追憶のボーイミーツガール ④
父、モルガンはわたしより一足先に、現実から幻想世界への移住をすることになった。
幻想世界の強度を高めるには、多くの人間が安定して同じ幻想を見続ける必要がある。
その最も効率的な方法が、『Fトラスタミン』の過剰摂取によって意識を幻想世界に閉じ込めることだった。この方法で意識不明に陥った人は、自分の意志で『隔離』するか強い衝撃を受けない限りは、現実世界に戻ることはない。
わたしは父の話を聞いた時、当然、父の身を案じた。
だが、父はすでに自ら社長職を退き、意識不明の自分の肉体を託す準備もしていた。
「これだけは他人に任せられないからな……」
父は『ゴーストタウン』を細部まで知り尽くし、自らの幻想世界の解像度を上げていた。
「これから俺は、『モルフォナ製薬』代表取締役社長モルガン・シーグローブではなく、『ゴーストタウン』の創造主モルペウスとして生きる」
父は意外とノリノリに見えたが、わたしには虚勢に見えた。
「大丈夫だ。お前がこの世界に来たのちはお前が俺の代わりに、幻想世界の主となる予定だ。そうやって安定したのちは、俺も現実世界に帰る。それからは毎日遊びに来るさ」
それが嘘であることをわたしは見抜けなかった。
幻想世界を維持するには、生きた人間によって強度を保たなければならない。
死人は生きた人間の創る幻想世界に依存しているに過ぎない。
そのときのわたしは、自分の精神が死後も存続するかの不安にばかり意識がいっていたため、幻想世界の仕組みまで考える気持ちの余裕がなかった。
父が眠りについて一月が過ぎたある日、わたしは『Fトラスタミン』の過剰摂取を行った。
わたしは肉体が死ぬ前に、すべてをこの『ゴーストタウン』に投影した。
エデンシティに移住してからの半年近くの訓練のおかげで、わたしは自分の精神を現実と遜色ないレベルで再現することができた。
「上手くいった?」
『モルフォナ』敷地内にある住宅で、わたしは目を覚ました。
現実の体とは比べ物にならない健康な体、意識もずっと鮮明だった。この精神体をこのまま現実に持っていけたらいいのにな……そんな風にも思った。
それから、自分の肉体が死ぬのを待つ期間は気がおかしくなりそうだった。
肉体が死んだ瞬間に自分の意識は消えるんじゃないか。
『ゴーストタウン』には抜け殻だけが残るんじゃないか。
「きっと大丈夫さ……」
この世界の住民となった父は、そう言いながらも祈るようにして手を合わせていた。
数日後、わたしたちのいる別荘に一人の『モルフォナ』社員が来た。
「……お嬢様。ご無事で何よりです」
よくよく考えればおかしな言葉だが、その女性の話を聞いた時点でわたしはわたしの肉体が息絶えたことを知った。
安堵の気持ちと喪失感でわたしの心はぐちゃぐちゃになった。
それから数日間、わたしは徐々に活動範囲を広げていった。
心配性の父や付き添いのメイドと一緒に、久しぶりに『ゴーストタウン』の世界を見て回った。
高層マンションの上から眺める光景はこれまでと違って見えた。
それは奇妙な感覚だった。
今だって実際に生きていたわたしと、ここにいるわたしが同じという保証もない。
ただ一つ確かなのは、わたしの意志がここにあることと、目の前に広がる嘘みたいな景色だけだった。
「まだ、わたくしは生きていけるんですね」
そのときは、その奇跡のような二度目の生を授かることに何の迷いもなかった。
▼ ▲ ▼
少しずつ、わたしは幻想世界での行動に迷いがなくなっていった。
肉体を失った後も『顕幻』を以前のように使えたので、わたしはフェキシーの姿で自由に外を散策した。
フェキシーは半年間の訓練で身に着けた『顕幻』の応用技、『変幻』を使った術で創成したもう一つの自分の姿だった。
『変幻』を使うと人が無意識にかけている制限が外れ、『顕幻』の能力が数倍になる。
フェキシーになったわたしは、幻想世界をまるで翼でも生えたように自由に闊歩することができた。
そうやって外を出歩くうちに、わたしは遂にこの幻想世界の真実を知ることになる。
その日、わたしは蛍が飛び交う公園で休んでいた。
当時、『モルフォナ』敷地の外にはほとんど人がいなかった。
名前通りの『ゴーストタウン』で孤独を謳歌していると、ふと遠くから悲鳴のようなものが聞こえた。
わたしは驚きながらも、身を隠してそちらに近付いた。
公園の道の真ん中で、一人の女性が倒れていた。
『モルフォナ』は幻想世界の安定のため、例外を除いて個々の社員から顔と『顕幻』の力を奪っている。その情報はあったため、まず顔がある人物がそこにいることに驚いた。
女性の様子は見るからにおかしかった。
「ああっ……」
その女性は身体をよじらせながら、恍惚とした声を漏らしていた。
わたしは見てはいけないものを見た気分になり、その場から離れようとした。
「苦しいっ苦しいっ! ……助けてええええええ!」
けれど、その直後、女性は急に苦痛にもがき始めた。
わたしは一瞬躊躇ったけど、結局その顔のない女性の元に駆けよった。
「だ、大丈夫?」
わたしが声を掛けると女性は服を強く掴んできた。
「アレを頂戴。早くッ、そうじゃないとあたしは……っ!」
「ご、ごめん、あれって何?」
「『モルフォナ』がくれたクスリよっ! あれがないとあたし……」
女性はそう言いながらその場で気を失った。
泡を吹き白目を剥いている。
偽物の心臓がバクバクと鳴り、服を掴んでいる細長い指のマニュキュアの剥がれた爪が強烈に思考をかき乱す。
わたしが動揺していると、向こうから何人もの話し声が聞こえてきた。
「あとはこの辺くらいしか『潜行』した可能性はないぞ」
「とにかく急ぐぞ。またオネイロス様にどやされる」
わたしは急に怖くなって、女性の手を振りほどくと近くの木陰へと隠れた。
すぐに黒いヘルメットを被ったスーツの男たちが来て、道の真ん中で気を失う女性を見つけた。
「いたか……手間を掛けさせやがって」
「いくら身寄りがないとはいえ、薬中の女を使ったのが失敗だったな。動きの予想できやしねえ」
「さっき医者が言ってたが、トラスタミン以外の薬物を服用していると正しい昏睡状態になれないらしい。この体もすぐに現実世界に戻っちまうだろう」
「……こいつ、どうなるんだろうな」
「まあ、あと何度か実験して駄目だったらその時は廃棄だろうな。どのみちクスリのせいで長くない寿命だったんだ」
男たちは抜け殻のような女性を運び、その場を去って行った。
わたしは異様に寒い気がして、体を抱えるようにして震えた。
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