#1

薄汚れた街の片隅で ①

 地下鉄から降り、長い階段を上って地上へ出ると夜空には薄い雲がかかっていた。

 この日も街の空気はくすんでいて、酸っぱいような匂いが漂っていた。

 そこに愛着を感じたことはない。

 ただ、その匂いを嗅ぐと帰ってきたと感じるだけだ。


 ステッカーだらけのゴミ箱の横を通り、勢いよく走り抜ける車の合間を縫うようにして道路を横断する。

 ニューヨークの外れにある俺の住む地区は、巷ではスラム街なんて呼ばれている。

 すれ違う人間の顔に空いている穴の数が、一般的なニューヨーカーに比べて多いことを考えると、それを否定する気にもならない。

 その代わりといってはなんだが、交通アクセスの良さに反して家賃が異様に安い。

 ただし、どの建物も築年数がかさんでいてかび臭い。


 俺――カイカ・ウィルズが暴力を振るう親父から逃げ出すようにして、妹のセレンと共にこの地区に引っ越してからすでに二年が経った。

 俺は学校を中退して働き始め、妹はもっぱら部屋で作曲と歌の配信に打ち込んでいる。

 本当は一日中そうしていたいだろうに、学校にも一応顔を出すのは学費を払っている俺への義理立てだろう。


「……本当はこんな街、出たいんだけどな」


 実際に治安は悪いし、ドラッグなどの悪い噂も絶えない。

 引っ越した当初、俺は家に帰ったら妹が強盗に襲われて倒れているんじゃないか、という強迫観念にも似た想像によく囚われていた。

 二年経ってようやく、寄り道するだけの精神的余裕ができた。


 俺はこの日も街の外れにある公園の一角に、晩御飯の入った紙袋を持って向かった。

 階段の上に腰を掛け、無人の建物の壁面に書かれたスプレーアートを眺める。

 この落書きは地元の住民や一部のマニアは有名で、かつてこの街に住んでいた著名な芸術家が街を離れる前に描いたものだと言われている。

 五メートルを越える壁には幻想的な街の風景が描かれている。

 ベースとして塗られた黒の上に、高層ビルとその空を舞う空想の生物たちが青く浮かび上がるように描かれている。

 しかし、輝いているのは空想の生き物や夜空や高層ビルだけではない。

 足元にはそれ以上の光の粒が、生命の輝きが瞬いている。

 この名前のない絵を見ていると、俺は一瞬だけ現実を忘れることができる。

 きっとスラム街に住む沢山の人がこの絵を見て、いつかこの街を出て手にする輝かしい日々を夢に見るんだろう。


「……また来てると思った」


 声がしたので振り返ると、そこには艶やかな赤髪の少女――セレンが立っていた。

 セレンは髪色以外、俺と似ても似つかない、年齢以上に大人びた印象を与えるスレンダーな美人だった。


「お前の方は珍しいな。この時間はだいたい部屋に籠ってるのに……」


「たまにはね」


 セレンはそう言いながら俺の隣に腰を下ろした。


「晩御飯、ここで食べない?」


「レンジないから冷めてるけど……」


「まだ来たばっかりで温かいんじゃない?」


 紙袋越しに触ると、確かにサンドイッチはまだ温かかった。


「たまにはいいか」


 俺はセレンと並んで食事を始めた。

 公園の空気は道路や住宅の近くよりは幾分ましで、意外と外での食事も悪くなかった。


「そう言えば、この絵。いつからか急に気に入るようになったよね」


「……そうだっけな」


「そうだよ。最初はわたしの方が好きだったのに」


 俺は誤魔化そうと思ったが、この手の嘘が通じないことに気付いてため息をついた。


「実を言うと、いい思い出があって……」


「ん? 女絡み?」


 セレンは平然と聞いたが、正直言うと家族にはしたくない話だ。


「まあ、そうとも言える」

「ふーん……ま、話したくないならいいけど……」


 セレンはつまらなさそうにサラダの容器をフォークの先でつついた。


「ただ、それ以来、この絵の見方が変わったのは事実だ」


「へえ、どんな風に?」


「この絵は生きてるな、って……」


「……なにそれ?」


 俺も言いながら、他人の受け売り過ぎたかと反省する。


「足元に輝いている光があるだろ。それも空に輝いている星と同じ光で描かれているんだ。それって、なんか優しい感じがするだろ」


「……そーかな?」


 セレンは俺に言われて絵をじっと見つめたが、あまり腑に落ちた様子はなかった。


「思い出補正が大きいんじゃない?」


「それは間違いない」


 実際、俺はその子の解釈をそのまま鵜呑みにしただけだ。


「でも、何がきかっけでも好きになったなら、その気持ちを否定する必要はないと思う。わたしもこの絵が好きだし」


 俺たちは笑い合い、少し冷えたサンドイッチをまた食べ始める。

 今日を境にこの絵をもっと好きになる気がした。



            ▼     ▲     ▼



 帰り道、俺が普段使っている道を通ろうとするのを、セレンが袖を引っ張って止めた。


「こっちからいこ」


 少し回り道になるが、断る理由もないので俺は従うことにした。


「あっちの道、通りたくないんだ」


「俺はどちらかと言えばこっちの道の方が……」


 俺はベンチや街路樹の並ぶ沿道、そこで項垂れるホームレスの姿を見て呟いた。


「……路上ミュージシャンがいるんだよ」


 俺はセレンの言葉で、向こうの通りによくいるギターを弾く青年のことを思い出した。


「あー、いるな。演奏にも見た目にも、別に不快感はないけどな」


「わたしは不快。今の時代、ネットに発信することもできるし、同じ路上パフォーマンスでももっと人通りの多い場所や時間帯を選んだ方が沢山の人に聞いてもらえる。何より自信なさそうに演奏しているのが嫌だ」


「そ、そこまで言わなくても……」


 俺は想定外の熱量で責められ、思わずよく知りもしない青年を庇った。


「ほら、練習目的かもしれないし……」


「練習したいだけならもっと人のいない川沿いとか、思い切り演奏しても迷惑にならない場所がいくらでもある。その半端さがイライラするの」


 俺はセレンの苛立ちの原因は何となく分かった。

 セレンは自作した曲やカバーした歌の動画を積極的に投稿している。ネットに溢れる大量の作品に埋もれ、その活動はまだ日の目を浴びていないが、一緒に住んでいる俺にはその本気さは伝わっていた。

 だからこそきっと、報われない行動を続けているように見える他人に、自分を重ねてしまうのだろう。


「怒ってる理由は分かったよ。でも、何かに対してどんな目的でどれだけの熱量で臨むかは、結局本人次第だからな」


「……うん、ごめん。八つ当たりなのは分かってるけど」


 セレンは一気に吐き出した反動で冷静になったようだった。


「何かあったのか?」


「うん、実は――」


 セレンはそう言いかけて、俺の袖を掴んで立ち止まった。


「ねぇ、あれ……」


 セレンの視線の先、街路樹の傍で一人の男がうつ伏せに倒れている。

 俺は黙って男に近づき、鼓動と呼吸を確かめようとしたが、冷たい体に触れた時点で分かった。

 その男は死んでいた。

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