リドアースの世界樹

RIXUDO

序章 第1話「名なき傍観者」

灰色の虚無が、果てしなく広がっていた。

そこには地平もなく、空もなく、ただ濃淡を欠いた灰の揺らぎだけがあった。

耳を澄ませば、風もない。

ひとひらの塵さえ舞わず、沈黙が凝り固まっている。


その中に、一つの影が座していた。

人の形をしていながら、人ではない。

名もなく、時の流れにも縛られない

傍観者――それが「彼」だった。


彼はただ、一冊の魔導書を前にしていた。

紙ではなく、形を持たぬ頁。

触れればかろうじて質量を感じるが、目に映るのは褪せた線の連なりだけ。

彼はそこに、淡々と痕跡を刻み続けていた。


筆もインクもない。

彼の思念そのものが、文字として浮かび、魔法陣の欠片や言葉の断片として定着する。

意味を持つものもあれば、意味を失った線もある。

それらは頁の上に降り積もり、やがて灰色に溶けて消えていく。


彼は知っていた。

その書がいつ、誰に読まれるのかは分からない。

あるいは永遠に、誰の目にも触れないまま消えるかもしれない。


――それでも、書き続ける。


(……私には、それしかないのだから)


心の奥底でそう呟いた時だった。

虚無を破るように、突拍子もない声が響いた。


「テッテレ〜♪ この世界に、のよさが来たのよさ!」


灰色の沈黙を割るように、甲高く、無邪気な響きが弾んだ。

声の主は姿を見せぬまま、あたり一面に響きわたる。

子供の笑い声のようでもあり、太陽のような明るさを宿していた。


彼は、ふと手を止めた。

その視線の先に、灰色の揺らぎを押しのけるように、小さな影が現れていた。

背丈は子供ほど。

無邪気な笑みを浮かべ、虚無の只中に立っている。


「そうなのよさ! 話がわかるのよさ!」

コクコクとうなずくその姿は、神であると告げていた。

だが、その神はあまりに子供じみて、無意味な歌を口ずさみ、

リズムに合わせて足踏みまで始める。


やがてその声が問いを投げた。


「それであんたの名前は? 何なのよさ?」


彼は、しばし沈黙した。

やがて低く、淡々と答える。


「……ない」


「? ない!? “ない”なのよさ?」

「そうだ」


「だめなのよさ! それは、のよさが困るのよさ!」


子供のように手足をばたつかせて抗議する。

彼は小さく息をつき、淡々と答えた。


「……そうか」


「じゃあ、のよさがつけてあげるのよさ!」

腕を組み、頭をひねる。


「……こおりは違うのよさ。もっとやわらかいほうがいいのよさ……」

しばしの逡巡の後、ぱっと顔を輝かせた。


「ス……ノ……スノー! これなのよさ!!」


灰色の世界に、初めて呼ばれる名が響いた。


彼はただ、その音を受け止める。

心の奥底に、かすかな波紋が広がるのを感じながら。


(……名前を得ても、私は何も変わらない。

誰が呼ぼうと、私には世界を紡ぐ力などない。

この灰色に、私はただ溶けていくだけだ)


無邪気な笑い声が、虚無に反響する。

明るく弾むその響きは、灰色に色を与えようとするかのようだった。


だが彼の内心には、冷たい静寂が広がるばかりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る