてくれるのに、自分のことは二の次っていうか、聞き上手すぎて自己開示を全然しないとこ」
「そうかな。特に隠してるつもりはなかったけど、次から気をつける。知りたいことがあったら君から聞いてよ」
「ほら、そういうとこも……まあ、いいわ」
困ったように笑った彩葉が、トン、と私の腕に触れた。もう何度も嗅ぎ慣れた彼女の香水が漂う。ミドルノートのアイリスとジャスミンが存在感を放ち、彼女を彩る。夜に舞う深いラストノートの気配は、まだ奥に。彩葉は私の腕に触れたまま、黙って何かを考えている。近くを通った女性社員たちがちらちらと私と彩葉を見て何かを囁き合った。
「見られているよ」
彼女だけに聞こえるほどの声でひっそり囁くと、彩葉ははっとして私から距離をとり、仕事モードの顔に戻った。
会話の流れで、彩葉がイベントの段取りを説明してくれることになった。始めに、先日発売したばかりであるコスメの説明と試供品の配布が行われる。会場入口で渡されるパンフレットについているQRコードから事前アンケートに答えてもらい、抽選で選ばれたゲストに私がメイクを施す。clairの抽選枠は三名だ。会場のブースにはclairの主力製品が並び、自由に試供、購入できる。直営のビューティーアドバイザーが複数名待機し、顧客対応を行うようだ。
「メイクでclair縛りなんてしたことないでしょ」
「うん。でも一通り揃ってるみたいだし、ゲストはナチュラル志向の人が多いだろうから問題ないよ」
「……さすがね、なんか嬉しいな」
タブレットを操作し、口元に柔らかい笑みを浮かべる彩葉。彼女が自社ブランドに誇りと愛着を持っているのが見て取れた。事前アンケートの内容は打ち合わせで共有されていたが、結果は水物だ。彩葉と共にclair愛好者が好むメイクの傾向を議論していると、軽快な声が近づいてきた。
「お、随分とカッコいい人捕まえたな水瀬。モデルさんか?」
私が岡崎怜司と遭遇した瞬間である。
好青年。誰もが彼に抱く第一印象がそれだろう。チャコールグレーのスーツをスマートに着こなし、黒髪でサイドパートの髪型、普段からケアをしていることが分かる肌は清潔感がある。軽快ながら不快感を与えない視線や動作は、ビジネスマンとしての実力が垣間見えた。私を見つけた彩葉が動揺していたのは、恋人である彼も同じ場所にいたからだということは後になって知った。
「まだ開場前だぞ。外でスカウトでもしてきたのか」
「いえ……岡崎さん、こちらモデルさんではなくメイクアップアーティストのSHIOMIさんです。今日の段取りをお伝えしていました」
「えっ! 今日登壇する方? 申し訳ない。はじめましてSHIOMIさん。私、岡崎怜司と申します。お名前はもちろん存じていますが直接お顔を拝見したのは初めてでして……失礼いたしました」
「いえ、お気になさらず。塩見透琉と申します。仕事ではビジネスネームを使っていますので、SHIOMIと呼んでください。水瀬さんに色々お話を伺えて助かりました。本日はよろしくお願いします」
交換した名刺をケースに収めていると、怜司は私と彩葉を交互に見てにこやかに笑った。先程までのスマートな印象が一気に柔化し、彼の雰囲気に人懐っこさが表れる。
「さっきは随分と親しげに話していたが……水瀬、SHIOMIさんと知り合いだったのか」
「……はい。この方がSHIOMIさんだって知ったのはついさっきですけど」
ちらと意味ありげな視線が私を見た。私は彼女に微笑み、それ以上は何も返さなかった。
イベントが始まった。メイクアップコーナーとして設営されたステージに上がった途端、会場のざわめきが大きくなる。私は一般の顧客からプロの現場まで仕事を受けてはいるが、積極的に顔出しをしていない。最近はありがたいことに美容系雑誌やウェブ記事の取材を受けることも増え、宣材写真を求められたので仕方なく横顔を撮影したくらいだ。
『SHIOMIの名前は知ってるけど初めて実物を見た』と暗に告げる好奇の視線を四方に感じながら、簡単な自己紹介をする。予定通り、抽選によって三名が選ばれた。会場にいるゲストのほとんどや抽選で選ばれた二名は女性だったが、最後の一人は男性だった。一九歳の大学生という彼は、シンプルなオーバーサイズのシャツを羽織り、クロップド丈のパンツにスニーカーを合わせた学生らしいカジュアルな姿だった。髪はアッシュグレーのコンマヘアで、よく似合っている。司会者の「自己紹介をどうぞ!」に対し、彼は開口一番で「メイクが好き」と堂々と語った。
「私は、高一からSHIOMIさんの大ファンでした。SHIOMIさんのメイクをずっと参考にしてました。今日は彼女と一緒に来たんですけど、まさか自分がSHIOMIさんにメイクしてもらえるなんて……夢みたいです!」
感極まる彼の姿に、会場から温かな拍手が起こった。ステージに向かって手を振っている女性が彼の恋人だろう。彼もはにかむように笑顔で手を振り返した。私の影響でメイクを始めたとか、手法を参考にしているとか、そんな話を聞くたびにメイクアップアーティスト冥利に尽きる。
「そう言ってもらえるのは嬉しいな、ありがとう。君、もう既にいい感じだからメイク落とすのもったいないね」
「えっ!? や、思いっきり落としてください! SHOMIさんにメイクしてほしいです!」
会場から笑いが上がる。私は「それもいいけど」と静かに返した。
「覆うだけがメイクじゃないからね」
厚めに塗られた部分のファンデーションを落とすと、やはり彼の肌は元々美しかった。おそらくニキビを隠そうと厚めに塗っていたのかもしれない。
「clairのアクネケアラインのコンシーラー、刺激が少なくていいよ」
若々しい一〇代の肌はファンデーションよりもコンシーラーでスポットを隠し、元々の肌を活かす方が美しく見える。しかし、鎧のように肌を満遍なく覆い、装いたい気持ちも解る。それは年齢や性別に限らないだろう。何故なら私もそうだから。要は、彼、彼女たちが自分で自分を容認できるよう導く手伝いをする──それが私の仕事なのだ。
「君は元々の肌が綺麗だから、全部覆うのはもったいない」
「でも、ニキビがよくできるんです」
「体質もあるかもだけど、夜更かしとか、不摂生はしてないかな。食事と睡眠気をつけるだけでも大分良くなるよ」
「うっ、めちゃくちゃ夜型です……」
「化粧品はあくまで補助で、内側のケアが大事。一か月、頑張ってみて。まあ、塗って隠したくなる気持ちは分かるけどね……はい、完成」
「……うわあ! すごい……ほとんどメイクしてないのに全然違う!」
手鏡を渡した彼は、自分の顔を見て驚愕の表情からみるみるうちに笑顔になった。私はこの瞬間が好きだ。私の手で本来の美を引き出し、笑顔という最後の仕上げで私の作品は完成する。会場から再び拍手が起こった。
そして、不意に目を向けた会場の後方。彩葉と怜司が並んで拍手をしている姿が遠くに見えた。
◆
「大丈夫ですか」
石川刑事の声にはっと顔を上げる。私は「はい」と答え、眉間を押さえた。昨晩はほとんど眠れなかったのも相まって頭がぼんやりしている。ぼんやりしているのに目は妙に冴えて、寝不足特有の倦怠感が全身に纏わりついている。私の挙動をどう受け取ったのか、石川刑事は私の反応を観察しているようだった。
「随分、お疲れのようですね。顔色が悪い」
「……友人が亡くなったと言われたら誰だって動揺するでしょう。それに、昨晩はあまり眠れなかったので寝不足なんです」
「昨晩は眠れなかったと……何か気掛かりなことでもありましたか」
「先ほども言った通り、クライアントへの資料作成をしていたからです。資料の細かいところをつつかれるので深夜までかかりました。整合性を精査する作業が一番疲れるんです」
「なるほど。それはお疲れさまでした」
「……すみません、眩暈がするので座ってもいいですか」
「ええ、構いませんよ」
私はずるずると床に座り込んだ。緊張のせいか、疲労のせいか。呼吸が浅くなっていたようで、貧血のように目の前が揺れる。意識をして深呼吸を繰り返すと酸素が回り幾分かましになったが、最悪なことに変わりはない。膝に顔を埋めると、森巡査が膝を折り「大丈夫ですか」と背をさすってくれた。
しかし、気分の悪さは増していくばかりだ。私は首を振り、目を伏せた。
◆
──メイクの体験会が終了した後、私は関係者控え室で一息ついた。用意された軽食をつまみながら、届いていたメッセージに返事を返していく。次の現場担当者からの挨拶、予定されている案件の担当者から打合せの打診、営業メール。師匠の雑談は後回しでいいだろう。そして──とある女性からの誘い。『こんにちは。透琉さん、今日、会えますか? 連絡ください。お願いします。』丁寧なメッセージが三〇分置きに通話とセットで通知されていた。返事をしなければまた連絡がくるだろう。私は息を吐いて、返信を手早く入力した。『連絡ありがとう。出られなくてごめんね。今日は一日仕事なんだ。夜でもいいなら会えるよ。時間と場所は
イベントは引き続き盛況なようで、遠くから賑わいが聞こえてくる。現在、正午前。次の仕事は一四時に、渋谷からそう遠くないスタジオでの撮影現場でのメイクだ。時間があるためのんびりメイクボックスの整頓をしつつ帰り支度をしていると、控え室のドアがノックされた。
「はい」
「透琉! よかった、まだ帰ってなかった……お疲れさま。素晴らしいデモンストレーションだったわ!」
彩葉がミネラルウォーターを差し出した。ありがたく受け取り、喉が渇いていた私はすぐにキャップを緩めた。
「ありがとう。久しぶりにあんな大人数の前に出たから緊張したよ」
「緊張してたの? 冷静に見えたけど」
「そう? それならよかった」
「……ねえ、透琉──」
彩葉が何かを言いかけた瞬間、控え室のドアが開いた。
「──おっと! 誰か休憩中……って、水瀬か。SHIOMIさんもここにいたんですね、お疲れさまです。大盛況でしたね!」
「ええ、無事に終えられて良かったです」
「ご謙遜を。また機会があれば是非うちの企画にお呼びしたいですよ」
「岡崎さん……勝手に話を進めないで。ご迷惑でしょう」
「はは、お前だってまたSHIOMIさんと仕事できたら嬉しいだろ? さっきだって、SHIOMIさんがステージに上がってからずっとガン見してたじゃないか。俺が話しかけても全然気づかなくて──」
「ガン見なんてしてない!」
怜司の言葉を遮るように彩葉が叫んだ。ポカンとする怜司は「どうした」と戸惑いの色を浮かべ、彼女を気遣う視線を向ける。私は彼女の焦燥に心当たりがあった。曖昧に漂っていたそれが形となって姿を表していく。一瞬、彩葉と目が合ったが、瞳の奥の感情を隠すように彼女は頭を下げて怜司に謝った。
「……ごめんなさい。大きい声出して……」
「いや、俺も……なんかごめん、彩葉」
彩葉。確かに彼は彼女をそう呼んだ。心当たりが確信に変わる。私は二人の間に漂う気まずい空気を裂くように、にこりと笑んだ。
「なんだか息が合ってるなとは思ったけど。君たち、もしかして付き合ってるの?」
彩葉の肩が跳ねる。彼女の様子に気づかない怜司は、照れたように頭を掻いた。
「おっと……わかりますか? 公私混同はしないように気をつけているつもりなんですが……」
「岡崎さん、今は業務中です。プライベートな話はやめましょう。……見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ございません、……SHIOMIさん」
「気にしていませんよ。では、私は次の現場がありますので、これで失礼します。また機会がありましたら」
「ええ、次回も是非!」
次、は無かった。私が彼と会ったのは、邂逅したこの日が最初で最後だった。
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